1〜3
作 太宰治
最近、女のことばかり書いていたせいで、同室の先輩たちへの報告を怠っていたようなので、今日は「桜の間」の塾生たちの様子をお伝えしようと思います。昨日、「桜の間」では大きな喧嘩がありました。なんと、かっぽれが固パンに挑戦したのです。
その原因は梅干しにありました。
実は、かっぽれは以前から瀬戸の小鉢を持っていて、そこに梅干しを入れて、食事のたびにベッドの下の戸棚から取り出してはつまんでいました。しかし最近、その梅干しにカビが生え始めてしまったのです。かっぽれは、これは容器が悪いせいだと考えました。小鉢の蓋がしっかり閉まらないため、細菌が入り込んでカビが生えたのだろうと。彼はとても清潔好きな性格で、何とか良い容器を見つけたいとずっと思案していたのです。
そんなある朝、食事の際、隣の固パンが持っていたらっきょうの瓶が空になったのを見て、かっぽれはそれが良いと思いました。口も大きく、しっかりと蓋もできる。どんな細菌もその瓶の中には入れないだろう。もう空になったのだから、固パンも気軽に貸してくれるだろうと考えました。固パンに頭を下げるのは気が引けましたが、衛生のためにはどうしてもそのらっきょうの瓶が必要だと思い、食事が終わった後、恐る恐る固パンに空瓶の借用を申し出ました。
固パンはかっぽれの顔をまっすぐに見て言いました。「こんなものを、どうするのですか。」
その言い方が、かっぽれにとっては堪えました。実は、この二人の間には以前から微妙な緊張があったのです。かっぽれはこの健康道場の一番の色男だと自負していたのに、最近固パンが急に色男としての評判を高め、かっぽれの影が薄くなってしまったことに不満を抱いていたのです。
「こんなもの? 須川さん、そんな言い方をしてもいいのですか。」かっぽれは少し挑発的に言いました。
「なぜ、いけないのです。」固パンは微笑むこともなく、冷たく答えました。
「わかりませんかねえ。」かっぽれは少し押され気味になり、無理に笑いながら言いました。「私があなたから、まさか豚のしっぽを借りようとしたわけではありません。こんなもの、と言われては、私の立つ瀬が無くなります。」
「僕は豚のしっぽなんて言いません。」
「わからない人だね。」かっぽれは少し声を荒げました。「仮にお前さんが豚のしっぽと言わなくても、こちらにはぴんと来るんだから仕方がないじゃないか。馬鹿にしないでくれ。大学生も左官も、同じ日本国の臣民じゃないか。よくもおれを豚のしっぽみたいに扱いましたね。おれが豚のしっぽなら、お前さんはとかげのしっぽだ。一視同仁というものだ。おれには学はないが、それでも衛生を尊ぶことだけは知っている。人間、衛生を知らなければ犬畜生と同じだ。」
何が何だか、さっぱりわからない口論になってきました。
固パンは一向にそれに取り合わず、両手を頭の後ろに組んで、仰向けにベッドの上に寝ころびました。度胸のある男のように見えました。かっぽれはベッドの上にあぐらをかいて、体を前後左右に揺すりながら、腕まくりをしたり、自分の膝を拳で叩いたりして、しきりに焦っていました。
「おい、聞いているのですか、そこな大学生。まさか柔道を使ったりしないだろうな。大学生には時々あれを使うやつがいるから恐れ入る。あいつにはごめんだぜ。いいかい、はっきり言っておくけど、この道場は柔道の道場でもなければ、色男修行の道場でもないんです。場長の清盛も、こないだの講話で言っていた。諸君は選手であり、結核が必ず全治するという証拠を日本全国に示す選手である。切に自重を望むと言っていた。あの時、涙が出たね。男子、義を見てせざれば勇なきなり、というわけだ。勇には大勇と小勇がある。だから、人間、智仁勇、この三つが大事というわけになるんだ。女にもてるなんて、問題になるわけじゃないんだ。」ほとんど支離滅裂でした。それでも、かっぽれは顔を青くしてさらに声を張り上げました。「だから、それだから、衛生が大事だということに自然になっていくんだ。常に衛生、火の用心というのは、だから、そこのところを言っていると思うんだ。絶対に一個の人間を豚のしっぽと比べられるわけじゃないんだ。」
「やめろ、やめろ。」と越後獅子が仲裁に入ってきました。越後獅子はそれまでベッドの上に黙って寝ころんでいましたが、その時むっくり起きてベッドから降り、かっぽれの後ろから肩を叩き、「やめろやめろ」と少し威厳のある口調で言ったのです。
かっぽれはくるりと越後獅子の方に向き直り、彼に抱きつきました。そして越後獅子の懐に顔を押し込むようにして、うわっ、うわっ、と声を一つずつ区切って泣き出しました。廊下には、他の部屋の塾生たちが五、六人、こちらの様子をうかがっています。
「見てはいけない。」と越後獅子は廊下の塾生たちに向かって怒鳴りました。それまでは立派でしたが、その後少しまずいことを言いました。「喧嘩ではないぞ! 単なる、単なる、ううむ、単なる、単なる、ううむ」と唸りながら、途方に暮れたように僕の方をちらりと見ました。
「お芝居。」と僕は小声で言いました。
「単なる、」と越後は元気を取り戻し、「芝居の作用だ。」と叫びました。
芝居の作用とはどういう意味かはわかりませんが、僕のような若輩から教えられたことをそのまま言うのは沽券にかかわると思い、急に「芝居の作用」という珍しい言葉を思いついて叫んだのではないかと思います。大人というものは、いつもこんなふうに無理をして生きているのかもしれません。
かっぽれは、まるで親獅子に抱かれる子獅子のような姿で、顔を振りながら泣きじゃくり、ろれつの回らない口調で訴え始めた。
「俺は、生まれてからこんな赤恥をかいたことはないんだ。育ちが悪いわけじゃない。おやじにだって殴られたことはないのに、豚のしっぽのように扱われて、腹が煮えくり返っている。だから、筋道の通った挨拶をしようと思って、一番いいことだけを言ったんだ。一番いいところを選んで言おうと思った。本当に、一番のいいことだけを言ったつもりなのに、あのベッドに寝転がって知らん顔して、なんだあの態度は! 悔しくて、残念でたまらない。なんだ、あの態度は! 人が一番いいことを言っているのに、あの態度は! 世の中が、イヤになった。人が一番いいことを、――」
同じことを繰り返し言うようになった。
越後は、かっぽれをそっとベッドに寝かせてやった。かっぽれは、固パンの方に背を向けて寝て、顔を両手で覆い、しばらくしゃくり上げていたが、やがて静かに眠りに落ちた。八時の屈伸鍛錬の時間になっても、そのままじっとしていた。
実に妙な喧嘩だった。しかし、昼食の頃には、元通りのかっぽれに戻っていて、固パンがらっきょうの空瓶をきれいに洗って持ってきたときも、すみませんとぴょこんとお辞儀をして素直に受け取り、昼食が終わった後、梅干を一つずつ瀬戸の小鉢かららっきょうの瓶に楽しそうに移していた。世の中の人が皆、かっぽれのようにあっさりしていたら、この世の中ももっと住みやすくなるに違いないと思った。
喧嘩のことはこれくらいにして、もう一つ簡単な報告がある。
今日の午後の摩擦は竹さんだった。僕は竹さんに君のことを少し話した。
「竹さんをとても好きだと言っている人がいるんだけど。」
竹さんは摩擦の時、ほとんど口をきかない。いつも黙って涼しく微笑んでいる。
「マア坊なんかより、竹さんの方が十倍もいいと言ってた。」
「誰や。」沈黙女史も小声で言った。マア坊よりもいいという褒め方が、彼女には気に入った様子だった。女って、あさはかなものだ。
「嬉しいかい?」
「好かん。」竹さんはそう一言だけ言って、手荒く摩擦を続けた。眉をひそめて、不機嫌そうな顔をしている。
「怒ったの?その人は本当にいいやつなんだがね。詩人だよ。」
「いやらしい。ひばりは最近、あかんな。」左手の甲で自分の額の汗をぬぐいながら言った。
「そうかね、それじゃもう教えない。」
竹さんは黙っていた。黙って摩擦を続けた。摩擦が終わって引き上げる時、竹さんはおくれ毛を掻き上げて、妙に笑い、
「ヴェリイ、ソオリイ。」と言った。
ごめんなさいね、というつもりだったのだろう。ちょっと竹さんも悪くないね。どうだい、君、そのうちに暇を見て当道場に来ないか。君の大好きな竹さんを見せてあげるよ。冗談だ、失礼。朝夕涼しくなりました。常に衛生、火の用心が大切だ。僕と二人分の勉強をお願い申し上げます。
九月二十二日