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三 (3/3)

作 夏目漱石

主人は不満そうに口を尖らせ、「あの顔はどうにも気に入らない」と言った。迷亭はすぐにその言葉を受けて、「鼻が顔の真ん中にどっしりと構えているな」と続けた。「しかも曲がっているし、少し猫背だね。猫背の鼻はちょっと奇抜すぎる」と楽しそうに笑う。

「夫を貶める顔だ」と主人はさらに悔しそうに言った。「十九世紀で売れ残り、二十世紀で店晒しにされる運命だ」と迷亭は妙なことを言う。すると、妻が奥の部屋から出てきて、女らしく注意した。「あまり悪口を言うと、また車屋の神様に怒られますよ。」

「少し怒られる方がいい薬ですよ、奥さん」と迷亭が返す。「でも、顔の悪口を言うのはあまり下品ですわ。誰だってあんな鼻を好んで持っているわけではありませんから。それに相手が女性ですから、あまり厳しく言うのは良くないですよ」と、鼻の形を弁護しながら、自分の容貌も間接的に守っている。

「なんてひどいことだ、あんなのは女性じゃない、愚か者だよ、ねえ迷亭君」と主人が言う。「愚か者かもしれないが、なかなかの人物だよ。大分引っ掻かれたじゃないか」と迷亭は笑いながら返した。「そもそも教師を何だと思っているんだろう?」

「裏の車屋くらいにしか思っていないさ。ああいう人物に尊敬されるには博士になるしかないよ。博士になっておかないのが君の見識のなさだ、ねえ奥さん、そうでしょう?」と迷亭は笑いながら妻を見た。

「博士なんて到底無理ですよ」と主人は細君にまで見放される。「これでも今になれば可能かもしれない、軽蔑しないでくれ。君にはわからないだろうが、昔アイソクラテスという人は九十四歳で大著作をした。ソフォクレスが傑作を出して世を驚かせたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニデスは八十で素晴らしい詩を作った。俺だって……」

「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病持ちがそんなに長生きできるわけがない」と細君はしっかりと主人の寿命を見積もっている。

「失礼な、甘木さんに聞いてみろ。元々、君がこんな皺だらけの黒木綿の羽織や、つぎはぎだらけの着物を着せているから、あんな女に馬鹿にされるんだ。明日から迷亭が着ているような服を着るから、出しておいてくれ。」

「出しておけって、あんな立派な服はありませんよ。金田の奥さんが迷亭さんに丁寧になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですから。着物のせいじゃありません」と細君はうまく責任を逃れた。

主人は、伯父という言葉を耳にした瞬間、急に思い出したように迷亭に尋ねた。「君に伯父がいるなんて、今日初めて聞いたよ。今まで一度も噂にしたことがなかったじゃないか。本当にいるのか?」

迷亭は待ってましたとばかりに答えた。「うん、その伯父さんがね、実に頑固でね。十九世紀からずっと生き延びているんだよ。」彼は主人夫婦を交互に見ながら続けた。「オホホホホ、面白いことばかり言ってるよ。どこに住んでいるの?」

「静岡に住んでいるんだが、ただ生きているだけじゃない。頭にちょん髷を結っているから、ちょっと恐縮なんだ。帽子を被れと言うと、『この年になっても、まだ寒さを感じたことはない』と威張っているんだ。寒いからもっと寝ていなさいと言うと、『人間は四時間寝れば十分だ。四時間以上寝るのは贅沢だ』と、朝が暗いうちから起きてくるんだよ。それで、僕も睡眠時間を四時間に縮めるために、長年修行をしたんだ。若い頃はどうしても眠たくて仕方なかったが、最近になってやっと随所で自由に寝られるようになったと自慢しているんだ。六十七になって寝られなくなるのは当たり前だろう。修行も何もないのに、自分は全く克己の力で成功したと思っているんだからね。それで外出する時には、必ず鉄扇を持って出るんだ。」

「何に使うんだい?」と主人が尋ねる。

「何に使うかは分からない、ただ持って出るんだ。まあ、ステッキの代わりくらいに考えているかもしれないよ。ところが、先日妙なことがあったんだ。」今度は細君の方に話しかける。

「へえー」と細君が返事をする。

「今年の春、突然手紙が来て、山高帽子とフロックコートを至急送れと言うんだ。ちょっと驚いて郵便で問い返したところ、老人自身が着るという返事が来た。二十三日に静岡で祝捷会があるから、それまでに間に合うように、至急調達しろという命令なんだ。ところが面白いのは、命令の中にこう書いてあった。『帽子は適当な大きさのを買ってくれ。洋服も寸法を見計らって大丸へ注文してくれ』って。」

「最近は大丸でも洋服を仕立てるのかい?」と主人が驚く。

「なあに、先生、白木屋と間違えたんだよ。」と迷亭が笑う。

「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか。」

「そこが伯父の伯父たるところさ。」

「どうした?」

「仕方がないから、見計らって送ってやった。」

「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい?」

「まあ、どうにかこうにか間に合ったんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍しくフロックコートを着て、例の鉄扇を持っていたよ。」

「鉄扇だけは離さなかったんだね。」

「うん、死んだら棺の中に鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ。」

「それでも帽子も洋服も、うまく着られて良かったじゃないか。」

「ところが大間違いさ。僕も無事に行ってありがたいと思っていたら、しばらくして国から小包が届いた。何か礼でもくれたのかと思って開けてみたら、例の山高帽子だった。手紙が添えてあって、『せっかくお求めいただいたが、少々大きすぎるので、帽子屋にお遣わしの上、縮めていただきたい』と書いてあった。縮め賃は小為替でこちらから送るとあったんだ。」

「なるほど、迂闊だな。」と主人は自分よりも迂闊なものが世の中にあることを知り、大いに満足した様子で言った。

「それから、どうした?」と主人が聞く。

「どうするったって仕方がないから、僕が頂戴して被っているよ。」

「その帽子かあ。」と主人がにやにや笑う。

「その方が男爵でいらっしゃるんですか?」と細君が不思議そうに尋ねる。

「誰が?」と迷亭が返す。

「その鉄扇の伯父さまが。」

「なあに、漢学者でさ。若い時に聖堂で朱子学か何かにこり固まったものだから、電気灯の下で恭しくちょん髷を結っているんだ。仕方がないよ。」と迷亭は顎を撫でながら言った。

「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ。」

「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました。」と細君も同意する。

「そうでしたかな、アハハハハハ。」と迷亭は訳もなく笑った。

「それは嘘だよ。僕に男爵の伯父がいたら、今頃は局長くらいになっているさ。」と平気な顔で言った。

「何だか変だと思った。」と主人は嬉しそうでありながら心配そうな顔をする。

「あらまあ、よく真面目であんな嘘がつけますねえ。あなたもよっぽど法螺が上手でいらっしゃること。」と細君は非常に感心した様子で言った。

「僕より、あの女の方が上手だよ。」

「あなただって負ける気遣いはありません。」

「でも奥さん、僕の法螺は単なる法螺だよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰く付きの嘘だからね。たちが悪い。猿知恵から割り出した術数と、天来の滑稽趣味が混ざり合って、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆かざるを得ない訳だから。」主人は俯きながら言った。

妻君は笑いながら「同じことですわ」と応じた。

私は今まで向こうの横丁に足を踏み入れたことがなかった。角屋敷の金田という家がどんな様子なのか、見たこともなければ、聞いたことすら今が初めてだ。主人の家で実業家の話が出たことも一度もなく、主人の食事を食べる私までがこの方面には全く無関係で、むしろ冷淡だった。

しかし、先ほど思いがけず鼻子からの訪問を受け、その話を聞き、その令嬢の美しさを想像し、またその富や権力を思い浮かべると、猫である私も安らかに椽側で寝転んでいるわけにはいかなくなった。それに加えて、寒月君に対して非常に同情を禁じ得ない。向こうでは博士の奥さんや車屋の神さん、さらには二絃琴の天璋院までが買収され、知らぬ間に前歯の欠けたのまで探偵しているのに、寒月君はただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしている。卒業したての理学士とはいえ、あまりにも無能すぎる。

ああいう偉大な鼻を持つ女性に近づける者は滅多にいない。こうした事件に関しては主人は無頓着で、あまりにもお金がない。迷亭はお金に困ってはいないが、あんな偶然の童子だから、寒月に助けを与える余裕は少ないだろう。そうなると、可哀想なのは首縊りの力学を演説する先生ばかりだ。私も奮発して、敵の城に乗り込んでその動静を探らなければ、不公平だと思った。

私は猫だが、エピクテタスを読んで机の上に叩きつけるような学者の家に住む猫で、一般の愚かな猫とは少し違う。この冒険をあえてするくらいの義侠心は、尻尾の先に秘めている。寒月君に恩を返すつもりはないが、これは個人のための血気盛んな行動ではない。大きく言えば、公平を好み中庸を愛する天意を実現する素晴らしい行いだ。

人の許可を得ずに吾妻橋事件を振り回す以上は、人の軒下に犬を忍ばせ、その報告を得意げに人に吹聴する以上は、車夫や馬丁、無頼漢、ゴロツキ書生、日雇いの婆さん、産婆、妖婆、按摩、頓馬に至るまでを使って国家に有用な材を煩わせる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も良い。霜解は少々厄介だが、道のためなら命を捨てる覚悟だ。足の裏に泥がついて、椽側に梅の花の印を押すくらいのことは、ただ御三に迷惑をかけるかもしれないが、私の苦痛とは言えない。

翌日とも言わず、これから出かけようと勇気を振り絞って台所まで飛び出したが、「待てよ」と考えた。私は猫として進化の極みに達しているだけでなく、知力の発達においては中学三年生に劣らないつもりだが、悲しいかな、喉の構造だけはどこまでも猫なので、人間の言葉が流暢に話せない。もし金田邸に忍び込んで、敵の情勢を十分に見届けたところで、肝心の寒月君に教えることはできない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとなると、土中にある金剛石が日を受けて光らないのと同じことで、せっかくの知識も無用の長物となる。これは愚かだ、やめようかと上り口で立ち止まった。

しかし、一度思い立ったことを途中でやめるのは、白雨が来るかと待っている時に黒雲が隣国へ通り過ぎたように、なんとなく名残惜しい。それもこちらに非があれば別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとえ無駄死にすることになっても進むのが、義務を知る男の本懐だろう。無駄骨を折り、無駄足を汚すくらいは猫として当然のことだ。猫として生まれた因果で寒月、迷亭、苦沙弥の先生方と三寸の舌で互いの思想を交換する技術はないが、猫だけに忍びの術は先生方よりも達者だ。他人ができないことを成し遂げるのは、それ自体が楽しい。私一匹でも金田の内幕を知るのは、誰も知らないよりも楽しい。人に告げられなくても、彼らに「知られている」と自覚させるだけで楽しい。こんなに楽しいことが続々と出てくるのだから、行かずにはいられない。やはり行くことにしよう。

向こうの横町に足を踏み入れると、噂通りの西洋館が角地に堂々と立っていた。まるでその主人もこの建物のように傲慢に構えているのだろうと、門をくぐってその建築を眺めてみたが、ただ人を威圧するためだけに存在しているような、無意味に高くそびえ立つ二階建ての構造だった。迷亭が言うところの月並な建物とは、まさにこれのことだろう。

玄関を右に見て、植え込みの中を通り抜けて勝手口に回る。さすがに勝手口は広々としていて、苦沙弥先生の台所の十倍はあるだろう。最近、日本新聞に詳しく書かれていた大隈伯の勝手にも劣らないほど、整然としていて光り輝いている。「模範勝手だな」と思いながら中に入ると、漆喰で仕上げられた二坪ほどの土間に、あの車屋の神さんが立って、御飯を炊く人や車夫に向かって何やら熱心に話しているのが見えた。これは危険だと、水桶の裏に隠れる。

「その教師、うちの旦那の名前を知らないのかね」と飯焚が言う。「知らないことがあるもんか。この界隈で金田さんの屋敷を知らなければ、目も耳もない片輪だ」と抱え車夫の声が返ってくる。「なんとも言えないよ。あの教師ときたら、本以外に何も知らない変人なんだから。旦那のことを少しでも知っていれば恐れるかもしれないが、駄目だよ、自分の子供の年齢さえ知らないんだから」と神さんが続ける。「金田さんでも恐れないかな、厄介な唐変木だ。構わないことだ、みんなで威嚇してやろうじゃないか」「それがいいよ。奥様の鼻が大きすぎるの、顔が気に入らないのって――それは酷いことを言うよ。自分の顔は今戸焼の狸みたいなのに――あれで一人前だと思っているんだから、やれ切れないじゃないか」「顔だけじゃない、手拭を提げて湯に行くところからして、いやに高慢じゃないか。自分くらい偉い者はいないつもりなんだよ」と苦沙弥先生は飯焚にも大いに不満を持っている。「何でも大勢であいつの垣根のそばに行って悪口を言ってやるんだね」「そうしたらきっと恐れ入るよ」「でもこっちの姿を見せちゃあ面白くないから、声だけ聞かせて、勉強の邪魔をした上に、できるだけじらしてやれって、さっき奥様が言っていたよ」「それは分かっているよ」と神さんは悪口の三分の一を引き受けるという意味を示す。なるほど、この手合いが苦沙弥先生を冷やかしに来るのだなと、三人の横をそっと通り抜けて奥へ入る。

猫の足音はまるで無いかのように、どこを歩いても不器用な音がすることはない。空を踏むように、雲を行くように、水中に磬を打つように、洞窟の中で瑟を鼓するように、醍醐の妙味を味わいながら、言葉のほかに冷暖を自知するかのようだ。月並な西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋の神さんも、権助も、飯焚も、御嬢様も、仲働きも、鼻子夫人も、夫人の旦那様もいない。行きたいところへ行き、聞きたい話を聞いて、舌を出し尻尾を振り、髭をぴんと立てて悠々と帰るだけである。特に私はこの道に関しては日本一の腕前だ。草双紙にある猫又の血脈を受けているのではないかと自ら疑うほどである。

蟇の額には夜光の明珠があると言うが、私の尻尾には神祇釈教恋無常はもちろん、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝の妙薬が詰まっている。金田家の廊下を人に知られずに横行するくらいは、仁王様が心太を踏み潰すよりも容易である。この時、私は自分の力量に感服し、これも普段大事にしている尻尾のおかげだと気が付いたが、どうもそれだけでは済まない。私が尊敬する尻尾大明神を礼拝して、ニャン運長久を祈りたいと思い、少し頭を下げてみたが、どうも少し見当が違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならない。尻尾の方を見ようと体を回すと、尻尾も自然と回る。追いつこうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へ駆け出す。なるほど天地玄黄を三寸裏に収めるほどの霊物だけあって、到底私の手には合わない。尻尾を回すこと七度半にして疲れたのでやめにした。少々目がくらむ。どこにいるのか、少し方角が分からなくなる。構うものかと滅茶苦茶に歩き回る。障子の裏で鼻子の声がする。ここだと立ち止まり、左右の耳を立てて息を凝らす。「貧乏教師のくせに生意気じゃありませんか」と例の金切り声が響く。「うん、生意気な奴だ、ちょっと懲らしめのためにいじめてやろう。あの学校には国のものもいるからな」「誰がいるの?」「津木ピン助や福地キシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう」私は金田君の生国は分からないが、妙な名前の人間ばかり揃った場所だと少々驚いた。金田君はさらに続けて、「あいつは英語の教師かい」と尋ねる。「はい、車屋の神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるらしいよ」「どうせろくな教師じゃあるまい」と言ったが、少なからず感心した。「この間ピン助に会ったら、私の学校には妙な奴がいます。生徒から『先生、番茶は英語で何と言いますか』と聞かれて、番茶は『Savage tea』だと真面目に答えたので、教員間の物笑いになっています。どうもあんな教員がいるから、他の者に迷惑をかけて困ります」と言っていたが、大方あいつのことだろう。「あいつに限って、そんなことを言いそうな面構えだよ、いやに髭なんか生やして」「怪しからん奴だ」と言うが、髭を生やして怪しからなければ猫だって一匹だって怪しいことはない。「それにあの迷亭とか、へべれけとか言う奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返りなんでしょう、伯父の牧山男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんて有るはずがないと思ったんですもの」「お前がどこの馬の骨だか分からんものの言うことを真に受けるのも悪い」「悪いって、あまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか」と大変残念そうである。不思議なことに寒月君のことは一言半句も出ない。私が忍んで来る前に評判記は済んだものか、またはすでに落第と事が極まって念頭にないのか、その辺は懸念もあるが仕方がない。しばらく佇んでいると、廊下を隔てて向こうの座敷でベルの音がする。あそこにも何か事がある。後れぬように、その方角へ歩を向ける。

部屋に入ると、一人の女性が大声で何かを話しているのが聞こえた。その声は、鼻の形が特徴的なことから、我が家の令嬢、寒月君が未遂の入水を試みたのも無理はないと思わせるものだった。残念なことに、障子越しでは彼女の美しい姿を見ることができない。彼女の顔の真ん中に大きな鼻があるのかどうかはわからないが、話し方や鼻息の荒さから考えると、決して無視できない存在であることは確かだ。

女性は一方的に話し続けているが、相手の声はまったく聞こえない。どうやら、噂に聞く電話を使っているようだ。「あなたは大和ですか? 明日、行くから、鶉の三を取っておいてね。いい? わかった? 何がわからないの? ああ、もう。鶉の三を取るのよ。なんで取れないの? 取れないはずがない、取るのよ――へへへ、冗談じゃないわよ――何が冗談なの? 人をおちょくるのもいい加減にして。そもそもあなたは誰なの? 長吉? 長吉なんて言われてもわからないわ。神様に電話口に出ろって言ってよ――何? 私が何でも弁じるって? 失礼ね、私が誰だかわかってるの? 金田よ。――へへへ、よく知ってるって? 本当に馬鹿ね、この人。――金田だって言ってるのに。――何? 毎度お世話になってありがとうございます? 何がありがたいのよ、そんなこと聞きたくもないわ――また笑ってるの? あなた、本当に愚かね。――おっしゃる通りだって?――あまり人を馬鹿にすると電話を切るわよ。いいの? 困らないの?――黙ってちゃわからないじゃない、何か言ってよ。」

電話の向こう側からは何の返事もないらしい。令嬢は癇癪を起こし、やけにベルを鳴らし続ける。足元で狆が驚いて急に吠え出した。これはまずいと思い、急いで飛び下りて椽の下に隠れた。

その時、廊下から足音が近づき、障子が開く音がした。誰か来たのだと一生懸命に耳を澄ませていると、「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」と小間使いの声がした。「知らないよ」と令嬢は冷たく返した。「ちょっと用があるから、嬢を呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないってば」と令嬢は再び冷たく言った。「……水島寒月さんのことで御用があるそうです」と小間使いは気を使って機嫌を取ろうとする。「寒月でも水月でも知らないわ――大嫌いよ、糸瓜が戸迷いをしたような顔をしているのが」第三の冷たい言葉が飛ぶ。可哀想な寒月君が留守中に呼ばれているのだ。

「おや、あなたいつ束髪に結ったの?」小間使いはほっと一息ついて言った。「今日よ」となるべく簡単に返す。「生意気ね、小間使のくせに」と第四の冷たい言葉が飛ぶ。「それに新しい半襟を掛けたじゃないか」「ええ、先日御嬢様からいただいたので、もったいなくて行李の中にしまっておいたんですが、今までのが汚れたので掛けやすくなりました」「いつそんなものを上げたの?」「この御正月、白木屋へいらっしゃって、御求めになったのよ――鶯茶に相撲の番附を染め出したの。私には地味すぎて嫌だから、あなたに上げようとおっしゃったのよ」「あら、いやだ。よく似合うわね、憎たらしいわ」「恐れ入ります」「褒めたんじゃないの、憎たらしいのよ」「へえ」「そんなによく似合うものを、なぜ黙ってもらったの?」「へえ」「あなたにさえ似合うなら、私にだっておかしいことはないでしょう?」「きっとよく似合うわよ」「似合うのが分かっているのに、なぜ黙っているの? それで、すまして掛けているのよ、人が悪いわ。」冷たい言葉は次々と続く。

その時、向こうの座敷で「富子や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼んだ。令嬢は仕方なく「はい」と言い、電話室を出て行く。私より少し大きな狆が、顔の中心に目と口を集めたような表情で彼女について行く。私はいつもの忍び足で再び勝手から外に出て、急いで主人の家に帰った。探検はまずまずの成果だった。

帰ってみると、きれいな家から急に汚いところに移ったため、まるで日当たりの良い山の上から薄暗い洞窟の中に入り込んだような気持ちになった。探検中は他のことに気を取られて、部屋の装飾や襖、障子の具合には目も留まらなかったが、自分の住居の下等さを感じると同時に、あの月並みな生活が恋しくなった。教師よりも実業家が偉いように思われる。私も少し変だと思い、尻尾に伺いを立ててみたら、その通りだと尻尾の先からお告げがあった。

座敷に入ってみると驚いたことに、迷亭先生はまだ帰らず、巻煙草の吸い殻を火鉢の中に蜂の巣のように突き立てて、大胡坐をかいて何かを話している。いつの間にか寒月君も来ている。主人は手枕をして天井の雨漏りを眺めている。相変わらず平和な逸民の集まりだった。

寒月君が羽織の紐をいじりながら、迷亭がからかい始めた。「寒月君、君のことを譫語にまで言った婦人の名前は、当時は秘密だったようだけど、もう話してもいいだろう」と言った。寒月君は少し困ったように、「私のことだけなら話しても構わないんですが、相手に迷惑がかかるかもしれませんから」と答えた。

「まだ駄目かなあ」と迷亭が続ける。「それに、○○博士夫人に約束をしてしまったので」と寒月君は言った。「他言しないという約束かね」「ええ」と寒月君は羽織の紐をさらにひねくる。その紐は、売り物とは思えないほどの紫色だった。「その紐の色は、ちょっと天保調だな」と主人が寝ながら言った。主人は金田事件などには無頓着だった。

「そうさ、到底日露戦争時代のものではないな。陣笠に立葵の紋の付いたぶっ割き羽織でも着なくちゃ収まりがつかない紐だ。織田信長が婿入りするときに頭の髪を茶筌に結ったというが、その時使ったのは、たしかそんな紐だよ」と迷亭の文句は相変わらず長い。「実際、これは爺が長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目に言った。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学の演者、理学士水島寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような出で立ちをするのはちょっと体面に関わるから」と主人が言った。

「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もいますので――」「誰だい、そんな趣味のないことを言うのは」と主人は寝返りを打ちながら大きな声を出した。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「去る女性なんです」「ハハハハハ、よほど茶人だなあ、当ててみようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一度御駄仏を極め込んじゃどうだい」と迷亭が横合から飛び出した。

「へへへへへ、もう水底から呼んではおりません。ここから乾の方角にあたる清浄な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」と迷亭が言った。「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向こう横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕ら二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥君」「うむ」と主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰のことです」「君の親愛なる久遠の女性の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻という女が君のことを聞きに来たよ」と主人が真面目に説明した。

寒月君の様子を窺ってみると、驚く様子も嬉しがる様子も恥ずかしがる様子もない。いつもの静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれという依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違いさ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有者でね……」迷亭が半ば言いかけると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩を考えているんだがね」と言った。隣の部屋で妻君がくすくす笑い出す。「随分君も呑気だなあ、出来たのかい」「少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭りというのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供えというのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなりと付けちゃどうだ」と迷亭はすぐに言った。

すると寒月が「奥深く毛も見えずはいけますまいか」と言い合っていると、垣根の近くで「今戸焼の狸、今戸焼の狸」と四五人がわいわい言う声がした。主人も迷亭もちょっと驚いて表の方を、垣の隙間から覗いて見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして、遠くへ散る足音が聞こえた。「今戸焼の狸というのは何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞いた。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなか振っていますな」と寒月君が批評を加えた。

迷亭は何を思い出したのか急に立ち上がって「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究したことがございますから、その一端を披露して、御両君の清聴を煩わしたいと思います」と演舌の真似をした。主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非承りたいものです」と小声で言った。「いろいろ調べてみましたが、鼻の起源はどうも確と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば、穴が二つでたくさんである。何もこんなに横風に真中から突き出して見る必要がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく、斯様にせり出して参ったか」と自分の鼻を抓んで見せた。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辞のないところを言った。

「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔が併んでいる状態と混同なすっては、誤解を生じるに至るかも計られませんから、予め御注意をしておきます。――で愚見によりますと、鼻の発達は吾々人間が鼻汁をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積して、かく著明なる現象を呈出したものでございます」「佯りのない愚見だ」と主人が寸評を挿入した。「御承知の通り、鼻汁をかむ時は、是非鼻を抓みます。鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため、他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬くなります。ついに凝って骨となります」「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛びに変化は出来ません」と理学士だけあって寒月君が抗議を申し込んだ。

迷亭は何喰わぬ顔で陳べ続ける。「いや御不審はごもっともですが、論より証拠、この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨が出来ても鼻汁は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削り取られて、細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。点滴の石を穿つがごとく、賓頭顱の頭が自ら光明を放つがごとく、不思議薫不思議臭の喩のごとく、斯様に鼻筋が通って堅くなります」「それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は回護の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂の持たせられる鼻のごときは、もっとも発達した、もっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います」寒月君は思わずヒヤヤヤと云う。「しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが、何となく怖しくて近づき難いものであります。あの鼻梁などは素晴らしいには違いありませんが、少々峻嶮過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラテス、ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上から云うと随分申し分はございましょうが、その申し分のあるところに愛嬌がございます。鼻高きが故に貴からず、奇なるがために貴しとはこの故でもございましょうか。下世話にも鼻より団子と申しますれば、美的価値から申しますとまず迷亭くらいのところが適当かと存じます」寒月と主人は「フフフフ」と笑い出した。迷亭自身も愉快そうに笑っている。

「さて、ただ今まで弁じましたのは――」「先生、弁じましたは少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と寒月君は先日の復讐をやった。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡に一言論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらっしゃいますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上がった鼻であります。ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違ありません。しかしシーザーの鼻を鋏でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩えにも猫の額というくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀として聳えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を据え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく、正しく英姿颯爽たる隆起に相違ありません。しかしその周囲を囲繞する顔面的条件は如何な者でありましょう。無論当家の猫のごとく劣等ではない。しかし癲癇病みの御かめのごとく眉の根に八字を刻んで、細い眼を釣り上げられるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得んではありませんか」と迷亭の言葉が少し途切れると、裏の方で「まだ鼻の話しをしているんだよ。何てえ剛突く張だろう」と云う声が聞こえた。「車屋の神さんだ」と主人が迷亭に教えた。迷亭はまたやり始める。「計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに宛転たる嬌音をもって、乾燥なる講筵に一点の艶味を添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人淑女の眷顧に背かざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、勢御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか御辛防を願います」寒月君は力学という語を聞いてまたにやにやする。

「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシングの黄金律を失しているという事なんで、それを厳格に力学上の公式から演繹して御覧に入れようというのであります。まずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交叉より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです、大抵お分りになりましたか。……」「分るものか」と主人が言った。「寒月君はどうだい」「私にもちと分りかねますな」「そりゃ困ったな。苦沙弥はとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだから、これを略しては今までやった甲斐がないのだが――まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう」「結論があるか」と主人が不思議そうに聞く。「当り前さ、結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ。――いいか両君、能く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追随して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟の間に膨脹するかも知れません。それ故にこの御婚儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今のうちに御断念になった方が安全かと思われます。これには当家の御主人は無論の事、そこに寝ておられる猫又殿にも御異存は無かろうと存じます」主人はようよう起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張した。吾輩もいささか賛成の意を表するために、にゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せた。寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」「ハハハハハ、艶罪という訳だ」と主人だけは大にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌な者でないに極ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛かった奴だ。傲慢な奴だ」と独りでぷんぷんしている。

するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と笑う声がする。一人が「高慢ちきな唐変木だ」と言うと、一人が「もっと大きな家へ這入りてえだろう」と言う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶だ」と大きな声をする。主人は椽側へ出て負けないような声で「やかましい、何だわざわざそんな塀の下へ来て」と怒鳴った。「ワハハハハハ、サヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだ」と口々に罵しる。主人は大に逆鱗の体で突然起き上がり、ステッキを持って往来へ飛び出した。迷亭は手を拍って「面白い、やれやれ」と言った。寒月は羽織の紐を撚ってにやにやしている。吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真ん中に主人が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと狐に抓まれた体である。