ドグラ・マグラ (2/47)
作 夢野久作 · 2026-04-02
「アハハハハ! こんな馬鹿なことがまたあるだろうか!」
彼は天から降ってきたのか、地から湧いてきたのか、まったくエタイのわからない人間が目の前にいることに驚いていた。自分はこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。
「今まで一体どこで何をしていたのだろう。そしてこれから何をするつもりなのか。全く見当がつかない。今、私は生まれて初めてこんな人間と出会ったのだ。アハハハハハ……。」
「これはどうしたことなのだろう。なんて不思議で、なんて馬鹿げたことだろう。アハ……アハ……可笑しい、可笑しい……アハアハアハアハアハ……。」
「ああ、苦しい。やりきれない。どうしてこんなに可笑しいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。」
私は、止めどもなく笑いながら、人造石の床の上を転がり回っていた。しかし、やがて笑いの力が尽きて、フッと可笑しくなくなった。私はムックリと起き上がり、目をこすりながら周囲を見渡した。すると、足元には、騒動の名残として三切れのパン、野菜の皿、一本のフォーク、そして栓をしたままの牛乳の瓶が転がっていた。
それを見て、何故か一人で赤面してしまった。同時に、耐え難い空腹感が襲ってきた。そばに落ちていた帯を締め直すと、右手を伸ばして生温かい牛乳の瓶を握り、左手でバターを塗った焼き麺パンを掴んでガツガツと食べ始めた。次に、野菜サラダをフォークに刺して、その美味しさを頬張り、グシャグシャと噛んで牛乳と一緒にゴクゴクと飲み込んだ。すっかり満腹になると、背後に横たわっている寝台に這い上がり、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら目を閉じた。
その後、約十五分か二十分の間、ウトウトしていたように思う。満腹のせいか、全身の力が抜けて、手のひらと足の裏がポカポカと温かくなり、頭の中がだんだんと薄暗い空間になっていく……その中で、遠く近くの様々な朝の物音が行き交い、飛び違っては消えていく……そのカッタルサ……やるせなさ……。
往来のざわめき、急ぐ靴音、ゆっくりと下駄を引きずる音、自転車のベル……どこか遠くの家でハタキをかける音……。
遠い、高いところでカラスがカアカアと鳴いている……近くの台所らしいところで、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に女の声が聞こえた。
「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」
その後、私の腹の中でグーグーと胃袋が喜びを表す音がした。それらの音が一つ一つ溶け合い、次第に遥かな世界へ遠ざかっていき、ウットリした夢心地になっていく……その気持ちよさ……ありがたさ……。
すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠いところから聞こえ始めた。それは確かに自動車の警笛で、大きな呼子の笛のように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く特別な高い音だった。何だか恐ろしく急な用事があって、私のところへ駆け付けてくるように思えてならなかった。それが朝の静寂を超越し、さまざまな物音をかき消しながら、市街の辻々をあっちへ曲がり、こっちに折れつつ、驚くべき速さで私の寝ている頭の方向へ近づいてきた。
やがて、それが私に迫り近づいてきて、今にも私のモシャモシャした髪の中に飛び込んできそうになったところで、急に横にそれて、大まわりをした。高い唸り声をあげて徐行しながら、一町ほど遠ざかったかと思うと、再び方向を変えて、私の耳の穴に沁み入るほどの高い悲鳴を上げつつ、急速度で近づいてきた。間もなく、それはピタリと停車したらしい。何の物音も聞こえなくなった……同時に世界中が静まり、私の睡眠が深くなっていく……。
そう思っていると、五分間ほど心地よく過ごしていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。続いて扉が重々しくギイイ――ッと開き、何やらガサガサと音を立てて入ってくる気配がしたので、私は反射的に跳ね起きて振り返った。しかし、目を定めてよく見ると、驚愕した。
私の目の前には、緩やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型の籐椅子が一つ置かれていた。その前に立っているのは、私を見下ろすように突立っている驚くべき異様な人物だった。
その人物は、身長が六尺を超えるかと思われる巨人だった。顔は馬のように長く、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く長い眉の下に、鯨のような小さな目が並び、その中にはヨボヨボの老人か、または瀕死の病人のような青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々とそびえ、鼻筋は白光りしていた。その下に大きく横一文字に閉ざされた唇の色は、周囲の皮膚の色と一体になって生白く見え、何か悪い病気にかかっているのではないかと思わせた。特に、その寺院の屋根に似た広い額の斜面と、軍艦の舳先のような巨大な顎の形は、見るからに超人的で、一種の異様な性格を持つ者としか思えなかった。彼は黒い髪をテカテカと二つに分け、贅沢そうな黒茶色の毛皮の外套を着て、その間から揺らめく白金色の逞しい時計の鎖の前で、細長い蒼白い指を揉み合わせながら、婦人用と思われる華奢な籐椅子の前に立っていた。その姿はまるで魔法か何かを使って現れた西洋の妖怪のように見えた。
私は恐る恐るその相手を見上げていた。まるで卵から孵化したばかりの生物のように、息を詰めて目をパチパチさせ、口の中でオズオズと舌を動かしていた。しかし、そのうちに、ああ、この紳士は今の自動車に乗ってきた人だと直感した。知らず知らずのうちに、私はその方向に向き直って座り直した。
すると、間もなく、その巨大な紳士の小さく、どんよりと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ冷たい光が現れた。そして、私の姿をじりじりと見下し始めたので、何故か身体が縮むような気がして、自然と項垂れてしまった。
しかし、その巨大な紳士は、私の様子をまったく気にしていないようだった。極めて冷静な態度で、私の全身を一通り検分し終えると、今度は眼を上げて部屋の様子をゆっくりと見回し始めた。その青白く曇った視線が部屋の隅々を横切ると、私は何故か今朝目覚めてからの浅ましい行いをすべて見透かされているような気がして、さらに身体を縮めてしまった。この気味の悪い紳士は一体何の用事で私のところに来たのだろうと、心の底で恐れ惑いながら考えていた。
その時、突然、巨大な紳士は何かに脅かされたように身体を縮めて前屈みになった。慌てて外套のポケットに手を突っ込み、白いハンカチを掴み出して、大急ぎで顔に当てた。……と思う間もなく、私の方に身体を反らせながら、全身を揺すり上げて、姿に似合わない小さく弱々しい咳を続けた。しばらくして、やっと呼吸が落ち着くと、再び私の方に向き直り、一礼した。
「……どうも……身体が弱うございますので……外套のまま失礼を……」
その声は、やはり身体に釣り合わない、女性のような声だった。しかし、私はその声を聞くと同時に何故か安心した気持ちになった。この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和で親切な人間に思えてきたので、ホッと息をつき、顔を上げると、その私の鼻の先に恭しく一枚の名刺を差し出しながら、再び咳き込んだ。
「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」
私はその名刺を両手で受け取りながら、少しお辞儀の真似をした。
九州帝国大学法医学教授
若林鏡太郎
医学部長
名刺を何度も繰り返し読み直した私は、再び唖然となった。目の前に咳を抑えて立っている巨大な紳士の姿を、もう一度見上げずにはいられなかった。そして、
「……ここは……九州大学……」
と独り言のように呟きながら、キョロキョロと左右を見回さずにはいられなかった。
その時、若林博士の左目の下の筋肉が微かに震えた。それは、この人物特有の微笑ではないかと思われる一種異様な表情だった。続いて、その白い唇がゆっくりと動き出した。
「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室でございます。どうもお寝みのところをお妨げして恐縮に堪えませんが、かように突然お伺いした理由は他でもありません。……早速ですが、貴方は先刻、食事係の看護婦にご自分のお名前をお尋ねになったそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたので、すぐにお伺いした次第でございますが、いかがでしょうか……もはやご自分のお名前を思い出されましたでしょうか……ご自分の過去に関する記憶を、残らず回復なさったでしょうか……」
私は返事ができなかった。やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように目を白黒させ、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。
……これが驚かずにいられようか。私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に付きまとわれているようなものではないか。
看護婦に自分の名前を訊ねてから、今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間も経っていない。そのわずかな間に病気を押して、これだけの身支度をして、私が自分の名前を思い出したかどうかを問いに駆け付けてくる……その薄気味の悪い素早さと不可解な熱心さ……。
私が自分の名前を思い出すという、たったそれだけのことが、この博士にとって何故それほどの重大事件なのだろう……。
私は二重三重に面喰わせられたまま、掌の上の名刺と若林博士の顔を見比べるばかりだった。
ところが不思議なことに、若林博士も私のその顔を、瞬き一つせずに見下していた。私の返事を待つつもりらしく、口をぴったりと閉じて、私の顔を穴があくほど凝視していたが、その緊張した表情には、私の返事に対して重大な期待を持っている心構えがありありと現れていた。私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すかどうかということが、若林博士自身と何か深い関係を持っているに違いないことが、その表情から読み取れたので、私は一層固くなってしまった。
二人はこうして、しばらくの間、睨み合いの姿になった。しかし、そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ないことを察したのか、如何にも失望したらしくそっと眼を閉じた。けれども、その瞼が再びショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が左の頬から唇へかけて現れたようだった。同時に、私が呆然としているのを、何か他の意味で面喰っているものと勘違いしたらしく、微かに二三度うなずきながら唇を動かした。
「……御尤もです。不思議に思われるのは御尤も千万です。元来、法医学の立場を厳守しなければならない私が、こうして精神病科の仕事に立ち入るのは、全然筋違いに相違ありませんが、しかし、これには万止むを得ない深い事情が……」
と語り始めた若林博士は、再び咳が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落ち着いたらしい。ハンカチの陰で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。
「……実は、他でもありません。この精神病科の教室には、つい最近まで正木敬之という名高い方が主任教授として在任されていました。」
「……マサキ……ケイシ……」
「はい、その正木敬之という方は、我が国だけでなく、世界の学界でも重要な存在でした。彼は、行き詰まっていた精神病の研究に対して、根本的な革命を起こすべき『精神科学』に関する新しい学説を、果敢に樹立した偉大な学者です。もちろん、これまで行われてきた心霊学や降神術のような非科学的な研究とは異なり、純粋な科学の基礎に立脚した画期的な新理論です。正木先生はこの教室内に、世界に類を見ない精神病の治療場を創設し、その学説の真理を着実に証明してきました。……言うまでもなく、あなたもその新しい治療を受けた一人なのですが……」
「僕が……精神病の治療を……」
「そうです。ですから、正木先生が責任を持って治療していたあなたに対して、法医学専門の私がこうしてお尋ねするのは、まさに筋違いであり、あなたが不審に思われるのも当然だと理解しています。しかし、残念なことに、正木先生は一ヶ月前に突然、私に後事を託されたまま永眠されてしまいました。その後任教授もまだ決まっておらず、適当な助教授もいないため、総長の命を受けて、しばらくの間、私がこの教室の仕事を兼任することになりました。その中でも特に大切に、全力を尽くしてお世話をするようにと、正木先生から委託を受けたのが、他でもないあなたなのです。言い換えれば、当精神病科の面目、いや、九州大学医学部全体の名誉は、今や唯一、あなたが過去の記憶を取り戻すかどうか、あなた自身の名前を思い出すかどうかにかかっているのです。」
若林博士がこう言い切った瞬間、私の周囲が急に眩しくなったように感じ、目をパチパチさせた。私の名前の幽霊が、どこかから後光を輝かせながら現れそうな気がした。
しかし、その次の瞬間、私は顔を上げることもできないほどの情けない気持ちに襲われ、知らず知らずのうちにうなだれてしまった。
ここは確かに九州帝国大学の精神病科の病室であり、私は一人の精神病患者として、この七号室に収容されているのだ。
今朝、目が覚めたときから、どこか変調をきたしているように感じていたのは、何かの精神病にかかっていた……いや、現在もかかっている証拠なのだ。そうだ、私は狂人なのだ。
ああ、私は浅ましい狂人……。
あらゆる恥ずかしさが、丁寧すぎる若林博士の説明によって、初めてはっきりと意識されてきた。それに伴い、胸が息苦しくなるほどドキドキしてきた。恥ずかしいのか、恐ろしいのか、または悲しいのか、自分でも判然としない感情に全身をチクチクと刺されるように感じ、耳から首筋にかけて熱くなってきた。目の中が自然と熱くなり、そのままベッドの上に突っ伏したい気持ちで、悲しみを抱えながら両手を顔に当て、目の周りをそっと押さえた。
若林博士は、私のその態度を見下しながら、二度ほどゴクリと唾を飲み込んだようだった。それから、まるで貴族に対するように両手を前に組み、今までよりも一層親切な響きを込めて、ほとんど猫撫で声で私を慰めた。
「おっしゃる通りです。誰でもこの病室で自分自身を発見すると、一種の絶望に近い、打撃的な感覚を受けるものです。しかし心配はいりません。あなたはこの病棟に入院している他の患者とは、全く違った意味で入院しているのですから……」
「……僕が……他の患者と違う……」
「はい、あなたは正木先生がこの精神病科で創設した『狂人の解放治療』という画期的な精神病治療に関する実験の中で、最も貴重な研究材料としてご自身を提供された方なのです。」
「……僕が……私が……狂人の解放治療の実験材料……狂人を解放して治療する……」
若林博士は少し上体を前に傾けながら頷いた。「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように。
「その通りです。その『狂人解放治療』の実験を創始された正木先生の人格と、その編み出された学説が、いかに画期的なものであったかは、もうすぐお分かりになると思います。しかし、あなたはすでに、自分の脳の正確な働きによって、その正木博士の新しい精神科学の実験を驚くべき成果で完成させ、当大学の名前を全世界の学界に印象づけているのです。さらに、あなたはその実験の結果として現れた強烈な精神的衝動のために、自身の意識を完全に喪失していましたが、今、まさにその意識を鮮やかに回復しようとしているのです。ですから、あなたはその解放治療場で行われた、ある驚異的な実験の中心的な代表者であり、同時に当九大の名誉の守り神とも言える方なのです。」
「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」
私は思わず急いで寝台の端に身を乗り出した。あまりにも奇妙な話の中心に引き込まれていく自分が恐ろしくなったからだ。そんな私を見下ろしながら、若林博士は一層冷静な態度で頷いた。
「それは本当にごもっともな疑問です。しかし、残念ながらそのことについては、今はっきりとお答えすることはできません。いずれ、あなた自身がその経過を思い出す時が来るでしょう。」
「……僕自身が思い出す。……それはどうして思い出すの……」
私はさらに焦りながら言葉を詰まらせた。若林博士の言葉によって、再び精神病患者の無力さを思い出させられたように感じた。
しかし、若林博士は動じなかった。静かに手を挙げて私を制した。
「……お待ちください。それは非常に複雑な事情なのです。実を言うと、あなたがこの解放治療場に入った経緯には、一朝一夕では語り尽くせない深刻で複雑な因縁が隠れています。その因縁の話を私が一方的にまとめようとすると、すべてが虚構になってしまう恐れがあります。結局、その話の筋道を直接体験したあなたが、その深刻で不可思議な体験を思い出さなければ、誰も真実として信じることができないのです。それほどまでに奇怪で驚異的な因縁が、あなたの過去の記憶の中に含まれているのです。しかし、今のあなたの安心のために、これだけはお話ししても差し支えないと思います。つまり、『狂人の解放治療』というのは、本年の二月に正木先生が当大学に赴任されてから間もなく、その治療場の設計に着手されました。そして七月に完成し、わずか四ヶ月間の実験を行った後、ちょうど一ヶ月前の十月二十日に正木先生が亡くなられたのと同時に閉鎖されることになったのです。その短い期間に、正木先生が行った実験は、あなたの過去の記憶を回復させることを中心にしていました。そして、その結果、正木先生は、以前から特異な精神状態にあったあなたが、遠からず今日の状態に回復するだろうと明確に予言していたのです。」
「……亡くなられた正木博士が……僕の今日のことを予言……」
「そうです。あなたを当大学の宝として大切に扱っている間に、きっと元の精神意識に戻るでしょう。正木先生の偉大な学説の原理と、その原理から生まれた実験の効果を、あなた自身が証明することになるだろうと、正木先生は断言していました。さらに、もしあなたが正木先生の言葉通りに過去の記憶をすべて回復することになれば、その必然的な結果として、あなたがかつて関わった、ほとんど空前とも言うべき怪奇で悲惨な犯罪事件の真相も同時に思い出すことになるだろうと、私も信じて疑わなかったのです。もちろん、今もそのことを固く信じていますが……」
「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」
「そうです。とりあえず空前と言いましたが、あるいは絶後になるかもしれないほどの異常な事件です。」
「……それは……どんな事件……」
私は息を吐く間もなく、寝台の端に身を乗り出した。
しかし、若林博士はどこまでも冷静だった。端然と立ち尽くし、さらりと言葉を続けていった。その青白い瞳で、静かに私を見下ろしながら。
「……その事件とは、他でもありません。何を隠しましょう。先ほどお話しした正木先生の精神科学に関する研究について、私も以前から指導を仰いでおり、今も引き続き『精神科学応用の犯罪』について研究を重ねているのです。」