二十五〜二十六 (2)
作 泉鏡花
旅人は、まるで嬢様の思いのままに動くかのように、息をひそめて話し始めた。
「その時、親仁が物語っていたのを思い出す。坊は、孤家の周りで猿や蟇、蝙蝠を見たのだろう。兎や蛇も皆、嬢様に谷川の水を浴びせられて、畜生にされてしまったのだ。
ああ、あの時、あの婦人が蟇に絡まれ、猿に抱かれ、蝙蝠に吸われたことを思い出すと、私は胸が締め付けられるような思いだった。
親仁が言うには、今の白痴も、評判の高かった頃、医者のもとに来た病人だった。その頃はまだ子供で、朴訥な父親が付き添い、髪の長い兄が背負って山から降りてきた。脚に難渋な腫物があり、その療治を頼んだのだ。
彼は一室を借りて逗留していたが、そんな悩みは大事なことだ。血もかなり出さなければならない。特に子供の場合、手を下すには体に精分をつけてからと、まず一日に三つずつ鶏卵を飲ませ、気休めに膏薬を貼っておくことにした。
その膏薬を剥がす時、親や兄、また周りの者が手をかけると、堅くなって肉にくっついて取れる。彼はひいひいと泣くが、娘が手をかけてやると、黙って耐えていた。
医者は手のつけようがなく、身の衰えを理由に一日延ばしにしたが、三日経つと、兄を残して、克明な父親は股引の膝でずりずりと、玄関から土間へと進み、草鞋を履いて地に手をついて、次男坊の命が助かりますようにと、山へ帰った。
それでもなかなか進展せず、七日も経った頃、兄がちょうど刈入れの時期で、手が八本も欲しいほど忙しかった。天気も雨模様で、長雨になれば山畠の稲が腐ってしまう。総領の私は、一番の働き手だから、こうしてはいられないと、泣かないでねと子供に言い聞かせて病人を置いて行った。
後には子供一人だけが残った。その時、戸長様の帳面には前年の年齢が六つ、親は六十で、子供が二十なら徴兵はお目こぼしだと何を間違えたか、届出が五年遅れて本当は十一歳だった。それでも奥山で育ったため、村の言葉もろくに知らなかったが、賢い生まれで聞き分けがあった。三つずつ鶏卵を吸わせられる汁も、今に療治の時には血になって出ることを推量し、泣きながらも兄が泣くなと言ったので、耐えていた心の内だった。
娘は情に厚く、同じ場所で膳を並べて食事をさせると、沢庵の切れ端をくわえて隅の方に引っ込むいじらしさがあった。
いよいよ明日が手術という夜、皆が静かに寝入った後、しくしくと蚊のように泣いているのを、手水に起きた娘が見つけて、あまりの不便さに抱いて寝かせてやった。
さて治療が始まると、例のごとく娘が背後から抱いていたため、脂汗を流しながら切れものが入るのを、感心にじっと耐えた。しかし、どこを切り違えたのか、それから流れ出した血が止まらず、見る見るうちに色が変わり、危険な状態になった。
医者も青ざめて騒いだが、神の助けか、ようやく命は取り留めた。三日ほどで血も止まったが、とうとう腰が抜けてしまった。元々、体が弱かったのだ。
彼は足を見ながら情なそうな顔をしている。蟋蟀ががれた脚を口にくわえて泣くのを見るようで、目もあてられない光景だった。
しまいには泣き出し、外聞もあり、少し焦って、医者は恐ろしい顔をして睨みつけたが、あわれがって抱き上げる娘の胸に顔を隠してすがりつく様子に、長年人を手にかけてきた医者も我を折り、腕を組んで溜息をついた。
やがて父親が迎えに来た。因果を断念し、不足は言わなかったが、何分小児が娘の手を放れようとしなかったので、医者も幸い、言い訳がてら親兄の心をなだめるため、そこで娘に小児を家まで送らせることにした。
送って来たのが孤家だった。
その時分はまだ一個の荘で、家も小二十軒あったが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留した五日目から大雨が降り出した。滝を覆すような雨で、家に居ながら皆が簑笠で凌いだ。茅葺の修繕はさておき、表の戸も開けられず、内から内、隣同士で声をかけ合い、わずかにまだ人の世が尽きないことを知るばかりだった。八日を八百年と雨の中に籠もり、九日目の真夜中から大風が吹き出し、その風の勢いで泥海が押し寄せた。
この洪水で生き残ったのは、不思議にも娘と小児、そしてその時村から供をした親仁ばかりだった。
同じ水で医者の家も死絶えた。だからこそ、こんな美女が片田舎に生まれたのも、国が世がわり、代がわりの前兆だと、土地の者は言い伝えた。
嬢様は帰る家もなく、世にただ一人となって小児と共に山に留まったのは、坊が見られる通り、またあの白痴につきそって行き届いた世話も見られる通り、洪水の時から十三年、今に至るまで一日も変わりはない。
親仁はそう言い終わると、また気味の悪い北叟笑を浮かべた。
「こう身の上を話したら、嬢様を不便がって、薪を折ったり水を汲む手助けでもしてやりたいと思うのだが、本来の好心、いい加減な慈悲じゃとか、情じゃとかいう名のもとに、いっそ山へ帰りたくなる。あの白痴殿の女房になって世の中へは目もやらぬ代わりに、嬢様は如意自在、男を取り込んで、飽けば、息をかけて獣にするのだ。特にその洪水以来、山を穿ったこの流れは天道様がお授けの、男を誘う怪しの水で、命を取られぬ者はいないのだ。
天狗道にも三熱の苦悩、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸が痩せて手足が細くなれば、谷川を浴びると旧の通り、それこそ水が垂れるばかり、招けば活きた魚も来るし、睨めば美しい木の実も落ちる。袖を翳せば雨も降り、眉を開けば風も吹くのだ。
しかも、生まれつきの色好み、殊にまた若いのが好で、何か坊に言ったのだろうが、それを実行したところで、やがて飽かれると尾ができ、耳が動き、足が伸び、たちまち形が変わるばかりだ。
いや、やがてこの鯉を料理して、大胡坐で飲む時の魔神の姿を見せたいな。
妄念は起こさずに早くここを退かせ。助けられたのが不思議なくらい、嬢様のお情けだ。生命冥加な、お若いの、きっと修行をなさるだろう。」と、また一つ背中を叩いた親仁は、鯉を提げたまま山路を上の方へと向かった。
見送ると、彼の姿は小さくなり、一座の大山の背後に隠れてしまった。すると、油のように焼ける空の下、その山の頂から、すくすくと雲が立ち上ってきた。滝の音も静まり、雷の響きが一層強まる。
私は藻抜けのように立ち尽くしていたが、やがて魂が身に戻り、彼を拝むように心を整えた。杖をしっかり握り、小笠を傾け、踵を返すと、慌てて一気に駆け下り始めた。里に着いた頃には、山は驟雨に見舞われていた。親仁が婦人に持ち帰った鯉も、この大雨のせいでようやく孤家に辿り着いたのだろうと思った。
高野聖はこのことについて特に説明を加えることはなかったが、翌朝、袂を分かつ時、雪の中を越えて行く姿を名残惜しく見送った。ちらちらと雪が舞う中、彼は坂道を次第に高く上っていく。まるで雲に乗って行くかのように、その姿は美しく映った。