ドグラ・マグラ (30/47)
作 夢野久作
虹汀は、目の前の状況に恐れを抱いていた。残された者たちは遠くへ逃げ去り、追いかけようとする者も見当たらない。彼は心を落ち着け、奪った小刀を亡骸に返し、両手を合わせて珠数を揉みながら、念仏を二、三度唱えた。すると、黒衣の雪を払いのけるように、仏像を背負い、心のない六美女をいたわりながら、笠を傾けて人馬を急がせた。筑前領に入り、深江という地で一泊した翌朝、まだ消えぬ雪を踏みしめて、東へ向かうこと五里、ついに姪の浜に辿り着いた。
虹汀はその地の様子を見て思った。この場所は、北に愛宕の霊山が半空に聳え、南方には背振、雷山、浮岳などの名山が雲煙を連ねている。広大な田畑は、子孫を養うに十分で、室見川の清流は杯を浮かべるのに耐えうる。衵浜や小戸の旧跡、芥屋、生の松原の名勝を配し、黒田五十五万石の城下にも近い。まさに山海の地形が集まった場所だ。彼は従者たちを養い、田畑を求めて家を建て、故郷の京師に音信を開き、未来の計画を立てる傍ら、雷山や背振の巨木を集め、自ら縄墨を使って一つの大伽藍を建立し、持ち帰った弥勒菩薩の座像を本尊として、末代までの菩提寺、永世の祈願所にしようと考えた。山門は高く聳え、真如実相の月を迎え、殿堂の屋根は仏土の金色の日を迎える。林泉は奥深く、水は碧く、砂は白く、鳥が啼き、魚が跳ねる様子は、念仏、念法、念僧が行われる光景で、まさに末世の奇特、稀代の浄地と感じられた。
こうして、人皇百十一代霊元天皇の延宝五年、霜月の初旬にその業が終わると、京師の本山から貧道を招いて、開山住持の役をお願いすることになった。貧道は、知識が乏しいために何度も固辞したが、聞き入れられず、遂にその奇特さに感動し、荷物を持って下向し、住職となった。寺号を青黛山如月寺と名付け、翌年の延宝六年、二月二十一日の吉日を選んで往生講式の七門の説法を行い、浄土三部経を読誦して七日間の大供養大施餓鬼を執行した。
その日、虹汀は自ら座に上がり、上来の因縁を述べて聴衆に懺悔し、二首の和歌を詠んだ。
「六つの道、今は迷わじ、六つの文字
み仏の世に、くれ竹の杖」
「くれ竹の世を重ねて、みほとけの
すぐに空しき道に帰らむ」
続いて貧道が座に上がり、縁起の因果を詳しく解説し、六道の流転、輪廻転生の理を明らかにし、一念弥陀仏が無量の罪障を滅ぼす真理を授け、最後に一句の偈を述べた。
「一念称名声 功徳万世伝
青黛山寺鐘 迎得真如月」
六美女は当時十八歳で、以前から六字の名号を三万葉にわたって写し続けており、参集に頒ったところ、三日も経たずして全てが集まったという。
このような物語は、六道の街を娑婆に表し、業報の理趣を目の前に示す。煩悩が即菩提であり、六塵が即浄土であると、呉家の祖先の冥福と末代の正等正覚の結びつきは、まことに果てしないものである。呉家に生まれる男女がこの恩恵に報いようとするなら、深くこの意味を心に刻み、法事や念仏を怠ることがあってはならない。事の他に漏れることがあれば、他藩の怨みを買うことを恐れるべきである。この寺の当時の住職や呉家の当主夫妻にだけは留めておくべきである。穴賢。
延宝七年七月七日 一行記す。
◆第三参考 野見山法倫氏談話
▼聴取日時 同日午後三時頃
▼聴取場所 如月寺方丈にて
▼同席者 野見山法倫氏(同寺の住職で当時七十七歳。同年八月に逝去)
私(W氏)は、以上の二人に対して言った。
「その不審は、実に尤もでございます。この縁起の本文にも書かれている通り、今から百余年前に、呉家の中興の祖とも言うべき虹汀様が、全てを焼き尽くし、弥勒の世まで封じておかれた絵巻物が、どのような事情で旧の形に戻り、今の世に現れ、呉一郎殿の手に渡り、混乱の原因となったのか……ということについては、実はお尋ねがなくともお話ししたいと思っておりました。
元々、この縁起の書付は、呉家の名跡を継ぐご主人夫婦が初めての墓参の際に人を払って見せることになっております。それ以外の呉家の血統に関することは、普通のことを除いて一切他人に漏らさないのが、開山一行上人以来、当寺の住職の本分として定められております。しかし、やむを得ないご質問ですし、特に呉一郎殿が本当に狂気なのか、それとも装っているのかを見極めることが、罪人となるかならないかの境目だと思いますので、何を隠すことができましょうか……。
その理由は、他でもありません。この寺の本尊様の胎内に、灰となって納まっているはずのあの絵巻物が、実は旧の形のままで存在していることを、ずっと以前から探り出していた人がいたのです。さらに、その絵巻物を本尊の胎内から取り出し、呉一郎殿の病気を誘発する原因を作ったのも、やはりその方に違いないと思われる人物を、私はよく知っています。それは言うまでもなく、呉一郎殿の実の母で、先年直方で不思議な死を遂げた千世子殿のことです……。これは本当に怪しい話で、何よりもまず、そんな恐ろしい伝えのある品物を、かけがえのない我が子に渡すような無慈悲な母親が、この世にいるとは思えませんが、何か深い事情があるように思われますので、いずれにしても、これからお話しすることをお聞きいただければ、すぐに何事もお分かりになると思います。」
思い返せば、もう二十年、いや、三十年ほど前のことになります。本当に古い話です。皆さんはもうご存知かもしれませんが、千世子という女性は、幼い頃から非常に賢く、手先も器用でした。特に絵を描くことや刺繍が得意だったそうです。彼女がまだ若い頃、寺の本堂の片隅で一人、襖に描かれた四季の花模様や欄間の天人の彫刻を写している姿をよく見かけました。その頃から、彼女は本当に可愛らしく、人形のような美しい顔立ちをしていました。
さて、彼女が十四か十五歳になった頃のことです。学校から帰る途中、海老茶の袴をはいた千世子が、風呂敷包みを抱えてこの方丈に入ってきました。私が一人でお茶を飲んでいると、彼女は私に向かって言いました。「和尚様、あの御本尊の真っ黒な仏様の中には美しい絵巻物が入っていると聞いたのですが、見せていただけませんか?」この絵巻物の話は、この寺の開山以来、名高い伝説となっていて、村の人々も知っているはずです。彼女はどこかで聞いたのかもしれません。
私は笑いながら言いました。「それはもうずっと昔に灰にしてしまったから、今は見せることができないよ。」すると、千世子は言いました。「でも、今、あの仏様を揺すったら、腹の中でコトコトと音がしたんです。何か入っているに違いない。」私は驚きました。「そんなことをする者はいないよ。仏罰が当たるぞ」と叱りましたが、彼女が帰った後、一人になると、なんだか心配になってきました。
そこで、こっそり本堂に行き、御本尊の弥勒様を揺すってみると、確かにコトコトと音がしました。まるで巻物のような形のものが内部に納まっているような手応えでした。私はその不思議さに驚き、胸が高鳴りました。御本尊の胎内は、絵巻物を焼いた灰だけだと思っていたのに、まさか何かが入っているとは。
その時、私は思案しました。昔、虹汀様が絵巻物を焼いたと見せかけて、実はそのまま仏像に納めておいたのではないか。周囲の詰め物が年月とともに乾いて音を立てるのかもしれない。絵を愛する人なら、そんなこともあり得ると思いました。もしそうなら、取り出して焼き捨てるべきかどうか、様々な考えが頭を巡りましたが、やはり腑に落ちない部分もあり、恐ろしい気持ちもありました。だから、仏体を壊して内部を見るようなことはできないと思い、そのままにしておきました。
時が経ち、昨年の秋、お彼岸の前の日の夕方のことです。お八代さん、一郎さん、オモヨさんの三人が墓掃除に来ました。その時、お八代さんは一人でお霊屋の掃除をしている合間に、こちらの方丈に立ち寄り、茶を飲みながら話をしました。「まだ少し早いようだけれど、来年の春、一郎が六本松の学校を卒業したら、すぐにモヨ子と結婚させようと思うが、どうだろうか?」と相談されました。
お八代さんは、いつもこうした話をする前には必ず私に相談してくれましたので、私は「それは素晴らしいことですね」と返事をしました。その後、二人で本堂の縁側に出てみると、山門の横の墓所の前に、一郎さんと赤い帯を締めたオモヨさんが仲良く並んで、両手を合わせている姿が見えました。それを見たお八代さんは、何か胸が詰まったようで、急いで顔を押さえながらお霊屋の方へ行かれました。私はその後に残り、二人の姿を見守りながら、呉様のお家の未来について考えていました。その時、ふと二十年前の千世子のことを思い出し、驚きました。
その夜、どうしても寝つけなくなり、私はそっと起き上がりました。窓から差し込む月の光とお燈明の明かりを頼りに、一人で本堂に行きました。御本尊様を揺すってみると、前回は確かに聞こえた音が全くしませんでした。さらに、内部が空虚になっているような手応えを感じました。
その時、何か不気味な予感が私を襲いました。思い切って、御本尊を厨子から抱え出し、この方丈に運びました。眼鏡をかけてよく見ると、全体が塵に覆われていて少し見づらいのですが、お像の首が襟の部分で切り嵌めになっていることに気付きました。力を入れて揺すぶると、首が抜けるようになっていました。その瞬間、私は納得しました。
胸の高鳴りを抑えながら、廊下を伝って土間に持ち出し、音を立てないように塵を払いました。そして、電灯の下に毛氈を敷いて、切り嵌めの部分から御像の首を抜いてみると、ちょうどお経筒の形に刳り抜かれた底の部分に、古い唐紙に包まれた灰がありました。その灰包みの中心は、しっかりと巻物の軸の形に凹んでいました。これを見て、虹汀様が絵巻物を焼いたと言っていたのも、何か深い考えがあったのかもしれません。実際には焼かずに、旧の形のまま納めておかれたもので、それを誰かが盗んで行ったことは、もはや疑いようのない事実でした。周囲には、古い綿の他には紙くず一つ見当たりませんでした。
「こちらへおいでください。御本尊をお見せしましょう」と私は言いました。
「ご覧の通りです……これは私の不念と言うべきか、何と言うべきか……ああ、何か事が起こらなければ良いがと、胸を痛めていましたことは一通りではありませんでした。しかし、一方で考えると、お千世殿が持って行かれたものであれば、何の必要があったのでしょうか。また、直方であのような最後を遂げられた後、今日までの間、誰が隠し持っていたのでしょうか。お千世殿の亡き後を片付けたお八代さんが、見つけたのであれば、一言でも私に話してくれたはずです……と、思案に暮れていたところに、この度のことが起こりましたので、もはや心も言葉も及ばない不思議としか言いようがありません。承りますと、その絵巻物は、一郎殿の乱心の後、行方が知れないとのことです。これもまた、不思議の一つです。村の者の中には、一郎殿の乱心の前と後に、絵巻物が蛇のように波を打って虚空を渡るのを見たという者がいるそうですが、どうなのでしょうか。これも私の不念から起こったことです。亡くなられたオモヨ殿と、狂気に陥った一郎殿の痛ましさを思い、老い先の短い生命に代われるものならばと思い、涙に暮れるばかりです……」
その時、呉八代子が現れました。「ああ、先生……ようやくお越しくださいました。どれほどお待ちしていたことでしょう……いえ、私の傷は構いません。命も何も要りません。どうかお願いです、この絵巻物を(固く秘めていた懐中から取り出しながら)お寺から盗み出して、あの石切場で待ち伏せして一郎に渡し、家中の者を殺そうとたくらんだ奴を、ぜひとも探し出してください。もしその奴が見つかりましたら、一言だけでも構いませんので、何の恨みでこんな残酷なことをしたのか、尋ねてください……一郎が正気でいるうちに、その人間のことを尋ね出せなかったのが残念でなりません……わかったら、骨を噛み砕いても足りないと思います……いえ、直方を引き上げる時には、そんな物はありませんでした。一郎の周りは、私が残らず調べています。警察の者が何を知るでしょう。あんな非道な目に合わせたりして……私は尋ねられても返事をすることができませんでした……もう諦めました。一郎が正気になろうが、娘が生き返ろうが、私の命がどうなろうが知りません。ただ妹の千世と、一郎と、娘の敵は同じ奴……この絵巻物の事情を知りながら、あの一郎に見せた奴が……(昂奮し、錯乱して問答を続けられず。以後、一週間ほどして徐々に平静を取り戻すも、放神状態に向かう傾向が見受けられました。)
事件発生当日、午前十時半、出入を禁じられていた呉家の土蔵(三番倉と呼ばれるもの)の内部を検査したところ、階下の板の間の入口に敷かれた古新聞の上に、呉一郎の朴歯の下駄の跡と、モヨ子の外出用の赤いコルク草履が正しく並んでおり、その傍から蝋燭の滴が階段の上まで点々と続いていました。
階上の状況や被害者の遺体には格闘や抵抗、苦悶の形跡は見られませんでした。遺体の首には絞縛の跡と鬱血がありましたが、気管や頸動脈などの外部からの損傷は認められませんでした。また、脂粉の香りがする新しい西洋手拭いが、遺体の前に置かれた机の下に落ちていました。これは加害者の所持品であり、凶行に使用されたものと考えられました。
机の中央には鼻紙と、女性の体臭がある四つ折の半紙が十数枚重ねられており、その左端には家の仏具の一つである真鍮の燭台が置かれ、百匁蝋燭が一本点火された跡がありました。後日検査の結果、点火後約二時間四十分経って消されたものと推定されました。
さらに、新しい三本の百匁蝋燭がマッチの箱と共に机の下に置かれていましたが、これら四本の蝋燭の上部や中央部に残された数多の指紋は、すべて被害者モヨ子の左右手の指紋のみであり、加害者呉一郎のものは一つも存在しませんでした。また、マッチの箱からも被害者の指紋のみが検出されたことから、前記の四本の蝋燭は被害者自身が持ち込んだものであり、自らマッチを擦ってその中の一本に点火し、机の左端に置いたことは疑う余地がありませんでした。
その夜の九時、被害者の遺体が九州帝国大学医学部法医学教室に運ばれてきた。すぐに私、W氏が執刀し、舟木医学士の立会のもとで解剖を行った。解剖は十一時に終了し、死因は頸部の圧迫、すなわち絞扼死であることが判明した。さらに、被害者は何らかの理由で意識を失った後に絞首されたと推測された。なお、処女膜には異常は認められなかった。
次に、如月寺の本尊である弥勒菩薩の座像を調査した。頭は大きく、体は小さく、形相は奇妙で、後光も偏袒もない。普通の法衣のように輪袈裟をかけ、結跏趺座して弥勒の印を結んでいるが、作者の自像ではないかと思われる部分もあった。全体の刀法は非常に簡潔で力強く、鋸歯状や波状の鑿痕が至る所に見られた。底面の中央には、極めて丁寧な刀法で「勝空」の二字が一寸角の大きさで陰刻されていた。
中央の空虚は縦深一尺、横径三寸三分余の円筒型で、上部と底部に詰められた綿と灰の厚さを差し引くと、高さは一尺六分強となり、絵巻物の体積と一致していた。また、その蓋に当たる首の根の方形部分には糊付けの痕が残っていた。
灰を包んでいた唐紙や、上下左右に詰められていた綿を調べると、古色があり、記録の時代とほぼ一致することが確認された。灰は検鏡分析の結果、普通の和紙と絹布が焼かれた形跡があるのみで、表装用の金糸や軸に使われた木材の痕跡は全く見当たらなかった。
姪浜入口の国道沿い、海岸側にある山裾の石切場を調査した結果、前日、呉一郎が絵巻物を見ながら腰掛けていたという石は、切り残された粗石の陰に位置しており、街道を通る者の注意を引きにくい場所にあった。
石切場内には大小無数の石片や石塊、石工の作業の跡、街道から散入した藁や紙、草鞋、蹄鉄片などの塵芥が散らばっていたが、特に注意すべき遺物は見当たらなかった。小雨に洗われたためか、呉一郎を含む全ての人物の足跡は確認できなかった。
平生、同所で作業していた石工、姪浜町七五番地ノ一に住む脇野軍平は、前々日からその妻ミツと養子の市と共に腹痛と下痢を発症し、流行病の疑いを受けて交通を遮断されていた。しかし、日が経つにつれ、二人に問い試みたところ、作業中に疑わしい人物が石切場に立ち入ったり、近くを徘徊した記憶はないという。さらに、同人らの疫病に関しては、同所の魚類が常に新鮮であるため、食物中毒の原因は考えられず、結局病原は不明ということになった。
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ハッハッハッハッ……。
どうです、皆さん。驚きましたか?
これが私の遺言書の中で最も重要な部分だということは、もう忘れて読んでいたでしょう。悲劇があり、喜劇があり、チャンバラがあり、デカモノもあり、さらには有難屋の宣伝まであるという塩梅で、実に奇妙で奇天烈な記録の内容でしょう。特に、その心理遺伝の現れ方の奇抜さは、古今無類であり、現代の常識や科学知識を引っくり返しても到底歯が立たない。名法医学者の若林鏡太郎博士も、この事件には少々手をこまねいているようで、その調査書類の中に、こんな嘆息を漏らしている。
「私はこの事件の犯人を仮想の犯人と呼ぼうと思う。なぜなら、この事件の犯人は現代の一切の学術、道徳、習慣、義理、人情を超越した、恐るべき神変不可思議な性格の持ち主であると想像する以外に、考えられないからだ。わずか二年の間に、三人の女性と一人の青年を殺し、あるいは発狂させ、その一家の血統を再び立て直すことができないほどに破滅させる残虐行為を敢えて行うにもかかわらず、その手段は偶然の出来事か、あるいは超科学的な神秘作用を装っているため、他の推測を許さない。犯人の存在はもちろん、こうした犯行を一貫した目的で行う存在さえも疑わしい……云々。」
さて、どうでしょう。前に見せた記録と、この文を照らし合わせてみた皆さんは、もうお気付きでしょう。法医学専門の若林君の主張と、精神病学者である私の事件に対する見解は、事件の発生当初から明確に正反対であり、今日に至るまで一致していないことを。若林君は法医学者特有の視点から、この事件には必ず隠れた犯人がいると考えている。その犯人がどこからか糸を操り、この事件に関するあらゆる不思議な現象を自在に操っているに違いないと初めから決めつけているのに対し、私はそうは行かない。精神科学の立場から見ると、これはいわゆる「犯人無き犯罪事件」に過ぎない。外見や内容ともに奇抜な精神病の発作の現れであり、被害者も犯人も、ある錯覚の下で同一の人間となって行った凶行に他ならないのだ。それでも、どうしても犯人が必要だというのなら、呉一郎にこのような心理を遺伝させた先祖を捕まえて牢屋に入れろと主張している。ここにこの事件の中心的な興味が繋がっているわけだが……。