閉じる

ドグラ・マグラ (12/47)

作 夢野久作

ああ、なんということだ。化け物が出られない奈落へと続く扉が、こんなにも危険な地獄の入り口が存在するなんて。もし本当にそこら中にそんなものがあったら、どうなってしまうのだろう。お立ち会いの皆さんはもちろんのこと、政府の関係者や学者たち、知識階級の人々も、血のある涙のある人々が、知らん顔をして見過ごすわけにはいかないだろう。古い川柳にあるように、座敷牢の中で薬を飲むにも油断ができないのだ。

江戸の昔から続くこの問題は、ましてや近代文化や科学の進歩の中でも、人間の脳や心の本質がわからないために、精神病学の研究は昔のまま八方塞がりだ。偽の狂人と本物の狂人を見分けることすらできないのに、他の医学の体裁を真似て、治療や診察を行う病院が四角四面に作られ、器械や標本、薬、書物が並べられて威張っているのだから、こんな地獄ができるのも当然だ。これを防ぐことが今の急務だ。そんな病院を見つけ次第、叩き潰すことが何よりも急がれる。

チャカポコ、チャカポコ。スカラカ、ポコポコ。さて、そんなインチキ病院がキチガイ地獄を作らないようにするための工夫があるとしたら、ただ一つの手段がある。それは、かなり大きな仕事になるが、どこか気候が良く景色のいい、交通の便利な離れた島に、ざっと一千万円かけて、私が新しい精神病院を建てることだ。そこには研究試験所も併設し、患者を無料で入院させる。地獄なんて作らせないために、解放治療という新しい方法を行うのだ。これは私の新しいアイデアで、正しい精神科学に基づく、正しい狂病の治療法だ。薬も使わず、手術もしない。鉄の鎖や石箱、袖無襯衣など一切使わず、すべての精神病者を広い場所に解放し、最も自然で正しい治療を行うのが解放治療だ。言わば、精神病者の牧場、キチガイ患者の極楽世界だ。世界初の精神病院になるだろう。もちろん、誰でも見学できる。どんな素敵な観物になるかは、蓋を開けてみなければ私もわからないが、すべてが新発明だ。

ああ、すべてが新発明だ。いずれその中で発表するが、世界の学者が一人も知らない、キチガイ病気の発生する原理がある。それは非常に簡単明瞭で、素晴らしく愉快な学理だ。そこで実地の試験を行う。診察や予防が絶対に不可能で、薬も手術もできない状況で、キチガイ病気の正体を調べ、診察治療ができるようになったら、評判はすごいものになるだろう。世界にはいろいろな人種がいるが、日本人は素晴らしい。正義と人道を尊ぶ国だと、精神科学の先進国だと言わせたいのが私の願いだ。

ああ、言わせたいのが私の願いだ。しかし、何しろ一千万という金は大したものだ。私が親から引き継いだ田地や貯金、証文を古い褌に換えても、やっと半分ほどのものだ。あとは政府の助けを仰ぎ、皆様方の清い志を頼りにしたいと考えている。五厘一銭、藁一筋でも、少しでも構わない、願人坊主として頭を下げる。

ああ、頭を下げてお願い申し上げます。しかし、そういう願人坊主が、やはり「キの字」の片割れのようだ。目つきや風体が何やらおかしい。非人乞食に劣らぬ姿で、道のほとりに鞄を投げ出し、駄声を張り上げて木魚を叩いている。昼の日中に外聞を晒し、しかも文句が常識外れだ。世界文化の千万円など、耳に聞こえず目に見えない。人の心の狂いを直すという古今独歩の研究など、途方もないことを並べて寄附を集めるインチキ坊主だ。そんな古手にかかると思うか。要らぬところで道草を食ったぞ。早く行こうと仰るならば、これはまさに尤もなことで、道理も至極だ。

ああ、頭を下げてお詫び申し上げます。そもそも、こんなスカラカ、チャカポコな頭が、身の程知らずに木魚を叩いて、頼み手も無い金にもならないことをして、無駄な赤恥を天日にさらしている。事の起こりはキチガイ地獄で、文明社会の裏面に広がる無茶と野蛮の底抜け地獄だ。筆も言葉も木魚も及ばぬ、むごさ、せつなさ、悲しさ、辛さを底の底まで見てきたおかげで、こちらの頭が少々変てこになってしまった。これをこのまま捨ててはおけないと、思い込んだのが因果の始まりだ。これを助ける方法を考えた結果、精神病者を無料で預かる大きな病院を建てることが第一だ。それを建てるには、皆様方の輿論の力を借りなければならない。また、一厘一銭たりとも無駄に使わないという思案の果てだ。

思いついた乞食の姿が、お目に障ったお詫びの印だ。今のキチガイ地獄の歌を印刷に起こしたこのような書物を、お立ち会いの皆様にお頒ちします。お金は要らない、お願いします。持って帰ってお読みください。これはどうやら真実らしいぞ。寄附をしようかと思った方や、私の一生の仕事である狂人救済事業の中身をもっと詳しく調べたい方、または世界の漫遊みやげの、目先の変わったキチガイ話や、家の祟りや血統の障り、生霊や死霊の怨みなどが人の心を狂わせ惑わす、すごい因果の因縁話を聞いてみたい方、あるいは大勢集まる場所でそんな話をやらせてみたら、奇抜な余興になるかもしれないと思ったら、お手数ですが、ここに挟んだ葉書が一枚あります。これにお名前と住所を書いて、ページの終わりに止めました宛名を書いて、ぽんとポストにお願いします。願うところは、この世の中にこんな事実がありますことを、向こう三軒両隣や、どなたかの噂の種に語り伝えてくださることです。そうすれば、今言うキチガイ地獄や人類文化の裏面の秘密が、否が応でも世間に広まる。悪いことをする精神病院、キチガイ地獄を片端から叩き潰せと、輿論が高まるのだ。

政府は黙ってはいられなかった。無視できない重大な問題が浮上したのだ。社会事業の急務として、私が全財産を投げ出し、五百余万の資金を基に、精神病者を無料で受け入れる国立精神病院を建設することに決めた。これにより、各地の精神病者の生産過剰の緩和が始まる……チャカポコチャカポコ……

人々に忘れ去られ、世の中からも忘れ去られ、狂いもがきながら命を終えるあわれな精神病者たちが救われる……ポコチャカポコチャカ……

それだけではない。その病院で、研究が始まったキチガイ病の治療法が世間に広まり、世界中の精神病地獄が一つ残らず覆される。ありとあらゆる精神病者の虐待が止まるなら、こんな本懐はない……ポコポコチャカチャカ……

ああ、こんな本懐はない。だからこそ、貴様の仕事は実に道理にかなっている。奇特で感心すべき立派な考えだ。私がついているから心配するな。しっかりと踏ん張って勉強を続けろ。狂人地獄をスカラカ、チャンまで叩き潰せよ、フレ――やフレーと。お褒めいただければ、私の喜びは天井知らずだ……チャカチャカポコポコポコポコチャカチャカポコポコ……

---

スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。ああ、皆さん、申し訳ありません。お急ぎのところ、変な姿や奇妙な言葉でお引き止めしてしまい、気の毒千万です。しかし、つらつら考えてみると、三千世界を流れる時間は、何万年、何億年、何兆年とも知れぬ無限の時間の中にあるのです。五十年、七十年、百年生きても、あっという間の一生です。何が何やらわからぬままに、出会い、別れ、生まれ、死んでいく。数え切れない人々の中で、今日ここでお目にかかるのも何かの縁です。どうかお許しください。このままお別れしても、残る名残がスカラカチャカポコ。もしもこの後、世間の噂や雑誌、新聞、小説などでキチガイの話を目にしたり、本物の精神病者を通りすがりに見かけたりしたら、思い出していただければと思います。月の光や太陽の輝き、星の光も掻き消すほどの、眩しいモダーン文化や博愛仁慈の光明、正義道理のサーチライトも、昔ながらに照らさない世界です。地獄以上のキチガイ地獄に、音も香もなく消え行く先です。広さ深さも無限の暗闇の底に、青ずみ漂う血の海が広がり、その上にさまよう陰火の焰は、罪も報いもないまま死に行く。精神病者の無念の思いが、聞こえない怨みの数々として響いています。聞いた心が、クドキの文句となり、念仏代わりの阿呆陀羅経のようです。無調法な木魚に合わせて、ちょっとご機嫌を伺います。げどう――さア――えエ――もオ――んンン。キチガイ――イ――地獄ウ。

――ヘイ。お退屈様――

---

◆葉書は左記へお出しください。

九州帝国大学医学部精神病学教授

斎藤寿八氏自室気付

面黒楼万児宛

地球表面は狂人の一大解放治療場

九州帝国大学

正木敬之氏談

精神病科教室

去る三月初旬以来、九州帝国大学精神病科本館裏手に起工された「狂人解放治療場」は、その附属病院の工事と共に着々と進捗している。この内容は厳秘とされていたが、正木博士が私費を投じて開設したものであることが判明した。正木博士は同教授室において、訪れた記者にこう語った。

「世間では、私が九大で始めた『解放治療』が独創的だとか、斬新だと騒いでいるようですが、正直に言うと、決して私の独創でもなければ、斬新な療法でもありません。この地球上は、昔から狂人の一大解放治療場になっているのです。太陽はその院長、空気は看護婦、土は賄係に見立てられるのです。」

……といっても、私は別に奇矯な言葉を弄しているわけではありません。そうした事実を断言できる理由があるから言うのです。私の「精神病研究」の第一歩は、この「地球が狂人の一大解放治療場である」という事実に立脚していると言っても過言ではありません。

なぜなら、元々この地上に生まれた人間は、身分の高低、老若男女を問わず、指一本でも自分の自由にならない、またはどこかが足りないか、多すぎるかした人間を見つけると、すぐに「片輪」と名付けて軽蔑したり、気の毒がったり、特別扱いをすることに決めているのです。同様に、頭の働きが本人の自由にならない、またはどこかが足りないか、多すぎるかした人間を見つけると、すぐに精神病患者、すなわちキチガイの烙印を押し付けて差別的な扱いをすることに決めているようです。禽獣や虫ケラ以下の軽蔑や虐待を加えてもいいと考えているらしい……しかし、その精神病者を侮蔑し、冷笑している普通の人々の精神は果たして、何もかも満足に備わっているのでしょうか。すべての人々の脳は、隅々まで本人の意志の命令通りに自由自在に動いているのでしょうか。

私は敢えて言います。公平かつ厳正な学問の目から見ると、決してそうは思えません。それは手足が曲がっていたり、目鼻が欠けていたりするのと同様に、外から肉眼で見分けることができないだけで、実際にはこの地球上に生きる人間は、一人残らず精神的な片輪者だと断言しても差し支えないのです。曲がったり、くねったり、大きすぎたり、小さすぎたり、または知恵や情欲が多すぎたり足りなかったりする、いわゆる精神的な片輪者ばかりで、押すな押すなの満員状態を呈していると考えても、決して間違いではありません。

早い話、癖がない人は七つの癖を持ち、癖がある人は四十八の癖を持つと言われる。見苦しい習慣やくだらない癖は、他人に笑われてもなかなかやめられないものだ。出世の妨げになったり、他人に迷惑をかけたりすることが分かっていても、決心して神や仏に願いをかけたり、新聞に広告を出して誓いを立てても、結局は悪い癖が止められない。これは、自分の頭が自分の自由にならないことを実証しているのではないか。自分の間違いを自分の意志で正すことができない、精神的な発作の根強い現れなのではないか。

また、泣かないようにと思ってもつい涙が出てしまったり、怒るべきでないと思ってもついムカムカしてしまったりするのは、一時的な精神の偏りを自分で持ち直すことができない、頭の弱点をさらけ出しているのではないか。

凝り性や飽き性、気まぐれ、機嫌の良し悪し、物忘れ、神経質、趣味の偏り、何かに夢中になったり、中毒になったりする傾向を持たない人はほとんどいない。誰もが頭の働きに不具合を抱えているのだ。つまり、精神病者と五十歩百歩の人間でない者はいないということだ。

その証拠に、そうした弱点を指摘されると、誰もがヒヤリとして赤面したり、青筋を立てて弁明したり、逆に攻撃的になったりする。これは、精神病者が自分は正常だと主張するのと同じ心理で、実に滑稽だが、人情としては仕方のないことでもある。しかし、その人情を放っておくと、精神的な傾向が当たり前のことのように思えてくる。ましてや、現代の流行に乗った紳士たちが優遇されると、ますます病癖が増長し、止むを得なくなってしまう。そして、最終的には家庭の悲劇や犯罪事件として社会に現れることになる。軽いものは社会的制裁を受け、重いものは法律の手にかかる。それでも反省できない、ブレーキの利かない自動車のような人間が、「何々狂」と名付けられ、精神病院に運ばれることになるのだ。

誤解してほしくないが、これが悪いと言っているわけではない。万物の霊長たちを侮辱するつもりではないが、そうした紳士淑女たちが、自分の頭と五十歩百歩の精神病患者を見ると、やたらに軽蔑したり恐れたりする。自分だけは誰が何と言おうと精神病的傾向を持たない、完全無欠な頭の持ち主だと自惚れているから、つい私も冷やかしてみたくなるのだ。そんな紳士淑女たちから残酷な差別を受けている、罪も報いもない精神病患者を弁護したくなる。

つまり、こうして観察していくと、普通の人と狂人の区別がつかないのは、刑務所にいる人間と外を歩いている人間の区別がつかないのと同じことになってくる。平たく言えば、赤いレンガに入る程度まで露骨でない悪党と、精神病者を一緒にしたものが、いわゆる普通の人、もしくは紳士淑女ということになるだろう。

もちろん、これは一種の暴言だ。実に失礼で無作法な言い草だが、事実は事実である以上、仕方がない。こうした観察点に立脚しなければ、精神病に関する真の科学的研究は進まないのは、まるで人間が一個の動物に過ぎないという見地に立たなければ、すべての医学の研究が進まないのと同じことだ。もし「俺だけは精神病じゃない、完全無欠な精神を持っている」と自信を持っている方がいれば、いつでも私のところに来てほしい。その方は、当大学の研究患者として、官費で入院してもらう。ちょうどそのような患者が、学生の講義に必要だからだ。

太陽は、無限の精神病患者の大群を地上に生み出し、永久に無言の解放治療を続けている。その結果、禽獣や虫けら以下の半狂人である人類は、長い年月の中で自分たちが精神病の大群集であることを自覚し始め、宗教や道徳、法律、あるいは赤い主義や青い主義といったものを作り出して「お互いに無茶を止めましょう、変な真似をやめましょう」と呼びかけている。だから私もその小さな模型を作り、僭越ながら太陽に代わって「無薬の解放治療」を試みている。「人類全体が精神病者である」という観察点に立脚した、真の科学的な精神病の研究治療を試みているのだ。

さて、その解放治療場にはどんな種類の精神病患者を収容するのか、それはまだわからない。いずれ私の学説、新しい精神科学の学理実験材料として、適切な患者を選び出して収容する予定だ。

その学説はどんな内容かというと、実に大変な質問で、一朝一夕に説明できるものではない。しかし要するに、今日までの精神病の研究法を根本から覆すアプローチだと言える。まず人間の脳の働きから再研究し、「脳は物を考えるところ」という従来の迷信的な学説を根底から訂正する。そしてその新しい「脳の働き」に基づいて、精神の遺伝的作用を明らかにする。そこで出来上がった精神解剖学、精神生理学、精神病理学から観察診断した、最もわかりやすく、最も興味深い精神病患者の標本を集めて、私独自の精神的な暗示と刺激を応用した治療法を試みたいと思っているのだが、どんな標本が集まるか、どんな騒動が起こるか、私自身にも予測できない。

ただし、念のために言っておくが、その実験を行っている私が、精神に異常のない、平穏無事なデクノ坊だと誤解されるのは迷惑だ。

あの太陽が、一度ギラギラと光り始めると、まるで地獄のような精神病者の解放治療場を焼き尽くすかのように、止まることを知らない。どこかで醤油でもつけられたらいいのにと思うが、そんな余裕は全くないらしく、太陽はどこまでも、どこまでも、ピカピカと照りつけている。

同じように、一度狂人の研究を始めた私も、他のことを考える余裕がなくなってしまった。まるで道端で小便を始めたかのように、殿様が通りかかろうが、巡査が現れようが、手を出されても罰金を取られても構わず、私は根を尽くすまで続けているのだ。

だから、他の狂人たちが治療を受けることができても、私の精神の異常だけは永遠に治らないだろうと確信している。これは間違いなく保証できることだ。

さて、私の学位論文「脳髄論」の内容がなぜ学界に発表されないかと聞かれたら、アハハ、馬鹿にしないでほしい。物議を醸すのを恐れて発表を控えるような私ではない。実は、少し書き添えたいことがあるから、手元に置いているだけなのだ。

その内容を話せというのか。うん、話せないことはないが……話したらすぐに新聞に書かれるだろう。実際、以前に私が話した「地球表面上は狂人の一大解放治療場」という記事が、君の新聞に載ったことで、少し困ったことがある。自家広告だと批判されてしまったようだ。

何だって?私は平気だよ。何を言われてもびくともしないが、私が少し大きなことを言うと、事なかれ主義の総長や臆病な学部長が青ざめて心配するのが気の毒でね。鶴川君の「万有還金」の研究や、赤井君の「若返り手術」以来、九大には山師ばかりいると誤解されているからね。ましてや今回の「脳髄論」の内容は、前の解放治療の話に何層も輪をかけた物騒なテーマだから……。

ふん、書かないから話せというのか。新聞記者の書かない口上も久しいが、大丈夫かい?うん、じゃあ話そう。ところで、葉巻を一本……上等なハバナを。私の気焔の聞き賃、兼、新聞記事の差し止め料だ。ちょっと安いかね。ハハハ、今日は私も暇だから、少しメートルを上げるかもしれないよ。

ところで君は探偵小説を読むかい?何だって、読まない?読まなきゃいけないよ。近代文学の神経中枢とも言うべき探偵小説を読まない奴はモダンとは言えないぜ。何だ、読み飽きた?ウハハハ、それは失礼。君の商売は新聞記者だったね。アハハ、いや、失礼失礼。

それじゃ、ここに私が秘蔵している、最も斬新で奇抜な探偵事実談があるが、一つ聞いてみないか。実はどこかの科学雑誌に投稿しようと思っていたものなんだが、小手調べに君の批評を聞いてみてもいい。筋の複雑さ、微妙さと、解決の痛快さは恐らく前代未聞だと思うがね。もちろん、他に類例があったら、二度とお目にかかれないという、非常に特別なプレミアム付きのものだ。

何だって?ごまかすなよ。今言った私の脳髄論と大いに関係があるんだ。探偵小説というのは要するに脳髄のスポーツだからね。犯人の脳髄と、探偵の脳髄が、秘術を尽くして鬼ごっこや鼬ごっこをやる。その間に生まれる様々な錯覚や幻覚、倒錯観念の魅力で、読者の頭を引っ張っていくのが探偵小説の本質じゃないか。ね、そうだろう。

ところが、私の探偵小説はそんなありふれた筋書きとは全く違う。つまり、「脳髄そのもの」が「脳髄そのもの」を追いかけ回すという……宇宙間最高の絶対的科学探偵小説なんだ。しかも、その絶対的科学探偵小説のドンドンの種明かしが、人類二十億の脳髄を驚かせるトリックそのものが、まさに私の「脳髄論」のテーマになっているんだから、すごいだろう。

何だって、わからない?ハハハ、わからないのも無理はない。まだ何も話していないんだからね。ハッハッ。

ああ、いいともいいとも。速記に取っても構わないよ。私が「脳髄論」を学位論文として正式に発表する時まで、新聞に掲載するのを待っていてくれさえすればいい。何なら後で私が筆を入れてやってもいい。談話として発表するよりも、私の創作として発表する方が都合が良くはないか……。