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二十二〜二十四

作 夏目漱石

父の病気は、思っていたほど深刻ではなかった。しかし、私が帰った時、父は床に胡坐をかいて座り、「みんなが心配するから、こうしてじっとしているんだ。起きてもいいんだよ」と言った。だが、翌日からは母の止める声も聞かず、とうとう床を上げてしまった。母は不満そうに太織りの蒲団を畳みながら、「お父さんはあなたが帰ってきたから、急に元気になったのよ」と言った。私には、父の様子が虚勢を張っているようには見えなかった。

私の兄は、遠い九州で仕事をしていた。兄は万が一のことがない限り、両親の顔を見ることはできない男だった。妹は他国に嫁いでおり、急に呼び寄せることもできない。兄妹三人の中で、一番便利なのは書生をしている私だけだった。私が母の言いつけ通り、学校の課業を放り出して帰ってきたことが、父には大きな満足だった。

「こんな病気で学校を休ませるのは気の毒だ。お母さんがあまり大げさな手紙を書くからいけない」と父は言った。そう言ったかと思うと、今まで敷いていた床を上げさせ、いつものように元気を見せた。

「あまり軽はずみなことをして、また逆戻りするといけませんよ」と私が注意すると、父は愉快そうに、しかし軽く受け流した。「大丈夫だよ、これでいつものように気をつけていれば」と。

実際、父は大丈夫そうだった。家の中を自由に行き来し、息も切れず、眩暈も感じていなかった。ただ、顔色は普通の人よりも悪かったが、それは今始まった症状ではないので、私たちは特に気に留めなかった。

私は先生に手紙を書いて、恩借の礼を述べた。正月に上京する際に持参するから、それまで待ってほしいと断った。そして、父の病状が思ったほど深刻でないこと、このままなら当分安心だということ、眩暈も嘔気もないことなどを書き連ねた。最後に、先生の風邪についても一言見舞いを添えた。私は先生の風邪を実際に軽く見ていた。

手紙を出す時、私は決して先生の返事を期待していなかった。出した後、父や母と先生の噂をしながら、遠くにある先生の書斎を想像した。

「今度東京に行くときには、椎茸でも持って行ってあげて」と母が言った。「でも、先生が干した椎茸を食べるかしら」と私が返すと、「美味しくはないけれど、嫌いな人もいないでしょう」と母が言った。私には椎茸と先生を結びつけて考えるのが不思議だった。

先生の返事が来た時、私は少し驚いた。特に、その内容が特別な用件を含んでいなかったので、驚かされた。先生はただ親切心から返事を書いてくれたのだと私は思った。その考えが浮かぶと、その簡単な一本の手紙が私には大きな喜びとなった。もっとも、これは私が先生から受け取った初めての手紙であった。

初めてというと、私と先生の間に書信の往復が頻繁にあったように思われるが、実際にはそうではなかった。私は先生の生前にたった二通の手紙しか受け取っていない。その一通は今言うこの簡単な返事で、もう一通は先生が亡くなる前に特に私宛てに書いた長いものである。

父は病気の性質上、運動を控えなければならなかったので、床を上げてからもほとんど外には出なかった。一度、天気の良い日の午後に庭に下りたことがあったが、その時は万一を考えて、私がそばについていた。私が心配して自分の肩を貸そうとすると、父は笑って応じなかった。

私は退屈な父の相手として、よく将棋盤に向かった。二人とも無精な性格なので、炬燵にあたったまま盤を載せ、駒を動かすたびにわざわざ手を蒲団の下から出すようなことをした。時々、持ち駒を失くして、次の勝負が来るまでお互いに気づかないこともあった。それを母が灰の中から見つけ出し、火箸で挟み上げるという滑稽な場面もあった。

「将棋だと盤が高すぎて足が着かないから、炬燵の上では打てないが、将棋盤はいいね、こうして楽に指せるから。無精者にはぴったりだ。もう一局やろう」と父が言った。勝った時は必ずもう一局やろうと言い、負けた時も同じことを言った。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって将棋を指したがる男だった。最初は珍しくて、この隠居じみた娯楽が私にも相当の興味を持たせたが、少し時間が経つにつれ、若い私の気力はその程度の刺激では満足できなくなった。私は金や香車を握った拳を頭の上に伸ばし、時々思い切ったあくびをした。

私は東京のことを考えた。そして、心臓の鼓動の奥に、活動的な血潮が打ち続ける音を聞いた。不思議にも、その鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。

私は心の中で、父と先生を比較してみた。どちらも世間から見れば、生きているか死んでいるか分からないほど大人しい男だった。他に認められる点から言えば、どちらもゼロだった。それでも、この将棋を指したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊びのために往来した覚えのない先生は、歓楽の交際から生まれる親しみ以上に、いつの間にか私の心に影響を与えていた。ただ頭というのは冷たすぎるから、私は胸と言い直したい。肉の中に先生の力が食い込んでいるといっても、血の中に先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張ではないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生は言うまでもなく赤の他人であるという明白な事実を、ことさらに目の前に並べてみて、初めて大きな真理でも発見したかのように驚いた。

私が帰省すると、父や母の目にも、以前は珍しかった私が次第に陳腐に映るようになってきた。これは、夏休みなどに故郷に帰る誰もが経験する心情だと思う。最初の一週間ほどは、特別にちやほやされ、歓待されるのだが、その後は家族の熱も冷めてきて、最終的にはいてもいなくても構わない存在のように扱われがちだ。私も滞在中にその境目を越えてしまった。そして、帰るたびに、父や母には理解されない東京の独特な感覚を持ち帰っていた。昔の儒者の家に切支丹の匂いを持ち込むように、私の持ち帰るものは、父とも母とも調和しなかった。もちろん、それを隠そうとしていたが、身に着いたものだから、出さないようにしても、いつの間にかそれが父や母の目に留まってしまった。私は次第に面白くなくなり、早く東京に帰りたくなった。

幸い、父の病気は現状を維持しており、悪化する様子は見られなかった。念のために遠方から医者を招いて慎重に診察してもらったが、私が知っている限りでは異常は認められなかった。冬休みが終わる少し前に、私は故郷を離れることにした。そう言い出すと、人情とは妙なもので、父も母も反対した。

「もう帰るのかい? まだ早いじゃないか」と母が言った。

「まだ四、五日いても間に合うだろう」と父が言った。

私は自分が決めた出発の日を動かすつもりはなかった。

東京に戻ると、松飾はいつの間にか取り払われていた。町は寒風にさらされ、どこを見ても正月らしい景気はなかった。

私はすぐに先生のところへ金を返しに行った。例の椎茸も持参した。出すのは少し変だと思ったので、「母がこれを差し上げてくれと言っていました」とわざわざ断って、奥さんの前に置いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。丁寧に礼を述べた奥さんは、次の間に立つ時、その折を持って見て、軽さに驚いたのか、「これは何の御菓子?」と聞いた。奥さんは懇意になると、こんなところに非常に淡泊な子供らしい心を見せた。

二人とも父の病気について、いろいろと気遣いの言葉をかけてくれた中で、先生はこう言った。

「なるほど、容体を聞くと、今は特に問題ないようですが、病気が病気ですから、よほど気をつけないといけません。」

先生は腎臓の病について私が知らないことを多く知っていた。

「自分が病気にかかっていることに気づかず、平気でいるのがあの病の特徴です。私の知っているある士官は、結局それで命を落としましたが、全く嘘のような死に方でした。何しろ、傍に寝ていた奥さんが看病する暇もないくらいで、夜中にちょっと苦しいと言って奥さんを起こしただけで、翌朝にはもう死んでいたんです。しかも、奥さんは夫が寝ていると思っていたそうですから。」

今まで楽観的だった私は、急に不安になった。

「私の父もそんな風になるでしょうか。そうならないとも言えませんね。」

「医者は何と言っていますか?」

「医者は到底治らないと言っています。しかし、当分のところ心配はないとも言っています。」

「それなら良いでしょう。医者がそう言うなら。私が今話したのは、気づかずにいた人のことですし、それがかなり乱暴な軍人だったから。」

私は少し安心した。私の変化をじっと見ていた先生は、さらにこう付け加えた。

「しかし、人間は健康でも病気でも、どちらにしても脆いものですね。いつ、どんなことで、どんな死に方をするかわからないから。」

「先生もそんなことを考えていますか?」

「いくら丈夫な私でも、全く考えないわけではありません。」

先生の口元には微笑みが浮かんでいた。

「よくころりと死ぬ人がいますよね。自然に。それから、あっと思う間に死ぬ人もいます。不自然な暴力で。」

「不自然な暴力とは何ですか?」

「それは私にもよくわかりませんが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うのでしょう。」

「すると、殺されるのもやはり不自然な暴力のせいですね。」

「殺される方は全く考えていなかった。なるほど、そう言われればそうですね。」

その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生の言った「自然に死ぬ」とか「不自然な暴力で死ぬ」という言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後には何のこだわりも私の頭に残らなかった。私は今まで何度か手をつけようとしては手を引っ込めていた卒業論文を、いよいよ本格的に書き始めなければならないと思い出した。