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二 (1/2)

作 太宰治

堀木と私。

互いに軽蔑しながら付き合い、そうして自らをくだらなくしていく。それがこの世で言う「交友」というものの姿だとするなら、私と堀木の関係もまさに「交友」に違いありませんでした。

私は、あの京橋のスタンドバーのマダムの義侠心にすがり、煙草屋のヨシ子を内縁の妻にすることができました。そして、築地や隅田川の近くにある木造の二階建ての小さなアパートの一室を借り、二人で住むことになりました。酒を止め、漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには喫茶店に寄ったり、花の鉢を買ったりしていました。何よりも、私を心から信頼してくれているこの小さな花嫁の言葉を聞き、彼女の動作を見ているのが楽しく、もしかしたら私は人間らしいものになれるのではないか、悲惨な死に方などせずに済むのではないかという甘い思いを胸に抱き始めていた矢先、堀木が再び私の前に現れました。

「よう! 色魔。おや? 少しは分別のある顔になったじゃないか。今日は、高円寺の女史からのお使者だよ。」

そう言いかけて、急に声をひそめ、台所でお茶の支度をしているヨシ子の方を顎でしゃくりながら、「大丈夫かい?」と尋ねます。

「かまわない。何を言ってもいいよ。」

私は落ち着いて答えました。実際、ヨシ子は信頼の天才と言いたいくらいで、京橋のバーのマダムとの関係はもちろん、私が鎌倉で起こした事件を知らせても、ツネ子との間を疑うことはありませんでした。それは、私が嘘がうまいからではなく、時にはあからさまな言い方をすることさえあったのに、ヨシ子にはそれが冗談としか聞こえない様子でした。

「相変わらず、しょっているな。まあ、たいしたことじゃないが、たまには高円寺の方へ遊びに来てくれっていう伝言だ。」

忘れかけていた記憶が、怪鳥のように羽ばたいてやって来て、過去の恥と罪の記憶が鮮明に浮かび上がり、叫びたいほどの恐怖で座っていられなくなります。

「飲もうか。」

と私が言うと、

「よし。」

と堀木が答えました。

私と堀木。形は似ていました。まるでそっくりの人間のように感じることもありました。もちろん、それは安い酒をあちこち飲み歩いている時だけのことでしたが、とにかく、二人顔を合わせると、同じ形の同じ毛並みの犬のように変わり、降雪の街を駆け巡るような気分になっていました。

その日以来、私たちは再び旧交を温める形になり、京橋のあの小さなバーにも一緒に行き、ついには高円寺のシヅ子のアパートにも、その泥酔した二匹の犬が訪問し、宿泊して帰るなんてことまでしてしまったのです。

忘れもしません。むし暑い夏の夜でした。堀木は日暮れ頃、よれよれの浴衣を着て築地の私のアパートにやって来ました。今日はある必要があって夏服を質入れしたが、そのことが老母に知られると本当に具合が悪い、すぐに受け出したいから、金を貸してくれということでした。あいにく私のところにもお金がなかったので、例によってヨシ子に言いつけ、彼女の衣類を質屋に持って行かせてお金を作り、堀木に貸しました。まだ少し余ったので、その残金でヨシ子に焼酎を買わせ、アパートの屋上に行き、隅田川から時折吹いてくるどぶ臭い風を受けながら、薄汚い納涼の宴を開きました。

私たちはその時、喜劇名詞と悲劇名詞の当てっこを始めました。これは私の発明した遊戯で、名詞にはすべて男性名詞、女性名詞、中性名詞の別があるけれども、同時に喜劇名詞と悲劇名詞の区別もあるべきだ、というものでした。たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスはいずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それがわからない者は芸術を語るに足りない、喜劇に一つでも悲劇名詞を挟んでいる劇作家は、既にそれだけで落第だ、悲劇の場合もまた然り、といった具合です。

「いいかい? 煙草は?」

と私が問います。

「トラ。(悲劇の略)」

と堀木が即答します。

「薬は?」

「粉薬かい? 丸薬かい?」

「注射。」

「トラ。」

「そうかな? ホルモン注射もあるしね。」

「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか。」

「よし、負けておこう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外コメ(喜劇の略)なんだぜ。死は?」

「コメ。牧師も和尚も然りじゃね。」

「大出来。そうして、生はトラだなあ。」

「違う。それもコメ。」

「いや、それでは何でもかでも皆コメになってしまう。では、もう一つおたずねするが、漫画家は? よもやコメとは言えませんでしょう?」

「トラ、トラ。大悲劇名詞!」

「なんだ、大トラは君の方だぜ。」

こんな下手な駄洒落みたいなことになってしまってはつまらないのですが、私たちはその遊戯を、世界のサロンにもかつて存在しなかった非常に気の利いたものだと得意になっていました。

またもう一つ、似たような遊戯を当時私は発明していました。それは、対義語の当てっこでした。黒のアント(対義語の略)は白。しかし、白のアントは赤。赤のアントは黒。

「花のアントは?」

と私が問うと、堀木は口を曲げて考え、

「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ。」

「いや、それはアントになっていない。むしろ同義語だ。星と菫だって、シノニムじゃないか。アントでない。」

「わかった、それはね、蜂だ。」

「ハチ?」

「牡丹に、……蟻か?」

「なあんだ、それは画題だ。ごまかしちゃいけない。」

「わかった! 花にむら雲、……」

「月にむら雲だろう。」

「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風。」

「まずいな、それは浪花節の文句じゃないか。お前の本性が知れるぜ」

「いや、琵琶だ」

「それはもっとまずい。花のアントはね、……この世で最も花らしくないもの、それを挙げるべきだ」

「だから、その、……待てよ、女か」

「ついでに、女のシノニムは?」

「臓物」

「君は、どうも、詩を知らないね。それじゃあ、臓物のアントは?」

「牛乳」

「これは、ちょっと面白いな。その調子でもう一つ。恥。オントのアント」

「恥知らずさ。流行漫画家上司の幾太」

「堀木正雄は?」

この辺りから、二人はだんだん笑えなくなり、焼酎の酔い特有の、ガラスの破片が頭に充満しているような陰鬱な気分になってきた。

「生意気言うな。おれはまだお前のように、繩目の恥辱を受けたことがないんだ」

ぎょっとした。堀木は内心、自分を真人間扱いしていなかったのだ。自分をただの死にぞこないの、恥知らずの、阿呆の化け物、いわば「生ける屍」としか見ていない。そう思ったら、さすがにいい気持ちはしなかった。しかし、堀木が自分をそのように見ているのももっともな話で、自分は昔から、人間の資格のない子供だったのだ。やっぱり堀木にさえ軽蔑されて当然なのかもしれないと考え直し、

「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」

と何気ない表情を装って言った。

「法律さ」

堀木が平然とそう答えたので、自分は堀木の顔を見直した。近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は鬼刑事のように威厳があった。自分は、つくづく呆れかえり、

「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」

罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮らしているのかもしれない。刑事のいないところにこそ罪がうごめいている、と。

「それじゃあ、なんだい、神か? お前には、どこかヤソ坊主くさいところがあるからな。いや味だぜ」

「まあそんなに軽く片づけるなよ。もう少し、二人で考えてみよう。これはでも、面白いテーマじゃないか。このテーマに対する答一つで、その人の全部がわかるような気がするのだ」

「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ」

「冗談はよそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」

「悪と罪とは違うのかい?」

「違うと思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」

「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり神だろう。神、神。なんでも神にしておけば間違いない。腹がへったなあ」

「いま、したでヨシ子がそら豆を煮ている」

「ありがてえ。好物だ」

両手を頭の後ろに組んで、仰向けにごろりと寝た。

「君には、罪というものがまるで興味ないらしいね」

「そりゃそうさ、お前のように罪人ではないんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」

死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心のどこかで微かな、けれども必死の抗議の声が起こったが、また自分が悪いのだとすぐに思い返してしまうこの習慣。

自分には、どうしても正面切っての議論ができなかった。焼酎の陰鬱な酔いのために刻一刻、気持ちが険しくなってきているのを懸命に抑えて、ほとんど独り言のようにして言った。

「しかし、牢屋に入れられることだけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……ああ、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」

「ツミの対語は、ミツさ。蜜の如く甘しだ。腹がへったなあ。何か食うものを持って来いよ」

「君が持って来たらいいじゃないか!」

ほとんど生まれて初めてと言っていいくらいの、烈しい怒りの声が出た。

「よし、それじゃ、したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう。議論より実地検分。罪のアントは、蜜豆、いや、そら豆か」

ほとんど、ろれつの回らぬくらいに酔っていた。

「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ!」

「罪と空腹、空腹とそら豆、いや、これはシノニムか」

出鱈目を言いながら起き上がった。

罪と罰。ドストエフスキー。ちらりとそれが頭の片隅をかすめて通り、はっと思った。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭の中に走馬燈がくるくる回っていた時に、

「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」

堀木の声も顔色も変わっていた。堀木は、たった今ふらふら起きてしたへ行ったかと思うと、また引き返してきたのだ。

「なんだ」

異様に殺気立ち、ふたりは屋上から二階へ降り、二階からさらに階下の自分の部屋へ降りる階段の中途で堀木は立ち止まり、

「見ろ!」

と小声で言って指差した。

自分の部屋の上の小窓が開いていて、そこから部屋の中が見える。電気がついたままで、二匹の動物がいた。

自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろくことはない、などと激しい呼吸と共に胸の中で呟き、ヨシ子を助けることも忘れ、階段に立ちつくしていた。

堀木は大きく咳をしました。彼は一人、逃げるように屋上へ駆け上がり、寝転んで、雨を含んだ夏の夜空を見上げました。その瞬間、彼を襲った感情は、怒りでも嫌悪でも悲しみでもなく、恐ろしい恐怖でした。それは、墓地の幽霊に対する恐怖とは異なり、神社の杉木立で白衣の御神体に出会ったときに感じるような、古代の荒々しい恐怖感でした。彼の若白髪は、その夜から始まり、すべてに自信を失い、人を底知れず疑うようになり、この世の営みに対する期待や喜び、共鳴から永遠に離れてしまったのです。実に、それは彼の生涯において決定的な事件でした。彼は、まるで眉間を割られたかのように、その傷がどんな人間にでも接近するたびに痛むのを感じました。

「同情はするが、しかし、お前もこれで少しは思い知っただろう。もう、俺は二度とここには来ないよ。まるで地獄だ……でも、ヨシちゃんは許してやれ。お前だって、どうせろくな奴じゃないんだから。失敬するぜ。」

堀木は、気まずい場所に長く留まるほど間の抜けた男ではありませんでした。

彼は起き上がり、一人で焼酎を飲み、次第に声を上げて泣きました。どれだけでも、どれだけでも泣けるのでした。

いつの間にか、背後にヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。

「何にも、しないからって言って……」

「いい。何も言うな。お前は、人を疑うことを知らなかったんだ。お座り。豆を食べよう。」

二人は並んで座り、豆を食べました。ああ、信頼は罪なのか?相手の男は、自分に漫画を描かせては、わずかなお金をもったいぶって置いていく、三十歳前後の無学な小男の商人でした。

その商人は、その後やって来ませんでしたが、どうしてか、彼に対する憎悪よりも、最初に見つけたときに大きく咳をしなかった堀木に対する憎しみと怒りが、眠れぬ夜にむらむらと湧き上がってきました。

許すも許さぬもありません。ヨシ子は信頼の天才なのです。人を疑うことを知らなかったのです。しかし、それゆえの悲惨。

神に問います。信頼は罪なのか。

ヨシ子が汚されたということよりも、彼女の信頼が汚されたことが、彼にとってその後長く、生きていられないほどの苦悩の種となりました。自分のように、いやらしくおどおどして、人の顔色ばかり伺い、人を信じる能力がひび割れてしまった者にとって、ヨシ子の無垢な信頼心は、まるで青葉の滝のように清々しく思われていました。それが一夜で、黄色い汚水に変わってしまったのです。見よ、ヨシ子は、その夜から自分の一顰一笑にさえ気を遣うようになりました。

「おい。」

と呼ぶと、彼女はぴくっとして、もう目のやり場に困っている様子です。どんなに彼が笑わせようとしても、おろおろし、びくびくし、やたらに敬語を使うようになりました。

果たして、無垢の信頼心は罪の原泉なのか。

彼は、人妻の犯された物語の本をいろいろ探して読んでみました。しかし、ヨシ子ほど悲惨な犯され方をしている女は、ひとりもいないと思いました。そもそも、これは物語にも何にもなりません。あの小男の商人とヨシ子との間に、少しでも恋に似た感情があったなら、彼の気持ちも少しは楽になったかもしれませんが、ただ夏の一夜、ヨシ子が信頼して、それっきり、しかもそのために自分の眉間はまっこうから割られ、声が嗄れ、若白髪が始まり、ヨシ子は一生おろおろしなければならなくなったのです。たいていの物語は、その妻の「行為」を夫が許すかどうかに重点を置いていたようでしたが、それは彼にとって、そんなに苦しい大問題ではないように思われました。許す、許さぬ、そのような権利を留保している夫こそ幸いなのだ、とても許すことができないと思ったなら、何もそんなに大騒ぎせずとも、さっさと妻を離縁して新しい妻を迎えたらどうか、それができなかったら、いわゆる「許して」我慢するさ、いずれにしても夫の気持ち一つで四方八方がまるく収まるだろうに、という気さえするのでした。つまり、そのような事件は、たしかに夫にとって大いなるショックであっても、それは「ショック」であって、いつまでも尽きることのない波のように打ち寄せるものではなく、権利のある夫の怒りでどうにでも処理できるトラブルのように彼には思われたのです。しかし、彼らの場合、夫に何の権利もなく、考えると何もかも自分が悪いような気がしてきて、怒るどころか、文句の一つも言えず、その妻は、その所有している稀な美質によって犯されたのです。しかも、その美質は、夫がかねてあこがれていた、無垢の信頼心というたまらなく可憐なものでした。

無垢の信頼心は罪なのか。

唯一の頼みの美質にさえ疑念を抱き、彼はもはや何もかもわけがわからなくなり、向かうところはただアルコールだけになりました。彼の顔の表情は極度にいやしくなり、朝から焼酎を飲み、歯がぼろぼろに欠けて、漫画もほとんど猥画に近いものを描くようになりました。いいえ、はっきり言います。彼はその頃から、春画のコピーをして密売しました。焼酎を買うお金がほしかったのです。いつも自分から視線を外しておろおろしているヨシ子を見ると、彼女は全く警戒を知らぬ女だったから、あの商人と一度だけではなかったのではないか、また、堀木は?いや、あるいは自分の知らない人とも?と疑念は疑念を生み、さりとて思い切ってそれを問い正す勇気もなく、いつもの不安と恐怖にのたうち回る思いで、ただ焼酎を飲んで酔い、わずかに卑屈な誘導尋問のようなものをおっかなびっくり試み、内心おろかしく一喜一憂し、うわべではやたらにお道化て、そして、その後、ヨシ子にいまわしい地獄の愛撫を加え、泥のように眠りこけるのでした。

その年の暮れ、自分は夜遅くに泥酔して帰宅しました。砂糖水が飲みたくなり、ヨシ子が眠っているのを見て、自分で台所に行くことにしました。砂糖壺を探し出し、ふたを開けてみると、砂糖は全く入っておらず、代わりに黒く細長い紙の小箱が入っていました。何気なくその箱を手に取り、貼られているラベルを見て驚愕しました。ラベルは爪で半分以上掻きはがされていましたが、洋字の部分が残っていて、そこにはっきりと「DIAL」と書かれていました。

ジアール。自分はその頃、焼酎ばかり飲んでいて、催眠剤を使うことはありませんでしたが、不眠は自分の持病のようなもので、ほとんどの催眠剤には馴染みがありました。このジアールの箱一つには、確かに致死量以上の薬が入っているはずでした。まだ箱の封は切っていませんでしたが、いつかは使うつもりで、こんなところに隠しておいたのに違いありません。可哀想に、あの子はラベルの洋字が読めず、爪で半分掻きはがして「これで大丈夫」と思っていたのでしょう。(お前に罪はない)

自分は音を立てないようにそっとコップに水を満たし、ゆっくりと箱の封を切りました。そして、全部を一気に口の中に放り込み、コップの水を落ち着いて飲み干し、電灯を消してそのまま寝ました。

三昼夜、自分は死んだように眠っていたそうです。医者は過失と見なし、警察への届け出を猶予してくれたそうです。覚醒しかけたとき、最初に呟いた言葉は「うちへ帰る」というものでした。自分が「うち」とはどこを指しているのか、当の自分にもよくわかりませんでしたが、とにかくそう言って、ひどく泣いたそうです。

次第に霧が晴れ、目を開けると、枕元にヒラメが不機嫌そうな顔をして座っていました。

「この前も年の暮れのことでしてね、お互いもう目が回るくらい忙しいのに、いつも年の暮れを狙ってこんなことをやられたら、こっちの命がたまりません」

ヒラメの話を聞いていたのは、京橋のバアのマダムでした。

「マダム」

と自分は呼びました。

「うん、何? 気がついた?」

マダムは笑顔を浮かべ、自分の顔の上にかぶせるように言いました。

自分はぽろぽろと涙を流し、

「ヨシ子と別れさせて」

と、自分でも驚くような言葉が口をついて出ました。

マダムは身を起こし、幽かな溜息をもらしました。

それから自分は、これもまた実に思いがけない、滑稽とも阿呆らしいとも形容に苦しむような失言をしました。

「僕は、女のいないところに行くんだ」

すると、ヒラメが大声で笑い出し、マダムもクスクス笑い、自分も涙を流しながら赤面し、苦笑しました。

「うん、そのほうがいい」

とヒラメは、だらしなく笑い続けながら言いました。

「女のいないところに行ったほうがいい。女がいると、どうもいけない。女のいないところとは、いい思いつきです」

女のいないところ。しかし、この自分の阿呆くさいうわごとは、後に非常に陰惨に実現することになります。

ヨシ子は、まるで自分がヨシ子の身代わりになって毒を飲んだと思い込んでいるらしく、以前よりも一層自分に対しておろおろしていました。自分が何を言っても笑わず、ろくに口もきけないような有様で、自分もアパートの部屋にいるのがうっとうしくなり、つい外へ出て、相変わらず安い酒をあおることになりました。しかし、あのジアールの一件以来、自分の体はめっきり痩せ細り、手足がだるくなり、漫画の仕事も怠けがちになっていました。

ヒラメがあの時、見舞いとして置いていったお金(ヒラメはそれを「渋田の志です」と言って、まるで自分のもののように差し出しましたが、実際は故郷の兄たちからのお金でした)で、思い切って一人で南伊豆の温泉に行ってみたりしましたが、そんな悠長な温泉巡りなどできる柄ではなく、ヨシ子を思えば侘しさ限りなく、宿の部屋から山を眺めるなどの落ち着いた心境には程遠く、ドテラにも着替えず、お湯にも入らず、外に飛び出して薄汚い茶店のようなところに飛び込んで、焼酎を浴びるように飲み、体調をさらに悪化させて帰京するだけでした。