六 (2/3)
作 夏目漱石
寒月君は少し句を切って言った。「何をそんなに心配することはないですよ。金田は私の珠を磨いていることをよく知っています。実は、二三日前に会ったときにも、事情をよく話してくれましたから。」
その言葉に、今まで三人の話を聞いていた細君が不審そうに尋ねた。「それでも金田さんは、家族全員が先月から大磯に行っているじゃありませんか。」
寒月君もこの質問には少し困った様子で、「それは妙ですね、どうしたんでしょうか」ととぼけた。そんな時に頼りになるのが迷亭君で、話が途切れた時や、気まずい時、眠くなった時、困った時、どんな時でも必ず横から飛び出してくる。
「先月大磯に行った人が、両三日前に東京で会うなんて神秘的ですね。いわゆる霊の交換と言いますか。相思の情が切ない時には、こういう現象がよく起こります。ちょっと聞くと夢のようですが、夢にしても現実より確かな夢です。奥さんのように、特に思いも思われもしない苦沙弥君のところに片付いて、恋の何たるかを理解できない方には、不審に思うのも無理はありませんが……」
「あら、何を証拠にそんなことをおっしゃるの?随分軽蔑なさるのね」と、細君は途中から迷亭に切り返した。「あなただって恋煩いなんてしたことはなさそうじゃないか」と、主人も細君に助け舟を出した。
「いや、僕の艶聞なんて、いくらあってもみんな七十五日以上前のことだから、君たちの記憶には残っていないかもしれないが、実はこれでも失恋の結果、この歳になるまで独身で暮らしているんだよ」と、彼は一同の顔を公平に見渡した。
「ホホホ、面白いこと」と言ったのは細君で、「馬鹿にしているのね」と庭の方を向いたのは主人だった。ただ寒月君だけは「その懐旧談を後学のために伺いたいものです」と、相変わらずにやにやしている。
「僕の話も大分神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、残念なことに先生は永眠されたから、実のところ話す張合もないんだ。しかし、せっかくだから打ち明けるよ。その代わり、最後までしっかり聴いてもらわなきゃいけないよ」と念を押して、いよいよ本題に入った。
「回顧すると、今から何年前だったかな……面倒だから、ほぼ十五六年前としておこう。」
「冗談じゃない」と主人は鼻からフンと息をした。「大変物覚えが悪いのね」と細君がからかった。寒月君だけは約束を守って一言も言わず、早く続きを聴きたいという様子を見せた。
「何でもある年の冬のことだが、僕が越後の国、蒲原郡筍谷を通って、蛸壺峠に差し掛かり、これからいよいよ会津領に出ようとしていたところだ。」
「妙なところだな」と主人がまた邪魔をする。
「黙って聴いていなさい。面白いから」と細君が制した。
「ところが、日は暮れ、道は分からず、腹は減り、仕方がないから峠の真ん中にある一軒屋を叩いて、これこれかようかようしかじかの次第だから、どうか泊めてくれと頼むと、『御安い御用です、さあ上がってください』と、裸蝋燭を僕の顔に差し出した娘の顔を見て、僕はぶるぶると震えたんだ。その時から、恋という曲者の魔力を切実に自覚したね。」
「おや、いやだ。そんな山の中にも美しい人がいるんでしょうか?」
「山だって海だって、奥さん、その娘を一目あなたに見せたいと思うくらいですよ。文金の高島田に髪を結いましてね。」
「へえー」と細君はあっけに取られている。
「入ってみると、八畳の真ん中に大きな囲炉裏が切ってあって、その周りに娘と娘の爺さんと婆さんと僕の四人が座ったんです。『さぞお腹が減っているでしょう』と言いますから、何でも良いから早く食べさせてくれと頼んだんです。すると爺さんが、『せっかくの御客さまだから、蛇飯でも炊いてあげよう』と言うんです。さあ、ここからがいよいよ失恋に取り掛かるところだから、しっかり聴いてください。」
「先生、しっかり聴くことは聴きますが、いくら越後の国でも冬に蛇がいるわけないでしょう。」
「うん、それは一応もっともな質問だよ。しかし、こんな詩的な話になると、そう理屈にばかり拘泥してはいられないからね。鏡花の小説には雪の中から蟹が出てくるじゃないか。」と言ったら、寒月君は「なるほど」と言ったきり、また謹聴の態度に戻った。
その頃の僕は、随分と悪食の隊長だった。蝗やナメクジ、赤蛙などはすっかり食べ飽きていたから、蛇飯は新鮮なごちそうだ。早速、爺さんに返事をして、御馳走になろうと決めた。爺さんは囲炉裏の上に鍋をかけて、その中に米を入れてグツグツ煮始めた。
不思議なことに、その鍋の蓋には大小十個ほどの穴が開いていて、そこから湯気がぷうぷうと吹き出していた。田舎にしてはなかなかの工夫だと感心していると、爺さんがふと立ち上がり、どこかへ出かけて行った。しばらくすると、大きな笊を小脇に抱えて帰ってきた。何気なくそれを囲炉裏のそばに置いたので、中を覗いてみると、長い奴が寒さに震えて、互いにとぐろを巻いて塊になっていた。
「もうそんな話はやめてよ。気持ち悪い」と、細君は眉をひそめる。「どうしてこれが失恋の大源因になるのか、なかなかやめられないよ」と僕は答えた。爺さんは鍋の蓋を左手に取り、右手でその長い奴を無造作に掴んで、いきなり鍋の中に放り込んだ。すぐに蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりは息を呑んだ。
「もうやめてよ。気味が悪い」と細君はしきりに怖がっていた。「もう少しで失恋になるから、しばらく辛抱していて」と僕は言った。すると、一分も経たないうちに、蓋の穴から一つの蛇の頭がひょいと出てきたのには驚いた。「やあ、出たな」と思っていると、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。あちらからもこちらからも出てきて、とうとう鍋の中は蛇の面だらけになってしまった。
「なんで、そんなに首を出すんだい?」と僕が尋ねると、「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとしているんだよ」と爺さんが答えた。やがて爺さんは、「もうよかろう、引っ張りなさい」と言うと、婆さんは「はあー」と答え、娘は「はい」と挨拶をして、みんなで蛇の頭を持ってぐいと引いた。肉は鍋の中に残るが、骨だけはきれいに離れて、頭を引くと長いのが面白いように抜け出てきた。
「蛇の骨抜きですね」と寒月君が笑いながら聞くと、「全くの骨抜きだ、器用なことをやるじゃないか」と僕は言った。それから蓋を取り、杓子で飯と肉を混ぜて、「さあ、召し上がれ」と来た。
「食ったのかい?」と主人が冷淡に尋ねると、細君は苦い顔をして「もうやめてよ、胸が悪くてご飯も何も食べられやしない」と愚痴をこぼした。「奥さんが蛇飯を召し上がらないから、そんなことをおっしゃるけれど、一度食べてご覧なさい。あの味は生涯忘れられませんよ」と僕は言った。「おお、いやだ、誰が食べるもんですか」と細君は拒否した。
そこで、充分に御馳走を頂き、寒さも忘れ、娘の顔も遠慮なく見ることができた。もう思い残すことはないと考えていると、「お休みなさいまし」と言われ、旅の疲れもあったので、素直に横になった。すると、すまん訳だが、前後を忘れて寝てしまった。
「それからどうなったの?」と今度は細君が催促する。「それから明朝になって目を覚ますと、失恋でさあ」と僕は答えた。「どうなさったんですか?」と細君が尋ねる。「いえ、別にどうもしませんがね。朝起きて巻煙草をふかしながら裏の窓から見ていると、向こうの筧のそばで、薬缶頭が顔を洗っているんですよ」と僕は続けた。
「爺さんか婆さんか?」と主人が聞く。「それが、僕にも識別しにくかったから、しばらく見ていて、その薬缶がこちらを向く段になって驚いたんです。それが、僕の初恋をした昨夜の娘だったんですから」と僕は言った。「だって、娘は島田に結っているとさっき言ったじゃないか」と主人が反論する。「前夜は島田さ、しかも見事な島田さ。ところが翌朝は丸薬缶さ」と僕は答えた。
「人を馬鹿にしている」と主人は例によって天井を見上げた。「僕も不思議の極みで、内心少々怖くなったから、なお余所で様子を窺っていると、薬缶はようやく顔を洗い終わって、傍に置いてあった高島田の鬘を無造作に被って、すましてうちに入って行った。なるほどと思ったが、その時から、とうとう失恋の果敢なき運命を背負う身となってしまった」と僕は続けた。
「くだらない失恋もあったもんだ。ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と僕は寒月君に向かって迷亭君の失恋を評した。寒月君は「しかし、その娘が丸薬缶でなくてめでたく東京へでも連れて帰ったら、先生はなお元気かもしれませんよ。とにかく、せっかくの娘が禿であったのは千秋の恨みですね。それにしても、そんな若い女がどうして毛が抜けてしまったんでしょう」と言った。
「僕もそれについては考えたが、全く蛇飯を食い過ぎたせいに違いないと思う。蛇飯てえ奴はのぼせるからね」と僕は答えた。「しかしあなたは、どこも何ともなくて結構でございましたね」と寒月君が言う。「僕は禿にはならずに済んだが、その代わりにこの通り、その時から近眼になりました」と言いながら、金縁の眼鏡をとってハンカチで丁寧に拭いた。
しばらくして、主人は思い出したように「全体、どこが神秘的なんだい?」と念のために聞いてみた。「あの鬘はどこで買ったのか、拾ったのか、どう考えても未だに分からないから、そこが神秘さ」と迷亭君はまた眼鏡を鼻の上にかけた。「まるで噺家の話を聞くようですね」と細君が批評した。
迷亭の駄弁もこれで一段落を告げたから、もうやめるかと思いきや、先生は猿轡でも嵌められないうちはとうてい黙っていることができない性らしく、また次のようなことをしゃべり出した。
「僕の失恋は苦い経験だけど、あの時、あの薬缶を知らずに手に入れてしまったら、人生の最後まで目障りになるから、よく考えないといけないよ。結婚なんて、いざという時になって、思わぬところに傷口が隠れていることがあるからね。寒月君も、そんなに憧れたり、一人で悩んだりしないで、しっかり気を落ち着けて珠を磨くといいよ」と、少し異論を唱えるように言うと、寒月君は「ええ、なるべく珠ばかり磨いていたいんですが、向こうがそうさせてくれないから、困ってしまいます」とわざと辟易した顔をする。
「そうだ、君なんかは先方が騒ぎ立てるけど、中には滑稽な話もあるよ。あの図書館に小便をしに来た老梅君なんか、すごく奇妙なことをしたからね」と主人が興味を持って尋ねる。「なあに、こういう訳さ。先生が昔、静岡の東西館に泊まったことがあるんだ。たった一晩だけど、その晩にすぐにそこの下女に結婚を申し込んだんだ。僕も随分呑気だけど、あれほどには進化していないよ。もっとも、その時にはあの宿屋に御夏さんという有名な美人がいて、老梅君の部屋に出たのがちょうどその御夏さんだから、無理もないけどね」と話す。
「無理がないどころか、君の何とか峠とまるで同じじゃないか」と主人が言う。「少し似ているね。実を言うと、僕と老梅とはそんなに差がないからな。とにかく、その御夏さんに結婚を申し込んで、まだ返事を聞かないうちに水瓜が食べたくなったんだがね」「何だって?」と主人が不思議そうに聞く。主人だけでなく、細君も寒月も、首をひねって考え込む。
迷亭は気にせずどんどん話を進める。「御夏さんを呼んで、静岡に水瓜はあるかと聞くと、御夏さんが、静岡には水瓜くらいはありますよと言って、御盆に水瓜を山盛りにして持ってきた。そこで老梅君はそれを食べたそうだ。山盛りの水瓜を全部平らげて、御夏さんの返事を待っていたら、返事が来ないうちに腹が痛くなって、うーんうーんと唸っていたんだけど、全然効き目がないから、また御夏さんを呼んで、今度は静岡に医者はいるかと聞いたら、御夏さんがまた、静岡には医者くらいはいますよと言って、天地玄黄とかいう千字文のような名前の医者を連れてきた。翌朝になって、腹の痛みもそのおかげで治ってありがたいと思い、出発の十五分前に御夏さんを呼んで、昨日申し込んだ結婚の返事を尋ねると、御夏さんは笑いながら、静岡には水瓜もあります、医者もいますが、一夜作りの嫁はありませんよと言って出て行ったきり、顔を見せなかったそうだ。それから老梅君も僕と同じように失恋して、図書館には小便をしに来るだけになったんだ。考えると、女は罪な存在だよ」と言うと、主人がいつになく同意して「本当にそうだ。先日、ミュッセの脚本を読んだら、その中の人物がローマの詩人を引用してこんなことを言っていた。――羽より軽い者は塵である。塵より軽いものは風である。風より軽い者は女である。女より軽いものは無である。――よく言い当てているだろう。女なんて仕方がない」と妙なところで力を込める。
これを聞いた細君は納得しない。「女が軽いのがいけないとおっしゃるけれども、男が重いのも良いことはないでしょう」「重い、どんなことだ」「重いと言うのは重いことですわ、あなたのようなのです」「俺がなんで重い」と妙な議論が始まる。迷亭は面白そうに聞いていたが、やがて口を開いて「そうやって赤くなって互いに言い争うところが夫婦の真実というものかな。どうも昔の夫婦なんてものはまるで無意味だったに違いない」と、ひやかすのか褒めるのか曖昧なことを言ったが、それでやめておいても良いことを、また例の調子で布衍して、次のように述べた。
「昔は亭主に口答えなんかした女は一人もいなかったと言うが、それなら、黙っている女房を持っているのと同じことで、僕なんかは全くありがたくない。やっぱり奥さんのように、あなたは重いじゃありませんかとか何とか言われてみたいね。同じ女房を持つくらいなら、たまには喧嘩の一つや二つしないと退屈でしようがないからな。僕の母なんかは、おやじの前では「はい」と「はい」で持ち切っていたものだ。そうして二十年も一緒になっているうちに、寺参り以外に外に出たことがないと言うんだから情けないじゃないか。もっとも、そのおかげで先祖代々の戒名は全部暗記している。男女間の交際だってそうさ、僕の子供の頃なんかは、寒月君のように意中の人と合奏したり、霊の交換をやって朦朧体で出会ったりすることはとうていできなかった」「御気の毒様で」と寒月君が頭を下げる。「本当に御気の毒さ。しかもその頃の女が必ずしも今の女より品行がいいとも限らないからね。奥さん、最近は女学生が堕落したとか何とか騒がれていますが、昔はこれよりもひどかったんですよ」「そうでしょうか」と細君は真面目に言う。「そうですとも、出鱈目じゃない、ちゃんと証拠があるから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も覚えているかもしれないが、僕たちが五六歳の頃までは、女の子を唐茄子のように籠に入れて天秤棒で担いで売っていたもんだ、ねえ君」「僕はそんなことは覚えていない」「君の国じゃどうか知らないが、静岡では確かにそうだった」「まさか」と細君が小さな声を出すと、「本当ですか」と寒月君が本当らしからぬ様子で尋ねる。
「本当だよ。実際、僕の父が一度、女の子の値段を付けたことがあるんだ。その時、僕は六歳くらいだったかな。父と一緒に油町から通町へ散歩に出かけると、向こうから大きな声で『女の子はよしかな、女の子はよしかな』と叫んでいる男に出くわした。
ちょうど二丁目の角に差し掛かると、伊勢源という呉服屋の前でその男に遭遇した。伊勢源は間口が十間もあり、五つの蔵が並ぶ静岡で一番の呉服屋だ。今度行ったら、ぜひ見てみてほしい。今でもその立派な姿は残っている。番頭の甚兵衛は、いつも母が三日前に亡くなったかのような顔をして帳場に控えている。彼の隣には、初さんという二十四、五歳の若い男が座っているが、初さんもまた雲照律師に帰依して、三七二十一日の間、蕎麦湯だけで過ごしたという青白い顔をしている。初さんの隣には長どんがいて、彼は昨日の火事で焼き出されたかのように、愁いを帯びて算盤に身を預けている。
「君は呉服屋の話をしているのか、それとも人売りの話をしているのか?」と誰かが言った。「そうそう、人売りの話をしていたんだっけ。実はこの伊勢源にも非常に奇妙な話があるんだけど、それは今日は省いて、人売りの話だけにしよう」と僕が言うと、「人売りもついでにやめた方がいい」と返される。
「どうして?これは二十世紀の今日と明治初年頃の女子の品性を比較する上で、大いに参考になる材料だから、そんなに簡単にはやめられないよ」と僕は言った。
そして、父と伊勢源の前まで来ると、例の人売りが父を見て『旦那、女の子の仕舞物はどうですか?安く負けておきますから、買ってください』と言いながら天秤棒を下ろし、汗を拭いていた。見ると、籠の中には前に一人、後ろに一人、どちらも二歳くらいの女の子が入っていた。
父はその男に向かって『安ければ買ってもいいが、もうこれっきりかい?』と尋ねると、男は『ええ、残念ながら今日は全部売り尽くして、たった二つになってしまいました。どちらでもお好きな方をお取りください』と言いながら、女の子を両手で持ち上げて、父の鼻の先に差し出した。父はぽんぽんと頭を叩いて見て、『ははあ、かなりな音だ』と言った。
それから本格的に交渉が始まり、散々値切った末に、父が『買ってもいいが、品は確かだろうな?』と尋ねると、男は『ええ、前の子はいつも見ていますから間違いはありませんが、後ろに担いでいる方は、何しろ目がないんですから、もしかしたらひびが入っているかもしれません。こちらの方なら受け合えない代わりに、値段を引いておきます』と言った。
そのやり取りを今でも覚えているが、その時、子供心に女というものは本当に油断ならない存在だと思ったよ。しかし、明治三十八年の今日、こんな馬鹿な真似をして女の子を売り歩く者はいないし、目を放して後ろに担いでいる方が危険だなんて話も聞かないようだ。だから、僕の考えでは、やはり西洋文明のおかげで女の品行もかなり進歩したのだろうと断定するんだが、どう思う、寒月君?」
寒月君は返事をする前に、まず大きな咳を一つしてから、わざと落ち着いた低い声でこう言った。「最近の女性たちは、学校の行き帰りや合奏会、慈善会、園遊会などで、自分を売り込むように振る舞っていますから、そんな八百屋の余り物を雇って、女の子たちが下品な依頼販売をする必要はありません。人間の独立心が発達してくると、自然とこうなるものです。年配の人たちは余計な心配をして、何とかこうとか言いますが、実際にはこれが文明の流れですから、私はとても喜ばしい現象だと、ひそかに思っています。買う側も、品物が確かかどうかなんて聞くような野暮なことをする人はいませんから、その点は安心です。また、この複雑な世の中で、そんな手間をかける日には限りがありませんからね。五十になっても六十になっても、亭主を持つことも嫁に行くこともできやしません。」
寒月君は、二十世紀の青年らしく、当世流の考えを大いに語った後、敷島の煙をふうっと迷亭先生の方に吹きかけた。迷亭は、敷島の煙くらいで辟易する男ではない。「仰せの通り、今の女生徒や令嬢たちは、自尊心と自信に満ちていて、肉体も精神も男子に負けないところが本当に素晴らしい。僕の近所の女学校の生徒たちなんて、すごいよ。筒袖を着て鉄棒にぶら下がる姿には感心する。二階の窓から彼女たちの体操を見ていると、古代ギリシャの女性たちを思い出すよ。」
「またギリシャか」と主人が冷笑しながら言うと、「美しいものは大抵ギリシャに由来するから仕方がない。美学者とギリシャは決して切り離せないよ。特に、あの色黒の女学生が一心不乱に体操をしている姿を見ると、いつもAgnodiceの逸話を思い出すんだ」と、物知り顔で話し続けた。
「また難しい名前が出てきましたね」と寒月君はにやにやしながら言った。「Agnodiceは素晴らしい女性だよ、実に感心した。あの時代、アテネの法律では女性が産婆をすることを禁じていた。不便なことだ。Agnodiceだってその不便さを感じていたに違いない。」
「何だい、その――何とかいうのは?」と寒月君が尋ねる。
「女性の名前だよ。この女性は考えに考えて、女性が産婆になれないのは情けない、不便極まりないと思い、どうにかして産婆になりたいと三日三晩考え込んだ。ちょうど三日目の明け方、隣の家で赤ん坊の泣き声を聞いて、そうだ!とひらめいて、すぐに長い髪を切り、男の服を着て、Hierophilusの講義を受けに行った。無事に講義を終えて、いよいよ産婆を開業した。ところが、奥さんが流行って、あちらでもこちらでも赤ん坊が生まれ、その世話を全部Agnodiceがしたから、大変儲かった。しかし、人間万事塞翁が馬、七転び八起き、弱り目に祟り目で、ついにその秘密が露見し、御上の御法度を破ったことで、重い罰を受けそうになったんだ。」
「まるで講釈を聞いているようですこと」と寒月君が言う。
「なかなか面白いでしょう。しかし、アテネの女性たちが一同に連署して嘆願したので、時の御奉行も木で鼻を括ったような挨拶もできず、結局Agnodiceは無罪放免となり、これからはたとえ女性であっても産婆営業が自由であるという御布令が出て、めでたく事が落ち着いたんだ。」
「よくいろいろなことを知っていらっしゃるのね、感心します。」
「ええ、大体のことは知っていますよ。知らないのは自分の愚かなことくらいなものです。しかし、それも薄々は知っています。」
「ホホホホ、面白いことばかり……」と細君が笑顔を崩していると、格子戸のベルが、最初に鳴ったときと同じ音を立てて鳴った。「おや、またお客様だ」と細君は茶の間へ引き下がる。細君と入れ違いに座敷に入ってきたのは、知っている越智東風君だった。
ここに東風君が来れば、主人の家に出入りする変人たちはほぼ全て揃ったと言っても過言ではない。これで不足を言うのはもったいない。運悪く他の家に飼われたら、生涯人間の中にこうした先生方が一人でもいることに気づかずに死んでしまうかもしれない。幸いにも、苦沙弥先生の門下の猫として、朝夕虎皮の前に侍っているので、先生はもちろん、迷亭や寒月、さらには東風といった、広い東京にさえあまり例のない豪傑たちの動きや言動を寝ながら見ることができるのは、私にとって千載一遇の光栄である。おかげで、この暑い中でも毛皮に包まれているという苦しみを忘れ、楽しく半日を過ごすことができるのは、本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。どうせこれだけ集まれば、何か面白いことが起こるだろうと、襖の陰から静かに見守ることにした。