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六 (1/3)

作 夏目漱石

この暑さでは、猫でさえも耐えきれない。イギリスのシドニー・スミスという人が、皮を脱ぎ、肉を脱ぎ、骨だけになって涼みたいと苦しんでいたという話を思い出す。骨だけにならなくてもいいから、せめてこの淡い灰色の斑入りの毛皮だけでも洗いたい、あるいはしばらくの間、他のものに入れておきたい気分だ。

人間から見れば、猫は年中同じ顔をしていて、春夏秋冬、一枚看板で生きているように見えるかもしれない。しかし、猫だって暑さや寒さを感じる。たまには水浴びでもしたいと思うこともあるが、この毛皮の上からお湯をかけたら、乾かすのが大変だ。だから、今まで一度も洗い湯に入ったことはない。時には扇子を使ってみたいとも思うが、どうしても握ることができないから仕方がない。

そう考えると、人間は贅沢な生き物だ。生で食べるべきものをわざわざ煮たり、焼いたり、酢に漬けたり、味噌をつけたりして、互いに楽しんでいる。着物だってそうだ。猫のように一年中同じものを着続けるのは、彼らにとっては無理かもしれないが、あんなに多様なものを皮膚の上に載せて暮らさなくてもいいはずだ。羊や蚕、綿畑の恩恵を受けるのは、贅沢が無能の結果だと言っても過言ではない。

衣食は大目に見て許すとしても、生存に直接関係のないところまでこの調子で押し進めるのは全く理解できない。そもそも、毛は自然に生えるものだから、放っておくのが一番簡単で本人にとっても良いはずだ。それなのに、人間は無駄に手をかけて様々な格好を作り出して得意になっている。坊主と自称する者たちは、いつも頭を青く染めている。暑いとその上に日傘をかぶり、寒いと頭巾で包む。これでは何のために青い髪にしているのか、その意図がわからない。

また、櫛という無意味な道具を使って頭の毛を左右に分けて喜んでいる者もいる。等分にしないと、七分三分の割合で頭蓋骨の上に人工的な区分を作ってしまう。中には、その仕切りがつむじを越えて後ろまで行っている者もいる。まるで偽物の芭蕉の葉のようだ。次には、頭を平らに刈って左右を真っ直ぐに切り落とす。丸い頭に四角い枠をはめているから、植木屋が作った杉垣根のようにしか見えない。さらに五分刈り、三分刈り、一分刈りまであるというから、最終的には頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈り、マイナス三分刈りという新しい流行が生まれるかもしれない。

とにかく、そんなに自分を苦しめてどうするつもりなのか理解できない。そもそも、足が四本あるのに二本しか使わないのは贅沢だ。四本で歩けばそれだけ楽なのに、いつも二本だけで済ませ、残りの二本は無駄にぶら下げているのは馬鹿げている。こうして見ると、人間は猫よりもずっと暇で、退屈しのぎにこんな無駄なことを考え出して楽しんでいるようだ。ただ、面白いのは、この暇人たちが忙しい忙しいと周りに言いふらし、その顔色が本当に忙しそうで、悪くすると忙しさに飲み込まれてしまうのではないかと思えるほどだ。

彼らの中には、私を見て「こんな風になったら楽だろう」と言う者もいるが、気楽であればそれでいい。そんなにせかせかしてほしいわけではない。自分で勝手に用事を増やして苦しいと嘆くのは、自分で火を焚いて暑い暑いと言っているようなものだ。猫だって、頭の刈り方を二十通りも考え出す日には、こんなに気楽ではいられないだろう。気楽になりたければ、私のように夏でも毛皮を着て過ごす修行をすればいい。

とは言え、やはり少し暑い。毛皮では本当に熱すぎる。

こんな状態では、昼寝さえもできない。何か面白いことはないかなと、長い間人間社会を観察していなかったから、今日は久しぶりに彼らが楽しんでいる様子を見ようかと思ったが、残念ながら主人はこの点において非常に猫に近い性分だ。昼寝は私に劣らずしっかりやるし、特に暑中休暇が終わってからは、何一つ人間らしい仕事をしないので、いくら観察しても全く面白みがない。

こんな時に迷亭が来ると、胃弱性の皮膚も少しは反応して、しばらくは猫から離れることができるだろうに、先生も来てもいい時だと思っていると、誰かが風呂場でざあざあ水を浴びている音が聞こえてくる。水を浴びる音だけではなく、時折大きな声で「いや結構」「どうも良い心持ちだ」「もう一杯」と家中に響き渡る声を出している。主人の家に来て、こんな大きな声で無作法な真似をする者は他にはいない。迷亭に違いない。

いよいよ来たな、これで今日の半日は潰せると思っていると、先生は汗を拭きながら肩を入れて、いつものように座敷にずかずか上がってきて、「奥さん、苦沙弥君はどうしました」と呼びかけながら帽子を畳の上に投げ出す。細君は隣の部屋で針箱のそばに突っ伏して気持ちよく寝ているところに、ワンワンと何か鼓膜に響くような音がしたので、驚いて目を覚まし、ぼんやりと座敷に出てくると、迷亭が薩摩上布を着て勝手に陣取って、しきりに扇を使っているのだった。

「いらっしゃいませ」と彼女は言ったが、少し慌てた様子で「全然存じ上げませんでした」と、鼻の頭に汗をかきながらお辞儀をした。「いえ、今来たばかりなんですよ。風呂場で水を掛けてもらって、ようやく生き返ったところです。暑いですね」と彼は言った。

「この数日は、じっとしているだけでも汗が出るくらいで、本当に暑いです。お変わりはありませんか?」と彼女は鼻の汗を拭うこともせずに尋ねた。「ええ、ありがとう。暑いくらいでそんなに変わりはしませんが、この暑さは特別ですね。体がだるくて」と彼は続けた。

「私なんて、昼寝をしたことがないのですが、こんなに暑いとつい……」と彼女が言うと、「やりますかね。いいですよ。昼寝をして、夜も寝られれば、こんなに素晴らしいことはないですよ」と彼はのんきに返した。しかし、それだけでは物足りないようで、「私なんか、寝たくない質でね。苦沙弥君のように来るたびに寝ている人を見ると羨ましいですよ。もっとも、胃が弱い私にはこの暑さは堪えますからね。丈夫な人でも、今日は首を肩の上に載せているのが退屈でさ」と、迷亭君はいつになく首の処置に困っていた。

「奥さんは、首の上にまだ何か載せているものがあるから、座ってはいられないでしょう。髷の重みだけでも横になりたくなりますよ」と彼が言うと、彼女は今まで寝ていたのが髷の形から見えてしまったと思い、「ホホホ、口が悪い」と言いながら頭をいじり始めた。

迷亭はそんなことには気にせず、「奥さん、昨日は屋根の上で玉子のフライをしてみましたよ」と言った。「フライをどうなさったんですか?」と彼女が尋ねる。「屋根の瓦があまりにも見事に焼けていたので、ただ置くのももったいないと思って、バターを溶かして玉子を落としたんです」と彼は続けた。「あらまあ」と彼女は驚いた。

「ところが、やっぱり天日は思うようにはいきませんでした。なかなか半熟にならないので、下に降りて新聞を読んでいたら客が来て、つい忘れてしまって、今朝になって急に思い出して、もう大丈夫だろうと上がってみたら……」と彼が言うと、「どうなっていました?」と彼女が尋ねた。「半熟どころか、すっかり流れてしまいました」と彼は答えた。「おやおや」と彼女は驚きながら眉をひそめた。

「しかし、土用中あんなに涼しくて、今頃から暑くなるのは不思議ですね」と彼女が言うと、「本当にそうですね。先日は単衣では寒いくらいでしたのに、一昨日から急に暑くなりましたから」と彼は返した。「蟹なら横に這うところですが、今年の気候は後ろに戻ったりするんですよ。倒行して逆施すというようなことを言っているかもしれません」と彼が言うと、「なんですか、それは?」と彼女が尋ねた。「いえ、何でもないのです。この気候の逆戻りはまるでハーキュリスの牛のようです」と彼は言ったが、彼女には分からなかったようだ。しかし、先ほどの倒行して逆施すで少し懲りていたため、今度はただ「へえー」と言っただけで問い返さなかった。

これを問い返されないと、迷亭はせっかく持ち出した話が無駄になってしまう。「奥さん、ハーキュリスの牛をご存知ですか?」と彼が尋ねると、「そんな牛は知りませんわ」と彼女が答えた。「ご存じないですか? ちょっと講釈をしましょうか」と彼が言うと、彼女もそれには及びませんとも言いかねたので、「ええ」と答えた。「昔、ハーキュリスが牛を引っ張ってきたんです」と彼が言うと、「そのハーキュリスというのは牛飼いですか?」と彼女が尋ねた。「牛飼いじゃありませんよ。牛飼いやいろはの亭主じゃありません。その頃はギリシャにまだ牛肉屋が一軒もなかった時のことですから」と彼が説明した。「あら、ギリシャのお話なの? それなら、そうおっしゃればいいのに」と彼女は言った。

「だってハーキュリスじゃありませんか」と彼が言うと、「ハーキュリスならギリシャなんですか?」と彼女が尋ねた。「ええ、ハーキュリスはギリシャの英雄でさあ」と彼が答えた。「どうりで、知らないと思いました。それでその男がどうしたんですか?」と彼女が興味を持って尋ねる。「その男がね、奥さん、見たように眠くなってぐうぐう寝ているんです」と彼が言うと、「あらいやだ」と彼女が反応した。

「寝ている間に、ヴァルカンの子が来ましてね」と彼が続ける。「ヴァルカンって何ですか?」と彼女が尋ねた。「ヴァルカンは鍛冶屋ですよ。この鍛冶屋の子がその牛を盗んだんです。ところが、牛の尻尾を持ってぐいぐい引いて行ったもんだから、ハーキュリスが目を覚まして牛やーい、牛やーいと尋ねて歩いても分からないんです。分からないはずで、牛の足跡をつけたって前の方へ引いて行ったんじゃありませんから、後ろへ後ろへと引きずって行ったんですからね。鍛冶屋の子にしては大したものですよ」と迷亭はすでに天気の話を忘れて、話を続けた。

「ところで、御主人はどうしましたか? 相変わらず昼寝ですかね。昼寝も中国の詩に出てくると風流ですが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。毎日少しずつ死んでいるようなものですから、奥さん、御手数ですがちょっと起こしていただけませんか?」と彼が催促すると、彼女も同感のようで「ええ、本当にあれでは困ります。第一、あなた、体が悪くなるばかりですから。今ご飯をいただいたばかりなのに」と立ちかけると、迷亭は「奥さん、ご飯といえば、僕はまだご飯をいただいていないんですが」と平気な顔をして言った。「おやまあ、時分どきなのに全然気が付きませんで……それじゃ何もありませんが、お茶漬けでも」と彼女が言うと、「いえ、お茶漬けなんかいただかなくてもいいですよ」と彼が答えた。「それでも、あなた、どうせ口に合うようなものはありませんが」と彼女が少し皮肉を言うと、迷亭は悟ったように「いえ、お茶漬けでもお湯漬けでもご免蒙ります。今途中でご馳走を用意してきましたから、それを一つここでいただきますよ」と言った。彼女はただ一言「まあ!」と驚いたが、その「まあ」の中には驚きと気を悪くしたこと、手間が省けてありがたいという気持ちが混ざっていた。

主人がいつになくやかましく騒いでいるので、迷亭は寝かけていたところを起こされ、ふらふらと書斎から出てきた。「相変わらずうるさい男だ。せっかくいい気分で眠ろうとしていたのに」と欠伸をしながら仏頂面をする。主人は「いや、目が覚めたかい。鳳眠を驚かせてしまって申し訳ない。でも、たまにはいいだろう。さあ、座りなさい」と、どちらが客かわからない挨拶をする。

迷亭は無言のまま座り、寄木細工の巻煙草入れから「朝日」を一本取り出して吸い始めた。ふと、向かいの隅に転がっている自分の帽子に目をつけ、「君、帽子を買ったね」と言った。迷亭はすぐに「どうだい」と自慢げに帽子を主人とその妻の前に差し出す。「まあ、きれいだこと。大変目が細かくて柔らかいんですね」と細君はしきりに撫で回す。「奥さん、この帽子は重宝ですよ、どんなことでも言うことを聞きますから」と拳を固めてパナマの横腹をぽかりと叩くと、なるほど拳ほどの穴が開いた。細君が「へえ」と驚く間もなく、今度は拳を裏側に入れてうんと突っ張ると、釜の頭がぽかりと尖がる。次には帽子を取って、つばを両側から圧し潰して見せる。潰れた帽子は、麺棒で延ばした蕎麦のように平たくなる。それを片端から蓆で巻くようにぐるぐる畳む。「どうです、この通り」と丸めた帽子を懐中に入れて見せる。「不思議ですね」と細君は、まるで帰天斎正一の手品でも見物しているかのように感嘆する。迷亭もその気になったようで、右から懐中に収めた帽子をわざと左の袖口から引っ張り出して「どこにも傷はありません」と元通りに直し、人差し指の先に釜の底を載せてくるくると回す。

もう休めるかと思ったら、最後にぽんと後ろへ放り投げ、その上に堂々と尻餅を突いた。「君、大丈夫かい」と主人さえ心配そうな顔をする。細君はもちろん心配して「せっかく見事な帽子を壊してしまったら大変ですから、もういい加減にした方がいいでしょう」と注意する。得意なのは持ち主だけで、「ところが壊れないから面白いんですよ」と、くちゃくちゃになった帽子を尻の下から取り出し、そのまま頭に載せると、不思議なことに、頭の形にたちまち回復する。「実に丈夫な帽子ですね、どうしてでしょう」と細君がますます感心すると、「何も特別なことはありません、元からこういう帽子なんです」と迷亭は帽子を被ったまま細君に返事をする。

「あなたも、あんな帽子を買ったらいいでしょう」としばらくして細君は主人に勧めかけた。「だって苦沙弥君は立派な麦藁のを持っているじゃありませんか」「ところが、先日子供があれを踏み潰してしまいまして」「おやおや、それは残念なことをしましたね」「だから今度はあなたのような丈夫できれいなのを買ったらいいと思いまして」と細君はパナマの値段を知らないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」としきりに主人に勧告している。

迷亭君は今度は右の袂の中から赤いケース入りの鋏を取り出して細君に見せる。「奥さん、帽子はそのくらいにしてこの鋏を見てください。これがまたすごく重宝なもので、これで十四通りに使えるんです」この鋏が出ないと主人は細君のためにパナマ責めになるところだったが、幸い細君の持つ好奇心のおかげで、この厄運を免れたのは迷亭の機転というよりもむしろ運の良さだと私は思った。「その鋏がどうして十四通りに使えるのですか」と聞くや否や、迷亭君は大得意な調子で「今、一つ一つ説明しますから、聞いていてください。いいですか。ここに三日月形の欠け目があります。ここに葉巻を入れてぷつりと口を切るんです。それからこの根にちょっと細工があって、これで針金をぽつぽつやりますね。次には平たくして紙の上に横に置くと定規の用をします。また刃の裏には目盛りがしてあるから物差しの代用もできます。こちらの表にはヤスリが付いていて、これで爪を磨きます。うんと突き込んでこじ開けると、大抵の釘付の箱なんかは苦もなく蓋が取れます。まったく、こちらの刃の先は錐にもなります。ここの部分は書き損じの字を削る場所で、ばらばらに離すとナイフにもなります。一番最後に――さあ奥さん、この一番最後が大変面白いんです、ここに蠅の眼玉くらいの大きさの球があります。ちょっと、覗いてみてください」「いやですわ、またきっと馬鹿なことをなさるんだから」「そう信用がなくっちゃ困りますね。でも、騙されたと思って、ちょいと覗いてみてくださいな。え? いやですか、ちょっとでいいから」と鋏を細君に渡す。細君はおずおずと鋏を取り上げ、例の蠅の眼玉のところに自分の目を付けてしきりに覗き込んでいる。「どうです」「何だか真っ黒ですわ」「真っ黒じゃいけませんね。もう少し障子の方へ向いて、そう鋏を寝かさずに――そうそう、それなら見えるでしょう」「おやまあ、写真ですねえ。どうしてこんな小さな写真を貼り付けたんでしょう」「そこが面白いところなんです」と細君と迷亭はしきりに問答をしている。最初から黙っていた主人はこの時急に写真が見たくなったようで、「おい、俺にも少し見せろ」と言うと、細君は鋏を顔に押し付けたまま「実にきれいですね、裸体の美人です」と言ってなかなか離さない。「おい、少し見せると言ったのに」「まあ待ってくださいよ。美しい髪ですね。腰までありますよ。少し仰向いて、恐ろしい背の高い女だこと、しかし美人ですね」「おい、見せると言ったら、大抵にして見せるがいい」と主人は大いに急き込んで細君に食って掛かる。「へえ、待たせましたね、たんとご覧なさい」と細君が鋏を主人に渡すと、勝手から御三が客のご注文を持ってきた。二個の笊蕎麦が座敷に運ばれてきた。

「奥さん、これが僕が自分で作ったご馳走です。少し失礼しますが、ここでいただくことにしますから」と、丁寧に頭を下げた。真面目なのか冗談なのか分からないその様子に、奥さんも困ったようで「さあ、どうぞ」と軽く返事をし、ただ見守っていた。

主人はようやく写真から目を離し、「君、この暑いのに蕎麦は毒だよ」と言った。「大丈夫、好きなものは滅多に当たらないから」と言いながら、蒸籠の蓋を取った。「打ち立ての蕎麦はありがたいな。蕎麦が伸びるのも、人間の間が抜けるのも、どちらも由来があるものじゃないか」と言いながら、薬味をつゆに入れて無茶苦茶にかき混ぜた。

「君、そんなに山葵を入れると辛いよ」と主人は心配そうに注意した。「蕎麦はつゆと山葵で食べるものだよ。君は蕎麦が嫌いなんだろう」「僕はうどんが好きだ」「うどんは馬子が食べるものだ。蕎麦の味を理解できない人ほど気の毒なことはない」と言いながら、杉箸をむざむざと突き込んで、できるだけ多くの蕎麦を二寸ほどの高さにすくい上げた。

「奥さん、蕎麦を食べるにもいろいろ流儀がありますが、初心者は無暗にツユをつけて、口の中でくちゃくちゃやっているだけですね。あれじゃ蕎麦の味がわからないですよ。こう、一口に引っ掛けてね」と言いながら箸を上げると、長い蕎麦が一尺ほど空中に釣り上げられた。迷亭先生が下を見ると、まだ十二三本の蕎麦が蒸籠の底から離れず、簀垂れの上に絡みついている。「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」と再び奥さんに相手を求めた。奥さんは「長いものでございますね」と、感心したように返事をした。

「この長い蕎麦にツユを三分の一つけて、一口で飲み込むんだ。噛んじゃいけない。噛むと蕎麦の味がなくなる。つるつると喉を滑り込むところがいいんだよ」と思い切って箸を高く上げると、蕎麦はようやく地を離れた。左手に受ける茶碗の中へ、箸を少しずつ落として、尻尾の先から徐々に浸すと、アーキミジスの理論に従って、蕎麦が浸った分だけつゆの量が増えていく。しかし、茶碗の中には元からつゆが八分目入っているため、迷亭の箸にかかった蕎麦の四分の一も浸らないうちに茶碗はつゆでいっぱいになってしまった。迷亭の箸は茶碗を離れる五寸のところでぴたりと止まり、しばらく動かなかった。動かないのも無理はない。少しでも動かせばつゆが溢れてしまう。

迷亭もここに至って少し躊躇していたが、たちまち脱兎の勢いで口を箸の方へ持って行ったと思う間もなく、つるつると音を立てて喉が一二度上下に動いた。箸の先の蕎麦は消えてなくなっていた。見ると、迷亭君の両目から涙のようなものが一二滴、眼尻から頬へ流れ出ていた。山葵が利いたのか、飲み込むのに苦労したのか、これはいまだに判然としない。「感心だなあ。よくそんなに一度に飲み込めたものだ」と主人が感心すると、「御見事ですことねえ」と奥さんも迷亭の手際を激賞した。迷亭は何も言わずに箸を置き、胸を二三度叩いた。「奥さん、ざる蕎麦は大抵三口半か四口で食べるものです。それ以上手数をかけちゃ、うまく食べられませんよ」とハンカチで口を拭き、少し一息入れた。

その時、寒月君が、どういうわけかこの暑いのに冬帽を被り、両足を埃だらけにしてやってきた。「いや、好男子のご入来だが、食べかけのものだからちょっと失礼しますよ」と迷亭君は、周囲の人々の視線を気にせず、残った蒸籠を平げた。今度は先ほどのように目覚ましい食べ方もしなかった代わりに、ハンカチを使って中途で息を入れるという不体裁もなく、蒸籠二つを安々とやってのけたのは見事だった。

「寒月君、博士論文はもう脱稿するのかね?」と主人が尋ねると、迷亭も続けて言った。「金田令嬢が待っているから、早く提出したまえ。」

寒月君はいつものように薄気味の悪い笑みを浮かべ、「罪ですから、なるべく早く出して安心させてあげたいのですが、何しろ問題が問題で、かなりの労力を要する研究なのです」と、冗談とも本気ともつかない口調で答えた。

「そうさ、問題が問題だから、鼻の言う通りにはいかないね。もっとも、あの鼻なら十分に鼻息をうかがう価値はあるがね」と、迷亭も寒月流の挨拶を返す。比較的真面目なのは主人の方だった。「君の論文の問題は何だったっけ?」

「蛙の眼球の電動作用に対する紫外光線の影響です」と寒月君が答える。

「それは奇妙だね。さすが寒月先生だ、蛙の眼球は振っているよ。どうだろう、苦沙弥君、論文が脱稿する前にその問題だけでも金田家に知らせておいては?」と主人が言うが、迷亭の言葉には耳を貸さなかった。「君、それがそんなに骨の折れる研究なのか?」

「ええ、なかなか複雑な問題です。第一、蛙の眼球のレンズの構造がそんな単純なものではありませんからね。それでいろいろ実験もしなければなりませんが、まず丸い硝子の球を作ってから始めようと思っています。」

「硝子の球なんて、ガラス屋に行けば簡単じゃないか」と主人が言うと、寒月君は少し反発するように言った。「元来、円や直線というのは幾何学的なもので、あの定義に合った理想的な円や直線は現実世界には存在しないものです。」

「存在しないなら、廃したらよかろう」と迷亭が口を挟む。「それで、まず実験上支障のないくらいの球を作ろうと思いまして、先日からやり始めたのです。」

「できたかい?」と主人が尋ねる。

「できるものですか」と寒月君が答えたが、少し矛盾を感じたのか、「どうも難しいです。だんだん磨いていくと、こちら側の半径が長すぎると思って少し落とすと、今度は向こう側が長くなる。やっとの思いでこのいびつを取ると、また直径に狂いが出るんです。始めは林檎ほどの大きさのものが、だんだん小さくなって苺ほどになり、それでも根気よくやっていると大豆ほどになります。それでもまだ完全な円にはなりませんよ。私は随分熱心に磨りましたが、この正月からガラス玉を大小六個磨り潰しましたよ」と、真偽のほどは分からないが、熱心に話し続けた。

「どこでそんなに磨っているんだい?」と主人が尋ねる。

「やっぱり学校の実験室です。朝から磨り始めて、昼飯のときにちょっと休んで、それから暗くなるまで磨っていますが、なかなか楽じゃありません。」

「それじゃ、君が最近忙しい忙しいと言って、毎日日曜でも学校へ行くのはその珠を磨りに行くためなんだね。」

「全く、目下のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています。」

「珠作りの博士になりそうだね。しかしその熱心さを聞いたら、いかな鼻でも少しはありがたがるだろう。実は先日、僕がある用事で図書館へ行った帰りに門を出ようとしたら、偶然老梅君に出会ったんだ。あの男が卒業後に図書館に足を向けるとは、よほど不思議なことだと思って感心していたら、先生は妙な顔をして、『本を読みに来たんじゃない、今門前を通り掛かったらちょっと小用がしたくなったから、拝借に立ち寄ったんだ』と言って、大笑いしたよ。老梅君と君とは反対の好例として、新撰蒙求にぜひ入れたいよ」と、迷亭はいつものように長々と話を続けた。

主人は少し真面目になって、「君、そんなに毎日珠ばかり磨っているのもよかろうが、元来いつ頃できるつもりかね?」と尋ねる。

「まあ、この調子じゃ十年くらいかかりそうです」と寒月君は主人よりも呑気に見えた。

「十年じゃ――もう少し早く磨り上げたらよかろう。」

「十年じゃ早い方です。事によると二十年くらいかかります。」

「それは大変だ、それじゃ容易に博士にはなれないじゃないか。」

「ええ、一日も早くなって安心させてあげたいのですが、とにかく珠を磨り上げなくては肝心の実験ができませんから……」