二
作 中島敦
九月、北へ向かった五千の漢軍は、十一月には疲れ果て、傷つき、将を失った四百人余りの敗兵となって辺塞にたどり着いた。敗報はすぐに駅伝を使って長安の都に届けられた。
武帝は意外にも怒りをあらわにしなかった。李広利の大軍が惨敗したのだから、一支隊の李陵に期待をかける理由はなかったからだ。さらに、彼は李陵が戦死したに違いないと考えていた。ただ、先ごろ李陵の使者として漠北から「戦線異状なし、士気は非常に旺盛」との報告を持ち帰った陳歩楽だけは、どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これは避けられない運命だった。
翌年、天漢三年の春、李陵が戦死したのではなく、捕えられて虜になったという確報が届いた。武帝は初めて激怒した。即位から四十年以上が経ち、彼はすでに六十に近かったが、その気性は若い頃以上に激しかった。神仙の教えを好み、方士や巫覡を信じていた彼は、これまでに何度も自分が絶対に信じていた方士たちに欺かれていた。漢の勢威が絶頂に達してから五十年以上君臨したこの大皇帝は、中年以降ずっと霊魂の世界への不安な関心に取り憑かれていた。それだけに、今回の失望は彼にとって大きな打撃となった。この打撃は、もともと開放的だった彼の心に、年を重ねるごとに群臣への暗い疑念を植え付けていった。李蔡、青霍、趙周といった丞相たちは次々に死罪にされ、現在の丞相である公孫賀も、命を受けたときに自らの運命を恐れ、帝の前で泣き崩れるほどだった。硬骨漢の汲黯が退いた後、帝を取り巻く者たちは、媚びへつらう者か、冷酷な官吏ばかりだった。
武帝は重臣たちを召集し、李陵の処遇について話し合った。李陵の身体は都にはないが、彼の罪の決定により、妻子や家財の処分が行われることになった。酷吏として知られる廷尉は、常に帝の顔色をうかがい、合法的に法を曲げて帝の意に沿うことに巧みだった。ある者が法の権威を説いて彼を責めると、廷尉は答えた。「前主の意に従うことが律となり、後主の意に従うことが令となる。今の君主の意のほかに、何の法があろうか。」群臣は皆、この廷尉のような者だった。丞相公孫賀、御史大夫杜周、太常の趙弟など、誰一人として、帝の怒りを犯してまで李陵のために弁護しようとする者はいなかった。彼らは口を揃えて李陵の売国的行為を非難した。李陵のような裏切り者と同じ朝廷に仕えていたことを恥じていると口にした。普段から李陵の行動が疑わしいと意見が一致した。李陵の従弟である李敢が太子の寵を頼って傲慢になっていることまでが、李陵への誹謗の材料となった。意見を漏らさない者の中で、李陵に対して最大の好意を持つ者は数えるほどしかいなかった。
そんな中、一人だけ苦々しい表情でこの様子を見守っている男がいた。今、李陵を罵っている者たちは、数ヶ月前に李陵が都を去る際に杯を交わし、その行動を称賛していた連中ではなかったか。漠北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、名将李広の孫として李陵の孤軍奮闘を称えたのも同じ連中ではないのか。彼らの過去を忘れたふりをする姿や、彼らの媚びを見抜くほどに賢明でありながらも真実に耳を傾けることを嫌う君主の姿が、この男には不思議に思えた。いや、不思議ではない。人間がそういうものだと昔から知りすぎているからだが、それでもその不快さは変わらない。下大夫の一人として朝廷に仕えていたため、彼もまた下問を受けた。そのとき、この男ははっきりと李陵を称賛した。「李陵は、親に仕えて孝を尽くし、士と交わって信を守り、常に奮い立って身を顧みず国家の急に殉じる姿は、まさに国士の風があると言える。今、不幸にも一度の敗北をしたが、身を全うし妻子を守ることをただ念願とする君側の媚びへつらう者たちが、李陵の一失を取り上げて誇張し、上の聡明を覆おうとしているのは、実に遺憾である。そもそも李陵の今回の軍は、五千にも満たぬ歩卒を率いて敵地に深く入り、匈奴の数万の軍を疲れさせ、千里を転戦し、矢尽き道が尽きるまで戦っている。部下の心を得て、彼らに死力を尽くさせることは、古の名将でもこれには及ばない。軍は敗れたが、その善戦の跡は天下に顕彰されるに足る。彼が死なずに虜に降ったのも、ひそかにあの地で何か漢に報いようと期してのことではないか。」
周囲の群臣は驚いた。こんなことを言える男がいるとは思いもしなかったからだ。彼らは、こめかみを震わせる武帝の顔を恐る恐る見上げた。そして、自分たちを全身全霊で妻子を守る臣と呼んだこの男が、どんな目に遭うのかを考え、ニヤリとした。
その男――太史令・司馬遷が君前を退くと、すぐに「全身全霊で妻子を守る臣」の一人が、遷と李陵との親しい関係について武帝に耳打ちした。太史令は何かの事情で弐師将軍と対立しており、遷が李陵を褒めるのは、今度は李陵に先立って出塞し、功を挙げられなかった弐師将軍を陥れようとしているのだと言う者も現れた。ともかく、星や暦を司るに過ぎない太史令の態度はあまりにも傲慢だというのが、一同の一致した意見だった。奇妙なことに、李陵の家族よりも司馬遷の方が先に罪に問われることになった。翌日、彼は廷尉に引き渡され、刑は宮中に決まった。
昔、中国で行われていた肉刑の中でも特に有名なものが、黥(はなきる)、足切り、宮刑の四つです。武帝の祖父である文帝の時代に、これらのうち三つは廃止されましたが、宮刑だけは残されました。この宮刑とは、男を男でなくするという奇妙な刑罰のことです。この刑罰は「腐刑」とも呼ばれ、その名の通り、腐臭を放つことから来ているとも言われています。また、腐った木の実のように、男としての機能を失った者を指すとも言われています。この刑を受けた者は閹人と呼ばれ、宮廷の宦官の多くがこの刑によって生まれたことは言うまでもありません。中でも、司馬遷がこの刑に遭ったことは特筆すべきです。しかし、後世の私たちが知る司馬遷は偉大な歴史家ですが、当時の彼はただの一文筆の役人に過ぎませんでした。彼は頭脳明晰であることは確かでしたが、自信過剰で人付き合いが苦手な男であり、議論においては決して他人に負けない強情で頑固な人物として知られていました。彼が腐刑に遭ったからといって、特に驚くべきことではなかったのです。
司馬氏は元々周の史官でしたが、後に晋に仕官し、秦に仕え、漢の時代に入ると四代目の司馬談が武帝に仕えて太史令を務めました。この司馬談が遷の父です。彼は律・暦・易に精通し、道家の教えにも詳しく、儒教や墨家、法家、名家などの様々な学問にも通じていましたが、それらをすべて自分の見解としてまとめ上げていました。彼の頭脳や精神力に対する自信は、そのまま息子の遷にも受け継がれました。彼が息子に施した最大の教育は、様々な学問を教えた後に、広い世界を旅させることでした。当時としては珍しい教育法でしたが、これが後の歴史家司馬遷にとって非常に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
元封元年、武帝が東方の泰山に登り天を祭った際、ちょうどその頃、周南で病に伏していた熱血漢の司馬談は、天子が漢家の封を建てるめでたい時に、自分一人だけがその場にいられないことを嘆き、憤りを感じて命を落としました。彼の一生の念願は、古今を通じた通史の編纂でしたが、結局は材料の収集に終わってしまったのです。彼の臨終の光景は、息子の遷によって詳しく『史記』の最後の章に描かれています。そこでは、司馬談が自らの死を悟り、遷を呼び寄せてその手を取り、修史の必要性を懇ろに説いている様子が描かれています。彼は自分が太史となりながら、この重要な仕事に着手しなかったことを悔い、賢君や忠臣の事績が無駄に埋もれてしまうことを嘆いて涙を流しました。「私が死んだら、必ずお前が太史になれ。そして、太史になったら、私の論著を忘れるな」と言い、これが自分に対する最大の孝行だと繰り返しました。その時、遷は頭を垂れ、父の命に背かないことを誓ったのです。
父が亡くなってから二年後、司馬遷はついに太史令の職を継ぎました。父が集めた資料や宮廷に保管されている秘蔵の書物を用いて、すぐにでも父子相伝の天職に取り掛かりたかったのですが、任官後に最初に課せられたのは暦の改正という仕事でした。この仕事に没頭すること四年。太初元年にようやく改正を終え、すぐに彼は『史記』の編纂に取り掛かりました。遷はその時、四十二歳でした。
彼の頭の中にはすでに構想が出来上がっていました。その構想に基づく史書の形式は、従来のどの史書とも似ていませんでした。彼は道義的批判の基準として『春秋』を推奨しましたが、事実を伝える史書としては物足りなさを感じていました。もっと事実が必要だと考えたのです。教訓よりも事実が。『左伝』や『国語』には確かに事実がありました。『左伝』の叙事の巧妙さには感嘆せざるを得ませんでしたが、その事実を作り上げる一人一人の人間に対する探求が欠けていることが、司馬遷には不満でした。従来の史書は、当代の人々に過去を知らせることが主眼となっており、未来の人々に当代を知ってもらうための準備が不足しているように思えました。要するに、司馬遷が求めていたものは、従来の史書には存在しなかったのです。彼自身が欲するものを書き上げてみて初めて、従来の史書が物足りない理由が明らかになるのだと考えました。彼の心の中にあるもやもやとしたものを表現する要求が、従来の史書に対する批判よりも優先されていました。いや、彼の批判は、新しいものを創造する形でしか現れなかったのです。彼は長い間頭の中で描いてきた構想が、果たして史と呼べるものか自信が持てませんでしたが、史と呼べるかどうかに関わらず、そうしたものが最も書かれるべきだという点については自信がありました(世の人々にとって、後代にとって、特に自分自身にとって)。彼も孔子に倣い、「述べて作らず」という方針を取っていましたが、しかし、孔子のそれとは内容が大きく異なるものでした。司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙は「述べる」ことには含まれず、また、後世の人々が事実を知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案はむしろ「作る」ことに属するように思えたのです。
漢が天下を治めてからすでに五代・百年が経ち、始皇帝の反文化政策によって埋もれたり隠されたりしていた書物がようやく世に出始め、文の興隆の気運が高まってきました。漢の朝廷だけでなく、時代そのものが史の出現を求めていたのです。司馬遷個人としては、父の遺志に感激し、学識や観察眼、筆力が充実してきて、ようやく一つのまとまったものを生み出す準備が整いつつありました。彼の仕事は実に順調に進みました。むしろ、あまりにも快調すぎて困るほどでした。というのも、最初の五帝本紀から夏・殷・周・秦本紀あたりまでは、彼も資料を整理し、記述の正確さを期する一人の技師に過ぎなかったのですが、始皇帝を経て項羽本紀に入るころから、その技術者としての冷静さが怪しくなってきたのです。時には、項羽が彼に、あるいは彼が項羽に乗り移りかねないほどでした。
項王は夜中に目を覚まし、帳の中で酒を飲んでいた。そこには美しい女性がいた。彼女の名は虞。彼女はいつも彼のそばにいて、幸せをもたらしてくれた。項王は、彼女と共に駿馬・騅に乗ることを常としていた。
その時、項王は悲しみの歌を口ずさみ、詩を作った。「山を動かし、世を覆う力を持つが、時が悪ければ騅は去ってしまう。騅が去ってしまったら、どうすればいいのだろう、虞よ、どうすればいいのだろう」と。彼は何度も歌い、虞はその歌に合わせて和音を奏でた。項王は涙を流し、周囲の者たちも彼の悲しみに共鳴して泣いた。誰一人として、彼を見上げることができなかった。
その様子を見て、司馬遷は疑問を抱いた。「これでいいのか?こんな熱に浮かされたような表現で、果たして良いのだろうか?」彼は「作る」ことに対して非常に警戒していた。自分の役割は「述べる」ことに尽きると考えていたからだ。事実、彼はただ述べただけだった。しかし、その述べ方は生き生きとしており、異常な想像力を持たなければ到底できない記述だった。彼は「作る」ことを恐れるあまり、すでに書いた部分を読み返し、史上の人物がまるで現実の人物のように生き生きと描かれる表現を削ってしまった。すると、その人物は活気を失ってしまった。これで「作る」ことへの心配はなくなる。しかし、司馬遷は思った。「これでは項羽が項羽でなくなってしまう。項羽も始皇帝も楚の荘王も、みんな同じ人間になってしまう。違う人間を同じように描くことが、果たして『述べる』ことなのか?」そう考えると、彼は削った表現を再び生かさざるを得なかった。元に戻して読み返すと、彼はやっと落ち着いた。いや、彼だけではない。そこに描かれた歴史上の人物たち、項羽や樊や范増も、ようやくそれぞれの場所に落ち着いたように思えた。
武帝の調子が良いときは、彼は本当に高邁で理解のある文教の保護者だった。太史令という職は地味で特殊な技能を要するため、官界の朋党や陰謀からも免れることができた。
数年の間、司馬遷は充実した幸福な日々を送った。(当時の人々が考える幸福は、現代人のそれとは大きく異なるものだったが、幸福を求める気持ちには変わりはなかった。)彼は妥協を許さず、いつも陽気で、よく議論し、よく怒り、よく笑い、論敵を完膚なきまでに論破することを得意としていた。
しかし、そんな数年の後、突然、禍が降りかかった。
薄暗い蚕室の中で――腐刑を施された後、しばらくは風に当たることを避けるため、暖かく保つために火を焚いた密閉した暗室を作り、そこに受刑者を数日間入れて身体を養わせる。暖かく暗いその場所が蚕を飼う部屋に似ているため、蚕室と呼ばれる――彼は言葉を失うほどの混乱の中で、壁に寄りかかっていた。憤りよりも先に、驚きの感情が彼を襲った。斬首されること、死を賜ることには覚悟ができていた。武帝の気に逆らって李陵を褒め称えたとき、死の危険を感じたこともあった。しかし、数ある刑罰の中で、よりによって最も醜い宮刑にあうとは! 迂闊と言えば迂闊だが、死刑を予期するくらいなら、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないのは当然だ。彼は自分の運命の中に、不測の死が待っているかもしれないとは考えていたが、こんな醜いものが突然現れるとは全く考えもしなかった。彼は常々、人間にはそれぞれにふさわしい出来事しか起こらないという確信を持っていた。これは長い間歴史を扱ってきた中で自然に養われた考えだった。同じ逆境でも、慷慨な士には激しい苦しみが、軟弱な者には緩慢で醜い苦しみが与えられるというように。たとえ最初は一見ふさわしくないように見えても、その後の対処の仕方によって運命はその人間にふさわしいものとなるのだと。司馬遷は自分を男だと信じていた。文筆の者であっても、当代のいかなる武人よりも男であると確信していた。彼だけではなく、彼に好意を寄せない者でもそのことを認めざるを得なかった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂の刑なら自分の行く手に思い描くことができた。しかし、齢五十に近い身で、この辱めを受けるとは! 彼は今、自分が蚕室の中にいるということが夢のように感じられた。夢だと思いたかった。しかし、壁に閉じ込められた目を開けると、薄暗い中に、生気のない、魂まで抜けたような顔をした男たちが三、四人、だらしなく横たわったり座ったりしているのが目に入った。その姿が、今の自分なのだと思った瞬間、嗚咽とも怒号ともつかない叫びが彼の喉から絞り出された。
痛みと悩みの日々が続く中、彼は時折、学者としての習慣から思索にふけることがあった。それは、今起こった出来事の中で、何が、誰が、どのように悪かったのかを考えることだった。彼の国の君臣道は日本とは根本的に異なるため、彼はまず武帝を恨んだ。一時はその恨みだけで、他のことを考える余裕もなかったのが実際だった。しかし、しばらくの混乱が過ぎ去ると、歴史家としての彼が目を覚ました。儒者とは違い、先王の評価にも歴史的な視点を持っていた彼は、後の王である武帝の評価に私怨を持ち込むことはなかった。何と言っても武帝は偉大な君主であり、彼の存在がある限り、漢の天下は揺るがない。高祖は一時置くとしても、仁君文帝や名君景帝も、この君に比べればやはり小さい。大きなものは、その欠点もまた大きく映るのは避けられないことだ。司馬遷は、極度の憤りの中にあってもこの事実を忘れなかった。今回の出来事は、結局天がもたらした疾風暴雨のようなものだと考える他はなかったが、それが彼を一層絶望的な怒りへと駆り立てる一方で、逆に諦めにも向かわせようとした。
恨みが長く君主に向かうことができないと、自然と君側の奸臣に向けられる。彼らが悪いのは確かだ。しかし、その悪さは非常に副次的なものだ。自尊心の高い彼にとって、彼ら小人たちは恨みの対象としてさえ物足りない気がした。彼は、これほどまでに好人物に対して腹立たしさを感じたことはなかった。これは奸臣や酷吏よりも始末が悪い。少なくとも、側から見ていると腹が立つ。良心的に安っぽく安心している彼らは、他人を安心させることで、さらに怪しからぬ存在となっていた。弁護も反論もせず、心の中には反省も自責もない。丞相公孫賀のような存在がその代表だ。同じ阿諛迎合を行っても、杜周(最近、前任者の王卿を陥れて御史大夫になった男)とは違い、このお人好しの丞相はその自覚すら持っていない。自分が全てを捧げて妻子を守る臣と呼ばれても、こういう手合いは腹も立てないのだろう。こんな連中は恨みを向けるだけの価値すらない。
司馬遷は最後に、怒りの行き場を自分に求めようとした。実際、何かに対して腹を立てなければならないとすれば、それは結局自分自身に対してしかなかった。しかし、自分のどこが悪かったのか? 李陵のために弁じたことは、どう考えても間違っていたとは思えなかった。方法的にも特に拙かったとは考えない。阿諛に堕することを甘んじない限り、あれはどうしようもない。それなら、自らを顧みてやましくないのであれば、そのやましくない行為がどのような結果をもたらそうとも、士としてそれを甘受しなければならないはずだ。確かにそれは一応そうだ。だから自分も肢解されようと腰斬にされようと、そういうものであれば甘んじて受けるつもりだった。しかし、この宮刑は――その結果、こうなった自分の有様は――また別の話だ。同じ不具でも、足を切られたり鼻を切られたりするのとは全く異なる種類のものだ。士として受けるべき刑ではない。これだけは、身体の状態として、どの角度から見ても完全な悪だ。飾り言葉の余地はない。心の傷は時とともに癒えることもあるだろうが、自分の身体のこの醜悪な現実は死ぬまで続くのだ。動機がどうあれ、このような結果を招くものは、結局「悪かった」と言わざるを得ない。しかし、どこが悪かったのか? 自分のどこが? どこも悪くなかった。自分は正しいことしかしていなかった。強いて言えば、ただ「自分が存在する」という事実だけが悪かったのだ。
茫然とした虚脱の状態で座っていたかと思うと、突然立ち上がり、傷ついた獣のようにうめきながら暗く暖かい室内を歩き回った。そんな動作を無意識に繰り返しながら、彼の考えもまた、いつも同じところをぐるぐる回っていて、結論に至ることはなかった。
我を忘れ、壁に頭を打ちつけて血を流した数回を除けば、彼は自らを殺そうとは試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなに良いだろう。それよりも、数倍恐ろしい恥辱が彼を追い立てていたため、死を恐れる気持ちは全くなかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すための道具がなかったこともあるだろう。しかし、それ以外にも何かが内側から彼を止めていた。最初、彼はそれが何であるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤りの中で、常に発作的に死への誘惑を感じながら、一方で自殺の方向へ向かわせない何かがあることを漠然と感じていた。何を忘れたのかははっきりしないが、とにかく何かを忘れたような気がしていた。ちょうどそんな具合だった。
許されて自宅に帰り、そこで謹慎するようになってから、初めて彼は、自分がこの一ヶ月、狂乱に取り紛れて己の生涯の事業である修史のことを忘れ果てていたことに気づいた。しかし、表面上は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻む役割を密かに果たしていたことに気づいた。
十年前、父が臨終の床で自分の手を握りしめ、涙を流しながら遺言を残した言葉が、今でも耳に残っている。しかし、今、痛みと悲しみに満ちた心の中で、修史の仕事を思い止めることができないのは、その父の言葉だけではなかった。それは何よりも、この仕事そのものであった。仕事の魅力や情熱という甘美なものではなく、修史という使命を自覚することが、彼にとっての根源的な意味を持っていた。しかし、彼は自分がどれほど無力であるかを痛感させられた。理想を掲げてみても、結局、自分は道端にいる虫けらのような存在に過ぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑う余地がなかった。このような浅ましい自分に成り果て、自信も誇りも失った後でも、なおこの仕事に従事し続けることは、決して喜ばしいことではなかった。それは、まるで切り離すことのできない宿命的な因縁を持つ人間同士のようなもので、彼自身にはそう感じられた。とにかく、この仕事のために自分を殺すことはできないのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋がりによってである)ということだけは、明確に理解できた。
当初の盲目的な獣のような苦しみの代わりに、より意識的な人間の苦しみが始まった。困ったことに、自殺ができないことが明らかになるにつれ、他に苦悩や恥辱から逃れる手段がないことがますます明らかになってきた。一人の丈夫である太史令、司馬遷は天漢三年の春に亡くなった。そして、その後に彼の書き残した史を続ける者は、知覚も意識もない一つの書写機械に過ぎないと、彼は自らをそう思い込むしかなかった。無理にでも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられなければならない。これは彼にとって絶対的なものであった。修史の仕事が続けられるためには、どんなに耐え難くとも生き延びなければならない。生き延びるためには、どうしても自分を完全に亡き者と思い込む必要があった。
五月の後、司馬遷は再び筆を執った。喜びも興奮もなく、ただ仕事の完成への意志だけに鞭打たれ、傷ついた脚を引きずりながら目的地へ向かう旅人のように、彼は淡々と原稿を続けていった。もはや太史令の役は免ぜられていた。少し後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令に任命したが、官職の昇進や降格は、彼にとって何の意味もなかった。以前の論客としての司馬遷は、一切口を開かなくなった。笑うことも怒ることもなかった。しかし、決して沈んだ姿ではなかった。むしろ、何か悪霊に取り憑かれているような凄まじさを、人々は彼の静かな風貌の中に見て取った。夜の眠る時間を惜しんで、彼は仕事を続けた。一刻も早く仕事を完成させ、その上で早く自殺の自由を得たいと焦っているように、家族には思われた。
凄惨な努力を一年ほど続けた後、ようやく生きることの喜びを失い尽くした後でも、なお表現することの喜びだけは残ることを、彼は発見した。しかし、その頃になっても、彼の完全な沈黙は破られず、風貌の中の凄まじさも全く和らぐことはなかった。原稿を続けていくうちに、宦者や閹奴という文字を書かなければならないところに来ると、彼は思わず呻き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、床に横になったときでも、この屈辱の思いが湧き上がると、たちまち焼鏝を当てられたような熱い痛みが全身を駆け巡った。彼は思わず飛び上がり、奇声を発し、呻きながら四方を歩き回り、しばらくしてから歯を食いしばって自分を落ち着けようと努めた。