열하나 (3/5)
지은이 夏目漱石
「何だって、呑みびらかすなんて言うの?」
「衣装や道具なら見せびらかすけど、煙草だから呑みびらかすんだよ。」
「へえ、そんな苦しい思いをするくらいなら、もらった方がいいんじゃない?」
「ところが、もらわないんだ。僕も男だし。」
「へえ、もらっちゃいけないの?」
「もらえるかもしれないけど、もらわないんだ。」
「それでどうしたの?」
「もらわないで、こっそりと盗んだ。」
「おやおや。」
「奴が手拭いをぶら下げて湯に出かけたから、ここで呑むしかないと思って、一心不乱に呑んでいたんだ。ああ、愉快だと思う間もなく、障子がぱっと開いて、振り返ると煙草の持ち主がいたんだ。」
「湯には入らなかったの?」
「入ろうと思ったら、巾着を忘れたのに気づいて、廊下から引き返したんだ。人が巾着でも取りに行けばよかったのに、第一それからが失礼だ。」
「何とも言えませんね、煙草の御手際じゃ。」
「ハハハ、じいさんもなかなか目が利くよ。巾着はともかく、じいさんが障子を開けると、二日間の溜め呑みをした煙草の煙がむっと室の中にこもっているじゃないか。悪事千里とはよく言ったものだね。あっという間に露見してしまった。」
「じいさんは何か言ったの?」
「さすが年の功だね、何も言わずに巻煙草を五六十本半紙に包んで、『失礼ですが、こんな粗葉でよろしければどうぞお呑みください』と言って、また湯壺へ下りて行ったよ。」
「そんなのが江戸趣味って言うんでしょうか?」
「江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんと大いに肝胆相照らして、二週間の間面白く滞在して帰ってきたよ。」
「煙草は二週間の間、爺さんの御馳走になったんですか?」
「まあそんなところだね。」
「もうヴァイオリンは片付いたかい?」と主人はようやく本を伏せて、起き上がりながら降参を申し込んだ。
「まだです。これからが面白いところです。ちょうどいい時ですから、聞いてください。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生――何とか言いましたね、え、独仙先生――独仙先生にも聞いていただきたいな。どうです、あんなに寝ちゃ、体に毒ですよ。もう起こしてもいいでしょう。」
「おい、独仙君、起きた起きた。面白い話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だってさ。奥さんが心配だって。」
「え?」と言いながら顔を上げた独仙君の山羊髭を伝わって、垂れたよだれが一筋長々と流れ、蝸牛の這った跡のように光っている。
「ああ、眠かった。山上の白雲、我が懶きに似たりか。ああ、いい心持ちで寝たよ。」
「寝たのはみんなが認めているんだけど、ちょっと起きちゃどうだい?」
「もう、起きてもいいね。何か面白い話があるかい?」
「これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥君。」
「どうするのかな、とんと見当がつかない。」
「これからいよいよ弾くところです。」
「これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ。」
「まだヴァイオリンかい。困ったな。」
「君は無絃の素琴を弾く連中だから困らない方なんだが、寒月君のは、きいきいぴいぴい近所に聞こえるから、大いに困っているところだ。」
「そうかい。寒月君、近所に聞こえないようにヴァイオリンを弾く方法を知らないのか?」
「知りませんね、あるなら伺いたいもので。」
「伺わなくても露地の白牛を見ればすぐ分かるはずだが」と、何だか通じないことを言う。寒月君は寝ぼけてあんな珍語を弄しているのだろうと判断したから、わざと相手にならずに話を進めた。
「ようやくのこと、一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらの蓋をとって見たり、かぶせて見たり、一日そわそわして暮らしてしまいましたが、いよいよ日が暮れて、つづらの底でが鳴き出した時、思い切って例のヴァイオリンと弓を取り出しました。」
「いよいよ出たね」と東風君が言うと、「滅多に弾くと危ないよ」と迷亭君が注意した。
「まず弓を取って、切先から鍔元まで調べてみる……」
「下手な刀屋じゃあるまいし」と迷亭君が冷評した。
「実際、これが自分の魂だと思うと、侍が研ぎ澄ました名刀を、長夜の灯影で鞘払をする時のような心持ちがするものですよ。私は弓を持ったままぶるぶると震えました。」
「全く天才だ」と言う東風君に対して、「全く癲癇だ」と迷亭君がつけ加えた。主人は「早く弾いたらよかろう」と言う。独仙君は困った顔をしている。
「ありがたいことに弓は無事です。今度はヴァイオリンを同じくランプの傍へ引き寄せて、裏表共よく調べてみる。この間約五分間、つづらの底では始終鳴いていると思ってください……」
「何とでも思ってやるから安心して弾くがいい。」
「まだ弾きゃしません。――幸いヴァイオリンも傷がない。これなら大丈夫とぬっと立ち上がる……」
「どこかへ行くのかい?」
「まあ少し黙って聞いてください。そう、一句ごとに邪魔をされちゃ話ができない……」
「おい、諸君、だまるんだとさ。シーシー。」
「しゃべるのは君だけだぜ。」
「うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴。」
「ヴァイオリンを小脇に抱え込んで、草履を突かけたまま二三歩草の戸を出たが、待てしばし……」
「そらおいでなすった。何でも、どこかで停電するに違いないと思った。」
「もう帰ったって甘干しの柿はないぜ。」
「そう、諸先生が混ざり返しになっては、はなはだ遺憾の至りだが、東風君一人を相手にするより致し方がない。――いいかね、東風君、二三歩出たがまた引き返して、国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布を頭から被ってね、ふっとランプを消すと君、真暗闇になって今度は草履の所在地が判然しなくなった。」
「一体どこへ行くんだい?」
「まあ聞いてたまい。ようやくのこと草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。右へ右へと爪先上がりに庚申山へ差しかかってくると、東嶺寺の鐘がボーンと毛布を通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。何時だと思う、君?」
「知らないね。」
「九時だ。これから秋の夜長を一人で、山道を八丁ほど登って大平という場所に行くんだが、普段なら臆病な僕のことだから、怖くてたまらないところなんだ。でも、一心不乱になると不思議なもので、怖いとも怖くないとも思わなくなる。ただ、ヴァイオリンが弾きたい一心で胸がいっぱいなんだから、妙なものだ。この大平という場所は庚申山の南側にあって、天気の良い日に登ると赤松の間から城下を一望できる絶景の平地だ。広さはおそらく百坪ほどあって、真ん中には八畳敷ほどの一枚岩がある。北側は鵜の沼という池が続いていて、その周りには三抱えもある樟の木が立ち並んでいる。山の中だから、人が住んでいるのは樟脳を採る小屋が一軒あるだけで、池の近くは昼間でもあまり心地よい場所ではない。幸い、工兵が演習のために道を切り開いてくれたから、登るのはそれほど苦労しなかった。ようやく一枚岩の上にたどり着いて、毛布を敷いて、何とかその上に座った。こんな寒い晩に登ったのは初めてだから、岩の上に座って少し落ち着くと、周りの寂しさが徐々に腹の底に染み渡っていく。こういう時に心を乱すのはただ怖いという感情だけだから、その感情を取り除くと、残るのはただ清らかで冷たい空気だけになる。二十分ほどぼんやりしているうちに、まるで水晶でできた御殿の中に一人だけ住んでいるような気分になった。しかも、その一人の僕の体が――いや、体だけじゃなく、心も魂もまるで寒天でできたかのように透き通ってしまって、自分が水晶の御殿の中にいるのか、自分の腹の中に水晶の御殿があるのか、わからなくなってきた……」
「飛んだことになってきたね」と迷亭君が真面目にからかうと、独仙君が「面白い境界だ」と少し感心した様子を見せた。
「もしこの状態が長く続いたら、明日の朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、ぼんやり一枚岩の上に座っていたかもしれない……」
「狐でもいるのかい?」と東風君が尋ねた。
「こういう具合で、自他の区別もなくなり、生きているのか死んでいるのか、方角もわからない時に、突然後ろの古沼の奥でギャーという声がした……」
「いよいよ出たね」
「その声が遠く反響して、満山の秋の梢を、野分と共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った……」
「やっと安心した」と迷亭君が胸を撫でおろす真似をする。
「大死一番乾坤新なり」と独仙君は目くばせをするが、寒月君にはまったく通じない。
「それから、我に帰ってあたりを見回すと、庚申山一面は静まり返っていて、雨垂れほどの音もしない。あの音は何だったのだろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大きすぎるし、猿の声にしては――この辺に猿はいないだろう。何だろう? 何だろうという疑問が頭に浮かぶと、今まで静まり返っていた思考が、まるでコンノート殿下歓迎の当時の都人士の狂乱のように脳裏をかけ巡る。そのうちに全身の毛穴が急に開いて、焼酎を吹きかけられた毛脛のように、勇気や胆力、分別、沈着などと呼ぶお客様がすうすうと蒸発していく。心臓が肋骨の下でステテコを踊り出し、両足が紙鳶のように震え始める。これはたまらん。いきなり、毛布を頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇に抱え、ひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道を麓の方へ駆け下り、宿に帰って布団にくるまって寝てしまった。今考えても、あんな気味の悪かったことはないよ、東風君」
「それから?」
「それでおしまいさ」
「ヴァイオリンは弾かないのかい?」
「弾きたくても、弾けないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾けないよ」
「なんだか君の話は物足りないような気がする」
「気がしても事実だよ。どうです先生」と寒月君は一座を見回して大得意の様子である。
「ハハハハ、これは上出来だ。そこまで持って行くには、だいぶ苦心惨憺があったのだろう。僕は男子のサンドラ・ベロニが東方君子の邦に出現するところかと思って、今まで真面目に拝聴していたんだよ」と言った迷亭君は、誰かサンドラ・ベロニの講釈でも聞くかと思ったが、何の質問も出ないので「サンドラ・ベロニが月下に竪琴を弾いて、イタリア風の歌を森の中で歌っているところは、君の庚申山へヴァイオリンを持って上るところと同曲にして異巧なるものだね。惜しいことに向こうは月中の嫦娥を驚かせ、君は古沼の怪狸に驚かされたので、際どいところで滑稽と崇高の大差が生じた。さぞ遺憾だろう」と一人で説明すると、
「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は意外にも平気である。
「全体、山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるからおどかされるんだ」と今度は主人が酷評を加えると、
「好漢、この鬼窟裏に向かって生計を営むのは惜しいことだ」と独仙君は嘆息した。独仙君の言うことは決して寒月君にわかったためしがない。寒月君だけでなく、おそらく誰にでもわからないだろう。
「そういえば寒月君、最近もやっぱり学校へ行って珠を磨いているのかね」と迷亭先生はしばらくして話題を変えた。
「いえ、先日国へ帰省していたので、しばらく中止しています。珠ももう飽きましたから、実はやめようかと思っているんです」
「だって珠が磨けないと博士にはなれないぞ」と主人は少し眉をひそめたが、本人は意外にも気楽で、
「博士ですか、エヘヘヘヘ。博士ならもうならなくてもいいんです」
「でも結婚が延びて、双方困るだろう」
「結婚って誰の結婚ですか?」
「君のさ」
「私が誰と結婚するんです?」
「金田の令嬢さ」
「へええ」
「へえって、あれほど約束があるじゃないか」
「約束なんかありません、そんなことを言い触らすなあ、向こうの勝手です」
「こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう。」
「あの事件、鼻事件のことだよね。あの件については、君と僕だけが知っているわけじゃない。公然の秘密として、みんな知っているよ。実際、万朝なんかでは『花婿花嫁』というタイトルで、君たちの写真を載せる栄誉を与えられたのはいつだろうって、うるさく僕に聞いてくるくらいなんだ。東風君は、すでに『鴛鴦歌』という大作を作って、三ヶ月前から待っているけれど、寒月君が博士にならないせいで、せっかくの傑作が宝の持ち腐れになりそうで心配でたまらないみたいだよ。ねえ、東風君、そうだろう?」
「まだ心配するほどのものではありませんが、とにかく、満腹の同情を込めた作品を公にするつもりです。」
「ほら、君が博士になるかどうかで、周りに影響が出てくるよ。しっかりして、珠を磨いてくれたまえ。」
「へへへ、いろいろ心配をかけて申し訳ありませんが、もう博士にはならなくてもいいんです。」
「どうして?」
「だって、もうはっきりとした妻がいるんですから。」
「え?いつの間に秘密結婚をしたのかね。油断ならない世の中だ。苦沙弥さん、ただ今お聞きの通り、寒月君はすでに妻子がいるんだよ。」
「子供はまだいませんよ。結婚して一ヶ月も経たないうちに子供が生まれるなんてことはありませんから。」
「元々、いつどこで結婚したんだ?」と主人は予審判事のような質問を投げかける。
「いつって、国に帰ったら、ちゃんと待っていてくれたんです。今日、先生のところに持ってきたこの鰹節は、結婚祝いに親類からもらったものです。」
「たった三本で祝うのはケチだな。」
「いえ、たくさんのうちから三本だけ持ってきたんです。」
「じゃあ、御国の女性だね。やっぱり色が黒いんだろう。」
「ええ、真っ黒です。ちょうど私には相応しいです。」
「それで金田の方はどうするつもりだい?」
「どうするつもりもありません。」
「それは少し義理が悪いんじゃないか。ねえ、迷亭。」
「悪くもないさ。ほかにやったって同じことだ。どうせ夫婦なんてものは、闇の中で鉢合わせするようなものだ。要するに、鉢合わせしないでも済むところをわざわざ鉢合わせるんだから、余計なことさ。すでに余計なことなら、誰と誰の鉢が合ったって構わないよ。ただ気の毒なのは、鴛鴦歌を作った東風君くらいなものさ。」
「鴛鴦歌は、都合によってこちらに向けてもいいですよ。金田家の結婚式にはまた別に作りますから。」
「さすが詩人だけあって、自由自在なものだね。」
「金田の方へ断ったかい?」と主人はまだ金田を気にしている。
「いいえ。断る理由はありません。私の方からお願いしたことも、向こうから申し込まれたこともありませんから、黙っていれば問題ありません。――今の時代、探偵が十人も二十人もかかって、一部始終を知っていますから。」
探偵という言葉を聞いた主人は、急に苦い顔をして、「ふん、そんなら黙っていろ」と言い渡したが、それでも飽き足らなかったのか、さらに探偵について次のようなことを大げさに語り始めた。
「不用意なときに人の懐中を抜くのがスリで、不用意なときに人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸を外して人の所有品を盗むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らせて人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上に刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、脅し文句を並べて人の意志を強いるのが探偵だ。だから探偵という奴は、スリ、泥棒、強盗の一族で、とうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の言うことを聞くと癖になる。決して負けるな。」
「大丈夫です。探偵が千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃してきたって、怖くはありません。珠磨きの名人、理学士水島寒月ですから。」
「ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士は元気旺盛だね。しかし、苦沙弥さん。探偵がスリ、泥棒、強盗の同類なら、その探偵を使う金田君は何の同類だろう?」
「熊坂長範くらいなものだろう。」
「熊坂はよかったね。一つと見えた長範が二つになって失せにけりと言うが、あんな烏金で身代を作った向横丁の長範なんかは、業つく張りの欲張り屋だから、いくつになっても失せる気遣いはないぜ。あんな奴につかまったら因果だよ。生涯たたるよ、寒月君、用心したまえ。」
「なあに、いいですよ。ああら物々し盗人よ。手並みは先に知っているでしょう。それにも懲りずに打ち入るかって、ひどい目に合わせてやりますよ。」と寒月君は自若として宝生流に気を吐いて見せる。
「探偵といえば、二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どういう訳だろう。」と独仙君は、独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を投げかけた。
「物価が高いせいでしょう。」と寒月君が答える。
「芸術趣味を解さないからでしょう。」と東風君が答える。
「人間に文明の角が生えて、金米糖のようにいらいらするからさ。」と迷亭君が答える。
今度は主人の番である。主人はもったいぶった口調で、こんな議論を始めた。
「それは僕が大分考えたことだ。僕の解釈によると、当世人の探偵的傾向は、全く個人の自覚心の強すぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは、独仙君の方で言う、見性成仏とか、自己は天地と同一体だとかいう悟道の類ではない……」
「おや、大分難しくなってきたようだ。苦沙弥君、君にしてそんな大議論を舌頭に弄する以上は、かく申す迷亭も憚りながら、後で現代の文明に対する不平を堂々と言うよ。」
「勝手に言うがいい、言うこともない癖に。」
「ところがある。大いにある。君なんかは先だって、刑事巡査を神のごとく敬い、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪だが、僕などは終始一貫、父母未生以前からただ今に至るまで、かつて自説を変じたことのない男だ。」
「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。先だっては先だってで、今日は今日だ。自説が変わらないのは発達しない証拠だ。下愚は移らずというのは君のことだ……」
「これは厳しい。探偵もそうまともに来ると可愛いところがある。」
「おれが探偵だ。」
「探偵でないから、正直でいいというのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ、その大議論の後を拝聴しよう。」
今の人々の自覚心というのは、自己と他人の間に明確な利害の溝があることを知りすぎているということだ。文明が進むにつれて、この自覚心は日々鋭敏になり、最終的には一挙手一投足も自然に行えなくなってしまう。ヘンレーという人がスチーヴンソンを評して、彼は鏡のかかった部屋に入ると、鏡の前を通るたびに自分の影を見なければ気が済まないほど、瞬時も自己を忘れることができない人だと述べたことは、まさに今日の状況を的確に表している。
寝ていても、起きていても、常に自分がどこにでもついて回っているから、人間の行動や言動は人工的になり、自分自身が窮屈になっていく。世の中はますます苦しくなるばかりで、まるで見合いをする若い男女の心持ちのように、朝から晩まで気を使わなければならない。悠々とした心持ちや従容とした態度は、もはや意味のない言葉になってしまった。この点において、今の人々は探偵的であり、泥棒的でもある。探偵は他人の目をかすめて自分だけがうまくやろうとする商売だから、強い自覚心がなければ成り立たない。泥棒も捕まるか見つかるかという心配が常に頭から離れないから、やはり自覚心が強くならざるを得ない。
今の人々は、どうしたら自分に利益があるか、損になるかを、寝ても覚めても考え続けている。だから、探偵や泥棒と同じように自覚心が強くならざるを得ない。二六時中、キョトキョト、コソコソして、墓に入るまで一刻の安心も得られないのが、今の人の心だ。これは文明の呪詛だ。馬鹿馬鹿しいことだ。
「なるほど、面白い解釈だ」と独仙君が言った。こんな話題になると、独仙君はなかなか引き下がらない男である。「苦沙弥君の説明は、よく私の考えを捉えている。昔の人は己を忘れろと教えたが、今の人は己を忘れるなと教えるから、まるで違う。二六時中、己という意識で満たされているから、いつでも平穏な時はない。常に焦熱地獄のようだ。天下に何が薬かといえば、己を忘れること以上の薬はない。『三更月下入無我』とは、この境地を詠じたものだ。今の人は親切をしても、自然を欠いている。英吉利のナイスなどと自慢する行為も、実は自覚心が強くなりすぎているのだ。」
「それが英吉利趣味ですか?」寒月君が質問した。
「こんな話を聞いたことがある」と主人が続ける。「やはり英国のある兵営で、連隊の士官たちが一人の下士官をもてなしたことがあった。宴が終わり、手を洗う水をガラスの鉢に入れて出したところ、その下士官は宴会に慣れていなかったのか、ガラスの鉢を口にあてて水をぐうと飲んでしまった。すると、連隊長が突然下士官の健康を祝うと言いながら、同じようにその水を一息に飲み干したそうだ。そこで、周りの士官たちも負けじと水盃を挙げて下士官の健康を祝ったという。」
「こんな話もあるよ」と、黙っていることが嫌な迷亭君が口を開いた。「カーライルが初めて女皇に謁見した時、宮廷の礼に不慣れな変わり者だったから、突然『どうですか』と言いながら、どさりと椅子に腰を下ろした。すると、女皇の後ろに立っていた多くの侍従や官女がくすくす笑い出した――出したのではなく、出そうとしたのだ。すると女皇が後ろを振り向いて、何か合図をすると、いつの間にか侍従や官女たちも椅子に腰をかけて、カーライルは面目を失わなかったというが、随分と気の利いた親切もあったものだ。」
「カーライルのことなら、みんなが立っていても平気だったかもしれませんよ」と寒月君が短評を試みた。
「親切の方の自覚心はまあいいがね」と独仙君が続ける。「自覚心があるだけ、親切をするのにも骨が折れることになる。気の毒なことだ。文明が進むにつれて、殺伐な気がなくなる、個人と個人の交際が穏やかになるなどと普通は言うが、大間違いだ。こんなに自覚心が強くて、どうして穏やかになれるものか。確かに一見すると静かで無事なようだが、互いの間は非常に苦しいのだ。まるで相撲が土俵の真ん中で四つに組んで動かないようなものだ。外から見ると平穏そのものだが、当人たちの腹の中は波立っているのだ。」
「喧嘩も昔の喧嘩は暴力で圧迫するから、かえって罪はなかったが、最近は巧妙になっているから、ますます自覚心が増してくるのだね」と番が迷亭先生の頭の上に話を持っていく。「ベーコンの言葉に、自然の力に従って初めて自然に勝つとあるが、今の喧嘩はまさにベーコンの格言通りに成り立っているから不思議だ。ちょうど柔術のようなものだ。敵の力を利用して敵を倒すことを考える……」