ドグラ・マグラ (40/47)
作 夢野久作
私は再び座り直した。目の前に自分の無力を突きつけられたような気がして、思わず心が熱くなった。
「先生、いいですか。僕が自分で考えてみますよ。まず仮に、この犯人が僕でないとしたら、村の人たちが言うように、この絵巻物が一人で弥勒様の仏像から抜け出して、呉一郎の手に渡るなんてことは、あり得ないでしょう。」
「……ウフン……」
「それに、伯母の八代子と母の千世子も、呉一郎を心から愛している女性ですから、こんな恐ろしい言い伝えのある絵巻物を呉一郎に見せるなんてことは、考えられません。雇い人の仙五郎というおじいさんも、そんなことをする人ではないでしょう。お寺の坊さんは、呉家の幸福を祈るために仕えているようなものですから、巻物があるとわかったら、逆に隠すくらいでしょう。そうなると、他にまだ誰にも気づかれていない意外な人間の中に、嫌疑者がいるはずです。」
「……ウフン。自然、そういうことになるわけだね。」
正木博士は変な粘っこい口調で、不承不承にそう言った。それから少し目を開いて私を見た。その目の色は、鼻の横の微笑とは無関係に、青白く冷酷であった……と思う間もなく、また元通りにピッタリと閉じた。
私はますます焦りを感じた。
「若林博士のその調査書類の中には、そんな嫌疑者について色々と心当たりが調べてあるんですね。」
「……ないようだ。」
「……えっ……一つも……?」
「……う……うん……」
「……じゃあ……その他のことは、みんな念入りに調べてあるんですか?」
「……う……うん……」
「……何故ですか……それは……」
「……う……うん……」
正木博士は微笑を浮かべたまま、ウトウトと眠りかけているようだった。その顔を見つめているうちに、私は呆然としてしまった。
「……それは怪訝じゃないですか、先生……犯人のことをお留守にして、他のことばかりに念を入れるなんて……仏作って魂入れずじゃないですか。ねえ、先生……」
「……………」
「……ねえ、先生……たとえ悪戯にしろ何にしろ、これほど残忍で、非人道的に巧妙な犯罪が、他にあり得るでしょうか。……本人が発狂しなければ無論、罪にはならないし、万が一発狂すれば何もかもわからなくなる。また、万が一犯人として捕まったとしても、法律はもちろん、道徳上の罪までもごまかせるかもしれないのですから、これほど悪辣で残酷な悪戯は他にないと思われるじゃないですか、先生……」
「……う……ふん……」
「その根本問題に全く触れないで調査した書類を、先生に渡すのは、どう考えても怪訝じゃないですか。」
「……う……ふん。……おかしいね……」
「……この事件の真犯人を明かにするには、是非とも呉一郎か、僕の頭を回復させて、犯人を指示させるより他に方法はないのでしょうか……先生のような偉い方が二人も関わっているのに……」
「……ないよ……」
正木博士は、まるで乞食を断るように面倒くさそうな口ぶりで答えた。再び眠たそうに目を閉じた……。私は思わず唾を飲み込んだ。
「……一体、この絵巻物を呉一郎に見せた目的は何でしょうか。」
「……う……うん……」
「本当に心からの親切か……それとも悪戯か……恋の遺恨か……何かの恨みか……それとも……それとも……」
私は驚愕した。呼吸が苦しくなり、胸が波打ちながら正木博士の顔を凝視した。
博士の鼻の横の微笑がスッと消えた。……と同時に、目をパッチリと開いて私を見た。心持ち青白い顔に、黒い瞳をじっと据えたまま静かに部屋の入口を振り返った……が、やがてまたおもむろに私の方へ向き直り、椅子の上で姿勢を正した。
その黒い瞳は博士特有の鋭い光を失い、何とも言えない柔らかい静けさを帯びていた。その態度には、今までの横着で図々しい感じが全くなくなっていた。見る見るうちに一種の神々しい気品を帯びてくると同時に、何とも言えず寂しい、悲しい心持を肩のあたりに見せていた。その態度を見ているうちに、私の呼吸がだんだんと静まってきた。そして、いつの間にか目を伏せ、頭を低くしてしまった。
「……犯人は俺だよ……」
と博士は空洞の中で呟くような声で言った。
私は思わず驚いて顔を上げた。弱々しく、物悲しい微笑を浮かべている博士の顔を見上げたが、またハッと目を伏せた。
……私の目の前が灰色に暗くなってきた。全身の皮膚がゾワゾワと毛穴を閉じ始めたような……。
私は静かに目を閉じた。震える指を額に当てた。心臓がドキンドキンと空に躍り回っているのに、額は冷たく濡れている。その耳元に正木博士の悄然たる声が響く。
「……君がそこまで判断力を回復しているならば、止むを得ない。一切を打ち明けよう。」
「……………」
「何を隠そう。私は以前から覚悟を決めていた。この調査書類の内容が、私をこの事件の犯人として指していることを、最初から明らかに認めていながら、知らぬ顔をしてきたのだ。」
「……………」
「この調査書類の内容は一字一句、私を指して『お前だ、お前だ。お前以外にこの犯人はいない』と主張しているのだ。……すなわち……第一回に直方で起こった惨劇は、高度な常識を持つ思慮深い人間が、あらゆる犯跡を掻き消しつつ、事件が迷宮に入るように故意に呉一郎が帰省した時を選んで、巧みに麻酔剤を使用して行った犯罪である。呉一郎の夢中遊行では断じてない……と……」
正木博士はここで一つ、静かな咳払いをした。私はまたもや驚かされたが、それでも顔を上げることができなかった。正木博士が吐き出す一言一言の重大さに、圧しつけられるようになって……。
「……その犯行の目的は明らかだ。呉一郎を母親の千世子から引き離し、モヨ子と近づけるために、伯母が姪の浜に連れて来たのだ。モヨ子は姪の浜小町と称されるほどの美人だから、周囲には彼女に惹かれる者が多いに違いない。そして、絵巻物の本来の場所であるこの地の住民は、多少なりともその伝説を知っている。一方で、呉一郎とモヨ子の縁組はほぼ確実に外れることはない。だから、この実験を試みるには、またその痕跡を隠すには、姪の浜以上に適した場所はないのだ。」
「……………」
「……だから、第二回の姪の浜事件も、決して神秘的な出来事ではない。直方事件以来の計画通り、ある人物が石切場近くで呉一郎の帰りを待ち伏せし、絵巻物を渡したに違いない。つまり、この直方と姪の浜の二つの事件は、同じ目的のために、同一の人物の頭脳によって計画されたものだ。その人物は、この絵巻物に関する伝説に対して非常に高い理解と興味を持っており、実際に試験するための最適な時期、すなわち被害者である呉一郎が大きな幸福への期待に満ちている最高潮の瞬間を狙い、その完全な発狂を予期しつつ、この古代の学術実験を行ったのだ……といえば、私以外に誰がいるだろうか……」
「ありますッ……」
私は突然、椅子を蹴って立ち上がった。顔が火のように赤くなり、全身の骨と筋肉が力に満ちて戦うような感覚だった。愕然としている正木博士の鼻眼鏡を睨みつけた。
「……ワ……ワ……若林……」
「馬鹿ッ……」
その大喝が、正木博士の口から響き渡った。同時に、彼は黒い、凹んだ目でじりじりと私を見据えた。その真っ黒な眼の光の強烈さは、まるで罪人を見下す神のような厳粛さを持っていた。怒りに満ちた猛獣のような迫力だった。私はその勢いに圧倒され、たちまち震え上がった。よろよろと後ろに倒れそうになり、ドタリと椅子に尻餅をついた。その恐ろしい瞳に、自分の目が吸い寄せられたまま……。
「……馬鹿ッ……」
私は左右の耳たぶが火がついたように熱くなり、がっくりと頭を垂れた。
「……無考えにも程がある……」
その声は、私の頭の上から大岩のように圧し掛かってきた。今までの頼りない、寂しい態度とは打って変わって、父親の言葉のような威厳と慈悲が、その底に込められていた。
私はまた、何故か胸がいっぱいになりかけた。正木博士の筋ばった両手の指が机の端を押さえながら、一言一句に力を込めていくのを見つめていた。
「……これほど恐ろしい実験を、ここまで突っ込んで行える者が、私以外にもう一人しかいないということは、誰でも考え得ることだろう。それが分かれば、その人間の名前がうっかり口から出ないことも、すぐに思いつくはずだ……何という軽率さだ。」
「……………」
「まして本人は既に……一切を自白している。」
「……エッ……エッ……」
私は愕然として顔を上げた。
すると正木博士は、青いメリンスの風呂敷に包まれた調査書類を右手でしっかりと押さえながら、冷然として唇を噛んでいた。それは何の意味か分からず、ある神聖な言葉を発する前提のように思えた。その緊張した態度に打たれ、私は再び頭を垂れた。
「その自白の記録が、この調査書類だ。これは本人が、自分で犯した罪跡を自ら調査し、私に報告したものだ。」
……冷たいものが一筋、私の背中を走り降りて行った。
「……君はまだ犯罪の隠蔽心理や自白心理について、詳しくは知らないだろうが……よく聞いておきなさい。人間の知恵が進むにつれて、また社会機構が複雑になってくるにつれて、こんな恐ろしい犯罪心理が、一般的なものになっていくに違いないのだから……分かったか……」
「……………」
「……この調査書がどれほど恐るべきものであるか……この調査書類の中に含まれている犯罪の隠蔽心理と自白心理の二つが、どれほど深刻で、眩惑的な魔力を持って私にこの罪を引き受けさせようと迫ってきたか、その理由をこれから説明するから……」
私は全身の筋肉がみるみる冷え固っていくのを感じた。両眼の視線は再び、目の前に横たわる緑色の羅紗に吸い寄せられ、動かすことができなくなった。
その時、正木博士は軽く咳払いを一つした。
「……仮にある人間が一つの罪を犯したとすると、その罪は、どんなに完全に他人の目から回避できたとしても、自分自身の『記憶の鏡』の中に残っている。罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い去ることができないものである。これは人間に記憶力がある以上、避けられないことで、誰でも軽蔑するくらいよく知っている事実だが……実際の例に照らしてみると、なかなか軽蔑などしていられない。この記憶の鏡に映る自分の罪の姿は、常に五分も隙のない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れられない共犯者の脅迫力を同時に示し、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶対の弱点となって、最後の息を引き取る間際まで、密かに犯人に付きまとってくるのだ……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われる道は、ただ二つ、『自殺』と『発狂』以外にないと言ってもいいくらい、その恐ろしさは徹底している。世俗に言う『良心の苛責』なるものは、結局こうした自分の記憶から受ける脅迫観念に他ならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺すしか方法はない……ということになるのだ。」
……だから、あらゆる犯罪者は、自分の頭が良ければ良いほど、この弱点を隠そうと必死になる。しかし、その隠蔽の手段は、十人十色、百人百様であっても、最終的には同じ方法に行き着く。それは、自分の心の奥底に秘密の部屋を作り、その暗闇の中に自分の「罪の姿」を「記憶の鏡」と共に密閉し、自分自身にも見えないようにしようとするのだ。しかし、残念なことに、この「記憶の鏡」というものは、周囲が暗くなるほどに、逆に鮮やかに輝き出す。見ようとすればするほど、見たくてたまらないという奇妙な反逆的な作用と、それに伴う底知れぬ魅力を持っているのだ。
その魅力を知れば知るほど、我慢ができなくなり、ついにはその記憶の鏡を振り返ってしまう。すると、その鏡に映る自分の罪の姿もまた、自分を振り返っている。双方の視線が必然的に交わり、思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれてしまう……こうしたことが何度も繰り返されるうちに、ついには耐えきれなくなり、この秘密の部屋を打ち破って、人前にさらけ出してしまう。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せ、「犯人は俺だ。この罪の姿を見ろ」と白日の下に告白するのだ。そうすると、その自分の罪の姿は、鏡の反逆作用によってスッと消え、初めて一人になってホッとする。
また、自分の罪に関する記憶を一つの記録として残し、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この苦しみから逃れる一つの方法だ。そうしておいて記憶の鏡を振り返ると、鏡の中の「自分の罪の姿」も、その記録を押さえつけながら自分を見ている。だから、いくらか安心して淋しく笑うと、「自分の罪の姿」も自分を見て、憐れむように微苦笑している。それを見ると、少し気が落ち着いてくる……これが私の言う自白心理だ……いいかい……。
さらに、極めて頭の良い……地位や信用を持つ人間が、自分の犯罪を絶対に安全な秘密の地帯に置きたいと考えたとする。その方法の中でも最も理想的なものの一つが、今言った自白心理を応用したものである。つまり、自分の犯罪の痕跡や証拠をすべて自分の手で調べ上げ、どうしても自分が犯人であることが、言わず語らずの中でわかるようにするのだ。そして、その調査の結果を、自分が最も恐れる相手、つまり自分の罪跡を最も早く見抜く可能性を持った人間の前に提出する。そうすると、その相手の心理には、人情の自然と、論理の焦点を見失うことから生じる微細な……実は「無限大」と「零」のほどの違いを持つ眩惑的な錯覚が生まれ、どうしても目の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間、犯罪者は今までの危険な立場を一転させ、ほぼ絶対の安全地帯に立つことができる。そうなったら、もう占めたものである。一旦この錯覚が成立すると、容易に元に戻すことができない。事実を明らかにすればするほど、相手の錯覚を深めるばかりで、自分が犯人であることを主張すればするほど、その犯人が立つ安全地帯の絶対的な価値が高まっていく。そして、この錯覚に引っかかる度合いは、相手の頭が明晰であればあるほど、深いのだ……いいかい……。
この「犯罪自白心理」の最も深刻なものと「犯罪隠蔽心理」の最も高等なものが、一緒に現れたのが、この調査書類なのだ。まさに、これこそ私の遺言以上の、前代未聞の犯罪学研究資料だと思われる……いいかい……そうしてさらに……」
ここまで話すと、正木博士は突然身軽に、まるで自由そうに回転椅子から飛び降りた。自分の考えを踏み締めるように両手を背後に組み、一歩一歩に力を入れて、大卓子と大暖炉の間の狭いリノリウムの上を往復し始めた。
私はやはりいつも通り、回転椅子の中で小さくなり、目の前の緑色の羅紗の平面を凝視していた。その眩しい緑色の中に、つい今しがた発見した黒い、留針の頭ほどの焦げ跡が、だんだんと小さな黒ん坊の顔に見えてくる……大きな口を開いてゲラゲラ笑っているような……それを一心に凝視していた。
「そしてさらに恐るべきことには、この書類に現れている自白と、犯罪の隠蔽手段は、一分一厘の隙間もなく私をしっかりと押さえつけているのだ。……つまり、もしこの書類が公表されるか、または司法の手に渡ることがあれば、どんな凡庸な司法官でも、すぐに私を嫌疑者として挙げざるを得ないようにできているのだ。……さらに……万が一、私が法廷に立つようなことがあった場合には、仮に文殊の知恵、富楼那の弁が私にあったとしても、一言も弁解ができないように、この調査書は仕掛けられているのだ。そのカラクリ仕掛けの恐ろしい内容を今から説明する……いいかい……私がこの戦慄すべき学術実験の張本人として名乗りを上げざるを得なくなった理由を説明するんだよ」
こう言ううちに正木博士は大卓子の北の端にぴたりと立ち止まった。両腕を縛られているかのようにしっかりと背後に組んだまま、私の方を振り返ってニヤニヤと冷笑した。その瞬間、彼の鼻眼鏡の二つの硝子玉が、南側の窓から射し込む青空の光をまともに受けて、真っ白く剥き出された義歯と共に、気味悪くギラギラと光った。それを見ると、私は思わず視線を外し、目の前の小さな焦げ跡を見たが、その中から覗いていた黒ん坊の顔はもう跡形もなく消えていた……と同時に、私の頬や首筋、横腹あたりが、ザワザワと粟立ってくるのを感じた。
正木博士はそのまま黙って北側の窓のところまで歩いて行った。そこでちょっと外を覗くと、すぐに大卓子の前の方へ引き返してきたが、その態度は、今までよりもずっと砕けた調子になっていた。この大事件を依然として馬鹿にし切って、弄んでいるような、滑らかで若々しい声で言葉を続けた。
「……さて、君にお願いがある。まず君が裁判長の役割を果たし、この前代未聞の精神科学を応用した犯罪事件を、厳正かつ公平に審理してほしい。私は検事であり、同時に被告人でもある。つまり、一人二役を演じる立場だ。この事件の最後の嫌疑者である『W』と『M』の行動に関するすべての秘密を、私が知っている限り明らかにし、告白するから……君は結局、双方の弁護士であり、同時に裁判長だ。そして、精神科学の原理に精通した名探偵の立場にも立ってもいい……わかったかい?」
私のすぐそばに立っていた正木博士は、リノリウムの床の上を北から南へとコツリコツリと往復しながら、咳を一つした。
「……まず、呉一郎がその絵巻物を見せられ、精神的な発作に陥った当時のことを話そう。大正十五年の四月二十五日、呉一郎とモヨ子の結婚式の前日、『W』も『M』も、姪の浜からそう遠くない福岡市内に確かにいた。……Mはまだ九州大学に着任したばかりで、下宿が見つからなかったため、博多駅前の蓬莱館という汽車待合兼業の旅宿に泊まっていた。この蓬莱館はかなり大きな宿で、部屋数も多く、客の出入りが激しい。さらに博多一流の宿で、客の扱いが粗雑なので、金を払って食事を済ませていれば、半日や一晩いなくても気にされないという、現場不在証明にはうってつけの場所だ。……一方、Wはというと、いつも九大医学部の法医学教授室にこもって勉強している。仕事が忙しい時は内側から鍵をかけ、用事は電話で済ませる。鍵穴が塞がっているときは、外からノックしないのが法医学部の関係者の習慣になっている。こうしたWの神経質さは、小使いや友人たち、さらには新聞記者仲間の間でも評判になっているほどで、これも現場不在証明を作るには非常に便利な習慣だ。
……さて、呉一郎が結婚式の前日に出席する予定だった福岡高等学校の英語演説会の日付や時刻は、新聞を見ればすぐにわかる。呉一郎が不器用に歩いて帰る習慣も著しいので、事前に調査していればすぐに気づくことだろう……そこで、石切場で働く石切男の家族に、何か検出が難しい毒物を食べさせ、その日を中心に数日間休ませ、その隙に仕事を進めるという段取りになる。もっとも、姪の浜という場所は半漁村で、福岡市に鮮魚を供給しているため、よく虎列剌や赤痢などの流行病の病源地として認識されることがある。そのため、そうした病原菌を使うのは手軽で良いのだが、この種のバクテリアは、その人間の体質やその時の健康状態によって効果がないこともあるから困る。いずれにせよ、九大の法医学教室は衛生や細菌の研究が盛んで、その手筈には非常に便利だと思う。とにかく、微塵の狂いもなく取り組むことが、この事件の特徴なのだから。
……次に、当日、呉一郎が福岡市の外れの今川橋から姪の浜まで、約一里の道を歩いて帰るとすれば、必ずあの石切場の横を通り、山と田んぼに挟まれた国道を通ることになる。戸倉仙五郎の話にも出ていたが、実際に見てもすぐに納得できる。麦はもうかなり伸びている頃だが、深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻きとマスク、夏用のマントなどを組み合わせて、往来に近い石の間に腰をかけてじっとしていれば、顔や背格好をかなり違った人間に見せかけることができたはずだ。……そこで帰ってくる呉一郎を呼び止め、言葉巧みに誘惑するのだ。たとえば……実は私はあなたの亡くなったお母様を知っている者ですが、あなたが幼い頃に、あなたに関する極めて秘密のお頼みを受けたことがありました。そのお約束を果たすために、こうしてお待ちしていたのです……と言えば、いくら呉一郎が人見知りの坊ちゃんでも、引き寄せられずにはいられないだろう。そして、その絵巻物を見せびらかしながら……これは呉家の宝物で、お母様が家中に置いておくと教育上良くないからと、私に預けておかれたものです。明日からはあなたが一軒の家庭の主人公になると伺いましたので、お返しに参りました。つまり、あなたがモヨ子さんと結婚式を挙げる前に、ぜひとも見ておかなければならない品物で、あなたの遠いご先祖にあたるあるご夫婦が示された、忠義心と愛情の極致が描かれているのです。これに関しては、様々な恐ろしい噂や伝説が絡みついているほどの宝物ですが、実はとても素晴らしい名画と名文なのです。もし嘘だと思われるなら、今ここでご覧になっても構いません。その上で不要であれば、もう一度私が預かっても構いません。あの高い岩の陰なら、誰も来やしないでしょう……と言ったかどうかはわからないが、私だったら、そんな風に言い回して好奇心をそそるのが一番だと思う。果たして、呉一郎は見事にその罠に引っかかった。岩の陰で夢中になって絵巻物を広げているうちに、すらりと姿を消してしまうくらい、何でもない芸当だったのだ……わかったかい……。