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ドグラ・マグラ (29/47)

作 夢野久作

若旦那は、その時、昨日の石切場の方を指さしながら、頭を振ったり、奇妙な手振りや身ぶりを交えて、一生懸命に何かを話しているように見えました。私たちはその話をよく聞いてはいませんでしたが、何度も「天子様のため」や「人民のため」といった言葉が繰り返されていたように思います。お八代さんも目をまん丸にして、うなずきながら聞いている様子でした。しかし、若旦那は突然口を閉じて、お八代さんが突き出している巻物をじっと見つめていました。すると、いきなりその巻物を引ったくり、懐の中に深く押し込んでしまったのです。

お八代さんはそれを無理やり引き戻しましたが、後から考えると、これが良くなかったようです。若旦那は巻物を奪われると、気が抜けたようになり、口を大きく開けてお八代さんの顔をギョロギョロと見つめていました。その顔つきは非常に不気味で、さすがのお八代さんも恐れをなして、身を引いて立ち上がろうとしました。すると、若旦那は素早くその袖を掴み、お八代さんを再び畳の上に引き倒しました。そして、やはりギョロギョロと顔を見つめながら、嬉しそうに目を細めてニタニタと笑いました。

その顔を見た瞬間、私はまるで水を浴びせられたかのようにゾッとしました。お八代さんも恐怖に震え、無理に振り切ろうとしましたが、若旦那はすっくと立ち上がり、縁側を降りかけていたお八代さんの襟髪を後ろから掴みました。そのまま仰向けに引き倒し、縁側から庭の上にズルズルと引きずり下ろしました。そして、ニコニコと笑いながら、近くにあった下駄を取り上げて、お八代さんの頭を気持ちよさそうに打ち据えました。お八代さんは見る見るうちに顔色がなくなり、頭髪が乱れ、顔中に血を流しながら土の上を這い回り、死に声をあげました。

それを見た私は、心が抜けたようになり、膝がガクガクしながらも、必死に腰を抱えてこの家へ帰りました。「お医者、お医者」と妻に叫びながら、夜具をかぶり震えていました。すると、医者の宗近が戸惑いながら私の家にやって来ましたが、「呉さんのところだ、呉さんのところだ」と追い遣りました。

私が見たのはこれだけです……本当に、正真正銘の出来事でした。後から聞いたところによると、お八代さんの叫び声を聞きつけた若者たちが二、三人駆けつけて、若旦那を押さえつけ、細引きで縛ったそうです。しかし、その時の若旦那の暴れっぷりは、三人や五人の力では到底抑えきれないほどだったと聞きました。細引きが二度も切れてしまったそうです。やっとのことで動けないようにして、離家の床柱の根元に括り付けると、若旦那は疲れたのか、そのままグウグウと眠ってしまったそうです。

しかし、やがて目が覚めると、若旦那の様子は一変していました。警察の人が尋ねても、ただキョロキョロするばかりで、返事も何もせず、無関心な様子だったそうです。以前、直方でも同じ病気が出たと聞きましたが、その時は大学の先生が調べた結果、麻痺薬をかけられていたことが判明したそうです。その後は何ともなかったので、連れて行かれたとお八代さんは言っていました。しかし、血統というものは恐ろしいもので、今回の様子を見ると、やはりあの巻物の祟りに違いないと思います。

この巻物の祟りについては、久しく聞かれなくなっていたため、私たちも詳しくは知りませんが……その巻物は、あの如月寺の御本尊の腹の中に納められていたものだそうです。それを見ると、呉家の血統の男に生まれた者は、必ず正気を失い、親でも姉妹でも、あるいは赤の他人でも、女性であれば殺すようなことをすると言われています。その由来があのお寺に記されているとも言われていますが、その巻物がどうして若旦那の手に渡ったのか、不思議でなりません。

あの如月寺の現在の住職は、法倫様という方で、博多の聖福寺と並ぶ名高いお方だそうですから、こんな因縁についても何でもお分かりになると思います。もうかなりの高齢で、鶴のように痩せた体に、眉と髭が雪のように白く垂れ下がった、実にありがたいお姿の和尚様です。もしよろしければ、お会いになってお話を聞いてみてはいかがでしょうか。妻に案内させますから……。

お八代さんは今では半狂乱のようになり、足を挫いて床に就いているそうです。頭の怪我は大したことはないとのことですが、言うことは辻褄が合ったり合わなかったりするそうで、道理とも何とも申しようがありません。腰が抜けているため、お見舞いにも行けずにいます。

私が宗近に走らなかったために、万事が手遅れになったと言う者もいたそうですが、これは無理な話です。オモヨさんが絞め殺されたのは今朝の三時から四時の間だと、宗近が私の腰を診に来たときに言っていました。蝋燭の減り具合から見ても、そのくらいの時間だったそうです。……あとは、ただ今お話しした通りです。お八代さんがしっかりしていれば、何もかもわかるはずですが、今も言った通り、若旦那を恨むようなことを言ったり、早く気を取り直してくれと言ったり、夢うつつに「お前一人が杖柱」と言っているそうで、全く当てになりません。

警察の者は、まだ一人も私のところに来ていません。というのも、この騒動に最初に気づいたのは、お八代さんの金切声を聞いて駆けつけた泊まり込みの若者だけだったからです。警察はその後の話を詳しく調べて帰ったそうですが、私はその前から用心していました。自分が疑われてはいけないと思い、宗近先生に口止めを頼んだのですが、騒動の中で誰が宗近先生を呼びに行ったのか、全くわからないままでした。そんな中、思いがけず先生が尋ねてきたので、私は驚きました。何も隠し立てはしません。もし可能であれば、先生の力で警察に呼ばれないようにお願いできないでしょうか。私はこの通り、腰が抜けてしまっていて、警察の話を聞くだけでも身震いしてしまう性分なのですから……。

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朝の光に照らされた雪は、夕方には濁った水となって河や海に流れ落ちていく。今宵、銀の燭台に並べられた栄華の花も、明け方には塵となり泥土に埋もれてしまう。三界は波の上の模様、一生は空の中の虹のようだ。ましてや、一度結んだ悪因縁は解けることなく、私たちは生きている限り地獄の変化に堕ち、叫び声を上げる鬼のような姿を現す。そして死んだ後には、その悪果が子孫に伝わり、業報の苦しみが永遠に続くのだ。その恐れ、その苦しみは、何にたとえれば良いのだろうか。

ここにこの因果を観じて、本末の理趣を究明し、根元を断ち切って菩提心に転じ、一つの伽藍を建立し仏の智慧を荘厳し、念を称え、人々が共に敬う浄道場を築くことができる。その縁起の源は、慶安の頃、山城国、京洛、祇園の精舎の近くにあった茶舗、美登利屋にある。毎年、宇治の銘を選んで雲上に献じ、「玉露」と名付けてその香りを全国に伝えていた。当主は坪右衛門という名で、一男三女を持っていた。男の子は坪太郎と名付けられ、彼は特に愛されていたが、生まれつき商売の道を好まず、幼い頃から宇治の隠元禅師に学び、学才に秀でていた。柳生の剣法にも達し、画流を土佐派に学び、俳体を蕉風に受けて独自の風格を成していた。成長するにつれ、空坪と名乗り、山水を慕い、家を継ぐことには興味がなかった。しかし、年を重ねるに従い、他に男子がいないために妻を娶ることを強いられ、学業が未熟なために固辞していたが、葛藤を避けることはできなかった。結局、父の坪右衛門の請いにより、隠元老師の教えを受けることになり、心機一転した。

「二十五の今日まで聞かず不如帰」

という一句を我が家の門に掲げて家を出て、法体となり、一笠一杖に身を委ね、名勝旧跡を探りながら西へ向かうこと一年近く、長崎の道から肥前唐津に入った。時は延宝二年の春、四月の末で、空坪は二十六歳だった。

空坪はこの地の景勝を巡り、楽しむことに余念がなかった。虹の松原に因んで名を虹汀と改め、八景を選んで筆を取り、自ら版を起こして広く江湖に頒布することを考えていた。こうして滞留すること半載あまり、晩秋の月が円くなるのに誘われて旅宿を出て、虹の松原に上った。銀波、銀砂に並ぶ千古の名松は、清光の中でその姿を見せ、まるで名工の墨技の天籟を帯びているかのようだった。行くこと一里、漁村浜崎を過ぎて興が尽きず、さらに流霜を追って半里進むと夷の岬に到着し、岩に寄りかかりながら遥かに湾内の風光を望み、雁の影を数えつつ半宵に至った。

その時、一人の女性がいた。年の頃は二十八には達していないと思われるが、華やかな袖を翻し、白く小さな足元が痛ましげに、荒磯の岩畳を渡って虹汀の傍に近づいてきた。周りの人に気づかれないように、西方に向かって手を合わせ、長い間祈りを捧げているようだったが、涙を拭いながら両袖を抱きしめ、まるで海に身を投げようとする気配だった。虹汀は驚いて駆け寄り、彼女を抱き止め、近くの松原の清らかな砂の上に連れて行き、事の詳細を尋ねた。彼女は最初はただ泣くばかりだったが、やがてようやく語り始めた。

「私はこの浜崎という場所に住む、呉の某という家の一人娘で、六美女と呼ばれる者に仕えております。私の家は代々この地の長を務めて栄えてきましたが、満ちれば欠けるのが世の常です。それでも、世には恐ろしい因縁があるのです。昔から私の家には乱心の血脈が途絶えず、今や私一人だけが悲しくも生き残っているのです。」

彼女はさらに続けた。「その最初をどう申しますか、私の家には祖先から伝わる一軸の絵巻物があり、その中には美しい女性の裸像が描かれています。伝え聞くところによれば、呉家の祖先が最愛の夫人に死別し、その姿を丹青に写し止めようと心を尽くして描き始めたのですが、どういうわけか、その亡骸を見るうちに狂乱してしまい、絵の半分にも及ばないうちに、早くも一片の白骨となってしまったのです。主人の嘆きは一方ならず、遂に狂気に陥ってしまいました。亡き夫人の妹、くれがし氏が様々に介抱していましたが、力及ばず、結局夫人と同じ道を辿ってしまったのです。その時、妹のくれがし氏は、狂った人の子を宿し、既に生み月に近い身でありましたが、同じ悲しみを抱えて、やがて命を終えようとしていたところを、ようやく取り止めたと聞いています。」

その折、筑前太宰府の観世音寺の仏体奉修のため、京から下ってきた勝空という客僧がいた。奉修の事を終えた後、行脚の途中でこのあたりに立ち寄った彼は、この事情を聞いて不憫に思ったのだろう。彼は我が家に泊まり、その巻物を披見し、仏前で引き摂結縁して懇に読経供養を行った後、裏庭にあった大栴檀の木を伐り、その赤肉を選んで、手づから弥勒菩薩の座像を刻み、その胎内に彼の絵巻物を納め、我が家の仏壇の本尊に安置した。以後、この仏壇の奉仕と、この巻物の披見は、我が家の女性のみが行うべきものであり、他の男子は近づくことを固く禁じて立ち去ったのです。

その後、狂気を抱えた人の子供が生まれました。彼はまるで玉のような男子で、何事もなくこの世に生を受け、成長して妻を迎え、我が家の名跡を継いでいきました。しかし、勝空上人の教えに従い、仏壇には他の人を近づけず、妻一人が閼伽や香華の供養を担当し、ただひたすらに現世の安穏と後生の善所を祈っていました。だが、狂人の血を受け継いでいたためか、彼もまた壮年に達する頃、子宝を授かるものの、妻が早世してしまうと、再び狂気に陥ってしまいました。

その後、代々の男子の中には、時折、事に障って狂気に陥る者が一人や二人現れました。その症状は常人とは異なり、時には女性を殺そうとしたり、女性の新しい墓に鋤や鍬を当てるなど、不穏な行動を繰り返しました。人々が止めようとすると、その者をも攻撃し、傷つけるだけでなく、自らも舌を噛んだり、首を吊って死んでしまうこともありました。代々続くこの恐ろしい現象は、まさに恐怖の極みでした。

こうした状況を目の当たりにした人々は、恐れおののき、危惧を抱かざるを得ませんでした。ある者は、男子の身でありながら、彼の絵巻物を見たことが祟りだと噂し、または不浄な女性が仏像に近づくことが障りだと疑いました。血縁を結ぶことを忌み嫌うあまり、我が家の血統が絶えてしまうのではないかと心配することが度々ありました。そのため、金銀を使って人を遠くから探し出し、なんとか名跡を守ろうとしましたが、近年になると、乞食に至るまで我が家の縁を語ることは、まるで舌を振るわせ、身を震わせるようなことになってしまいました。今や血縁者は全て絶え果て、私一人だけが残りました。特に私の兄二人は、次々と狂乱の状態に陥り、長兄は介隈の墓を掘り起こし、次兄は私を石で打とうとしました。その恐ろしい出来事の結果、二人とも早く命を落としてしまいました。そんな噂が高まる中、ほとんどの家族は私から離れ、長年使っていた者たちも、私を見てため息をつくばかりで、何も言わず、ただ寂しく、情けない状況に陥ってしまいました。

そんな折、唐津藩の家老職である雲井という人がこの事を耳にし、御三男の喜三郎という方を私の婿にし、名跡を継がせるという話が持ち上がりました。使いの者たちは喜びに沸き立ち、「こんな良い話はない」と互いに喜び合いましたが、その中で唯一、私を守り育ててくれた乳母だけは、嬉しそうな顔をせず、沈んだ様子でした。私がその理由を尋ねると、ため息をつきながらこう言いました。「これは決して喜ばしい話ではありません。あなたの夫として家に仕えていた者から漏れ聞いたところによれば、喜三郎という方は、雲井様の妾腹の子で、剣術に秀でた者ですが、若い頃から行いが穏やかではなく、長崎の御番に仕官していた際、遊女に溺れ、悪い仲間と交わり、道場を荒らし回り、茶屋を押し借りするなど、狼藉の限りを尽くして身を置く場所を失ってしまったようです。そんな折、密かに帰国したとのことですが、家中の誰もが嫁婿の望みを受け入れることはなく、まるで蛇や毛虫のように忌み嫌われていました。それでも、我が家の事情を聞きつけて、こうした話が持ち上がったのです。しかし、その真意は、事が済んだ後に家老の威光をもって、我が家の物を押領しようという企みだと聞いています。運命とは言え、力のないこととは言え、行く末の痛ましさを思うと、目が眩み、心が消えそうで、涙が流れました。私もどうしたらよいのか打ちひしがれていましたが、か弱い身ではどうしようもなく、心配し、悲しんでいた折、秋の収穫が終わり、少し落ち着いた今宵、彼の雲井喜三郎という方が、供人も連れず、羽織袴も着ずに、ただ一人で、思いもかけず我が家にやって来ました。

これはどうしたことかと皆が走り回り、酒や肴を用意する暇もなく、奥座敷にお招きしました。私も化粧を整えて席に出ましたが、彼の姿を見て驚きました。片方の顔は焼け爛れ、まるで土くれのようで、もう片方は眉が千切れ、目は白く出て、唇は斜めに歪んでおり、まさに鬼のような姿でした。さらに、どのようにして呼ばれたのか、酒気が回ってその恐ろしさに、身が震えました。なんとか耐え忍び、心も不安なままお酌をしていると、彼が私の手を取ってきました。その瞬間、私は思わず手を引いてしまい、盃の中の酒が彼の膝にこぼれ落ちてしまいました。すると、彼は突然酒乱の状態になり、私を押し止めようとする乳母を振り払ってしまいました。私はその隙に逃げ出し、やっとここまで来ましたが、これまで続いてきた我が家の不幸や、この身の不幸から逃れる方法もなく、ただ死ぬことだけを考えていましたが、こうして止められてしまいました。このままではただ尼になり、巡礼するしかないのかと、どこの方かはわかりませんが、どうかこの上の慈悲に、そのすべを教えていただきたいと、砂にひれ伏して声を潜めて祈るばかりでした。

虹汀はその話を聞き終え、しばらく考え込んだ後、乙女を扶け起こして言いました。「よし、私に術がある。今はそんなに嘆かないでください。まず、その絵巻物を広げて、あなたの因果を明らかにしましょう。」そう言って、六美女の手を引いて立ち去ろうとしたその時、松の陰から現れた半面鬼のような荒々しい武士が、何も言わずに虹汀に斬りかかりました。虹汀は修禅の機鋒をもって身を転じ、虚を斬らせ、大声で叫びました。その瞬間、武士は白刃を持って空を泳ぎ、数歩走った後、崖の端から踏み外し、月光が満ちる海に落ちて、水煙と共に消え去りました。

こうして虹汀は六美女を伴い、呉家に到り、家人と共に乳母の亡骸を取り収め、自ら法事を行い、他言を戒めました。そして仏間に入り、人を遠ざけ、本尊の弥勒仏の体からその絵巻物を取り出し、敬意を表して拝み、披見しました。その中には、美人たちの体が壊れ、膿が滲み出ている様子があり、ただ寒毛が立つばかりでした。虹汀は仏前に座り、精魂を鎮め、三昧に入ること十日余り、延宝二年の十一月晦日の朝、突然目を開いて言いました。

「凡夫の妄執を晴らすには念仏に勝るものはない。南無阿弥陀、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀、南無阿弥陀仏。」

虹汀は声高らかに三度詠み上げ、目の前の絵巻物を火炉に投げ入れた。瞬く間に、それは一片の煙となって消え去った。

こうして虹汀は心を静め、家族を集めて言った。「私は法力によって、呉家の悪因縁を断つことができました。この灰を仏像に納め、三界の万霊と共に供養します。そして、私は俗体となり、この家に婿として入り、未来の繁栄を願います。皆さんの思いがあれば、ぜひお聞かせください。」しかし、誰一人として意見を述べる者はいなかった。皆、国老雲井家の咎めを恐れていたのだ。

虹汀はその心情を察し、その日のうちに家族を労い、家屋や倉庫を封じて「公儀に返還します。呉坪太」と大きく書かれた木札を打ち立てた。金銀や書画の類だけを四駄に積み、高荷にして、屈強な男に運ばせた。彼自身は弥勒の仏像を背負い、呉家の系図を懐にし、六美女の手を引いて、翌日の明け方に浜崎を立ち出た。東の方へ向かう途中、延宝二年の臘月朔日、雪が降りしきる中、六美女の名に因んで、長い行路はまるで銀の屏風のように美しく輝いていた。

少し進むと、東の空が赤く染まり始めた頃、後ろから人の声が近づいてくるのが聞こえた。虹汀は振り返ると、二三十人の捕吏が近づいてきていた。その中には、海中に落ちた雲井喜三郎がいた。彼はどうやって蘇ったのか、白い鉢巻きに小具足、陣羽織、野袴を身にまとい、長刀を持って迫ってきた。「悪僧、動くな!」と大声で罵った。「ここはお前を大公儀の隠目付と思い、遠慮して刃を収めていたが、藩命を受けてお前の素性を探ったところ、画工を装って城下の地形をうかがい、法体を装って諸国を渡り、有徳の家を騙して金品を奪い、児女を誘拐して行方を晦ます不敵無頼の者だ。今は逃げ道はない。お前は当藩の物を奪う無法者だ。容赦なく捕まえろ!」と叫ぶと、同心たちも声を合わせて雪を蹴立てて迫ってきた。

一方には高い崖があり、もう一方には断崖が海に臨んでいた。背後には弱い女性たちと馬が控えている。逃げることもできないと思われたが、虹汀は全く騒ぐ様子もなく、背負っていた仏像を馬士に渡し、雪を払った六美女に持たせた。手に慣れた竹杖を突き、衣服を整え、珠数を指で転がしながら、静かに引き返して進み出た。その様子に、捕手たちは驚いて立ち尽くした。

その時、虹汀は大勢に向かって丁寧に一礼し、咳を一つして言った。「これは遠路お越しいただき、本当にご苦労様です。こんな不届き者を、これほどの大勢でお見送りいただけるとは、貴藩の政道の明らかさに感服いたします。せっかくのご厚意ですから、今少しだけ彼方の筑前領までお見送りいただければ、役目も滞りなく済み、無益な殺生も避けられ、貴藩の恥辱ともならないでしょう。この件についてお返事をいただければと思います。」と爽やかに微笑んだ。

一同はしばし呆然とした。すると、雲井喜三郎は顔を真っ赤にし、「お前の口から出た言葉がなんだ!」と怒鳴った。「今日は私の刀の錆にもならない。相手は一人だ。女以外は斬り捨てても構わない!」と叫び、刀を振り上げた。捕手たちも意気込んで応じたが、虹汀は冷静に竹の杖を左手に持ち、空手で一人の刃を奪い、続いて他の刃を払い落とし、周囲の武器を斬り捨てて道を開いた。

思いもかけぬ旅僧の手腕に、捕手たちは手をこまねいていた。雲井喜三郎は耐えきれず、「小癪な坊主め!」と叫び、刀を抜いて襲いかかってきたが、虹汀はその刀を投げ捨て、竹杖を軽々と持ち替えた。喜三郎の凶刃に接近し、一瞬の隙も見逃さず、冷静に対処した。喜三郎はその圧力に耐えかね、顔色を青ざめさせ、白い汗を流しながら喘いでいた。

虹汀はその様子を見て微笑み、「喜三郎、もう悟りを開いたのか。弥陀の利剣とはこの竹杖の心だ。不動の縛りとはこの親切の呼吸だ。どんなに優れた剣でも、虚実生死の境を超えない剣は、この一片の竹杖にも劣る。目の前の不可思議はこのようなものだ。疑うなら刀を捨て、悪心を翻して仏道に入るがいい。そうでなければ、一殺多生の理に任せ、御身を斬って両段となし、唐津藩の不祥を除くがよい。今こそ生死の境だ。地獄と天上の分かれ目の刹那だ。」と詰め寄った。

喜三郎はその言葉に動揺し、顔色を失い、血走った目で虹汀を見つめていた。だが、彼は再び勇気を奮い起こし、大刀を振り上げて斬りかかってきた。虹汀はそれを翻し、竹杖で喜三郎の眉間を打ち抜いた。喜三郎は目を回して飛び退き、横に払った虚に虹汀が飛び込むと、彼の腰に帯びた小刀の柄に手をかけた。虹汀は「さあ、望みに任せるぞ」と言い終わらぬうちに、喜三郎は大刀を振り上げ、仏のように仰け反り、右肩から血が噴き出し、雪を染めながら息絶えた。