4〜6
作 太宰治
その日の午後四時過ぎ、自然の時間が流れる中、僕はベッドに腰かけてぼんやりと窓の外を眺めていた。すると、白衣に着替えたマア坊が洗濯物を持って庭にひょいと出てきた。思わず立ち上がり、窓から上半身を乗り出して呼びかけた。
「マア坊。」
マア坊は振り向き、僕を見つけると笑った。
「お土産、くれないの?」と小声で言ってみた。
マア坊はすぐには答えず、周囲を素早く見回した。誰かに見られていないか気を配るような様子だった。道場は今、静かな安静の時間を迎えていた。マア坊は少しこわばった笑顔を見せ、手を口の横にかざし、「あ」と大きく口を開けてから、口をとがらせて顎を引き、次に口を半分開いてこっくりと首を縦に振った。そして、口を三分の二ほど開いて再びこっくりと頷いた。声を出さず、口の形だけで何かを伝えているのだ。僕にはすぐにわかった。
「ア、ト、デ、ネ」と言っているのだ。
すぐに理解したが、わざと同じように口の形だけで「ア、ト、デ?」と聞き返すと、マア坊はもう一度「ア、ト、デ、ネ」と一字一字区切り、子供のように可愛らしく身振りで伝えた。それから、口の横にかざしていた手を小さく横に振り、内緒、内緒というように肩をすくめて笑いながら、別館の方へ小走りに走って行った。
「あとでね、か。案ずるより生むが易し、だ。」そんなことを心の中で呟き、僕はどさっとベッドに寝転がった。僕の喜びについては、説明する必要もないだろう。すべて、御賢察にお任せする。
そうして、昨日の夜の摩擦の時、僕はマア坊からその「アトデネ」のお土産をもらった。昨日の朝から、時々マア坊はエプロンの下に何かを隠しているような素振りで、意味ありげに廊下をうろついていた。もしかしたら、あのエプロンの下に僕へのお土産を忍ばせているのではないかとも思っていたが、図々しくこちらから近寄って手を差し伸べ、「どうしたの?」などと逆襲されるのは恥ずかしいので、知らん顔をしていた。しかし、やっぱりそれは僕への贈り物だったのだ。
昨夜の七時半の摩擦は、約一週間ぶりにマア坊の番が回ってきて、マア坊は左手に金盥を抱え、右手をエプロンの下に隠し、にやにやと笑いながらやって来た。そして僕のベッドの側にしゃがみ込んで言った。
「意地悪だね。取りに来ないんだから。今朝から何度も廊下で待っていたのに。」
そう言ってベッドの引き出しを開け、素早くエプロンの下の品物をその中に滑り込ませ、引き出しをぴったり閉めた。
「言っちゃ、ダメよ。誰にも、言っちゃダメだから。」
僕は寝ながら二度も三度も小さく頷いた。摩擦に取りかかりながら、
「ひばりの摩擦は久しぶりだね。なかなか番が回って来ないから、お土産を渡そうとしても、どうしたらいいのか困ったわ。」
僕は自分の首のところに手をやり、結ぶ真似をして、ネクタイか?という意味の無言の質問をすると、
「ううん。」と下唇を突き出して笑いながら否定し、「ばかねえ。」と小声で言った。
実際、ばかだ。僕には背広さえないのに、何でまたネクタイなんて妙なものを考えたのだろう。自分でもおかしいと思った。あるいは、あの小さな懐中鏡から無意識にネクタイを連想したのかもしれない。
今度は右手で、ものを書く真似をして、万年筆か?という意味の質問をしてみた。実に僕は勝手な男だ。最近、僕の万年筆の調子が悪いので、新しいのが欲しいという意識が潜在していたらしく、ついこんな時に出てしまった。自分の図々しさに内心呆れた。
「ううん。」マア坊はやっぱり首を横に振って否定する。まるで全く見当がつかないようだった。
「ちょっと地味かもしれないけど、人にやったりしないでね。お店に、たった一つ残っていたのよ。飾りも、ちっとも上等じゃないけど、ここを出てから持って歩いてね。ひばりは紳士だから、きっと要るわよ。」
いよいよわからなくなった。まさか、ステッキじゃあるまい。
「とにかく、ありがとう。」僕は寝返りを打ちながら言った。
「何を言ってるの。ぼんやりね、この子は。さっさと早く治って、いなくなるといい。」
「おおきに、お世話だ。いっそ、ここで死んでやろうかね。」
「あら、ダメよ。泣く人がいるわ。」
「マア坊かい?」
「しょってるわ。泣くもんですか。泣くわけがないじゃないの。」
「そうだろうと思った。」
「私が泣かなくたって、ひばりには泣いてくれる人がいくらでもいるわ。」少し考えてから、「三人、いや、四人いるわ。」
「泣くなんて、意味がない。」
「あるわよ、意味があるわよ。」と強く言い張り、それから僕の耳元に口を寄せて、「竹さんでしょう? キントトでしょう? たまねぎでしょう? カクランでしょう?」と一人ずつ左手の指を折って数え上げ、「わあい。」と言って笑った。
「カクランも泣くのか。」僕も笑った。
その夜の摩擦は楽しかった。以前のようにマア坊に対して緊張することもなく、今では何だか皆を高所から見下ろしているような涼しい余裕ができていて、自由に冗談も言える。これも、女に好かれたいという息苦しい欲望を、この半月ほどの間にすっかり捨て去ったせいかもしれない。自分でも不思議なくらい、心に少しのこだわりもなく楽しく遊んでいた。好かれることも好くことも、五月の風に揺れる木の葉のようなものだ。何の我執もない。新しい男は、また一つ飛躍を遂げた。
その夜、摩擦が終わり、報告の時間に、アメリカの進駐軍がいよいよこの地方にも来るという知らせを拡声機を通して聞きながら、ベッドの引き出しを探り、マア坊の贈り物を取り出して包をほどいた。
三寸四方くらいの小さな包みの中には、シガレットケースが入っていた。「ここを出てから持って歩いてね、ひばりは紳士だから、きっと要るわよ」という先ほどの不可解な言葉の意味も、これでわかった。
箱から取り出し、少しひっくり返してみるうちに、僕はなんだかとても悲しくなってきた。嬉しいはずなのに、心のどこかが重く感じる。世間のニュースのせいだけではないようだ。
それは、ステンレス製の、ケーキナイフに使われるようなクロームのような金属でできた銀色の平たいケースだった。蓋には薔薇の蔓を模した、絡み合った細い黒い線の模様が描かれていて、その縁には小豆色のエナメルのようなものが塗られている。このエナメルがなければよかったのに、余計な飾りのせいで、マア坊が言うように「ちょっと地味」で、「ちっとも上等でなく」なってしまっている。でも、せっかくマア坊が買ってきてくれたのだから、大切にしまっておくべきだろう。
それでも、どうしても愉快ではない。もらったものにこんなことを言うのは良くないけれど、本当に嬉しくないのだ。他の女性から物をもらうのは初めての経験だが、妙に胸が苦しくなってしまう。後味が悪い。僕はそのケースを引き出しの奥の一番底に隠した。早く忘れたい。
ケースについては、僕も少し困惑しているが、こうした経緯から、マア坊の良さを少しでも君に理解してもらいたくて、以上の報告をしたためた次第だ。どうだろう、少しはマア坊を見直したかい?やっぱり竹さんの方がいいのかな。君の感想を聞かせてほしい。
今日は、つくしのベッドに隣の「白鳥の間」の固パンが移ってきた。彼の名前は須川五郎、二十六歳。法科の学生だそうで、なかなかの人気者らしい。色は浅黒く、眉は太く、目はぎょろりとしてロイド眼鏡をかけ、鷲鼻で、あまり良い印象はないが、それでも助手たちからは大いに騒がれているようだ。どうも、男から見て嫌な奴ほど、女に好かれるようだ。固パンの出現によって、「桜の間」の空気も妙に白々しくなってきた。かっぽれは、すでに固パンに対して敵意を抱いているようだ。今日の夕食前の摩擦の時にも、助手たちは固パンに向かって英語を色々と尋ねていた。
「ねえ、教えてよ。ごめんなさいね、ってのは英語でどういうの?」
「アイ、ベッグ、ユウア、パアドン。」固パンは、ひどく気取って答える。
「覚えにくいわ。もっと簡単な言い方がないの?」
「ヴェリイ、ソオリイ。」実に気取って言う。
「それじゃあ、どうぞお大事にね、ってことは何というの?」
「プリイズ、テッキャア、オブ、ユアセルフ。」take careを、テッキャアと発音する。なんとも、どうも、きざなことだった。
助手たちは、それでも大いに感心して聞いている。かっぽれには、僕以上に固パンの英語が癇に障るらしく、小さな声で自慢の都々逸を歌ったりして、とにかく固パンを牽制しようと必死な様子だった。
しかし、僕は元気だ。今日は体重を測ったら、四百匁近く太っていた。断然、好調である。
九月十六日。