ドグラ・マグラ (35/47)
作 夢野久作
正木博士の言葉が頭の中で反響し、私はその意味を必死に探ろうとしていた。しかし、博士は動じることなく、ニヤニヤと笑い続けていた。
「わかっているよ、君の気持ちなんて。弁解する必要はない。あの少女に恋をされるのが迷惑だと思うかもしれないが、任せておけ。君が彼女を好きかどうかに関わらず、運命に身を任せるんだ。そして、その運命の結末を見届けるために、君の頭の痛みと、あの少女との関係がどう結びついているのかを聞いてみるがいい……少し変な取り合わせかもしれないが……それを聞いていくうちに、法律や道徳の観点から見ても、君とあの少女はある運命の一直線上に立っていることがわかるだろう。この病院を出た瞬間に結婚しなければならない理由が、すべての矛盾や不可思議が解けるにつれて、次第に明らかになってくるからね。」
正木博士の言葉を聞いているうちに、私はまたもやガックリとうなだれてしまった。しかし、それは赤面してうつむくようなものではなかった。私の心の中は赤面どころではなく、博士の言葉に含まれる数々の不可思議な事実の中から、今の自分の立場を解決する焦点を見つけ出そうと、再び必死に目を閉じ、唇を噛み締めた。今朝からの出来事を思い浮かべ、考え合わせ、また考え合わせては分解してみた。
正木博士と若林博士は、表面上は親友のように見えるが、実際には互いに深刻な敵意を抱いている仇敵である。その仲違いの原因は、私と呉一郎を実験材料とした精神科学に関する研究から始まっているようで、今やその闘いは、この教室で白昼堂々と行われるほどにまで高まっている。
しかし、私とあの六号室の少女を無理に結婚させようとする意志だけは、二人とも奇妙に一致しているようだ。もし万が一、私が呉一郎と同一人物か、あるいは同名同年の青年で、あの少女が呉モヨ子であるなら、実に奇妙なことになる。つまり、私たち二人を結婚の前夜に、ある精神科学的な犯罪手段に引っかけて、このような浅ましい運命に陥れたのは、他ならぬこの二人の博士ではないかと思われる。こんな矛盾が他にあり得るだろうか。
強いて解釈をつけようとすれば、二人の博士は何らかの学理研究の目的で、一人の少女と双生児の片方か何かを、見ず知らずの赤の他人のまま、わざわざ精神病患者にして、ある念の入った錯覚に陥れ、二人が本気で付き合うように仕向けている……と考えられなくもないが、いくら何でもそんな残酷で奇怪な学理実験が、人間の心と手で行われるとは考えられない。
そもそも、こうした矛盾や不可解は、どこから来たのだろう。二人の博士はどうしてこんなに私を中心にして騒ぎ回るのだろう……と、考えれば考えるほど、すべてがこんがらがってきて、推測すればするほど不可解に絡み合っていくばかりだった。しまいには考えることも推測することもできなくなり、ただ眉をひそめ、唇を噛んでいる自分の姿を想像しながら、目を閉じているだけになってしまった。
その時、コツコツと扉を叩く音が聞こえた。私はギクンとして目を見開き、入口の扉を見た。もしかしたら若林博士かと思ったが、正木博士は見向きもせず、頬杖をついたまま、大きな声を出した。
「おい、入れ!」
その声が室内に響き渡ると、すぐに鍵穴がガチャガチャと音を立て、扉が半分開きながら入ってきたのは、九州帝国大学の紺の制服を着た、光り輝く頭をした小使いだった。彼はかなりの高齢らしく、腰を曲げていたが、右手に支えた塗盆の上に煤けた土瓶と粗末な茶碗二つを載せ、左手にはカステラを山盛りにした菓子器を持って、ヨチヨチと大卓子に近づいていった。正木博士の前にそれを置くと、不思議そうな顔をして見つめ、何かに怯えているかのようにオドオドと頭を下げた。揉み手をしながら、正木博士と私の顔を霞んだ目でキョロキョロと見比べ、また一つ、床に手が届くくらい深々とお辞儀をした。
「今日は本当に良いお天気で……これは学部長からのお使いで、お二方のお茶受けに差し上げてくれとのお申し付けでございましたが……」
「アハハハ、そうかい。若林が送ってくれたのか。ふむ、いや、御苦労だね。若林が自分で持ってきたのか?」
「いえ、学部長が先ほどお電話で、正木先生がまだいらっしゃるかとお尋ねになりまして、私は驚いて、どうか存じませんがちょっと見て参りますと申し上げて、お部屋の外まで行くと、お二人の声が聞こえました。それで学部長にお伝えしましたら、後から物を持たせるから、お茶受けに差し上げてくれとのことでした……」
「うん、そうか。確かに受け取った。暇なら話に来いと電話で言っとけ。いや、御苦労だ。」
小使いは二人の前に、危なっかしい手つきで茶を注ぎ、何度もお辞儀をしながら、光る頭を輝かせて出て行った。
その後ろ姿を見送り、扉が閉まるのを確認した正木博士は、突然前屈みになり、カステラの一片を手掴みにすると、一口で頬張り、熱い茶をグイグイと飲み干した。そして、私にも食べるように目くばせをした。
私は動かなかった。両手を膝の上に置き、目を見開いたまま、正木博士の行動を見守っていた。何かは分からないが、互いに火花を散らしているように見える二人の博士の緊張感に、私は心を惹かれていた。
「アハハハハハ。そんなに気味悪がることはないよ。だから私は悪党が好きなんだ。あいつは、昨夜から徹夜して何も食べていないことを知っているんだ。そこで、私の大好物の長崎のカステラを使って、上杉謙信の気取りやがった。病院の前で患者の見舞い用に売っているものだから、心配することはない。猫イラズも何も入っていないよ。ハハハハハハハ」
そう言いながら、また二片三片を口に押し込み、茶を立て続けに飲んだ。
「ああ、美味い。ところで、これからもっと話を進めるが、その前に、今さっき読んだ呉一郎の前後二回の発作について、もう何も疑問は残っていないか?」
「あります」
私は思わず返事をした。その声は、私自身が驚くほどはっきりと響き渡り、室内に大きな反響を起こした。私は自分でも驚いて、思わず座り直し、下腹に力を入れた。
それは、目の前で起こった小さな波乱、カステラ事件のおかげで、今まで行き詰まっていた私の気持ちが一気に転換したのかもしれない。あるいは、ついさっき飲まされたウイスキーが、ようやく本当の効果を発揮し始めたのかもしれないが、いずれにせよ、その瞬間、私の返事が「ウワ――ン」と反響して消えたのを耳にすると、急に勇気が湧いてきた。熱い茶を一杯、グッと飲み込んだ。そのお茶の美味しさは格別で、舌から食道へと煮え伝わる芳ばしい香りを、何度も味わいながら、全身の関節がフンワリと弛んでいくのを感じた。血の循環が良くなり、気持ちがゆったりとして、頭が軽くなり、濡れた唇を舐め回しながら、正木博士の顔を見据えた。
「……たとえ理屈がどうであれ、自分自身を呉一郎と思うことは絶対にできない……」
大きな声で宣言したい気持ちになりつつ、私は不思議と、今まで私の身に起こった様々な出来事が、まるで赤の他人のことのように感じられ、何とも言えず面白くなってきた。今朝から見たり聞いたりしたことが、まるで百色眼鏡で覗いているかのように、言い知れぬ興味と色彩を帯びて、目の前でクルクルと回転し始めた。その瞬間、今までとても恐ろしい存在に見えていた二人の博士が、全く怖くなくなり、むしろ素敵な面白いおもちゃのように見えてきた。
……二人の博士は、きっと何かしら大きな勘違いをしているのだ。
……この事件の真相は、思いもよらない馬鹿らしい喜劇かもしれないぞ。
「……私と瓜二つの青年がいて、二人とも奇想天外な精神病にかかっている。そのために二人が混線してしまい、どちらがどちらか分からなくなったのを、二人の博士が競い合って見分けようとしているが、どうしても分からない。とうとう苦し紛れに、そのどちらかの許嫁であった少女を結論にして、その手柄を自分のものにしようと、あらゆるペテンを尽くしている……というような、途方もなく愉快で奇抜な筋書きとも見えるではないか。……面白いな……もしそうだと決まれば、二人の博士が私の敵であろうが味方であろうが、彼らが私にかけている巧妙な恐ろしい手段が、いかに巧妙であろうとも、少しも恐れることはない。ぜひとも私自身がこの事件の正体を突き止めなければ嘘だ。そして事件の真相を徹底的に掘り下げて、あの少女をこの狂気の地獄から救い出し、二人の博士の鼻を明かしたら、どんなに痛快だろう……」
……そんな大胆で浮き浮きした気分に変わってしまった。室内の爽快な明るさ、窓いっぱいの松の青さ、その中に満ちる白昼の静けさが、今更に気持ちよく、身に沁みてきた。
しかし、私の頭の中がこのように変化したのは、ほんの数秒の間のことだったように思う。間もなく我に返ると、正木博士は、私の顔を鼻眼鏡越しにニヤリと眺めながら、頭の後ろに両手を回して反り返っていた。まるで私の質問を待っているかのように……。
私は少し間を置いた。どちらにしても質問したいことがあまりにも多すぎるので……しかし、どこからでも構わない気持ちで、目の前の遺言書を取り上げてバラバラと繰っていくうちに、やがて事件記録抜粋の一番最後のところまで来ると、そこを指して正木博士に見せた。
「この……絵巻物の写真版と、その由来記を挿入のこと……と書いてあります。その本物は、どうなっているのですか?」
「アッ。そいつは……」
と正木博士が言い終わらないうちに、両手を下ろして大卓子の端をドシンと叩いた。
「……そいつはうっかりしていたよ。ハッハッハッ。君の記憶を回復させようと夢中になっていたもんだから、肝心なものを見せるのを忘れていた。そいつを見なくちゃ呉一郎の心理遺伝の正体はわからない。私の遺言書も、仏作って魂入れずだ。ハハハハハハ……いや、失敗失敗。睡眠不足で頭が少々おかしかったかな……いや。早速お見せしよう。これ……ここにあるがね」
正木博士はそう言いながら頭を掻き、片手を伸ばして横にあるメリンスの風呂敷包みを引き寄せた。手早く結び目を解いて、中から長方形の新聞包みと、厚さ二寸ほどの西洋大判罫紙の綴りを取り出し、わざわざ北側の窓のところまで持って行って風呂敷を広げた。
「……プッ……プップッ……なんだかひどいホコリだ。長いことストーブの穴に放りっぱなしだったからね。……さて、見てごらん。この綴込みは姪の浜事件に関する若林の調査書で、君が読んだその抜萃の原本だ。あの肺病患者特有の冴えた神経で、二重にも三重にも、透き通るほど綿密に調べ上げてあるから、まったくやりきれない。だから、読むにしてもいずれ後からゆっくりやってもらって、今日はとりあえずこの絵巻物と、その由来記を見てもらうことにしよう……まずは由来記の方から読んでもらおうか。その後で絵巻物を見た方が面白いだろうから……」
そう言いながら、新聞の包みが開かれ、その中から白木の箱の上に置かれた日本紙一帖ほどの綴込みが、無造作に私の前に投げ出された。
「それはこの絵巻物の奥付になっている由来記の写しだ。つまり、この如月寺の縁起譚の前に起こった出来事で、今から約一千百年前の大昔から始まった呉一郎の心理遺伝の根本が書かれているんだが、君がそれを読んでいるうちに……あれ? これはずっと以前にこんなところで読んだことがあるぞ……という事実をはっきりと思い出すかどうかが、やはり若林と私の生死の分かれ目になるんだ。ね、そうだろう。それを読んだ記憶が一分一厘でも君の頭に残っていれば、君は呉一郎に違いないからね……ハハハハ……とにかく読んでみたまえ。遠慮することはない。素敵に面白い話だから……」
私はそれがどれほど貴重な内容の書類であるかを百も承知していた。しかし、その書類によって正木博士が私に試みようとしている精神科学の実験が、いかに重大な意味を持っているかを察しすぎるほど察していたにもかかわらず、まったく緊張した気持ちになれなかったのは不思議だった。もしかしたら、飲んだばかりのウイスキーが少し効いていたせいかもしれないが、逆に正木博士の真似でもするかのように無造作に、その綴込みを取り上げ、やはり無造作にその第一頁をめくった。すると、中には四角い漢字が真っ黒に押し固まって、隙間もなく並んでいた。
「わあ、これ漢文……しかも白文じゃありませんか。句読点も送り仮名も何も付いてない……とても僕には読めません。これは……」
「ふーん、そうかい。それじゃ仕方がないから、取りあえずその内容の概要を、僕が記憶している範囲で話しておくかね」
「どうかそうしてください」
「……うーい……」
正木博士はあいまいに言いながら反り返った。スリッパを履いたまま椅子の上に乗り、両膝を抱えると、くるりと南側を向いて、頭の中を整理するように目を半開きにして窓の光を透かしながら、ほっかりと青い煙を吐いた。
私もウイスキーが回ったせいか、何となく倦怠感を覚え、眠たいような気持ちになりつつ、机の上に両肘を立てて顎を載せた。
「……ゲップ……うーい……さて、そこでだ。大唐の玄宗皇帝というと、今からちょうど一千一百年前の話だがね。その玄宗皇帝の御代も終わりに近い、天宝十四年に、安禄山という奴が謀反を起こしたんだが、その翌年の正月に安禄山は僭号をして、六月、賊、関に入る、帝出奔して馬嵬に薨ず。楊国忠、楊貴妃、誅に伏す……と年代記にある」
「……はあ……よく記憶しておられるんですね、先生は……」
「歴史の面白くないところは、暗記しておくもんだよ。……ところでその玄宗皇帝が薨じたのは年代記の示す通り天宝十五年に相違ないらしいが、それより七年以前の天宝八年に、范陽の進士で呉青秀という十七八歳の青年が、玄宗皇帝の命を奉じ、彩管を持って蜀の国に入り、嘉陵江の水を写し、転じて巫山巫峡を越え、揚子江を逆航して奇勝名勝を探り得て帰り、蒐むるところの山水百余景を五巻に表装して献上した。帝これを嘉賞し、故翰林学士、芳九連の遺子黛女を賜う。黛は即ち芬の姉で、互いに双生児であった。相並んで貴妃の侍女となる。時人これを呼んで花清宮裡の双と称す。時に天宝十四年三月、呉青秀二十五歳、芳黛十七歳とある」
「これには驚いた。とても記憶しきれない。それもやっぱり年代記ですか」
「いや、これは違う。『黛女を賜う』という一件の前後までは『牡丹亭秘史』という小説に出ている。その小説には玄宗皇帝と楊貴妃が、牡丹亭で喋々喃々の光景を、詩人の李太白が涎を垂らして牡丹の葉陰から見ている絵などがあって、支那一流の大甘物だが、その中でも、呉青秀に関する記述の冒頭だけは、この由来記の内容と一字一句違わないから面白いよ。そのうち文科の奴に研究させてやろうと思うが、第一非常に名文で、思わず知らず暗記させられる位だ」
「そうですかねえ。でも何だか、漢文口調のお話は、耳で聞いただけでは分からないようですね。その使ってある字を一々見て行かないと……」
「うん。それじゃもっと柔らかく行くかね」
「どうぞ……助かります」
「ハハハハハハ。要するにこの玄宗皇帝というおやじは、楊貴妃と一緒にお祭りの行燈絵に描かれるくらいで、古今のデレリック大帝だ。四夷を平らげ、天下を治め、兵農を分け、悪銭を禁じ……と来たまではよかったが、楊貴妃に鼻毛を読まれて何でもオーライで、兄貴の楊国忠を初め、その一味のろくでなし連中をどんどん要職に引き上げた。つまり忠臣を追い出して奸臣を取り巻きにして、太平楽を歌ったわけだね。あげくの果ては、驪山宮という宏大もない宮殿の中に、金銀珠玉をちりばめた浴場を作って、玉のような温泉を引いて、貴妃ヤンと一緒に飛び込んで……お前とオーナラバ、ドコマデモオ……と来たね」
「うわあ、柔らかすぎます。……それじゃあ」
「いや、真面目に聞いてくれなくちゃ困る。チャン公一流のヨタなんかこれっぽっちも混じっていないんだぜ。これがあの四五年前に流行した『ドコマデモ』という俗謡の本家本元なんだ。ちゃんと記録に残っているんだ」
「……へえ、そんなもんですかね」
「そうだよ。まず、お前と一緒なら、サハラやナイアガラのような野暮な場所には行かない。一緒に天に昇って、星になって、下界の人々を羨ましがらせるんだから、たまったもんじゃないよ。覗いていた奴も、大した奴に違いないが……」
「でも、それが絵巻物とどう関係があるんですか?」
「大いに関係がある。まあ、急がずに聞いてくれ。大陸の話だから、なかなか焦点がまとまらないんだ。いいかい……この文化的な天子、玄宗皇帝は芸術を愛していて、李太白という酒好きの禿頭詩人を贔屓にして可愛がっていた。その一方で、当時十九か十八歳の青年進士、呉青秀に命じて、天下の名勝をスケッチさせた。つまり、居ながらにして天下を巡狩しようという、ありがたい思いだった……どうやら貴妃様のご注文らしいがね。」
「その青年は絵の天才だったんですね。」
「もちろんさ。十八九の若者なのに、古今に名高い禿頭の大詩人、李太白の詩と並ぶ絵を描くんだから、ただの腕前じゃないよ。もっとも、運が悪くて夭折したために、名前も描いたものもあまり残っていない。前にも言った通り、その頃の記録にはもちろん、最近の年代記にも記載はあるが、書物によって年代や名前が少し違っていて、確実なところはわからない。しかし、ここに詳しいことを記載した実物の証拠があるから、将来の歴史家は避けて通れないだろう。」
「そうすると、その絵巻物はとても貴重な参考資料なんですね。」
「貴重どころの騒ぎじゃない……さて、話は少し前に戻るが、その青年進士、呉青秀は、天子の命を受けてスケッチ旅行を続けている間がちょうど六年で、久しぶりに天宝十四年に長安の都に帰ってくると、そのお土産の風景絵巻が、非常に天子の御意にかなって、御機嫌斜ならず、芸術家としての無上の面目を施した上に、黛子さんという美しい妻をもらった。さらに、静かな美しい庭付きの小さな邸宅を拝領し、まさにありがたいこと尽くめだったので、しばらくは夢のように暮らしていた。しかし、その中で徐々に落ち着いてくると、時はちょうど大唐朝の没落の前奏曲の時代で、凶兆や妖が頻繁に起こり、天下の大乱の兆しがあちこちに溢れていることに気が付いた。しかも天子様は、いくら側近が諫めても、まるで糠に釘のように、うっかり御機嫌を損ねたために、冤罪で殺される忠臣が続出する有様だった。……これを見た呉青秀は、思わず決意を固め、自分の彩筆の力で天子の迷夢を覚まし、国家を安泰にしようと考えた。そして新婚の黛夫人に心の内を打ち明けて、ここで一つ天下のために、お前の命を捨ててくれないか。自分もいずれ後を追うつもりだが……と言ったところ、彼女は「あなたのためなら……」と嬉しそうに返事をした。」
「とても素敵ですね。」
「純然たる中国式だよ。それから呉青秀は、大秘密で大工や左官を雇い、帝都の長安から数十里離れた山中に一つの画房を建てた。つまりアトリエだ。しかしその構造はかなり変わっていて、窓を高く取って外から覗かれないようにし、真ん中に白布をかけた寝台を置き、薪炭や菜肉、防寒防虫の用意を整え、籠城の準備を完璧に整えると、黛夫人と一緒にこっそり引っ越した。そしてその年の十一月のある日、夫婦はさらに幽界で再会する約束を固め、別れの盃を交わし、哀しみの涙を流し、やがて斎戒沐浴して新たに化粧を凝らした黛夫人が、香煙が立ち上る中、白衣をまとって寝台の上に横たわったのを、呉青秀が乗りかかって絞め殺した。それからその死体を丸裸にして肢体を整え、香華を撒き神符を焼き、屍鬼を祓い去った呉青秀は、やがて紙を広げ、丹青を調整しながら、全生涯の心血を注いで極彩色の写生を始めた。」
「……わあ……凄いことになったんですね。さっきの縁起書とは大違いだ。」
「……呉青秀は、こうして十日ごとに変わっていく夫人の姿を、白骨になるまで約二十枚ほどこの絵巻物に写し止めて、玄宗皇帝に献上した。その真に迫った筆の力で、人間の肉体の儚さ、人生の無常さを目の前に見せて、ぞっとさせる計画だったという。しかし、何しろ防腐剤などというものがない頃なので、冬分ではあったが、腐るのがどんどん早くなり、一つの絵の写し始めと写し終わりではまるで姿が違うようになってしまった。とうとう予定の半分も描き上げないうちに、死体は白骨と毛髪だけになってしまった……というのだ。……あるいは科学的な知識が未熟だったために、土葬した死体の腐り具合を基準にして計画したのかもしれないが……何にしても恐ろしい忍耐力だね。」