8〜2
作 太宰治
洗面所は、僕にとって鬼門のような場所だった。
「竹さん、さっき、」声が喉にひっかかる。僕は息を切らしながら言った。「庭へ出た?」
「いいえ、」竹さんは振り向いて僕を見つめ、少し笑って言った。「ぼんぼん、何を寝ぼけて言ってるの? ああ、いやらしい。裸足じゃないか。」
その言葉に気づくと、確かに僕は裸足だった。興奮して駆け込んできたせいで、草履を履くのをすっかり忘れていたのだ。
「気をもむ子だね。足、お拭き。」
竹さんは立ち上がり、流しで雑巾をじゃぶじゃぶ洗った後、その雑巾を持って僕のそばにしゃがみ込んだ。彼女は僕の右足裏、左足裏を、きゅっきゅと強くこするように拭いてくれた。足だけでなく、心の奥の隅まで綺麗にしてもらったような気がした。あの奇妙で恐ろしい欲望も消えていた。僕は足を拭いてもらいながら、竹さんの肩に手を置いて、
「竹さん、これからも甘えさせてや。」と、わざと関西弁で言ってみた。
「お淋しいやろなあ。」竹さんは少しも笑わず、ひとりごとのように小声で呟いた。「さ、これ貸してあげるから、早く御不浄へ行っておやすみ。」
竹さんは自分の履いていたスリッパを脱いで、僕の方に差し出した。
「ありがとう。」平気なふうを装ってスリッパを履き、「僕は寝ぼけていたのかな。」
「御不浄に起きたんじゃないの?」竹さんは再び床を拭き掃除しながら、大人びた口調で言った。
「そうなんだけど。」
まさか、窓の外に女の顔が見えたなんて馬鹿なことは言えない。自分の心が濁っていたから、あんな幻影も見えたのだろう。いやらしい空想に胸を躍らせて、裸足で廊下に飛び出してきた自分の姿が、あさましく、恥ずかしく思えた。毎日こんな真暗い時間に起きて、黙々と掃除をしている人もいるのに。
僕は壁に寄りかかり、しばらく竹さんの働く姿を眺めていた。人生の厳粛さを改めて知らされた。健康とは、こうした姿のものであろうと思った。竹さんのおかげで、僕の心の奥にある純粋な部分が、さらに爽やかで透明なものになったような気がした。
君、正直な人っていいものだね。単純な人って、尊いものだね。今まで竹さんの気の良さを少し軽蔑していたが、それは間違いだった。さすがに君は目が高い。マア坊なんかとは比べ物にならない。竹さんの愛情は、人を堕落させない。これは、たいしたものだ。僕もあんな、正しい愛情の人になるつもりだ。僕は一日一日高く飛ぶ。周囲の空気が次第に冷たく澄んでくる。
男の子は生涯、危機一髪である。新しい男は、常に危険な場所で遊び、身軽にくぐり抜けて飛んで行く。
こうして考えてみると、秋もまた悪くないようだ。少し肌寒くて、いい気持ちだ。
マア坊の夢は悪い夢で、早く忘れてしまいたいが、竹さんの夢は、もしこれが夢であったら、永遠に醒めずにいてくれるといい。
のろけなんかじゃないんだよ。
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十月七日
拝啓。ひどい嵐だったね。野分というものなのかしら。これでは、アメリカの進駐軍も驚いているだろう。E市にも四、五百人来ているそうだが、まだこの辺には一度も現れていないようだ。矢鱈におびえて、笑い話になるなと、場長からの訓辞もあったし、この道場の人たちは、割と泰然としている。ただ一人、助手のキントトさんだけが、ちょっとしょんぼりしていて、皆にからかわれている。キントトさんは、二、三日前、雨の中を用事でE市に行ってきたそうだが、道場へ帰って夜、皆と一緒に寝てから、シクシク泣いていた。どうしたの?と皆に尋ねられ、キントトさんがしゃくり上げながら物語るのを聞くと、だいたい次のような事情だった。
キントトさんは、街で用事を済ませ、帰りのバスを待合所で待っていた。どしゃ降りの中、アメリカの軍用トラックが走ってきて、どうやら故障を起こしたらしく、バスの待合所の前で止まった。運転席から若いアメリカ兵が二人飛び降り、雨に打たれながら修理に取り掛かっていた。なかなか修理が終わらず、濡れ鼠のような姿で黙々と機械をいじくっていた。やがて、キントトさんたちのバスがやって来たが、キントトさんは待合所から走り出て、バスに乗りかけ、その時、まるで夢中で、自分の風呂敷包みの中の梨を一つずつアメリカの少年たちに与え、「サンキュー」という声を背後に聞きながらバスの奥に駆け込んだとたんに発車した。それだけのことだったが、道場に帰り着くと、次第に落ち着いてくるにつれ、何とも言えず恐ろしく、心配でたまらなくなり、ついには夜、布団を頭からかぶって一人でめそめそ泣き出してしまったというのだ。このニュースは翌朝、早くも道場全体に広がり、無理もないと言う者もいれば、けしからんという者もあり、わけがわからんと言う者もあり、とにかくみんな大笑いだった。キントトさんは、からかわれてもにこりともせず、首を振って、まだ胸がどきどきすると言っている。
それと、もう一人、同室の固パンさんが最近ひどく浮かぬ顔をしている。何か悩んでいる様子に見受けられたが、実は彼にもまた一種奇妙な苦労があったのだ。
この固パンという人物は、秘密主義なのか、もったいぶっているのか、僕たちをまったく相手にせず、いつまでも他人行儀で、非常に気まずい存在だった。しかし、おとといの夜、あのような嵐で、七時少し過ぎた頃から停電になり、そのために夜の摩擦もなかったし、拡声機も停電のため休止になって、夜の報道も聞かれなかった。だから、塾生たちはみんな早寝ということになった。しかし、風の音がひどいので、誰も眠れず、かっぽれは小声で歌を歌い、越後獅子は自分のベッドの引き出しから蝋燭を探し出し、それに火を灯して枕元に立て、ベッドの上で大あぐらをかいて自分のスリッパの修繕に一生懸命だった。
「ひどい風ですね。」
固パンが妙に笑いながら僕たちの方へやって来た。固パンが他人のベッドのところへ遊びに来るなんて、実に珍しいことだった。
嵐の夜、蛾が灯火に引き寄せられるように、人間もまた、薄暗い蝋燭の光に惹かれて集まってくるのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は上半身を起こして彼を迎えた。
「ええ、進駐軍もこの嵐には驚いているでしょうね。」と僕は言った。
彼は妙に笑いながら、「いや、実はね、」と少しおどけた口調で続けた。「問題はその進駐軍なんです。とにかく、これを読んでみてください。」と言って、一枚の便箋を手渡してきた。
便箋には英語がびっしりと書かれていた。
「英語は読めません。」と僕は恥ずかしそうに言った。
「読めますよ。君たちのような中学生が一番英語を覚えているものです。僕たちはもう、忘れてしまいました。」彼はにやにや笑いながら、僕のベッドの端に腰を下ろした。そして、急に声を低くして、「実はね、これは僕が書いた英文なんです。きっと文法の間違いがあると思うので、君に直してもらいたいんです。道場の人たちは、僕を英語の達人だと勘違いしているみたいで、もしアメリカの兵隊が来たら、僕を通訳として引っ張り出すかもしれないんです。そのことを考えると、心配でたまらないんですよ。」と、照れ隠しのように笑った。
「でも、あなたは本当に英語が上手なようじゃありませんか。」と僕は便箋をぼんやり眺めながら言った。
「冗談じゃない。通訳なんてできるわけがないよ。どうも僕は調子に乗って、助手たちに英語を披露しすぎたみたいで、もし通訳として引っ張り出されて、僕がどもっているところを見られたら、あの助手たちがどんなに僕を軽蔑するか、想像もつかない。最近はそれが心配で、夜もよく眠れないくらいなんだ。察してくれたまえ。」と言って、またうふふと笑った。
僕は便箋の英文を読み始めた。知らない単語もいくつかあったが、だいたい次のような内容だった。
「君、怒らないでください。この失礼を許してください。私は哀れな男です。なぜなら、私は英語において、聞くことも話すことも、他のことも、すべて赤子のようなのです。それらの行為は、私の能力をはるかに超えています。さらに、私は肺病を患っています。君、注意して!ああ、危険です!君に感染する可能性が非常に高いのです。しかしながら、私は君を深く信じています。神の名において、君は非常に気品高い紳士であることを認めます。君は必ずこの哀れな男に同情を持つだろうと、私は疑っていません。私は英語の会話においてほとんど不具者ですが、かろうじて読むことと書くことができます。もし、君が十分な親切心と忍耐力を持っているなら、君の今日の用事をこの紙に書いてほしいのです。しかし、一時間の忍耐を示してください。その間に、私は自分の部屋に閉じこもり、君の文章を研究し、そして、私の能力の最大限を尽くして返事を書きたいと思います。
君の健康を心から祈ります。私の貧弱で醜悪な文章に決して怒らないでください。」