1〜3
作 太宰治
謹啓。今日は、悲しいお知らせをしなければなりません。とはいえ、悲しいと言っても、どこか恋しい気持ちが混じった妙な悲しさです。竹さんが結婚することになったのです。お嫁に行く相手は、ここでの健康道場の場長、田島医学博士です。今日は、マア坊からそのことを聞きました。
さて、話は少し遡ります。
今朝、母が僕の着替えやら何やらをたくさん持って道場に来てくれました。母は月に二度、僕の身の回りのものを整理しにやってくるのです。僕の顔を覗き込んで、
「そろそろ、ホームシックかな?」とからかいます。これも毎度のことです。
「あるかもしれないね。」と僕もわざと嘘を言ってみました。これもまた、毎度のことです。
「今日はお母さんを、小梅橋までお見送りするんだそうですね。」
「誰が?」
「さあ、どなたでしょうか。」
「僕? 外に出てもいいの? お許しが出たの?」
母は頷いて、
「でも、いやだったら、無理しなくていいからね。」
「いやなもんか。僕はもう一日に十里だって歩けるんだ。」
「あるかもしれないね。」と母は、僕の口真似をして言いました。
四ヶ月ぶりに寝巻きを脱ぎ、絣の着物を着て、母と一緒に玄関へ出ると、そこに場長が両手を後ろに組んで静かに立っていました。
「歩けますか、どうですか。」と母が独り言のように言って笑うと、
「男の子は、満一歳から立って歩けます。」と場長は、にこりともせずにそんな冗談を言い、「助手を一人お供させます。」と言いました。
事務所からマア坊が白い看護婦服の上に、椿の花模様の赤い羽織をかけて、小走りに出てきて、母にどぎまぎしたような粗末なお辞儀をしました。お供は、マア坊です。
僕は新しい駒下駄を履いて、真っ先に外へ出ました。駒下駄が妙に重くて、よろめいてしまいました。
「おっとと、あんよは上手。」と場長が後ろから囃し立てました。その口調には、愛情よりも冷たい強い意志を感じました。まるで「だらしないぞ!」と叱られたような気がして、僕はしょげました。振り向きもせず、急ぎ足で五、六歩歩いたところで、また後ろから場長が、
「はじめは、ゆっくり。はじめは、ゆっくり。」と、今度は露骨に叱り飛ばすような厳しい口調で言いましたが、逆にその言葉には嬉しい愛情が感じられました。
僕は、ゆっくり歩きました。母とマア坊が、小声で何か囁き合いながら、僕の後を追ってきました。松林を抜けてアスファルトの県道に出たとき、僕は軽い眩暈を感じて立ち止まりました。
「大きいね。道が大きい。」アスファルト道が、柔らかい秋の日差しを受けて鈍く光っているだけなのですが、僕にはそれが一瞬、茫洋たる大河のように見えました。
「無理かな?」と母が笑いながら、「どうかな? お見送りは、この次にお願いすることにしましょうか?」
「平気、平気。」と、ことさら駒下駄の音をカタカタと高く響かせて歩き、「もう慣れた。」と言った途端、トラックが凄い勢いで僕を追い抜き、思わず「わぁっ!」と叫んでしまいました。
「大きいね。トラックが大きいね。」と母はすぐに僕の口真似をしてからかいました。
「大きくはないけど、強いんだ。すごい馬力だ。確かに十万馬力くらいだった。」
「さては、今のは原子トラックかな?」と母も今朝ははしゃいでいました。
ゆっくり歩いて、小梅橋のバス停が近くなった頃、僕は実に意外なことを耳にしました。母とマア坊が、歩きながらよもやまの話の末に、
「場長さんが近く結婚なさるとか、聞きましたけど?」
「はい、あの、竹中さんと、もうすぐ。」
「竹中さんと? あの助手さんの。」と、母も驚いているようでしたが、僕はその百倍も驚きました。まるで十万馬力のトラックに突き倒されたような衝撃を受けました。
母はすぐに落ち着いて、
「竹中さんは、いいお方ですものねえ。場長さんはさすがに、眼がお高くていらっしゃる。」と言って明るく笑い、それ以上突っ込んだことは聞かず、おだやかに他の話に移っていきました。
僕は停留所で、どんな具合に母と別れたのか、はっきり思い出せません。ただ目の前がもやもやして、心臓がコトコトと響いて躍っているような気持ちで、あれは本当に、どうしようもない気持ちでした。
僕は白状します。僕は、竹さんを好きなのです。最初から、好きだったのです。マア坊なんて、問題ではなかったのです。僕はなんとかして竹さんを忘れようと、わざわざマア坊の方に近寄って、マア坊を好きになるように努めてきましたが、どうしても駄目でした。君に差し上げる手紙にも、僕はマア坊の美点ばかりを挙げて、竹さんの悪口をたくさん書きましたが、あれは決して君をだますつもりではなく、そうすることで僕の胸の思いを消したかったのです。さすがの新しい男も、竹さんのことを思うと、どうも体が重くなり、翼が萎縮して、まるで豚のしっぽのような、つまらない男になりそうな気がしました。だから、ここは新しい男の面目にかけても、あっさりと気持ちを整理して、竹さんに対して全く無関心になりたくて、僕自身を励まし、竹さんのことをただ気のいい人だの、大鯛だの、買い物が下手くそだのと散々悪口を言ってきた僕の苦衷を、君、少しは察してくれませんか。そうして、君も僕に賛成して一緒に竹さんの悪口を言ってくれたら、もしかしたら僕も竹さんを本当に嫌になって、身軽になれるかもしれないとひそかに期待していました。しかし、君が竹さんに夢中になってしまったので、いよいよ僕は窮地に立たされました。そこで、今度は戦法を変えて、ことさら竹さんを褒め上げ、そうして色気のない親愛の情だの、新しい型の男女の交友だのといって、何とかして君を牽制しようと企んだのが、これまでのいきさつの哀れな実相です。僕は色気がないどころか、大ありでした。それこそ意馬心猿とでもいうべき、まったく情けない有様だったのです。
君が竹さんを「凄いほどの美人だ」と言った時、僕は必死にそれを否定した。しかし、実のところ、僕も竹さんを本当に美しいと思っていたのだ。道場に初めて来たその日、彼女を一目見た瞬間に、そう感じたのだから。
君、竹さんのような人こそが本当の美人だ。あの洗面所の青い電球の下で、夜明け前の不思議な雰囲気の中、静かに床を拭いていた竹さんは、恐ろしいほどの美しさを放っていた。負け惜しみを言うつもりはないが、あの瞬間は、僕だからこそ耐えられたのだ。他の誰かだったら、きっと何か罪を犯してしまったに違いない。女は魔物だとよく言われるが、もしかしたら、女性は意識せずに一時的に人間性を失い、魔性の存在になってしまうことがあるのかもしれない。
今、僕は告白する。僕は竹さんに恋をしていたのだ。古いも新しいも関係ない。
母と別れた後、僕は膝が震えるような気持ちで歩き、喉が渇いてたまらなくなった。「どこかで少し休みたいな」と呟いたが、その声は自分でも驚くほどかすれていて、まるで遠くの誰かが呟いているように感じた。
「お疲れでしょう。もう少し行くと、私たちが時々寄って休ませてもらう家がありますよ。」
マア坊に案内されて、古びた家に入った。薄暗い広い土間には壊れた自転車や炭俵のようなものが転がっていて、その一角には粗末なテーブルと椅子が数脚置かれていた。テーブルのそばの壁には大きな鏡がかけられていて、妙に気味悪く白く光っていた。この家は商売をやめても、馴染みの人たちにはお茶を出すようで、道場の助手たちが外出した時には、油を売る場所になっているのだろう。マア坊は平気で奥に行き、番茶の土瓶とお茶碗を持ってきた。僕たちは鏡の下のテーブルに向かい合って座り、二人で生ぬるい番茶を飲んだ。ほっと深い溜息をついて、少し気持ちが楽になった。
「竹さんが結婚するんだって?」と軽い口調で言うことができた。
「そうよ。」マア坊も最近、なぜか寂しそうだった。寒そうに肩をすぼめて、僕の顔をまっすぐに見ながら、「ご存じじゃなかったの?」
「知らなかった。」不意に目が熱くなり、困ってうつむいてしまった。
「わかるわ。竹さんだって泣いてたわ。」
「何を言ってるんだ。」マア坊のしんみりした口調が、いやらしく感じて、むかむかと腹が立ってきた。「いい加減なことを言っちゃいけない。」
「いい加減じゃないわ。」マア坊も涙ぐんでいる。「だから、私が言ったじゃないの。竹さんと仲良くしちゃいけないって。」
「仲良くなんかしてないよ。そんなに何でも知っているようなことを言うな。いやらしくてたまらない。竹さんが結婚するのは、いいことだ。めでたいじゃないか。」
「だめよ。私は知っているんだから。ごまかしたって、だめよ。」大きな目から涙があふれ、まつげに溜まって、それからぽろぽろと頬を伝って流れ始めた。「知ってるのよ。知ってるのよ。」