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二 (3/4)

作 夏目漱石

東風君は冷めたお茶を一気に飲み干し、改まった口調で言った。「実は今日は先生にお願いがあって伺いました。」

主人も負けじと、「ああ、何か用事ですか?」と返す。

「ご存知の通り、文学や美術が好きなものでして……」

「それは結構です」と主人は興味を示した。

「同志たちと先日、朗読会を組織しまして、毎月一回集まってこの方面の研究を続けていくつもりです。すでに第一回は昨年の暮れに開いたばかりです。」

「朗読会というのは、何かリズムをつけて詩や文章を読むようなものですか?具体的にはどんな風にやるんですか?」

「初めは古人の作品から始めて、徐々に同人の創作もやるつもりです。」

「古人の作品というと、白楽天の『琵琶行』のようなものですか?」

「いいえ。」

「蕪村の『春風馬堤曲』の類ですか?」

「いいえ。」

「それじゃ、一体どんな作品をやったんですか?」

「先日は近松の心中物をやりました。」

「近松?あの浄瑠璃の近松ですか?」二人は驚いた。近松といえば戯曲家の近松を指しているのだ。

主人はそのことを聞いて、少し愚かだと思ったのか、何も分からずに私の頭を優しく撫でていた。世の中には、藪睨みから好かれる人間もいるのだから、これくらいの誤解は驚くに足らないと、撫でられるままにしていた。

「ええ」と答えた東風君は、主人の顔色をうかがった。「それじゃ、一人で朗読するのですか、それとも役割を分けてやるんですか?」

「役を分けて、掛け合いでやりました。その主旨は、作中の人物に同情を持って、その性格を引き出すことが第一で、それに手真似や身振りを添えます。白はできるだけその時代の人を写し出すのが主で、御嬢さんでも丁稚でも、その人物になりきってやるんです。」

「じゃあ、芝居を見ているようなものじゃありませんか?」

「ええ、衣装と書割がないくらいなものです。」

「失礼ながら、うまくいきますか?」

「まあ、第一回としては成功した方だと思います。」

「それで、この前やった心中物というのは?」

「船頭が客を乗せて芳原へ行くところです。」

「大変な幕をやりましたね。」教師だけに少し首を傾ける。鼻から吹き出した煙が耳を掠め、顔の横を通り過ぎた。

「なあに、そんなに大変なこともないんです。登場人物は客と船頭、花魁、仲居、遣手、見番だけですから。」東風君は平然としている。

主人は「花魁」という名を聞いて少し苦い顔をしたが、仲居や遣手、見番という術語については明確な知識がなかったようで、まず質問を投げかけた。「仲居というのは娼家の下婢にあたるものですかな?」

「まだよく研究していませんが、仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋の助役のようなものだと思います。」東風君は、さっきその人物が出てくるように仮色を使うと言ったくせに、遣手や仲居の性格をよく理解していないらしい。

「なるほど、仲居は茶屋に隷属するもので、遣手は娼家に起臥する者ですね。次に見番というのは人間ですか、それとも特定の場所を指すのですか?もし人間なら男ですか女ですか?」

「見番は男の人間だと思います。」

「何を司っているんですか?」

「さあ、そこまではまだ調べが届いておりません。そのうち調べてみましょう。」これで掛け合いをやった日には、頓珍漢なものが出来るだろうと私は主人の顔をちらりと見上げた。主人は意外にも真面目だった。

「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか?」

「いろいろいました。花魁が法学士のK君でしたが、口髭を生やして、女の甘ったるいセリフを使うので、ちょっと妙でした。それにその花魁が癪を起こすところがあるので……」

「朗読でも癪を起こさなくちゃいけないんですか?」と主人は心配そうに尋ねる。

「ええ、とにかく表情が大事ですから。」東風君はどこまでも文芸家の気でいる。

「うまく癪が起りましたか?」と主人は警句を吐く。

「癪だけは第一回には、ちょっと無理でした。」と東風君も警句を吐く。

「ところで君は何の役割でしたか?」と主人が聞く。

「私は船頭です。」

「へえ、君が船頭?」君にして船頭が務まるものなら、僕にも見番くらいはやれるといったような語気を漏らす。やがて「船頭は無理でしたか」と、遠慮のないところを打ち明ける。

東風君は特に癪に障った様子もなく、やはり冷静な口調で言った。「その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾に終わりました。実は会場の隣に女学生が四、五人下宿していて、その日朗読会があるということをどこかで聞きつけて、会場の窓下に来て傍聴していたようです。私が船頭の仮色を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意になってやっていると……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐えていた女学生が一度にわっと笑い出したものですから、驚いたことも驚いたし、気まずいことも気まずいし、それで腰を折られてから、どうしても後が続けられず、とうとうそれ限りで散会しました。」

第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると、思わず笑わずにはいられなかった。思わず喉がごろごろ鳴る。主人はいよいよ優しく頭を撫でてくれる。人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか不気味なところもある。

「それは飛んだことですね。」主人は正月早々弔詞を述べている。

「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出たのも全くそのためで、実は先生にも一つご入会の上ご尽力を仰ぎたいのです。」

「僕にはとても癪なんか起せませんよ。」と消極的な主人はすぐに断わりかける。

「いえ、癪などは起こしていただかなくても結構ですので、ここに賛助員の名簿が。」と言いながら、紫の風呂敷から大事そうに小菊版の帳面を出す。「これへどうかご署名の上ご捺印をお願いしたいのです。」と帳面を主人の膝の前に開いたまま置く。見ると、現在の知名な文学博士や文学士たちの名が整然と並んでいる。

「はあ、賛成員にならないこともありませんが、どんな義務があるのですか?」と牡蠣先生は懸念の体に見える。

「義務といっても、別段是非願うこともないくらいで、ただお名前だけを記入して賛成の意を示していただければそれで結構です。」

「それなら入ります。」と義務がかからないことを知るや否や、主人は急に気軽になる。責任さえないということが分かっていれば、謀叛の連判状にでも名を書き入れますといった顔をする。さらに、こうして知名の学者たちの中に名前を入れることは、今までこんなことに出会ったことのない主人にとっては無上の光栄であるから、返事の勢いがあるのも無理はない。

「ちょっと失礼。」と主人は書斎へ印を取りに入る。私はぼたりと畳の上に落ちる。東風君は菓子皿の中のカステラをつまんで一口に頬張る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。私は今朝の雑煮事件をちょっと思い出す。主人が書斎から印形を持って出てきた時、東風君の胃の中にカステラが落ち着いたところだった。主人は菓子皿のカステラが一切足りなくなったことには気がつかないらしい。もし気がつくとすれば、第一に疑われるのは私であろう。

東風子が帰った後、主人は書斎に入ると、机の上に迷亭先生からの手紙が置かれているのに気づいた。

「新年の御慶、目出度申納候。……」

いつもとは違って、真面目な内容だと主人は思った。迷亭先生の手紙には、普段あまり真面目なものはない。先日も「その後、特に恋を引き寄せる女性もおらず、どこからも艶書も届かず、まずまず無事に過ごしておりますので、どうかご安心ください」といった内容が来ていた。それに比べると、この新年の挨拶は例外的に世間的なものだった。

「少しお伺いしたいと思っておりましたが、大兄の消極主義に反して、できる限り積極的な方針でこの千古未曾有の新年を迎える計画のため、毎日目が回るほど忙しいことをお察しください……」

なるほど、あの男のことだから、正月は遊び回るのに忙しいに違いないと、主人は心の中で迷亭に同意した。

「昨日は一瞬の隙を見つけて、東風子にトチメンボーのご馳走をしようと思ったのですが、残念ながら材料が底をついてしまい、その意を果たせず、非常に残念に思っております。……」

主人は、そろそろいつもの調子になってきたと無言で微笑んだ。

「明日は某男爵の歌留多会、明後日は審美学協会の新年宴会、その次の日は鳥部教授の歓迎会、またその次の日は……」

うるさいなと主人は読み飛ばした。

「このように謡曲会、俳句会、短歌会、新体詩会など、会が続くため、当分の間は休む暇もなく出勤することになりますので、仕方なく賀状でご挨拶をさせていただくことをお許しください。……」

別に来なくても構わないと思いながら、主人は手紙に返事を書くことにした。

「次回お越しの際には、久しぶりに晩餐でもおもてなししたいと思っております。寒い台所には珍味もありませんが、せめてトチメンボーでもと、今から心掛けております。……」

まだトチメンボーのことを言っている。失礼だなと主人は少しむっとした。

「しかし、トチメンボーは最近材料が不足しているため、場合によっては間に合わないかもしれませんので、その際は孔雀の舌でもお楽しみいただければと思います。……」

両天秤をかけたなと主人は、続きを読みたくなった。

「ご存知の通り、孔雀一羽につき、舌肉の分量は小指の半分にも満たないため、健啖な大兄の胃袋を満たすには……」

うそをつけと主人は思わず言った。

「ぜひとも二三十羽の孔雀を捕まえなければならないと存じます。しかし、孔雀は動物園や浅草の花屋敷などにはちらほら見かけますが、普通の鳥屋には全く見当たりません。苦心しております。……」

一人で勝手に苦心しているのではないかと、主人は全く感謝の意を示さなかった。

「この孔雀の舌の料理は、昔のローマ全盛の頃、一時非常に流行したもので、豪華な風流を好む私としては、常に食指を動かしている次第ですので、どうかご理解ください。……」

何がご理解だ、馬鹿なと主人はすこぶる冷淡だった。

「十六七世紀の頃まで、全欧を通じて孔雀は宴席に欠かせない美味とされていました。レスター伯がエリザベス女王をケニルウォースに招待した際も、確か孔雀を使ったと記憶しています。有名なレンブラントが描いた饗宴の絵にも、孔雀が尾を広げたまま卓上に横たわっているのが描かれています……」

孔雀の料理の歴史を語るくらいなら、そんなに忙しくもなさそうだと主人は不満を漏らした。

「とにかく、最近のようにご馳走を食べ続けていては、さすがの私も遠からず大兄のように胃弱になるのは必定です……」

大兄のようにとは余計だ。何も僕を胃弱の基準にしなくてもいいと主人はつぶやいた。

「歴史家の説によれば、ローマ人は日に二度三度も宴会を開いていたそうです。日に二度も三度も豪華な食事をすれば、どんな健胃の人でも消化機能に不調をきたすでしょう。従って自然に大兄のように……」

また大兄のようにか、失礼な男だと主人は思った。

「しかし、贅沢と衛生を両立させるために研究を尽くした彼らは、過剰に多くの美味を貪ると同時に、胃腸を常に健康に保つ必要を認め、ここに一つの秘法を考案しました……」

はて、主人は急に興味を持った。

「彼らは食後必ず入浴し、入浴後に一種の方法で、食べたものをすべて嘔吐し、胃の中を掃除しました。胃内を清めた後、再び食卓に着き、飽くまで珍味を楽しみ、満足すればまた湯に入り、再度吐き出すのです。こうすれば好物を貪り続けても、内臓に障害を生じることはなく、一挙両得とはこのようなことを指すのではないかと愚考しています……」

なるほど、一挙両得に違いない。主人は羨ましそうな顔をした。

「二十世紀の今日、交通が頻繁で宴会が増加するのは言うまでもなく、軍国多事の時代にあたる今、我々戦勝国の国民は、ぜひともローマ人に倣ってこの入浴嘔吐の術を研究する必要があると自信を持っています。そうでなければ、せっかくの大国民も近い将来には皆、大兄のように胃病患者になってしまうのではないかと密かに心配しています……」

また大兄のようにか、癪に障る男だと主人は思った。

「この際、我々が西洋の事情に通じる者として古史伝説を考究し、既に廃絶した秘法を発見し、これを明治の社会に応用できれば、いわゆる禍を未然に防ぐ功徳にもなるでしょうし、普段の楽しみを独占している御恩返しもできるのではないかと考えています……」

何だか妙だなと主人は首を捻った。

「そこで、この間からギボン、モンセン、スミスなどの著作を渉猟していますが、未だに発見の端緒を見出せず、残念に思っています。しかし、ご存じの通り、私は一度思い立ったことは成功するまで決して中断しない性質ですので、嘔吐法を再興するのも遠からず実現できると信じています。これは発見次第ご報告いたしますので、どうかご承知ください。さて、先に申し上げたトチメンボー及び孔雀の舌のご馳走も、発見後にいたしたいと思います。そうすれば、私の都合はもちろん、すでに胃弱に悩まれている大兄のためにもご便宜かと存じます。草々不備。」

何だとうとう担がれたのか、あまりにも真面目な書き方だったので、つい最後まで本気にして読んでしまった。新年早々こんな悪戯をする迷亭は、よほど暇人だなと主人は笑いながら言った。

それから四、五日は特に何もなく過ぎ去った。白磁の水仙がだんだんとしおれていき、青軸の梅が瓶の中で少しずつ開きかけているのを眺めているのもつまらないと思い、一度三毛子を訪ねてみたが、会えなかった。最初は留守だと思ったが、二度目には病気で寝ていると聞いた。障子の向こうで、例の師匠と下女が話しているのを、手水鉢の葉蘭の影に隠れて聞いていると、こんなことを話していた。

「三毛はご飯を食べるのかい?」と彼女が尋ねると、「いいえ、今朝から何も食べていません。あったかくして、こたつに寝かせておきました」と返事が返ってきた。なんだか、猫らしくない。まるで人間のように扱われている。

一方で、自分の境遇と比べて羨ましくも思うが、もう一方では、愛している猫がこんなに厚遇を受けているのを見て嬉しくもある。

「どうも困ったね。ご飯を食べないと、体が疲れるばかりだからね」と彼女が言うと、「そうですね、私たちでさえ一日ご飯を食べないと、次の日はとても働けませんから」と下女が答える。下女は、自分よりも猫の方が上等な動物であるかのように返事をする。実際、この家では下女よりも猫の方が大切かもしれない。

「お医者さんに連れて行ったのかい?」と彼女が尋ねると、「ええ、そのお医者さんはとても妙な方です。私が三毛を抱いて診察室に行くと、風邪でも引いたのかって、私の脈を取ろうとするんです。いえ、病人は私ではありません。三毛を膝の上に置いたら、にやにや笑いながら、猫の病気は私にもわからない、放っておけばそのうち治るだろうって言うんですから、あまりにも苛立ちました。それじゃ、見てもらわなくてもいいです、これでも大事な猫なんですって言って、三毛を抱えてさっさと帰ってきました」と彼女が続ける。

「本当にね」と下女が同意する。

「本当にね」という言葉は、私の家では決して聞かれない。やはり天璋院様の何とかでなければ使えない、非常に雅な表現だと感心する。

「何だかしくしく言うようだが……」「ええ、きっと風邪を引いて喉が痛むんでしょう。風邪を引くと、誰でも咳が出ますからね……」

天璋院様の下女だけに、馬鹿丁寧な言葉を使う。

「それに最近は肺病とかいうものが流行っているからね」「本当に最近のように肺病やペストなど新しい病気が増えたら、油断も隙もありませんからね」「旧幕時代にはなかった病気だから、あなたも気をつけないといけませんよ」「そうでしょうかねえ」と下女は感動している。

「風邪を引くと言っても、あまり外に出歩かないようだったのに……」「いえね、あなた、それが最近悪い友達ができましてね」と下女は国事の秘密でも語るように得意げに言う。

「悪い友達?」と彼女が聞くと、「ええ、あの表通りの教師のところにいる薄汚い雄猫です」と下女が答える。「教師というのは、あの毎朝無作法な声を出す人かい?」「ええ、顔を洗うたびに、まるで鵞鳥が絞め殺されるような声を出す人です」

鵞鳥が絞め殺されるような声という表現は、実に的を射ている。私の主人は毎朝風呂場でうがいをする際、楊枝で喉を突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。機嫌が悪い時は特に大きな声を出し、機嫌が良い時も元気に声を張り上げる。つまり、機嫌の良い時も悪い時も、休むことなく声を出している。細君の話では、ここに引っ越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふと始めて以来、今日まで一日もやめたことがないという。少し厄介な癖だが、なぜこんなことを根気よく続けているのか、私たち猫には到底想像もつかない。それにしても「薄汚い猫」とは随分酷評されるものだと、思わず耳を立てて聞き入る。

「あんな声を出して何の呪いになるのか知らない。維新前は中間でも草履取りでも、相応の作法は心得ていたもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をする者はいなかったよ」「そうでしょうともねえ」と下女は無暗に感服し、無暗に「ねえ」を使う。

「あんな主人を持っている猫だから、どうせ野良猫さ。今度来たら少し叩いておやり」「叩いてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつのせいですから、きっと復讐してやります」と彼女は言った。

飛んだ冤罪を被ったものだ。こいつは滅多に近寄れないと三毛にはとうとう会わずに帰った。

帰ってみると、主人は書斎の中で何か沈吟の体で筆を執っている。二絃琴の師匠のところで聞いた評判を話したら、さぞ怒るだろうが、知らぬが仏とでも言うのか、うんうん言いながら神聖な詩人になりすましている。

そこへ、当分忙しくて行けないとわざわざ年始状を送ってきた迷亭君が、ひょっこりやって来た。「何か新体詩でも作っているのかい?面白いのができたら見せてくれ」と言う。「うん、ちょっといい文章だと思ったから、今翻訳してみようと思ってね」と主人は重たそうに口を開く。「文章?誰の文章だい?」「誰のか分からないよ」「無名氏か、無名氏の作にも随分良いのがあるから、なかなか馬鹿にできない。全体、どこにあったのか」と問う。「第二読本」と主人は落ち着き払って答える。「第二読本?第二読本がどうしたんだ」「僕の翻訳している名文というのは、第二読本の中にあるということさ」「冗談じゃない。孔雀の舌の復讐を際どいところで討とうという寸法なんだろう」「僕は君のような法螺吹きとは違うさ」と口髭を捻る。泰然たるものだ。「昔、ある人が山陽に、最近名文はないかと尋ねたら、山陽が馬子の書いた借金の催促状を示して、最近の名文はまずこれでしょうと言ったという話があるから、君の審美眼も存外確かかもしれん。どれ、読んでみなさい、僕が批評してやるから」と迷亭先生は審美眼の本家のようなことを言う。主人は禅坊主が大燈国師の遺誡を読むような声で読み始める。「巨人、引力」「何だい、その巨人引力というのは?」「巨人引力という題さ」「妙な題だな、僕には意味がわからんね」「引力という名を持っている巨人というつもりさ」「少し無理なつもりだが、表題だからまず負けておくとしよう。それから早々本文を読むさ、君は声が良いから、なかなか面白い」「混ぜ返してはいかんよ」と予め念を押してまた読み始める。

ケートは窓から外を眺めていた。子供たちがボールを投げて遊んでいる。彼らは高くボールを空に投げ上げ、しばらくするとそれが落ちてくる。子供たちはまたボールを高く投げ、再び、三度も繰り返す。ボールが落ちる理由、なぜ上に上がるだけで落ちるのかとケートが尋ねると、母は答えた。「それは巨人が地中に住んでいるからよ。彼は巨人引力を持っていて、強い力で万物を引き寄せるの。家や人も、彼の力で地面に引かれているのよ。もし引かれなければ、みんな空に飛んで行ってしまう。葉が落ちるのも、巨人引力が呼んでいるからなの。本を落とすのも、巨人引力が来いと言っているからよ。ボールが空に上がるのも、巨人引力が呼んでいるから、そして呼ばれて落ちてくるの。」

「それだけなの?」とケートが言う。「むむ、甘いじゃないか」と母は微笑む。「いや、これは本当に驚いた。君がこんなことを考えるとは、まさに今回は驚かされたよ、降参だ」と一人で納得し、一人で話し続ける。主人には全く通じない。「君を降参させるつもりはないよ。ただ面白い文章だと思ったから訳してみただけさ」と母が言う。「いや、本当に面白い。こうでなくては本物とは言えない。素晴らしいものだ、恐縮だ」と主人は金縁の眼鏡の奥を覗き込む。「そんなに恐縮することはないよ。最近は水彩画をやめたから、その代わりに文章でもやろうと思っているんだ」「遠近無差別、黒白平等の水彩画とは比べ物にならない。感服の至りだよ」と主人は言う。「そう褒めてくれると、僕もやる気になる」と母は言うが、主人はあくまで勘違いをしている。

その時、寒月君が「先日は失礼しました」と入ってきた。「いや、失敬。今、大変な名文を拝聴して、トチメンボーの亡魂を退治したところだ」と迷亭先生は訳の分からないことをほのめかす。「はあ、そうですか」と寒月君も訳の分からない挨拶を返す。主人だけは浮かれた様子はない。「先日は君の紹介で越智東風という人が来たよ」「ああ、上りましたか。あの越智東風という男は非常に正直な人ですが、少し変わったところがあるので、迷惑をかけるかと思いましたが、ぜひ紹介してくれと言われたので……」「別に迷惑なこともなかったがね……」「こちらに上がっても、自分の名前について何か弁じて行きませんでしたか」「いいえ、そんな話はなかったようです」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈をするのが癖なんです」「どんな講釈をするのか」と迷亭君は興味津々で待っていた。「あの東風というのを音で読まれると大変気にするので」「はてね」と迷亭先生は金唐皮の煙草入から煙草をつまみ出す。「私の名は越智東風ではありません、越智こちですと必ず断りますよ」「妙だね」と迷亭先生はその言葉を心の底から楽しむ。「それが全く文学熱から来たもので、こちと読むと遠近という成語になるし、その姓名が韻を踏んでいるのが得意なんです。だから東風を音で読むと、せっかくの苦心を人が理解してくれないと不平を言うのです」「なるほど、変わっている」と迷亭先生は感心し、煙を吐き出す。途中で煙が喉に引っかかり、先生は咳き込む。「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたと言っていたよ」と主人は笑いながら言う。「うむ、それそれ」と迷亭先生が煙管で膝を叩く。私は少し離れたところで様子を見ていた。「その朗読会のこと、先日トチメンボーを御馳走した時に話が出たよ。何でも第二回には知名の文士を招待して大会を開くつもりだから、先生にもぜひ御臨席を願いたいと。それから、今度も近松の世話物をやるつもりかと聞くと、いえ、今回はずっと新しいものを選んで金色夜叉にしましたと言っていたから、君には何の役が当たっているかと聞いたら、私は御宮ですと言ったのさ。東風の御宮は面白いだろう。僕はぜひ出席して喝采しようと思っているよ」「面白いでしょう」と寒月君が妙な笑い方をする。「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから良い。迷亭とは大違いだ」と主人は言う。迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕などは行徳の俎という格だからなあ」と笑う。「まずそんなところだろう」と主人が言う。実は主人は行徳の俎という言葉を理解していないが、長年教師をしているため、こういう時には教室での経験を社交の場にも応用している。「行徳の俎というのは何のことですか」と寒月が真剣に尋ねる。主人は床の方を見て「あの水仙は暮れに僕が風呂の帰りに買ってきて挿したのだが、よく持つじゃないか」と無理に話を逸らす。「暮れといえば、去年の暮れに僕は実に不思議な経験をしたよ」と迷亭が煙管を指先で回しながら言う。「どんな経験か、聞かせてください」と主人は行徳の俎を無理に後にして、ほっと息をつく。迷亭先生の不思議な経験というのは、こうである。