閉じる

六 (3/3)

作 夏目漱石

「ご無沙汰しておりました」と、東風君が頭を下げる。彼の顔は、先日と同じく美しく輝いている。頭だけを見れば、まるで舞台の役者のようだが、白い小倉の袴を苦労して身にまとっている様子は、まさに榊原健吉の弟子としか思えない。彼の身体で普通の人間らしい部分は、肩から腰までの間だけである。

「いや、暑い中、よく出かけてきたね。さあ、こちらへどうぞ」と迷亭先生は、自分の家に招くように言った。「先生にはしばらくお目にかかりませんでした」「そうだ、確かこの春の朗読会以来だね。朗読会といえば、最近は盛況なのかね。その後、御宮には行かなかったのか。あれは美味しかったよ。僕は大いに拍手したけれど、君は気がついていたかい」「ええ、おかげさまで大いに勇気が出て、最後までやり遂げました」「次はいつ催しがあるのですか」と主人が尋ねる。「七八月はお休みして、九月には何か賑やかにやりたいと思っています。面白い趣向はありませんかね」「そうですね」と主人は気のない返事をする。「東風君、僕の創作を一つやらないか」と今度は寒月君が話しかける。「君の創作なら面白いだろうが、一体何を考えているのか」「脚本さ」と寒月君が強く押し出すと、案の定、三人は少し驚き、彼の顔を見つめた。「脚本は素晴らしい。喜劇かい、悲劇かい」と東風君が歩み寄ると、寒月先生はさらに澄ました顔で「いや、喜劇でも悲劇でもないさ。最近は旧劇や新劇がうるさいから、僕も一つ新しい形を作ってみたんだ。俳劇というものをね」「俳劇とはどんなものだい」「俳句の趣味を取り入れた劇を、俳劇という名前にしたんだ」と言うと、主人も迷亭も少し煙に巻かれたように控えている。「それで、その趣向は?」と東風君が尋ねる。「根が俳句の趣味から来ているから、あまり長ったらしくなく、毒気のないものがいいと思って一幕物にしておいた」「なるほど」「まず道具立てから話すが、これも極めてシンプルなのがいい。舞台の真ん中に大きな柳を一本植え付けて、その柳の幹から一本の枝を右の方に伸ばして、その枝に烏を一羽とまらせる」「烏がじっとしていればいいが」と主人が心配そうに呟いた。「何のことはない、烏の足を糸で枝に縛り付けておくんだ。それでその下に行水盥を出して、美人が横向きになって手拭を使っているんだ」「それは少しデカダンだね。第一、誰がその女になるんだい」と迷亭が尋ねる。「これもすぐにできます。美術学校のモデルを雇ってくるんです」「それは警視庁がうるさく言いそうだな」と主人はまた心配する。「だって興行さえしなければ問題ないじゃありませんか。そんなことを言ったら、学校で裸体画の写生なんてできっこありませんよ」「しかしあれは稽古のためだから、ただ見ているのとは少し違うよ」「先生方がそんなことを言ったら、日本もまだまだ駄目です。絵画も演劇も、同じ芸術です」と寒月君は大いに意気込む。「まあ議論はいいが、それからどうするのだい」と東風君が尋ねる。「そこへ花道から俳人の高浜虚子がステッキを持って、白い灯心入りの帽子を被り、透綾の羽織に薩摩飛白の尻端折りの半靴を履いて出てくる。着付けは陸軍の御用達のようだけれども、俳人だからなるべく悠々として、心の中では句案に余念がない体である必要がある。それで虚子が花道を行き切って、本舞台に懸かった時、ふと句案の眼を上げて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている。はっと思って上を見ると、長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生は大いに俳味に感動したと、思い入れが五十秒ほどあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。――どうだろう、こういう趣向は。気に入らないかね。君、御宮になるより虚子になる方がずっといいよ」と東風君は何だか物足りない顔をして「あまり、あっけないようだ。もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ」と真面目に答える。今まで比較的おとなしくしていた迷亭は、そういつまでも黙っているような男ではない。「たったそれだけで俳劇はすさまじいね。上田敏君の説によると、俳味とか滑稽というものは消極的で亡国の音だそうだが、敏君だけあってうまいことを言ったよ。そんなつまらないものをやってみなさい。それこそ上田君から笑われるだけだ。第一、劇だか茶番だか何だか、あまり消極的で分からないじゃないか。失礼だが寒月君はやはり実験室で珠を磨いている方がいい。俳劇なんて百作ったって二百作ったって、亡国の音じゃ駄目だ」と寒月君は少々憤慨して、「そんなに消極的でしょうか。私はなかなか積極的なつもりなんですが」と弁解し始める。「虚子がですね。虚子先生が女に惚れる烏かなと烏を捕えて女に惚れさせたところが大いに積極的だと思います」「これは新説だね。ぜひ御講釈を伺いたい」「理学士として考えてみると、烏が女に惚れるなんていうのは不合理でしょう」「ごもっとも」「その不合理なことを無雑作に言い放って、少しも無理に聞こえません」「そうかしら」と主人が疑った調子で割り込むが、寒月は一向に気にしない。「なぜ無理に聞こえないかというと、これは心理的に説明するとよく分かります。実を言うと、惚れるとか惚れないとかいうのは俳人その人に存する感情で、烏とは無関係なことです。ところがあの烏が惚れていると感じるのは、つまり烏がどうのこうのというわけじゃない、自分が惚れているからです。虚子自身が美しい女の行水しているところを見て、はっと思った瞬間にずっと惚れ込んだに違いありません。さあ、自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも俺と同じく参ってるなと勘違いをしたのです。勘違いには違いありませんが、そこが文学的でかつ積極的なところなんです。自分だけが感じたことを、断りもなく烏の上に拡張して、知らん顔をしてすましているところなんて、よほど積極的じゃありませんか。どうです先生」「なるほど、名論だね。虚子に聞かせたら驚くに違いない。説明だけは積極的だが、実際あの劇をやられた日には、見物人は確かに消極的になるよ。ねえ、東風君」「ええ、どうも消極過ぎるように思います」と真面目な顔をして答えた。

主人は少し談話の流れを変えたくなったようで、「どうです、東風さん、最近は何か傑作でもできましたか?」と尋ねた。東風君は「いえ、特にこれといったものはありませんが、近日中に詩集を出そうと思っていて、原稿を持ってきましたので、ぜひ批評をお願いしたいです」と言い、懐から紫色の袱紗を取り出した。その中から五十枚ほどの原稿用紙の束を取り出し、主人の前に置いた。

主人は真剣な顔をして原稿を見始めた。最初のページには、

「世の人に似ずあえかに見え給う

富子嬢に捧ぐ」

と二行が書かれていた。主人は少し神秘的な表情でしばらくそのページを無言で眺めていた。すると、横にいた迷亭が「何だい、新体詩か?」と覗き込んで、「やあ、捧げたね。東風君、富子嬢に捧げたのは立派だ」としきりに褒めた。主人はさらに不思議そうに「東風さん、この富子というのは本当に存在する女性なのですか?」と尋ねた。

「ええ、この前迷亭先生と一緒に朗読会に招待した婦人の一人です。実は近所に住んでいるのですが、先月から大磯に避暑に行っていて留守なんです」と真面目な顔で答えた。主人は「苦沙弥君、これが二十世紀なんだよ。そんな顔をしないで、早く傑作でも朗読しなさい。しかし、東風君、この捧げ方は少しまずかったね。この『あえかに』という言葉は、全体で何を意味すると思っているのかね?」と尋ねた。

「弱々しいとか、か弱いという意味だと思います」と東風君が答えると、主人は「なるほど、そうも取れないことはないが、本来の意味を言うと『危うい』ということだ。だから、僕ならこうは書かないね」と言った。

「どう書いたらもっと詩的になるのでしょうか?」と東風君が尋ねると、主人は「僕ならこう書くよ。『世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻の下に捧ぐ』とね。わずか三字の違いだけど、鼻の下があるのとないのとでは大きく印象が変わるよ」と説明した。東風君は納得できない様子だったが、無理に頷いた。

主人は無言のまま一ページをめくり、いよいよ巻頭の第一章を読み始めた。

「倦んじて薫ずる香裏に君の

霊か相思の煙のたなびき

おお我、ああ我、辛きこの世に

あまく得てしか熱き口づけ」

「これは少々僕には解しかねる」と主人はため息をつきながら迷亭に渡した。「これは少々振り過ぎている」と迷亭は寒月に渡した。寒月は「なるほど」と言って東風君に返した。

「先生が分からないのは当然です。十年前の詩界と今日の詩界は見違えるほど発展していますから。最近の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んでは到底理解できないものが多いので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮することがよくあります。全くインスピレーションで書くので、詩人は他には何の責任もないのです。注釈や解釈は学者がやることですから、私たちの方ではあまり気にしません。先日、友人の送籍という男が一夜という短編を書きましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に会って意図を尋ねてみたところ、当人もそんなことは知らないよと言って取り合わないのです。これが詩人の特徴かと思います」と東風君が続けた。

「詩人かもしれないが、随分妙な男ですね」と主人が言うと、迷亭は「馬鹿だよ」と簡潔に送籍君を一蹴した。東風君はまだ弁じ足りない様子で、「送籍は我々仲間の中でも特異ですが、私の詩もぜひその気持ちで読んでいただきたいのです。特に注目していただきたいのは、『辛きこの世』と『あまき口づけ』が対になっているところが私の苦心の跡です」と説明した。

「よほど苦心をなさった痕跡が見えますね」と主人が言うと、「あまいとからいと反照するところなんか、十七味調唐辛子調で面白い。全く東風君独特の技法で、敬意を表します」と迷亭が続けた。

主人は何を思ったのか、ふいと立ち上がり書斎の方へ向かい、やがて一枚の半紙を持って戻ってきた。「東風君の作品も拝見したので、今度は僕が短文を読んで、皆さんの批評をお願いしよう」と少し真剣な様子で言った。「天然居士の墓碑銘ならもう二、三度聞いたよ」と迷亭が言うと、「まあ、黙っていてください。東風さん、これは決して得意なものではありませんが、ほんの座興ですから聴いてください」と主人が言った。

「ぜひ伺いたいです」と寒月が言った。「ついでに聞きますよ。長い物じゃないでしょう?」と寒月が続けると、主人は「わずか六十余字です」と言って、いよいよ自作の名文を読み始めた。

「大和魂! と叫んで日本人が肺病のような咳をした」

「起こし得て突兀ですね」と寒月が褒めた。

「大和魂! と新聞屋が言う。大和魂! と掏摸が言う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」

「なるほど、これは天然居士以上の作だ」と今度は迷亭がそり返って見せた。

「東郷大将が大和魂を持っている。肴屋の銀さんも大和魂を持っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている」

「先生、そこに寒月も加えてください」と主人が言うと、主人は「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた」と続けた。

「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は?」

「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」

「先生、だいぶ面白いですが、ちょっと大和魂が多過ぎはしませんか?」と東風君が注意した。「賛成」と言ったのはもちろん迷亭である。

「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いたことはあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」

主人は一結杳然としたつもりで読み終えたが、さすがの名文もあまり短すぎるのと、主意がどこにあるのか分かりかねるので、三人はまだ続きがあると思って待っていた。しかし、いくら待っても、うんともすんとも言わないので、最後に寒月が「それぎりですか?」と尋ねると、主人は軽く「うん」と答えた。その「うん」は少し気楽すぎるように感じられた。

不思議なことに、迷亭はその名文に対して、いつものようにあまりおしゃべりをしなかった。しかし、しばらくして彼は向き直り、「君も短編を集めて一冊にして、誰かに捧げてみたらどうだ?」と提案した。主人は何気なく「君に捧げようか」と返すと、迷亭は「それは真平だ」とだけ答え、先ほど奥さんに見せびらかした鋏で爪を整え始めた。

寒月君は東風君に向かって、「君はあの金田の令嬢を知っているか?」と尋ねた。「この春、朗読会に招待してから、親しくなって、それ以来ずっと交際しているんだ。あの令嬢の前に出ると、なんだか特別な感情に打たれて、しばらくの間は詩を作ったり歌を詠んだりするのが楽しくて仕方がない。この集中にも恋の詩が多いのは、まさにあの異性の友人からインスピレーションを受けているからだと思う。だから、あの令嬢には心から感謝の意を表さなければならない。そこで、この機会を利用して、私の詩集を捧げることにしたんだ。昔から、女性に親友のいない者が立派な詩を書いたことはないそうだよ。」

「そうかなあ」と寒月君は、内心で笑いながら答えた。いくらおしゃべり好きの集まりでも、そう長くは続かないようで、談話の熱も次第に冷めていった。私も彼らの変わり映えのない雑談を一日中聞いている義務はないので、失礼して庭に出て蟷螂を探しに行くことにした。

梧桐の緑を縫うように、西に傾く日が斑に差し込み、幹にはつくつく法師が懸命に鳴いている。晩には、もしかしたら一雨が降るかもしれない。