ドグラ・マグラ (36/47)
作 夢野久作
「寒さが厳しいから、火を焚いて部屋を暖めたせいかもしれませんね。」
「……なるほど。暖房器具のことか、うっかりして気づかなかった。零下何度もあると、絵筆が凍ってしまうからね……とにかく、忠義に凝り固まって、そんな誤算を全く予期していなかった呉青秀の狼狽と驚愕は察するに余りある。新品の妻を犠牲にして計画した必死の事業が、無惨にも失敗していくのだから……号哭し、立ち上がることもできないのは道理だ。ついには思うに、私は一度、天下のために倫常を超えよう。再び、何を顧みるというのか、破れかぶれの死に物狂いだ。周囲の村へ出て、美しい女性を探し出し、馴れ馴れしく近づいて『あなたの絵姿を描いてあげる』と偽って、山の中へ連れ込んで打ち殺し、モデルにしようと企てたが……」
「うわぁ……とても物騒な忠君愛国ですね。」
「うん。こんな執念深さは日本人にはないよ。でも、呉青秀の風貌がすごい。頬がこけて、鼻が尖り、目はまるで竜や鬼のようだ。おまけに、髪は乱れ、衣服は汚れて、骨が浮き出ている。袖を引かれた女性たちはみんな驚いて逃げてしまった。これを繰り返すこと数ヶ月。足跡は遠近に及び、評判が次第に高くなり、どの村でも見つけ次第に追い散らされたが、幸いにも山の中の隠れ家は誰も知らなかったので、命だけは辛うじて助かっていた。しかし、呉青秀の忠志は決して退かず、至難に触れるほどにますます凝り固まった。ついには淫仙の名を得たという。淫仙とは、西洋の青髭のことらしいね。」
「へぇ……でも淫仙は可哀想ですね。」
「ところが、この淫仙先生は全く驚かない。今度は方針を変えて、女性たちの新たな葬儀を求め、夜陰に乗じて墓を掘り、遺体を引きずり出して山の中に持って行こうとした。しかし、俗に言うように、死人を担ぐのは三人の力が必要だという。強直したグタグタの遺体は、重心がないため、なかなか担ぎ上げるのが難しい。それを一生懸命に、絵筆しか持ったことのない柔弱な腕力で、できるだけ傷をつけないように山の中まで運ぼうとするのだから、並大抵の苦労ではない。あっちに取り落とし、こっちへ担ぎ直し、喘ぎ喘ぎ抱きかかえているうちに、早くも夜が明けて百姓たちの目に触れた。かねてから淫仙先生の噂を耳にしていた百姓たちは、これを見て驚くまい。まさに屍姦だ。極悪人だと騒ぎ立て、追いかけてきたので、淫仙先生も止むを得ず遺体を捨てて、山の中に姿を隠した。しかし、春先になっても、二、三日はその背中に担いでいた遺体の冷たさが忘れられず、いくら火を焚いても歯の根が合わなかったという。」
「よく病気にならなかったものですね。」
「うん。風邪ぐらい引いていたかもしれないが、思い詰めている人間の体力は超自然の抵抗力を示すものだよ。ましてや呉青秀の忠志は氷雪よりも強い。四、五日も画房の中にじっとして気分を取り直した呉青秀は、再び第二回の冒険を試みるべく、こっそりと山を降り、前とは全く違う村に下り、一挺の鍬を盗み、ただある森の陰の墓所に忍び寄ると、意外にも一人の女性が新月の光に照らされた土饅頭の前に花を手向けているのが見えた。この夜更けに不思議なことだと思って、そっと近づいてみると、その女性は遠い妓楼から逃げ出してきた妓女らしく、春装を乱したまま土盛りの上にひれ伏して『あなたは何故私を振り捨てて死んだのですか』と嘆いている様子は、まさに相思の男の死を恨む風情だった。忠義に凝った呉青秀は、この切々とした情に心を動かされたが、強いて心を鬼にして、その女の背後に忍び寄り、持っていた鍬で一撃の下に少女の頭骨を砕き、用意してきた縄で手足を縛って背中に背負い上げ、鍬を捨てて逃げ去ろうとした。すると、突然背後の森の中に人の声が聞こえ、女の追手と見られる荒くれ男たちが口々に『素破こそ淫仙よ』『殺人魔よ』『奪屍鬼よ』と罵りながら現れ、前後左右を取り囲んで捕まえようとした。呉青秀はこれを見て怒り心頭に発し、遺体を投げ捨てて大声で『私の天業を妨げるのかッ』と叫び、百倍の狂暴力を発揮して、組み付いてきた男を二、三人、墓原に叩きつけ、鍬を拾い上げて残る人数を叩き伏せて追い散らしてしまった。その隙に、再び妓女の遺体を肩にかけてドンドン山の方へ逃げ出したが、驚くべきことに、とうとう山伝いに画房まで逃げて来ると、担いで来た遺体を浄めて黛夫人の残骸の代わりに床上に安置し、香華を供え、屍鬼を祓いつつ、悠々と火を焚いて腐乱するのを待つことになった。ところがそのうちに、また二、三日経つと、思いもかけぬ画房の八方から火煙が迫ってきて、波がドッと湧き起こったので、何事かと驚いて窓から首を出してみると、画房の周囲は薪が山のように積まれ、その外を百姓や役人たちが雲霞のように取り巻いて気勢を上げている様子だった。つまり、何者かがこっそり呉青秀の跡を追ってきて、画房を発見した結果、こんなに大勢が集まり、火攻めにして追い出そうとしているわけだ。その時、呉青秀は、この未完成の絵巻物の一巻と、黛夫人の髪の中から出てきた貴妃の賜物の夜光珠……ダイヤだね……それから青琅の玉、水晶の管などの数点を身に付けて、命からがら山林に紛れ込んだ。しかし、その後追捕を避けつつ千辛万苦すること数ヶ月、やっと一年ぶりの十一月の何日かに都に着くと、ふらふらと我が家の門を潜った。すでに死生を超越した夢心地で、恍惚と求めるものは何もなかった。何のために帰ってきたのか、自分でもわからなかったという。」
「……はぁ。本当に可哀想ですね。そこは……」
呉青秀は、まるで生きた人魂のような気持ちで、北風が枯れた木々を悲しげに揺らす寒い庭に足を踏み入れた。門をくぐると、柱は傾き、瓦は落ち、まるで流れが傷ついているかのような惨状が広がっていた。彼はその中を進み、自分の部屋にたどり着いたが、どうしていいかわからなかった。妻の姿はおろか、烏の影すら見えない。錦の帳の中には枯れ葉が舞い、珊瑚の枕元で呼びかけても応えはなかった。涙が溢れ、万感の思いが彼の胸に押し寄せた。長い間の悲しみを抱え、彼は几帳の紐を取って欄間にかけ、妻の遺物を懐に抱えようとした。その時、思いもよらぬことが起こった。隣の部屋から、真っ赤な服を着た美しい女性が駆け出してきたのだ。
「マア……アナタッ!」と叫びながら、彼に抱きついてきた。
呉青秀は驚き、思わず目を眩ませた。彼が手にかけたはずの黛夫人が、まるで新婚時代の姿そのままで現れたのだ。
「……オヤオヤ……黛夫人を殺したんじゃなかったのか?」
「まあ、黙って聞いてくれ。ここが一番面白いところだから……」呉青秀は驚愕し、再び目を開けると、今度はさらに驚いた。先ほどまで新婚の紅い服を着ていた黛子が、今度は可憐な宮女の姿に若返り、白い裳を引きずっている。彼女はまるで十六、七歳の無垢な少女のようだった。
「……不思議ですね。そんなことがあり得るのでしょうか?」
呉青秀も同じように思っていた。彼は再び気を取り直し、どうしてここにいるのか尋ねながら、その少女を見上げた。すると、何とそれは黛夫人の妹、双生児の片割れである芬子だった。
「ナアンダ。やっぱりそうか。しかし面白いですね。まるで芝居のようで……」
「どこまでも支那式だよ。」呉青秀は言った。ようやく事情がわかりかけた彼は、芬子を取り落としたまま、口を開けたままでいた。芬子は膝に両手をつき、真っ赤になって話し始めた。
「本当に申し訳ありません。驚かせてしまったでしょう。実は、私はずっと前からこの家に一人で住んでいて、姉さんが残していった着物を着て、姉さんになりすまして、毎日お義兄さまに仕える真似をしていました。お義兄さまは最近、ずっと部屋に閉じこもって大作を描いていると噂されていましたので、近所の人々は、こんな大乱の最中に、そんなに落ち着いて絵を描くとは何という立派な人だろうと感心していました。私はそんな風にして、お二人のお留守番をして、帰りを待ちながらこの一年を過ごしてきたのです。今日も買い物から帰ると、部屋の中で物音がして、大きな声で泣いているのを聞いて驚き、覗いてみたら、お義兄さまが死のうとしているのを見て、慌てて抱き止めました。その後、気絶しているお義兄さまを介抱していると、懐から固く封じられた巻物や、姉さんが大切にしていた宝石や髪飾りが転がり出てきました。そして、お義兄さまは夢うつつの中で、黛よ、許してくれ、お前一人は殺さないと泣きながら呟いていたのです。そうして、姉さんはもうお義兄さまの手にかかって亡くなってしまったのだと、私は気がつきました。それで、お義兄さまの誤解を解くために、急いで自分の服に着替えたのです。ですが、一体お義兄さまはどうして黛子姉さんをお殺しになったのですか?今日までの一年間、どこで何をしていらっしゃったのですか?」と涙ながらに詰め寄った。
「ハア……しかし、芬子という妹は、どうしてそんな奇怪な真似をしたのでしょうか。姉さんの着物を着て、その夫に仕える真似をするなんて。」
「うんうん……その疑問ももっともだ。呉青秀もきっと同じように感じていたのだろうと思う。あるいは、まだ開いた口が塞がらずにいたのかもしれないが、何の答えもないというのは困ったものだ。依然として芬子嬢の顔を見下ろしたまま、呆然としていると、やがて涙を拭いた芬子嬢は、何度もうなずきながら言った。
「おっしゃる通りでございます。これだけ申し上げたばかりではまだご不審が晴れませんから、順を追ってお話ししましょう。お話はずっと前にさかのぼり、ちょうど去年の暮れのことです。姉さんが宮中を去って以来、外に身寄りのない私の淋しさや心細さは、日に日に増していくばかりでした。そのうちに、ちょうど去年の今月、しかも今日のこと……大切なお義兄さまご夫妻が、私に音沙汰もなく、不意に行方を晦ましてしまったと聞いたときの私の驚きと悲しみは、どんなものでしたでしょう。一晩中寝ずに考え、泣いては考え明かしました。その翌日、楊貴妃様からしばらくのお暇をいただいた私は、お二人の行方を探し出そうと、この家に来てみました。
そうして私を見送ってくれた二人の宦官と、家の番をしていた掃除人を返した後、一人で家の様子を隈なく調べてみると、姉さんは死ぬ覚悟をして家を出られたらしく、結婚式のときに使った大切な飾り櫛を真二つに折り、白紙に包んだまま化粧台の奥にしまってありました。しかし、義兄さんの方はそんな様子がなく、絵を描く道具をすっかり持ち出しているようでした。これには何か深い事情があるのだろうと思いながら、そのままこの家に留まることに決めました。それからというもの、今も申し上げた通り、すっかり姉さんに化けてしまい、義兄さんと一緒に帰ってきているように見せかけていました。
幸運なことに、義兄さんは子供の頃から絵を描き始め、何日も何日も部屋に閉じこもり、決して人に会うことがなかったと聞いていましたので、近所の人やお客様を欺くには本当に都合がよかったのです。しかし、なぜ私がこんな奇怪なことをしていたのかというと、これはじっとしていながら、お二人の行方を探すのに一番都合の良い工夫だと思ったからです。つまり、こうしていると、お二人とも世にも名高いご夫妻ですから、万が一他でお姿を見た者がいたら、すぐに私が怪しまれます。その時に、同時にお二人の行方もわかることになるのですから、その時にあとを追って行けばよいと思ったのです。女一人で知らない他国を当てもなく探し回ったところで、なかなか見つかるものではない……そう思い付いたからです。」
「……へえ……その妹はなかなかの名探偵ですね。」
「うん……この妹は姉とは違って少しお侠なところがあるようだが、なおも言葉を続けて言った。……しかし、私のこうした計画はあまり効果がありませんでした。というのは、私がこの家に来てから十日も経たぬうちに、天下は忽ち混乱し、兵馬が都の街に満ち、うかつに外にも出られないようになったのです。しかも、お金はなくなり、家は荒廃していきました。仕方なしに私はこの家の台所に寝起きし、自分の身に付いたものはもちろんのこと、義兄さんご夫妻の家具や衣類などを売り食いにしていましたが、その中でも一番最後に残しておいたのが、姉の新婚初々しい時代の紅い服一着と、自分が着ていた宮女の服一着でした。その中でも、この紅い服は、あくまで私を姉さんと認めさせるための外出着としていたのです。また、宮女の服というのは、私の忘れられない思い出と一緒に取っておいたのですが、楊貴妃時代のスタイルで、うっかり持ち出すと反逆者の下役人に見咎められる恐れもありますので、そっくりそのまま寝間着に使っていたのです。私はこの一年の長い間、こんなにまで苦心してお帰りを待っていたのです。それなのに、あなたは一体何のために、姉さんを殺してしまったのですか。そして、この家へ何をしに帰ってきたのですか。そのお姿はどうなさったのですか。姉さんを殺されたくらいなら、私もついでに殺してちょうだい……と言いながら、私はワッと泣き出した。
「ずいぶん姉思いの妹ですね。」
「何を言う。前から呉青秀にアプローチをかけていたんだよ。」
「……へえ……どうしてわかるのですか?」
「……どうしてって、その素振りが第一に怪しいじゃないか。生娘の癖に、亭主持ちの真似をして、一年近くも物凄い廃屋に納まっているなんて、なかなか義理や物好きではできるものじゃないよ。その間に人知れぬ希望と楽しみがなくちゃ……しかも姉の新婚初々しい時代の紅い服を着て歩き回るところなど、どう見ても支那一流の、思い切った変態性欲じゃないか。あるいは玄宗皇帝時代に、空閨に泣いていた夥しい宮女たちから受けた感化かもしれないが。」
「……ですけども、自分はそう思っていないじゃないですか。」
「無論、そんな自省力を持ち得る年頃じゃないさ。特に女だから、どんなデリケートな理屈でも自由自在に作り上げて、勝手気ままな自己陶酔に陥っていけるわけさ。気持ちの純な、頭のいい人間の変態心理は、なかなか見分けが付きにくいんだよ。その代わり、こちらの目さえ利いてくれば、そこらの無邪気な赤ん坊や、釈迦、孔子、キリストにでも色んな変態心理を見出すことができる。」
「……驚いたなあ。……そんなものですかね……」
「まだまだ驚くべき話が、これまでの話の裏に隠れているんだけれど、それは後で説明するとして、さて、少し話が長くなったから手短に話すと、その時、呉青秀に迫って、根掘り葉掘りこれまでの事情を聞いた上で、自分とそっくりの姉の死像を描いた絵巻物を見せられた芬子嬢は、実に心が張り裂けるほど驚いた。しかし結局、義兄夫婦の忠義に感動し、号泣しながら言った。「蒼天、蒼天、どうしてこんなにも無情なのか。あなたは知らないかもしれないが、あなたが姉の亡骸を写生し始めた昨年の11月は、安禄山が謀反を起こした月で、天宝の年号は去年限り、今は安禄山の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この6月に馬嵬で殺されてしまった。せっかくの忠義も水の泡だ。それよりも、私と一緒にどこかへ逃げてくれないか……と、彼女は切々と訴えた。
「無鉄砲な女ですね。再び殺されるつもりなんでしょうか……」
「いや、今回は大丈夫なんだ。というのも、呉青秀先生が自分の全てを投げ出して取り組んだ仕事が、最初から無駄だったことが、芬子の説明で初めてわかったのだ。そこで、アメリカを失ったコロンブスのように、呆然とその場に座り込んでしまい、永遠に口を利けなくなってしまったのだ。旧式の術語で言うと、心理の急変から来る自家障害というやつだ。そんな彼を見て、芬子さんはますます気の毒になり、天を仰いで安禄山の奸計を憎んだ。同時に、この忠臣を守り、玄宗皇帝や楊貴妃の冥福を祈りつつ、一生を終えようという清らかな決意を固めた……と告白しているが、実はそれは大きな愛の告白だったのだ。」
「……まさか……」
「いや、それに違いない。後で説明するが、そこで呉青秀が懐に持っていた姉の遺品の宝玉を売り払い、画像だけを懐に入れて、妖怪のような呉青秀の手を引きながら、あちこちを流浪した結果、その年の暮れ、どこへ行くつもりだったか忘れたが舟に乗って江を下り、海に浮かんだ。すると、暴風雨が数日続いた後、たった二人だけが生き残り、絶海に漂流すること十数日、遂にある晴れた朝、遥か東の水平線上に美しく装飾された大船が、旗を掲げて南下していくのを見つけた。そこで息も絶え絶えのまま手招きをして救われ、その美しい船の中で手厚い介抱を受けることになったが、この船は日本の唐津を経て、難波の津に向かう勃海使の乗船だった。勃海国というのはその頃、今の満州の吉林辺にあった独立国で、時々こうして日本に貢物を持ってきたことが正史にも載っている。」
「まるでお伽話のようですね。」
「うん、何となく夢幻的なところがやはり中国式だ。それから芬子さんの涙ながらの物語を聞いた船中の者たちは、勃海使を始め、皆が満腔の同情を寄せた。一様に呉氏の生き甲斐のない姿を憐れみ、また芬夫人の身の上に同情して、手厚い世話をしながら日本に連れて行くことになった。しかしその途中、船中が皆眠っている真夜中、月が氷のように冴え返った時に、呉青秀は海に落ちたのか、天に昇ったのか、28歳を一期として船の中から消えてしまった。……芬夫人はその時19歳で、共に追いかけようとして狂い悶えたが、この時、既に呉青秀の子を宿して臨月になっていたため、人々に押し止められながら辛うじて思い止まると、やがて船の中で玉のような男の子を生んだ。」
「やっとめでたくなってきたようですね。」
「うん、船中でも死人が出て気を悪くしているところに、お産があったと聞いて喜ばないわけがなく、手に色々なお祝いの品を持って盛大に祝った上に、勃海使の何とかいう学者が名付け親となり、呉忠雄と名付け、大袈裟な命名式を挙げて前途を祝福しつつ、唐津に上陸させて、土地の豪族、松浦某に託した。そこで芬夫人はその由来をこの絵巻物に記して子孫に伝えた……めでたしめでたしというわけだ。」
「じゃ、その名文は芬夫人が書いたんですね。」
「いや、文字は確かに女性の筆跡だが、文章はとても整っていて、どうしても女性とは思えない。ところどころに韻を踏んであったり、熟字の使い方が日本人離れしているところを見ると、やはりその名付け親の勃海使が芬夫人の話に感動して、船中の暇な時間に文案を作ってやったのを、芬夫人が清書したのではないかと思う。若林はその字体が、弥勒像の底に刻まれた字と似ているから、勝空という僧が自分で聴いた話と昔の文書を照らし合わせて文を作ったのではないかと言っているが、しかし肉筆と彫刻は非常に字体が違うことがあるから、あまり当てにはならない。」
「何にしても唐津の港では大評判だったでしょうね……芬夫人の身の上が……」
「もちろん、大いに一般の同情を惹いたと思われる。何しろ日本人が大好きな忠義義烈の物語だからね。」
「そうですね……それから今ふと思い出したんですが、その勝空という僧は、その絵巻物を弥勒像に納めてから、男は一切近づいてはいけないと言ったそうですが、それはどうした理由でしょう。」
「……そこがとても面白い話の核心になるところで、さらには大正の今日における姪の浜事件の根本問題にまで触れてくるのだ。手っ取り早く言えば、その勝空というお坊様は、今から一千年近くも前に、心理遺伝というものがあることをちゃんと知っていたのだ。」
「とんでもないことになっている。ありすぎて困るくらいだ。……つまり、宇宙のあらゆるガラクタは、それぞれが勝手に心理遺伝と戦いながら、植物や動物、そして人間へと進化してきたものだ。だから、この心理遺伝に囚われている者ほど、自由が利かない下等な存在になってしまう。だからこそ、思い切って今のうちに心理遺伝から脱却し、真に解放された青空のような人間になれ……という宣言を、新たな姿で民衆に伝えたのがキリストであり、オブラートに包んで教えを広めたのが孔子だ。そして、おいしいお菓子に仕込んで、華やかに飾り立て、鐘や太鼓で賑やかに売り出したのがお釈迦様というわけだ。
そこで、そんな連中の特許のうまいところだけをいただいて、『心理遺伝』という現代的な名前で大々的に売り出し、100パーセントの剰余価値を貪ろうと企んでいるのが、ここにいる私ということになる。ハッハッハッ……まあ、そんなことはどうでもいいとして、勝空という坊さんの名前はどうやら天台宗に属しているらしいから、多分法華経あたりを読んでこの理屈を悟ったのだろう。」