十三〜一四
作 芥川龍之介
僕たちはトックの家に急いで駆けつけました。トックは右手にピストルを握りしめ、頭から血を流しながら、高山植物の鉢植えの中に仰向けで倒れていました。そのそばには一匹の雌の河童がいて、トックの胸に顔を埋め、大声で泣いていました。僕はその河童を抱き起こしながら、正直言ってぬらぬらした河童の皮膚に触れるのはあまり好きではなかったのですが、「どうしたのですか?」と尋ねました。
「どうしたのか、わかりません。ただ、何かを書いていたと思ったら、突然ピストルで頭を撃ったのです。ああ、私はどうしたらいいのでしょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」(これは河童の泣き声です。)
「トック君はわがままだったからね。」
硝子会社の社長であるゲエルは悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。しかしペップは何も言わずに、金口の巻煙草に火をつけていました。すると、ひざまずいてトックの傷口を調べていたチャックが、医者らしい態度で僕たち五人に宣言しました。(実際には一人と四匹ですが。)
「もう駄目です。トック君は元々胃病を抱えていたから、それだけでも憂鬱になりやすかったのです。」
「何かを書いていたということですが。」
哲学者のマッグは弁解するように独り言をもらしながら、机の上の紙を手に取りました。僕たちは皆、首を伸ばして(もっとも僕だけは例外ですが)、幅の広いマッグの肩越しにその紙を覗き込みました。
「いざ、立ちてゆかん。娑婆界を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は清く、
薬草の花はにおえる谷へ。」
マッグは僕たちを振り返り、微苦笑を浮かべながら言いました。
「これはゲーテの『ミニヨンの歌』の剽窃ですよ。つまり、トック君は詩人としても疲れていたのですね。」
その時、偶然にも自動車が到着したのは音楽家のクラバックでした。クラバックはこの光景を見て、しばらく戸口に立ち尽くしていましたが、やがて僕たちの方に歩み寄り、怒鳴るようにマッグに話しかけました。
「それはトックの遺言状ですか?」
「いや、最後に書いていた詩です。」
「詩?」
マッグは静かに髪を逆立てたクラバックにトックの詩稿を渡しました。クラバックは周りを気にせず、その詩稿を熱心に読み始めました。マッグの言葉にはほとんど返事をしないままでした。
「あなたはトック君の死をどう思いますか?」
「いざ、立ちて、……僕もまたいつ死ぬかわかりません。……娑婆界を隔つる谷へ。……」
「しかしあなたはトック君とは親友の一人だったのでしょう?」
「親友? トックはいつも孤独だったのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……ただトックは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
僕は泣き声を上げ続ける雌の河童に同情し、そっと肩を抱いて部屋の隅の長椅子へ連れて行きました。そこには二歳か三歳の河童が一匹、何も知らずに笑っていました。僕は雌の河童の代わりにその子どもの河童をあやしてやりました。すると、いつの間にか僕の目にも涙が溜まるのを感じました。僕が河童の国に住んでいる間に涙を流したのは、これが初めてで最後のことでした。
「しかし、こういうわがままな河童と一緒になった家族は気の毒ですね。」
「何しろ、後のことを考えないのですから。」
裁判官のペップは相変わらず、新しい巻煙草に火をつけながら、資本家のゲエルに返事をしました。すると、音楽家のクラバックが大声を上げて僕たちを驚かせました。クラバックは詩稿を握りしめたまま、誰にともなく呼びかけました。
「しめた! 素晴らしい葬送曲ができるぞ。」
クラバックは細い目を輝かせながら、マッグの手を軽く握り、いきなり戸口へ飛び出していきました。もちろん、この時には隣近所の河童たちが大勢、トックの家の戸口に集まり、珍しそうに家の中を覗いていました。しかしクラバックはその河童たちを押しのけると、ひらりと自動車に飛び乗りました。同時に自動車は爆音を立てて、たちまちどこかへ去ってしまいました。
「こら、こら、そんなに覗いてはいけない。」
裁判官のペップは巡査の代わりに大勢の河童を押し出した後、トックの家の戸を閉めました。部屋の中はそのせいか急に静かになりました。僕たちはこの静けさの中で――高山植物の花の香りと混じったトックの血の匂いの中で、後始末のことを相談しました。しかし、哲学者のマッグだけはトックの死体を見つめたまま、ぼんやりと何かを考えていました。僕はマッグの肩を叩き、「何を考えているのですか?」と尋ねました。
「河童の生活というものをね。」
「河童の生活がどうなるのです?」
「我々河童は、何と言っても、河童の生活をまっとうするためには……」
マッグは少し恥ずかしそうに小声で続けました。
「とにかく、我々河童以外の何者かの力を信じることですね。」
このマッグの言葉が、僕に宗教というものを思い出させました。僕はもちろん物質主義者ですから、真面目に宗教を考えたことは一度もなかったのですが、この時はトックの死に感動して、河童の宗教が何であるかを考え始めました。僕はすぐに学生のラップにこの問題を尋ねてみました。
「それはキリスト教、仏教、モハメット教、拝火教なども行われています。まず一番勢力のあるものは、なんといっても近代教でしょう。生活教とも言いますがね。」(「生活教」という訳語は当たっていないかもしれません。この原語は Quemoocha です。cha は英語の ism という意味に当たるでしょう。quemoo の原形 quemal の訳は、単に「生きる」というよりも「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合を行ったり」する意味です。)
「じゃ、この国にも教会だの寺院だのはあるわけなのですね?」
「常談を言ってはいけません。近代教の大寺院は、この国で一番の大建築です。どうです、ちょっと見物に行きませんか?」
生温かい曇り空の午後、ラップは得意げに僕を連れてこの大寺院へ向かいました。確かに、それはニコライ堂の十倍はある壮大な建物でした。あらゆる建築様式が一つに組み合わさったその姿は、まるで天に向かって伸びる無数の触手のように見えました。僕たちは玄関の前に立ち、(その玄関に比べて、僕たちがどれほど小さく見えたことでしょう!)しばらくその巨大な寺院を見上げていました。
寺院の内部もまた広大でした。コリント風の円柱が立ち並ぶ中を、参拝者たちが歩いていましたが、彼らもまた僕たちと同じように非常に小さく見えました。その時、腰の曲がった一匹の河童に出会いました。するとラップはその河童に頭を下げ、丁寧に話しかけました。
「長老、御達者なのは何よりです。」
河童もお辞儀を返し、丁寧に応じました。
「これはラップさんですか? あなたも相変わらず、――(言葉が詰まったのは、ラップの嘴が腐っていることに気づいたからでしょう。)――ああ、とにかくお元気そうですね。今日はどうしてまた……」
「今日はこの方のお伴をしてきたのです。この方はたぶん御承知の通り、――」
ラップは僕のことを滔々と話し始めました。どうやら、これが大寺院に滅多に来ない理由の弁解にもなっているようでした。
「ついては、この方の御案内をお願いしたいのですが。」
長老は微笑みながらまず僕に挨拶し、静かに正面の祭壇を指さしました。
「御案内といっても、何もお役に立てることはありません。我々信徒が礼拝するのは、正面の祭壇にある『生命の樹』です。ご覧の通り、金と緑の果実が実っています。金の果実は『善の果』、緑の果実は『悪の果』と呼ばれています。……」
長老の説明を聞いているうちに、僕は退屈を感じ始めました。せっかくの長老の言葉も、古い比喩のように思えてしまったのです。僕は熱心に聞いているふりをしながら、時折大寺院の内部に目をやるのを忘れませんでした。
コリント風の柱、ゴシック風の穹窿、アラビア風の市松模様の床、セセッション風の祈祷机――それらが作り出す調和は、妙に野蛮な美を感じさせました。しかし、何よりも僕の目を引いたのは、両側の龕にある大理石の半身像でした。どこかで見たような気がしました。それも不思議ではありません。あの腰の曲がった河童は「生命の樹」の説明を終えると、今度は僕やラップと一緒に右側の龕の前に歩み寄り、その中の半身像について説明を始めました。
「これは我々の聖徒の一人、――あらゆるものに反逆した聖徒ストリントベリイです。この聖徒は多くの苦しみを経て、スウェデンボルグの哲学によって救われたと言われています。しかし、実際には救われなかったのです。この聖徒は我々のように生活教を信じていました。――というよりも、信じるほかはなかったのでしょう。この聖徒が残した『伝説』という本を読んでみてください。この聖徒も自殺未遂者だったことを自ら告白しています。」
僕は少し憂鬱になり、次の龕へ目をやりました。次の龕にある半身像は、口髭の太いドイツ人でした。
「これはツァラトストラの詩人ニーチェです。その聖徒は自らが造った超人に救いを求めましたが、やはり救われずに気違いになってしまったのです。もし気違いにならなかったとしたら、聖徒の仲間に入ることもできたかもしれません。……」
長老は少し黙った後、第三の龕の前へ案内しました。
「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒は誰よりも苦行をしました。元々貴族だったために、好奇心の強い公衆に苦しみを見せることを嫌ったからです。この聖徒は信じられないキリストを信じようと努力しました。いや、信じていると公言したこともありました。しかし、晩年には悲壮な境地に堪えられなくなりました。この聖徒も時々書斎の梁に恐怖を感じたことが有名です。しかし聖徒の仲間に入っているくらいですから、もちろん自殺はしていません。」
第四の龕の中には、我々日本人の一人の半身像がありました。僕はその顔を見た時、懐かしさを感じました。
「これは国木田独歩です。轢死する人足の心をはっきり知っていた詩人です。しかし、それ以上の説明はあなたには不必要でしょう。では、五番目の龕をご覧ください。――」
「これはワグネルではありませんか?」
「そうです。国王の友人だった革命家です。聖徒ワグネルは晩年には食前の祈祷さえしていました。しかし、もちろんキリスト教よりも生活教の信徒の一人でした。ワグネルの残した手紙によれば、娑婆の苦しみは何度もこの聖徒を死の前に追いやったことでしょう。」
僕たちはその時には第六の龕の前に立っていました。
「これは聖徒ストリントベリイの友人です。子どもがたくさんいる妻の代わりに、十三四のクイティの女をめとった商売人上がりのフランスの画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流していました。しかし、唇をご覧なさい。砒素か何かの痕が残っています。第七の龕の中にあるのは……もうお疲れでしょう。では、こちらへおいでください。」
僕は本当に疲れていたので、ラップと一緒に長老に従い、香の匂いが漂う廊下を進んで小さな部屋に入った。部屋の隅には、黒いヴェヌスの像の下に山葡萄が一房献じられているのが目に入った。何の装飾もない僧房を想像していた僕には、少し意外な光景だった。すると長老は、僕の表情からその気持ちを察したのか、椅子を勧める前に半ば気の毒そうに説明を始めた。
「どうか、我々の宗教の教えを忘れないでください。我々の神、『生命の樹』の教えは『旺盛に生きよ』というものです。……ラップさん、あなたはこの方に我々の聖書を見せましたか?」
「いえ、実は私自身もほとんど読んだことがないのです。」
ラップは頭を掻きながら、正直に答えた。しかし、長老は相変わらず静かに微笑みながら話を続けた。
「それでは、理解できないでしょう。我々の神は一日のうちにこの世界を創造しました。(『生命の樹』は、樹というものの、成し遂げられないことはありません。)さらに、雌の河童も創りました。すると、雌の河童は退屈しきって、雄の河童を求めました。我々の神はその嘆きを憐れみ、雌の河童の脳髄を取り、雄の河童を創造しました。そして、我々の神はこの二匹の河童に『食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ』という祝福を与えました。……」
長老の言葉を聞いて、僕は詩人のトックを思い出した。トックは不幸にも僕のように無神論者だった。僕は河童ではないから、生活教を知らなかったのも無理はない。しかし、河童の国に生まれたトックはもちろん「生命の樹」を知っていたはずだ。僕はこの教えに従わなかったトックの最後を憐れみ、長老の言葉を遮るようにトックのことを話し始めた。
「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
長老は僕の話を聞いて、深い息をもらした。
「我々の運命を定めるものは、信仰と境遇と偶然だけです。(もっとも、あなた方はそのほかに遺伝を挙げるでしょう。)トックさんは不幸にも信仰を持たなかったのです。」
「トックはあなたをうらやんでいたでしょう。いや、僕もうらやんでいます。ラップ君などは年も若いし、……」
「僕も嘴さえちゃんとしていれば、あるいは楽天的だったかもしれません。」
長老は僕たちにそう言うと、再び深い息をもらった。その目は涙ぐんだまま、じっと黒いヴェヌスを見つめている。
「実は、――これは私の秘密ですから、どうか誰にもおっしゃらずにください。――私も実は我々の神を信じることができないのです。しかし、いつか私の祈りが、――」
その時、突然部屋の戸が開き、大きな雌の河童が一匹、いきなり長老に飛びかかった。僕たちがその雌の河童を抱きとめようとしたが、雌の河童は瞬時に長老を床に投げ倒してしまった。
「この爺め! 今日もまた私の財布から一杯やる金を盗んでいったな!」
十分ほど経った後、僕たちは実際に逃げ出さないばかりに長老夫婦を後に残し、大寺院の玄関を下りていった。
「あれではあの長老も『生命の樹』を信じないはずですね。」
しばらく黙って歩いた後、ラップがそう言った。しかし、僕は返事をするよりも思わず大寺院を振り返った。大寺院はどんより曇った空の下、高い塔や円屋根を無数の触手のように伸ばしていた。まるで、砂漠の空に見える蜃気楼の無気味さを漂わせていた。