1〜3
作 太宰治
御返事をありがとう。先日送った「嵐の夜の会談」に関する手紙が、君の心に響いたようで、嬉しく思っている。君の意見によれば、越後獅子は当代まれに見る大政治家であり、あるいは著名な偉人なのかもしれない。しかし、僕にはそうは思えない。今は、むしろ無名の民衆たちが正論を語る時代だ。指導者たちは、ただ混乱し、右往左往しているだけだ。このままでは、いずれ民衆に見放されるのは明らかだ。総選挙も近づいているようだが、奇妙な演説ばかりしていると、民衆はますます代議士を馬鹿にする結果になるだろう。
選挙の話をすると、今日この道場で非常に珍しい事件が起こった。昼過ぎ、お隣の「白鳥の間」から回覧板が発行された。内容はこうだ。婦人に参政権が与えられたことは喜ばしいが、最近の道場の助手たちの厚化粧は見るに堪えない。こんな状態では、参政権も泣く、アメリカ進駐軍も口紅の派手な婦人をプロステチュートと誤解するだろう。これは道場の不名誉であり、日本の婦人全体の恥辱でもある、というものだった。そして、化粧の目立つ助手たちの名前が列挙され、「この六名の中で、孔雀の扮装は最も醜怪で、まるで馬肉を食べた孫悟空のようだ。我々は何度も忠告したが、反省の色は見えない。よって、当道場から追放すべきだ。」と書き添えられていた。
お隣の「白鳥の間」には、以前から硬骨漢が揃っていて、助手たちに人気のある固パンさんは、その「白鳥の間」に耐えられず、こちらの「桜の間」に逃げてきたようだった。「桜の間」は、越後獅子の人徳のおかげか、春風が心地よい部屋である。今回の回覧板についても、これはひどいと、まずかっぽれが不満を述べた。固パンもにやりと笑い、かっぽれを支持した。
「ひどいじゃありませんか。」とかっぽれは越後獅子にも賛同を求めた。「人間は一視同仁ですから、追放しなくてもいいと思いますがね。人間の本来の愛というものは、どんな場合でも忘れられるものではないんです。」
越後獅子は黙って小さく頷いた。
かっぽれはその勢いを受けて、「ね、そういうわけでしょう?自由思想というのは、そんなケチなものであるはずがないんだ。そちらの若先生はどうです?私の論は間違ってはいないと思うんだ。」と僕にも同意を促した。
「でも、お隣の人たちだって、本当に追放しようとは思っていないでしょう?ただ、あの人たちの心意気を皆に示そうとしているだけじゃないのかな。」と僕が笑いながら言うと、
「いや、そんなことじゃない。」とかっぽれは即座に否定し、「そもそも、婦人参政権と口紅との間には致命的な矛盾があるべきではないと思う。あいつらは普段女にもてないから、こんな時に仕返しをしようと企んでいるに違いない。」と喝破した。
そうして、かっぽれはさらに言葉を続けた。「世には大勇と小勇がある。あいつらは小勇というわけだ。おれのことをパイパンと言いやがる。ずっと癪に障っていたんだ。かっぽれというあだ名もあまり好きじゃないが、パイパンと言われて黙っているわけにはいかない。」と、怒りをあらわにしてベッドから降り、帯を締め直した。「おれはこの回覧板を叩き返してくる。自由思想は江戸時代からあるんだ。人間は智仁勇を忘れられないということだ。じゃ、皆さん、私に任せてくれ。これを叩き返してくるつもりだ。」と、顔色を変えて言った。
「待った、待った。」越後獅子はタオルで鼻の頭を拭きながら言った。「あんたが行ってはいけない。ここはそちらの先生にでも任せなさい。」
「ひばりにですか?」かっぽれは大いに不満の様子だった。「失礼ながら、ひばりには荷が重すぎます。お隣の奴らとは前々からの因縁もあるんだ。今始まったことじゃない。パイパンと言われて黙って引っ込んでいるわけにはいかない。自由と束縛、ということなんだ。自由と束縛、君子豹変ということにもなる。あいつらにはキリストの精神がまるでわかっていない。場合によっては、おれの腕の立つところを見せてやらなくちゃいけない。ひばりには無理だ。」
「僕が行ってきます。」僕はベッドから降りて、するりとかっぽれの前を通り抜け、同時にかっぽれから回覧板を取り上げて部屋を出た。
「白鳥の間」では、「桜の間」の返事を待ちかねていた様子だった。僕が入ると、八人の塾生がどやどやと寄ってきて、
「どうだい、痛快な提案だろう?」
「桜の間の色男たちは弱ったろう。」
「まさか、裏切りやしないだろうな。」
「塾生みんな結束して、場長に孔雀の追放を要求するんだ。あんな孫悟空に選挙権なんかもったいない。」
などと口々に言い、ひどくはしゃいでいた。みんな無邪気ないたずらっ子のように見えた。
「僕にやらせてくれませんか。」と僕は誰よりも大きな声で言った。
一瞬静まり返ったが、すぐにまた騒ぎ出した。
「出しゃばるな、出しゃばるな。」
「ひばりは妥協の使者か。」
「桜の間は緊張が足りないぞ。今は日本が大事な時だぞ。」
「四等国に落ちたのも知らずに、べっぴんの顔を拝んでよだれを流しているんじゃねえか。」
「なんだい、出し抜けに何をやらせてくれと言うんだい。」
「今晩、就寝の時間までに、」と僕は背伸びして叫んだ。「お知らせしますから、もしその僕の処置が皆さんの気に入らなかったら、その時には皆さんの提案に従います。」
また静まり返った。
「君は、僕たちの提案に反対なのか。」と、しばらくして、青大将という眼つきの鋭い三十男が僕に尋ねた。
「大賛成です!それに関して、僕にはとても面白い計画があるんです。それを、ぜひやらせてください。お願いします!」
周りの皆は、少し気が抜けたようだった。
「いいですよ。ありがとう。この回覧板は、晩までお借りします。」僕は素早く部屋を出た。これでいいのだ。難しいことはない。あとは竹さんに頼めばいい。
部屋に戻ると、かっぽれが言った。
「だめだなあ、ひばりは。俺は廊下で聞いていたんだ。あんなことじゃ、何にもならんじゃねえか。キリスト精神や君子豹変のように、どんと一発言ってやればよかったんだ。自由と束縛!と言ってやってもいいんだ。奴らは道理を知らねえから、筋道の立ったことを言ってやるのが一番なんだ。自由思想は空気と鳩だ、となぜ言ってやらねえのかな。」と、しきりに口惜しがっていた。
「晩まで僕に任せておいてください。」とだけ言い、僕は自分のベッドに寝ころんだ。
さすがに少し疲れた。
「任せろ、任せろ。」と越後が寝たまま威厳のある声で言ったので、かっぽれもそれ以上は言わず、しぶしぶ寝てしまったようだった。
実は、僕には特に計画なんてなかった。ただ、この回覧板を竹さんに見せれば、彼がうまくやってくれるだろうと楽観していたのだ。二時の屈伸鍛錬のとき、竹さんが部屋の前の廊下を通りかかり、ちょっと僕の方を見たので、僕はすかさず右手で小さく「おいでおいで」とした。竹さんは軽く頷いて、すぐに部屋に入ってきた。
「何か御用?」と真面目に尋ねる。
僕は脚の運動をしながら、小声で「枕元、枕元。」と言った。
竹さんは枕元の回覧板を見て、手に取りざっと黙読した後、「これ、貸してや。」と落ち着いた口調で言い、その回覧板を小脇にはさんだ。
「あやまちを改めるのに、ためらうことはない。早い方がいい。」竹さんは何もかも心得た顔で、微かに頷いた。そして、枕元の窓の方に行き、黙って窓の外の景色を眺めている様子だった。
しばらくして、窓の外に向かって、「源さん、御苦労さまやなあ。」と少しも飾らない自然な口調で呟いた。窓の下で、小使いの源さんという老人が、二、三日前から草むしりを始めているのだ。
「お盆過ぎにな、」と源さんは窓の下で答えた。「一度むしったのに、またこんなに生えてくる。」
僕は、竹さんの「御苦労さまやなあ」という声の響きに感心していた。回覧板のことなど全く気にしていない落ち着いた晴朗な態度にも感心したが、それ以上に、あのいたわりの声の響きの気品に打たれた。まるで御大家のお内儀が庭番のじいやに、縁先から声をかけるような、のんびりとした余裕のある調子だった。非常に育ちの良さを感じさせた。いつか越後も言っていたが、竹さんのお母さんは、きっとすごい人だったに違いない。竹さんに任せれば、この厚化粧の一件も、きっとあっさりと解決してくれるだろうと、僕はさらに安心した。