三 (2/3)
作 夏目漱石
この絞殺の方法を想像してみると、二つのやり方があることに気づく。まず一つ目は、彼のテレマカスがユーミアスとフリーシャスの助けを借りて、縄の一端を柱に結びつける。そして、その縄の各所に結び目を作り、その穴に女性の頭を一つずつ入れておき、片方の端を引っ張って吊り上げるというものだ。「つまり、西洋の洗濯屋のシャツのように、女性がぶら下がっている様子を想像すればいい」と彼は続ける。
「その通りだ。それから二つ目の方法は、縄の一端を柱に結びつけ、もう一方を天井に高く吊るす。そしてその高い縄から何本か別の縄を下げて、結び目の輪を作り、その中に女性の首を入れておく。いざという時に女性の足台を取り除くという仕掛けだ」と彼は説明する。「たとえて言うなら、縄暖簾の先に提灯玉を吊るしたような景色だと思えば間違いないだろう」と。
「提灯玉は見たことがないから、何とも言えないが、もしあるとすればその辺りのものだろう」と彼は続ける。「さて、これから力学的に第一の方法が成立しないことを証明してみせる」と言うと、「面白いな」と迷亭が言い、「うん、面白い」と主人も同意する。
「まず、女性が同じ高さに吊るされると仮定しよう。さらに、最も地面に近い二人の女性の首をつなぐ縄は水平だと考える。そこで、α1、α2……α6を縄が地平線と形成する角度とし、T1、T2……T6を縄の各部が受ける力と見なす。そして、T7=Xは縄の最も低い部分が受ける力とする。Wはもちろん女性の体重だ。どうだ、分かるか?」
迷亭と主人は顔を見合わせ、「大体分かった」と言う。しかし、この「大体」という程度は二人が勝手に作ったもので、他の人には応用できないかもしれない。「さて、多角形に関する平均性理論によると、以下のように十二の方程式が立つ。T1cosα1=T2cosα2…… (1) T2cosα2=T3cosα3…… (2) ……」と彼が続けると、「方程式はそのくらいで十分だろう」と主人は乱暴に言う。「実はこの式が演説の核心なんだが」と寒月君は残念そうに見える。「それじゃ、核心だけは順を追って伺うことにしよう」と迷亭も少し恐縮した様子で言う。「この式を省略してしまうと、せっかくの力学的研究が台無しになるのだが……」「そんな遠慮はいらないから、どんどん省略してくれ」と主人は平気で言う。「それではお言葉に従って、無理ですが省略しましょう」と寒月君が言うと、「それがいい」と迷亭が拍手をする。
「それから英国に移って論じると、ベオウルフの中に絞首架、つまりガルガという字が見えるので、絞罪の刑はこの時代から行われていたに違いないと思われる。ブラクストーンの説によれば、もし絞罪に処せられる罪人が、万が一縄の具合で死に切れない場合は、再度同様の刑罰を受けるべきだとされている。しかし、妙なことにピヤース・プローマンの中には、仮に凶漢でも二度絞める法はないという句がある。どちらが本当かは分からないが、実際に一度で死ねないことはよくある話だ。千七百八十六年に有名なフツ・ゼラルドという悪漢を絞めたことがあったが、妙なことに一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまった。またやり直すと、今度は縄が長すぎて足が地面に着いてしまい、やはり死ねなかった。結局、三度目に見物人が手伝ってようやく死なせたという話だ」と彼は続ける。「やれやれ」と迷亭はこんな話になると急に元気が出る。「本当に死に損ないだな」と主人も浮かれた様子で言う。「まだ面白いことがある。首を縊ると背が少し伸びるそうだ。これは確かに医者が計ってみたから間違いない」と彼は言う。「それは新しい工夫だね。どうだい、苦沙弥なんかをちょっと吊るしてみたら、少し背が伸びて人間並みになるかもしれないぜ」と迷亭が主人の方を向くと、主人は意外にも真面目な顔で「寒月君、一寸くらい背が伸びて生き返ることがあるだろうか」と尋ねる。「それは駄目だ。釣られて脊髄が伸びるから、早い話が背が伸びるというより壊れるんだ」と彼は答える。「それじゃ、まあ止めよう」と主人は断念する。
演説の続きはまだ長く、寒月君は首縊りの生理作用についてまで論じるつもりだったが、迷亭が無暗に風来坊のような珍語を挟むのと、主人が時々遠慮なく欠伸をするので、結局中途でやめて帰ってしまった。その晩、寒月君がどのような態度で、どのような雄弁を振ったのか、遠方で起こった出来事だから私には知る由もなかった。
二、三日は何事もなく過ぎ去ったが、ある日の午後二時頃、迷亭先生がいつものように空虚な表情で、まるで子供のように舞い込んできた。座に着くと、いきなり「君、越智東風の高輪事件を聞いたかい?」と、旅順陥落の号外を知らせるかのような勢いで言った。
「知らないよ、最近は会わないから」と主人はいつものように陰気な声で返した。
「今日はその東風子の失策物語を報告しようと思って、忙しいところをわざわざ来たんだよ」と迷亭が続ける。
「またそんな大げさなことを言う。君は本当に不埒な男だ」と主人は嘯いた。まるで純粋な天然居士が再来したかのようだ。
「この前の日曜日、東風子が高輪の泉岳寺に行ったそうなんだ。この寒いのに、よく行ったものだ。第一、今時泉岳寺に行くなんて、東京を知らない田舎者のようじゃないか」と迷亭が言う。
「それは東風の勝手さ。君がそれを止める権利はない」と主人が反論する。
「なるほど、権利は正にない。権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遺物保存会という見世物があるだろう。君は知っているか?」
「うん、知らない」
「知らない? だって泉岳寺に行ったことはあるだろう?」
「いいや、ない」
「ない? それは驚いた。道理で東風を弁護すると思った。江戸っ子が泉岳寺を知らないのは情けないよ」と迷亭が言う。
「知らなくても教師は務まるからな」と主人はさらに天然居士のように振る舞った。
「それはいいが、その展覧場で東風が見物していると、そこにドイツ人の夫婦が来たんだ。最初は日本語で東風に何か質問したそうだ。ところが、先生は例の通りドイツ語を使いたくてたまらない男だから、二、三口べらべらと話し始めた。すると、意外にも上手くできたんだ。後で考えると、それが災いの元だったんだよ」と迷亭が続ける。
「それからどうなったんだい?」と主人が興味を持って尋ねた。
「結局、ドイツ人が大鷹源吾の蒔絵の印籠を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞いたんだ。その時、東風の返事が面白かった。日本人は清廉な君子ばかりだから、到底駄目だと言ったんだ。そこまでは調子が良かったが、その後、ドイツ人は自分が通訳を得たつもりでしきりに質問してきたんだ」と迷亭が続けた。
「何を?」と主人が尋ねる。
「それが、何だか分かるくらいなら心配はないんだが、早口で無暗に問いかけるものだから、全く要領を得ないんだ。たまに分かるかと思うと、鳶口や掛矢のことを聞かれる。西洋の鳶口や掛矢は、先生、何と翻訳して良いのか習ったことがないから、困ったもんだ」と迷亭が笑った。
「もっともだ」と主人は教師の身の上に同情を示した。
「ところが、周りに好奇心旺盛な人たちが集まってきて、最終的には東風とドイツ人を四方から取り囲んで見物することになった。東風は顔を赤くして、どうしていいか分からず、先生は大弱りの様子だった」と迷亭が続ける。
「結局どうなったんだい?」と主人が再び尋ねた。
「最後には東風が我慢できなくなったようで、『さよなら』と日本語で言って、ぐんぐん帰ってきたそうだ。『さよなら』は少し変だと思ったら、君の国では『さよなら』を『さいなら』と言うのかと聞いてみたら、やっぱり『さよなら』だった。しかし相手が西洋人だから調和を計るために『さいなら』にしたんだって。東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心したよ」と迷亭が笑いながら話す。
「『さいなら』はいいが、西洋人はどうしたんだ?」と主人が尋ねる。
「西洋人はあっけに取られて、茫然としていたそうだ。ハハハ、面白いじゃないか」と迷亭が笑った。
「別段面白いこともないようだ。それをわざわざ報告しに来る君の方がよっぽど面白いぜ」と主人は巻煙草の灰を火桶の中に落とした。
その時、格子戸のベルが鳴り響き、「御免なさい」と鋭い女の声が聞こえた。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙した。
主人の家に女客が来るのは珍しいことだと感じていると、その鋭い声の持ち主が縮緬の二枚重ねを畳に擦り付けながら入ってきた。年は四十を少し超えたくらいだろう。抜け上がった生え際から前髪が高くそびえ、顔の長さの二分の一ほどが天に向かってせり出している。目は切り通しの坂のように急勾配で、直線に釣り上げられて左右に対立している。その直線は鯨よりも細いという形容がぴったりだ。鼻だけは無暗に大きく、人の鼻を盗んできて顔の真ん中に据え付けたように見える。三坪ほどの小庭に招魂社の石灯籠を移した時のように、独りで幅を利かせているが、何となく落ち着かない。その鼻はいわゆる鍵鼻で、一度は精一杯高くなって見えたが、あまりにも大きすぎて中途から謙遜して、先の方は垂れかかり、下にある唇を覗き込んでいる。こうした著しい鼻のため、この女が物を言うときは、口が物を言うというより、鼻が口をきいているとしか思えない。私はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来この女を「鼻子鼻子」と呼ぶつもりである。
鼻子はまず初対面の挨拶を終えて、「どうも結構な御住居ですこと」と座敷中を見回した。主人は「嘘をつけ」と心の中で思いながら、ぷかぷかと煙草をふかしていた。迷亭は天井を見上げながら、「君、あれは雨漏りか、板の木目か、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促した。
「無論雨漏りさ」と主人が答えると、「結構だなあ」と迷亭がすまして言った。鼻子は社交を知らない人たちだと心の中で憤っていた。しばらくの間、三人は無言のまま鼎坐していた。
「ちょっとお伺いしたいことがあって、参りました」と鼻子は再び話を切り出した。「はい」と主人は極めて冷淡に応じる。鼻子はこの反応に少し驚き、「実は、私は近所に住んでいまして――あの向こうの横丁の角にある家なんですが」と続けた。
「大きな西洋館の倉庫があるところですね。ああ、金田という標札が出ているのは道理です」と主人はようやく金田の西洋館と倉庫を思い出したようだ。しかし、金田夫人に対する尊敬の念は変わらず薄いままだった。「実は宿が出まして、その件についてお話を伺いたいのですが、会社の方がとても忙しくて」と、鼻子は少し自信を持った目つきをした。
だが、主人はまったく動じない。鼻子の言葉遣いが初対面の女性としてはあまりにも堂々としているため、すでに不快感を抱いていた。「会社は一つではありません、二つも三つも兼ねています。それに、どの会社でも重役ですから――多分ご存知でしょうが」と、鼻子は自分の立場を強調する。
主人は、実業家に対する尊敬の念が非常に薄い男だった。博士や大学教授に対しては非常に恐縮するが、実業家に対してはまったく興味を示さない。彼は、実業家よりも中学校の先生の方が偉いと信じている。たとえ実業家がどれほどの権力者であっても、自分が世話になる見込みがないと思い込んでいるため、彼らの利害にはまったく無頓着だった。
そのため、学者社会を除く他の分野には非常に無知で、特に実業界については、誰が何をしているか全く知らなかった。知っていても、尊敬の念はまったく湧かなかったのだ。鼻子は、世の中にはこんな変わり者がいるとは夢にも思わなかった。これまで多くの人と接してきたが、「金田の妻です」と名乗ると、急に扱いが変わることはなかった。どのような会に出ても、どんな身分の高い人の前でも、堂々と金田夫人として振る舞うことができた。
ましてや、こんな燻り返った老書生に対しては、私の家は向こうの横丁の角屋敷ですと言えば、職業などを聞く前に驚かれるだろうと予期していたのだ。
「金田さんのこと、知ってるか?」と主人が無造作に迷亭に尋ねた。
「もちろん知ってるよ。金田さんは僕の伯父の友達なんだ。この間の園遊会にもいらっしゃったし」と、迷亭は真面目な顔で答えた。
「へえ、君の伯父さんって誰だい?」と主人が聞く。
「牧山男爵さ」と迷亭はさらに真剣な表情を浮かべた。
主人が何か言おうとしたその瞬間、鼻子が急に向き直り、迷亭の方を見た。迷亭は大島紬に古渡更紗を重ねて、落ち着いた様子を装っている。
「おや、あなたが牧山様の――何でいらっしゃいますか。全然存じ上げませんで、失礼いたしました。牧山様にはいつもお世話になっておりますと、宿で毎回噂をしているんです」と、鼻子は急に丁寧な言葉遣いになり、さらにお辞儀までした。迷亭は「へえ、何だか面白いね、ハハハハ」と笑った。
主人は驚き、無言で二人を見つめている。「確か、娘の縁談についてもいろいろと牧山様にご心配をかけたそうで……」
「へえー、そうですか」と迷亭は少し驚いた様子で返事をした。「実は、いろいろな方から申し込みがあるのですが、こちらの身分もありますので、簡単にはお受けできませんで……」
「ごもっともです」と迷亭はようやく安心したように頷いた。「それについて、あなたにお伺いしようと思って上がったんですが」と鼻子は主人の方を見て急に真剣な口調に戻った。「あなたのところに水島寒月という男が度々訪れているそうですが、あの人は一体どんな人なんでしょう?」
「寒月のことを聞いて、何の用ですか?」と主人は苦々しい表情で答えた。
「やはり御令嬢の婚儀に関することで、寒月君の性格を知りたいということでは?」と迷亭が機転を利かせた。
「それが分かれば大変助かりますが……」
「それじゃ、御令嬢を寒月におやりになりたいということですか?」と主人が鋭く問いかける。
「やりたいなんてことはないんです」と鼻子は急に主人を困惑させた。「他にもいろいろな話があるんですから、無理にお受けする必要はありません。」
「それじゃ、寒月のことなんか聞かなくてもいいでしょう」と主人も必死になった。
「しかし、隠す理由もないでしょう」と鼻子も少し喧嘩腰になった。迷亭は二人の間に座り、銀煙管を軍配団扇のように持って、心の中で「八卦、やめておけ」と叫んでいる。
「じゃあ、寒月の方から是非とも貰いたいと言ったのですか?」と主人が直球で問いかけた。
「貰いたいとは言っていませんが……」
「貰いたいと思っているんですか?」と主人はこの婦人の言葉に反応した。
「話はそんなに進んでいるわけではありませんが、寒月さんだって嬉しくないわけではないでしょう」と鼻子は土俵際で持ち直した。
「寒月が御令嬢に恋をしているというようなことはありますか?」と主人は挑戦的に問いかけた。
「まあ、そんな感じでしょうね」と鼻子は自信満々に答えた。
今まで興味深く見物していた迷亭も、鼻子の一言に好奇心を刺激されたようで、煙管を置いて前に乗り出した。「寒月が御嬢さんに手紙でも送ったんですか?これは面白い、新年になってまた一つ逸話が増えて話の材料になる」と一人で喜んでいる。
「手紙じゃないんです、もっと激しいんですよ、二人とも知っているでしょう?」と鼻子は得意げに言った。
「君、知ってるか?」と主人は狐にでもなったような顔で迷亭に尋ねる。迷亭も馬鹿げた調子で「僕は知らない、知っていれば君だ」と謙遜した。
「いえ、二人とも知っていることですよ」と鼻子だけが得意顔をしている。
「へえー」と二人は同時に感心した。
「忘れてしまったら、私からお話ししましょう。去年の暮れ、向島の阿部さんの屋敷で演奏会があったでしょう。寒月さんも出かけたじゃありませんか。その晩、帰りに吾妻橋で何かあったでしょう――詳しいことは言いませんが、当人に迷惑がかかるかもしれませんから――あれだけの証拠があれば十分だと思いますが、どうですか?」と鼻子は金剛石入りの指輪を膝の上に置き、つんと姿勢を正した。彼の鼻はますます異彩を放ち、迷亭も主人もまるで存在しないかのように見えた。
主人はもちろん、さすがの迷亭もこの突然の出来事には驚きを隠せず、しばらく呆然と座り込んでいた。まるで熱にうなされている病人のようだったが、驚愕の表情が和らぐにつれて、彼の本来の性格が戻ってきた。すると、滑稽な感覚が一気に押し寄せてきた。
二人はまるで合意したかのように、「ハハハハハ」と笑い崩れた。しかし、鼻子だけは少し不機嫌そうに、彼らを睨みつけた。「あれが御嬢さんですか、なるほど、これはいい。おっしゃる通りですね、苦沙弥君、寒月は本当にお嬢さんを恋しているに違いない。もう隠しても仕方がないから、白状しようじゃないか」と言った。
「ウフン」と主人は何も言わずにいた。
「本当に隠していてもいけませんよ、ちゃんと証拠は上がっていますからね」と鼻子は得意げに続けた。「こうなったら仕方がない。寒月君に関する事実は、参考のためにお話ししますよ。おい、苦沙弥君、君が主人なのに、そんなににやにや笑っていては話が進まないじゃないか。秘密というものは本当に恐ろしいものです。いくら隠しても、どこからか露見するからな。――でも不思議ですね、金田の奥さん、どうしてこの秘密を知ったんでしょう、驚きますね」と迷亭は一人で喋り続けた。
「私の方だって、ぬかりはありませんよ」と鼻子は自信満々に言った。「あまりにもぬかりが無さ過ぎるようですけどね。一体誰に聞いたんですか?」
「じきこの裏にいる車屋の神さんからです」と鼻子は答えた。
「黒猫のいる車屋ですか?」と主人は目を丸くした。
「ええ、寒月さんのことを、よっぽど使いましたよ。寒月さんがここへ来る度に、どんな話をするかと思って、車屋の神さんに頼んで一々知らせてもらっているんです」と鼻子は続けた。
「それはひどい」と主人は大声を上げた。「なあに、あなたが何をなさろうと、それに構っているわけじゃないんです。寒月さんのことだけですよ。」
「寒月のことだって、誰のことだって――全体あの車屋の神さんは気に食わない奴だ」と主人は一人で怒り出した。
「でも、あなたの垣根の外に立っているのは向こうの勝手じゃありませんか。話が聞こえにくいなら、もっと小さい声で話すか、もっと大きな家に入ればいいでしょう」と鼻子は全く赤面する様子もなく言った。
「車屋だけじゃありません。新道の二絃琴の師匠からもいろいろなことを聞いていますよ。」
「寒月のことをですか?」
「寒月さんのことだけじゃありません」と鼻子は少し威圧的に言った。主人は驚くと同時に、「あの師匠はいやに上品ぶって、自分だけ人間らしい顔をしている、馬鹿野郎です」と言った。
「憚り様、女ですよ。野郎は御門違いです」と鼻子の言葉使いはますます本音を表してきた。これではまるで喧嘩をしに来たようなものだったが、迷亭はやはり迷亭で、このやり取りを面白そうに聞いていた。まるで鉄枴仙人が軍鶏の蹴合いを見るような顔をして、平然と耳を傾けていた。
悪口の応酬では到底鼻子の敵ではないと自覚した主人は、しばらく沈黙を守るしかなかったが、ようやく思い付いたかのように、「あなたは寒月の方から御嬢さんに恋をしたようにおっしゃいますが、私が聞いた話は少し違いますよ、ねえ迷亭君」と助けを求めた。
「うん、あの時の話では御嬢さんの方が、最初に病気になったと聞いたような気がしますね」と迷亭は言った。
「そんなことはありません」と金田夫人ははっきりとした口調で言った。
「それでも寒月は確かに○○博士の夫人から聞いたと言っていましたよ」と主人は続けた。
「それがこちらの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いてみたんです」と鼻子は説明した。
「○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか?」
「ええ、引き受けてもらったって、ただじゃできませんからね。それやこれやでいろいろ物を使っているんです。」
「ぜひ寒月君のことを根堀り葉堀り聞かないと帰れないという決心ですかね」と迷亭も少し気を悪くした様子で、いつになく手厳しい言葉を使った。
「いいや、君、話したって損はないことだ。話そうじゃないか、苦沙弥君――奥さん、私でも苦沙弥でも寒月君に関する事実で差し支えのないことは、みんな話しますからね。――そう、順を立てて、だんだん聞いてくださると都合がいいですね。」
鼻子はようやく納得し、そろそろ質問をしようとした。少し荒っぽい言葉遣いも、迷亭に対してはまた元の丁寧なものに戻った。「寒月さんも理学士だそうですが、全体どんなことを専門にしているのでしょうか?」と尋ねた。
「大学院では地球の磁気の研究をやっています」と主人が真面目に答えた。しかし、その意味が鼻子には分からなかったので、「へえー」と言ったものの、怪訝な顔をしていた。「それを勉強すると博士になれるのでしょうか」と聞くと、主人は不愉快そうに尋ね返した。「博士にならなければやれないとおっしゃるんですか?」
「ええ。ただの学士じゃ、いくらでもいますからね」と鼻子は平気で答えた。主人は迷亭を見て、ますますいやな顔をする。「博士になるかならないかは僕たちも保証できませんから、他のことを聞いていただくことにしましょう」と迷亭もあまり機嫌が良くない様子だった。
「最近でもその地球の――何かを勉強しているのでしょうか?」と鼻子が尋ねると、主人は「二三日前には首縊りの力学という研究の結果を理学協会で演説しました」と何の気も付かずに言った。
「おやいやだ、首縊りだなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊りや何かやってたんじゃ、とても博士にはなれませんよ」と鼻子が言うと、主人は「本人が首を縊っちゃあ難しいですが、首縊りの力学なら成れないとも限らないです」と返した。「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色を窺う。残念ながら、力学という意味が分からず、落ち着きかねていた。
しかし、これ以上のことを尋ねるのは金田夫人の面目に関わると思ったのか、ただ相手の顔色を見て八卦を立ててみる。主人の顔は渋い。「他に何か、分かりやすいものを勉強していませんか?」
「そうですね、先日団栗のスタビリティを論じて、併せて天体の運行に及ぶという論文を書いたことがあります」と主人が言った。
「団栗なんて、大学で勉強するものなんでしょうか?」と鼻子が疑問を呈すると、「さあ、僕も素人だからよく分かりませんが、何しろ寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな」と迷亭は冷やかした。鼻子は学問上の質問は手に負えないと断念したようで、今度は話題を変えた。「話は変わりますが――この御正月に椎茸を食べて前歯を二枚折ったそうじゃありませんか?」
「ええ、その欠けたところに空也餅がくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそ自分の縄張りだと急に浮かれ出した。「色気のない人じゃありませんか、何だって楊子を使わないんでしょう?」
「今度会ったら注意しておきましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯が欠けるくらいじゃ、よほど歯の性が悪いと思われますが、いかがなものでしょう?」
「良いとは言えませんな――ねえ、迷亭」「良いことはないが、ちょっと愛嬌があるよ。あれだけで、まだ填めないところが妙だ。今だに空也餅引掛所になってるなあ、奇観だぜ」と迷亭が言った。
「歯を填める小遣いがないので欠けたままにしておくのですか、それとも物好きで欠けたままにしておくのでしょうか?」と鼻子が尋ねると、「何も永く前歯欠成を名乗る訳でもないでしょうから、御安心なさいよ」と迷亭の機嫌はだんだん回復してきた。
鼻子はまた問題を改めた。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございましたら、ちょっと拝見したいのですが」「端書なら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三四十枚持って来た。「そんなに沢山拝見しなくても――その内の二三枚だけ……」「どれどれ、僕が良いのを選んであげよう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出した。
「おや、絵も描くんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが、「あらいやだ、狸だよ。何だって選りに選って狸なんぞ描くんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心した。「その文句を読んで御覧なさい」と主人が笑いながら言うと、鼻子は下女が新聞を読むように読み出した。「旧暦の歳の夜、山の狸が園遊会をやって盛に舞踏します。その歌に曰く、来いさ、としの夜で、御山婦美も来まいぞ。スッポコポンノポン」
「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃありませんか」と鼻子は不満そうだった。「この天女は御気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣を着て琵琶を弾いている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」と主人が言った。
文句にはこうある。「昔しある所に一人の天文学者がありました。ある夜いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現れ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁む寒さも忘れて聞き惚れてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸に霜が真白に降っていました。これは本当の噺だと、あのうそつきの爺やが申しました」
「何のことですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちょっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君は散々にやられた。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべの泊りの十六小女郎、親がないとて、荒磯の千鳥、さよの寝覚の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」
「うまいのねえ、感心だこと、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええ、これなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何です」と迷亭は無暗に出した。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮でないんだということは分かりましたから」と鼻子は一人で合点した。
鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問を終えたようで、「これははなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手な要求をした。寒月のことは何でも聞かなければならないが、自分のことは一切寒月へ知らしてはならないという方針のようだった。
迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると、「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立ち上がった。見送りに出た二人が席へ戻るや否や、迷亭が「ありゃ何だい」と言うと、主人も「ありゃ何だい」と同じ問いを返した。奥の部屋で細君が堪え切れなかったと見えて、クツクツ笑う声が聞こえた。迷亭は大きな声を出して「奥さん、奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか振っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」と言った。