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ドグラ・マグラ (33/47)

作 夢野久作

正木博士は、消えかけた葉巻に火をつけながら、ポケットに両手を突っ込んで、スパスパと吸い始めた。しばらくして葉巻を啣え直すと、濛々と立ち上る煙の中で、彼はゆっくりと座り直した。

「さて、実はこの件は、いずれ社会に明るみに出ると思う。新聞で見ればわかるだろうが、もしかしたら昨日の夕刊か今朝の新聞に載っているかもしれない。実は、昨日、あの狂人の解放治療場で大きな事件が起きたのだ。つまり、私がこの事件を中心に心理遺伝の実験を進めるために、あの治療場の精神病者たちの中に仕掛けておいた精神科学の応用による爆弾の導火線が、じわじわと燃え続け、昨日の正午――大正十五年の十月十九日の午砲が鳴るとほぼ同時に、見事に爆発したのだ。」

「実際、種を明かせば何でもない。その導火線は一挺の鍬に仕掛けてあっただけなのだが、精神科学を応用したものだから、煙も立たず、火も見えない。普通の人には、そんな仕掛けがあるとは思えなかったのだ。どこから見ても普通の鍬にしか見えなかった。しかし、その結果は、正直なところ、爆発し過ぎたと言ってもいいくらいで、私自身も驚くほどの惨劇となってしまった。その責任を感じた私は、すぐに総長室に出頭し、辞職を申し出たのだが……よく考えてみると、ここが私の実験の切り上げ時らしい。私のこれまでの研究に関するすべての発表は、若林が控えているから……実は、私もその時までは若林をそれほど腹黒い奴だとは思っていなかったのだ。若林がどうにかしてくれるだろうと思っていた。面倒だから人間の方も辞職してしまおうと考え、私は一旦下宿へ帰り、後片付けをした。それから東中洲の賑やかな場所で一杯引っかけて、すっかりいい気分になりながら、書類を整理するためにここへ戻ってくると……また驚いた。つい先ほど、私がここを出かける時まで空室だった六号の病室に、明るい電燈が灯っているのだ。」

「おかしいなと思い、帰りかけていた小使に様子を聞いてみると、若林先生がどこからか一人の女性を連れてきて、当直の医員に頼んで、たった今入院させたところだという。しかも、その女性は、今まで見たこともない、何とも言えない美しい人だと聞かされた。」

その時、さすがの私も思わず感嘆の声を上げた。これは面倒なことになった。この様子では、若林鏡太郎は一筋縄ではいかない奴だ。彼の法医学者としての価値は、相当なものであり、いや、それ以上かもしれない大悪党だ。第一、私の前ではすっかり猫をかぶっているが、うっかりすると私に負けないくらいの精神病学者であり、人情の弱点を利用することに非常に長けていることが一目瞭然だったのだ。

この遺言書にも書いておいた通り、若林鏡太郎がこの事件の発生当時、学長の権威を利用して彼の少女を生きた亡者にしてしまい、自分の手中に握り込んだ目的がどこにあるのか、当時から今日までどうしてもわからなかった。しかし、今となってみると何のことはない。彼は君がある程度まで本性を回復した時を見計らって、こっそりとあの娘に引き合わせ、色欲と理詰めの三方から、君自身に無理やり自分を呉一郎と認めさせようとしているのだ。そして、私を君の不倶戴天の仇敵と思い込ませ、その事実を公式に言明させようとしている。彼の思い通りに歪めた事件の真相を社会に曝露させようとしているのだ。さらには、その君の言明を、自分の生涯の事業としている『精神科学的犯罪とその証跡』の第一例として掲げようと企んでいるのが手に取るようにわかってきた。

そこで私は考えた。よろしい。そちらがそんな考えなら、こちらにも考えがある。もともと若林の精神科学的犯罪の研究は、私の独創的な心理遺伝の学理原則を土台にして組み立てられているのだから、混ぜ返しをしようと思えば訳はない。ここで思い切って私の精神科学の研究発表の原稿を全部焼き捨てて、後にその内容の概略を書いたヒヤカシ半分の遺言書を残しておけば、彼、若林は嫌でもその著述の中にこの遺言書を組み込まなければ研究発表の筋が立たなくなるだろう。しかし、果たして彼が私の遺言書を公表できるかどうか……公表するとすれば、どんな風に手品を使って公表するかは、非常に面白い見物だ。場合によっては、私の遺言書は恐らく空前絶後のタチの悪い置き土産になるかもしれない。

こう考えると、私は急に嬉しくなった。大急ぎでこの部屋に来て書類をすっかり焼き捨て、この遺言書を書き始めた。夜が明けると、君が覚醒しかけたというので、兼ねてから待ちかねて準備していた若林がすぐに駆けつけ、早速彼の美少女に引き合わせた。しかし、これはまんまと失敗した。尤も、先方は君を恋しい兄さんと認めてくれたので、まず半分は成功したわけだが、肝心の君自身が、あの美少女に対して自分の従妹とも許嫁とも何とも認めなかったので、今度は手段を変えて、君をこの部屋に連れて来る様子だ。

……さて、実を言うと、この時には私も少し動揺していた。恐ろしいのは、若林鏡太郎という男だ。彼は私の心の内を、もうずいぶん前から見抜いていたのだ。彼は、私が遅かれ早かれこの危険な放れ業式の解放治療の実験を終え、その結果を学界に発表すると同時に、行方をくらますだろうことを、ずっと前から予測していた。

さらに、姪の浜の花嫁殺し事件を私一人の実験材料として使い捨て、後から誰が見ても犯罪事件とは思えないようにして、学界に報告することまで見抜いていたのだ。そこで彼は全力を挙げて、電光石火のごとく事を進めた。私がまだ行方を隠さないうちに、私を押さえつけてギャフンと言わせようと、巧妙に仕掛けたのだ。

……彼は、私が昨夜からここにいることを、今朝本館の玄関を入った瞬間に見抜いていたに違いない。何らかの策略で私を追い詰めるために、君をここへ連れて来るつもりだ……と気づいた私は、ドッコイその手は桑名の何とかだと思った。驚かせてやろうと、遺言書や焼き残りの書類をそのまま置きっぱなしにして、ウイスキーの瓶と一緒に姿を消したのだ。もちろん、窓から飛び出したわけでも、向こうの扉から抜け出したわけでもない。一歩もこの部屋から出ずに、誰にも気づかれないように消え失せたのだ……と言うと、何だか精神科学の手品のようだが、そんなことではない。種はこの大暖炉だ。

この大暖炉は、もしこの実験が失敗するか、私の研究内容を他人に盗まれそうになった時に、すべての原稿をここで焼き捨ててくれるように設計したものだ。場合によっては、私自身もこの大暖炉を利用して、天下を煙に巻きながら、ヒュードロドロドロと行方をくらますつもりだったのだが……見てごらん……この鉄の蓋を取ると、内部はこんなに広々としていて、底一面の電熱装置からガスが噴き出すようになっている。何のことはない、ブンゼンランプの大きなものを二百ほど並べた形だ。この上に生きたものを載せて、ガスのコックを開いて電気のスイッチを入れると、まずガスが飛び出して窒息させてしまう。そのうちに電熱器が熱を帯びて、ドカンとガスに点火したら、一時間も経たないうちに骨までボロボロになってしまうだろう。その上に石や瓦を積み重ねておくと、全部白熱して強烈な輻射熱を発するのだからね。見てごらん、肉よりも焼けにくいという西洋紙の原稿が、本箱に四杯近くもあったのが、どうだい。たったこれだけの白い灰になってしまっているだろう。これで私がまた煙になれば、せっかくの大学理が、また元の空中に還元されてしまうわけだ。ハッハッハッ。……私は、君と若林があの階段を上ってくる音を耳にすると同時に、ウイスキーの瓶と一緒にこの中に逃げ込み、この灰の上に新聞紙を敷いて楽々と胡座をかきながら、いつでも煙になる覚悟で、葉巻を吹かしつつ耳を澄ましていたのだ。

……ところが、さすがは彼だ。天下の名法医学者だ。私の姿が見えなくても平気でいるばかりか、すぐにその機会を利用して君を錯覚に陥れ始めた。……彼の頭は聖徳太子のように二重三重に働くのだからね。だから私や斎藤先生のことを色々と君に話しながら、この遺言書の内容を急いで検査してみると、少々都合の悪いところもあるが、結論まで書いていないからまず安全だ。さらに、これを君に読ませれば、自分で説明するよりも遥かに都合よく、君自身を呉一郎と思い込ませることができるという見込みが立ったので、わざと君に押し付けておいて、君が夢中になって読んでいるうちにコッソリ姿を消してしまったのだ。そうしてこれに対して私がどんな処置を執るかを試験しているようだ。

……そこで私はますます面白くなった。……よし……その儀ならば、こちらも一つその計略の裏を行って、あべこべに彼の挑戦に逆襲してやろうと思い、暖炉の中からソーッとここへ出てきて、この椅子に腰を下ろしながら、君がその遺言書を読み終えるのを待っていたわけだが……。ハッハッ……どうだい。今、君と私は天下の名法医学者、若林鏡太郎氏の計画の下で対決しているのだ。君がどこの何という名前の青年であるか……この事件とどのような因果関係によって結びつけられて、現在その椅子に座らされているのかということは、まだ学理上にも実際上にも明白に決定されていないのだよ。

……だから彼は、若林の予想通りに、君がその自我忘失症から、姪の浜の一青年呉一郎として覚醒し、私をその事件の裏面で活躍している怪魔人……血も涙もない極悪非道の精神科学の手品使いとして指摘すれば、この対決は私の負けになる。しかし、これに反して、君がどうしても呉一郎としての過去の記憶を思い出さなければ、早い話が私の勝ちになる……君は『自我忘失症』と名づけられる一種の自家意識障害を起こし、九大の精神科に収容されている、第三者の立場から若林の手にかかって突然この事件に巻き込まれてきた無名の青年という事実が公表されることになり、若林の計画がオジャンになるという、その際どい土俵際に立っているのだよ君は……。どうだ、面白いだろう。古今無双の名法医学者と、空前絶後の精神科学者の、痛快深刻を極めた智慧比べだ。しかも、その勝負を決すべき呉一郎が、君自身だかどうだかは、今も言う通りまだ決定しないでいる。ハッケヨイヤ、残った残ったというところだね。ハッハッハッ……」

正木博士の高笑いは、部屋の中の様々なものに響き渡り、私の耳に飛び込んできた。そして、二人の博士の言うことが、どちらが本当か嘘かもわからないまま、ぼんやりとした私の頭の中をかき乱し、そのままどこかへ静かに消え失せていった。

しかし正木博士は、私のそんな気持ちに全く気に留めず、また片目をしっかりとつぶって、まるで美味しそうに葉巻の煙を吸い込んだ。それから回転椅子の肘掛けに両手をついて、ゆっくりと立ち上がりかけた。

「……さあ、ドッコイショ……ここから本勝負に取りかかる必要がある。まずは、君の過去の記憶を取り戻させなければならない。君が誰であるかを自分自身で確かめるためにね。若林の手前、卑怯な真似はできないから。……さあ、こちらに来てみてくれ。今度は私が君の過去を思い出させるための第一回目の実験を行うから……」

私は、まるで夢遊病にかかっているかのような気持ちで、フワフワと椅子から立ち上がった。どこからか若林博士の青白い瞳が私を見つめているような気味の悪さを感じながら、正木博士に導かれるまま南側の窓に近づいた。しかし、正木博士の白い診察服の肩越しに窓の外を一瞥した瞬間、私はハッとして立ち止まった。

目の前には、狂人解放治療場の全景が広がっていた。……その一角には、間違いなく呉一郎が立っていた。老人の畠打ちを見守りながら、背中をこちらに向けている……髪は乱れ、色白で頬が赤い、黒い着物をだらしなく着た青年の姿だった。

その哀れな姿を現実に目にした瞬間、私は思わず目を閉じた。両手で顔を覆い隠す。……あまりにも驚きと恐れ、そして言い知れぬ神経の緊張に打たれて……。

……呉一郎がそこにいるじゃないか。あれは彼の遺言書に書かれていた呉一郎の姿に違いない。そうであれば、ここに立っている私は一体、何者なのだろう……。

窓の外を覗いた瞬間、私は自分自身から脱け出して、姿を変えてあそこに立っているような気がした。残された魂魄だけが、その光景を眺めているような……そんな陰惨で悲痛な感覚が押し寄せてきた。

……もしかしたら、今見たのは私の幻覚ではなかったのか。白昼の夢ではなかったのか……。

頭の中で電光のように考えを巡らせながら、何とも言えない息苦しさと不可思議な興奮に囚われて、私は再びゆっくりと目を開けた。

しかし、解放治療場の光景は、どう見直しても夢とは思えなかった。……青い空、赤い煉瓦の塀、白く眩しい砂、その上を歩く黒い人影……。

その時、私の前に立って何かを考え込んでいた正木博士が、ふと私を振り返り、何気なく窓の外を指さした。

「……どうだい、ここがどこだか知っているかね?」

しかし、私は返事ができなかった。ただ微かに頷いたばかりだった。それほど、私は目を開いた瞬間から、異様な場内の光景に魅せられてしまったのだ。

青空の光と照らし合う場内一面の白砂の上を、ウロウロと動き回る患者たちの黒い影は、ほとんど全てが、遺言書に描かれていた通りの仕事をそのまま繰り返していた。まるで、一人一人の動きが正木博士の心理遺伝の原則を実地に証明する芝居のように……儀作老人は依然として鍬を振るい、新たな砂の畝を作り、青年呉一郎は背中を向けて、老人の前で鍬を動かす手元を一心に見守っている。年増の女性は、ボール紙の王冠を落としたことに気づかずに威張って歩き回り、それを拝んでいた髭面の大男は、疲れ果てて砂の中に額を突っ込んで眠り、小男の演説家は煉瓦塀に拳を押し当てて祈り、痩せた青黒い少女は、老人の作った新しい畝に植えるものを探して、場内をキョロキョロと物色している。そのほかの連中も、位置が違っているように見えるだけで、やっている仕事の意味は遺言書の説明と少しも変わらない。ただ、最初から歌を歌って踊り回っていた舞踏狂の女学生が、私たちの立っている窓のすぐ下に、肩まで手が入るような砂の穴を掘り、ボール紙の王冠と松の枯れ枝を使って小さな罠を作りかけているのが、少々脱線しているように思われるだけだった。しかし、いずれにしても、正木博士が話した昨日の正午の大惨事というのは、いつ、どの狂人が起こしたものか、その形跡さえ見えないのが、私には不思議でならなかった。舞踏狂の少女が歌をやめたせいか、あるいは硝子窓越しに眺めているせいか、すべてが影のように静まり返っている。その薄気味悪さ……人数を数えてみると、やはり遺言書に書かれている通りの十人で、増えても減ってもいないのはどうしたことだろう。

さらに不思議なことには、その何も変わらない静かで鮮明な光景を見下ろしているうちに、正木博士が仕掛けておいた精神科学的な大爆発……正木博士の辞職の原因となった大惨事が、もうじき始まろうとしている……それは昨日のことでも、一昨日のことでもない。まさに今、目の前に起ころうとしている事実なのだ……という予感がして、どうしようもなかった。否、場内にいる狂人だけではない。向こうの屋根の上に二本並んで、藍色の大空を支えている赤煉瓦の大煙突……その上から、たった今吐き出され始めた黒い煤煙のうねり……その上にまん丸く輝く太陽までもが、何らかの神秘的な精神科学の原則に支配されつつ、時々刻々にその空前絶後の大事変に向かって迫っているのではないか……という底知れぬ冷やかな、厳粛な感覚が、頻りに首筋に襲いかかり、全身がゾクゾクしてくるのを我慢できなかった。そんな馬鹿なことが……と思えば思うほど、その思いが強くなっていくのだった。私はその神秘的で息苦しい気持ちを押し込めようと焦燥しながら、なおも解放治療場の光景に目を注いだ。老人の畠打ちを見ている呉一郎の後ろ姿を、異様な胸の轟きの中で凝視していた。

その時、突然、私の耳元で低い囁くような声がした。

「何を見ているのだね……君は……」

その声の調子は、今までの正木博士とはまるで違っていた。私はドキリとして振り返った。

見ると、正木博士はいつの間にか私のすぐ近くに立っていて、細い煙を立てる葉巻を手にしていた。しかし、その顔からはいつもの微笑が消え失せ、鼻眼鏡の下の真っ黒な瞳で私の横顔をじっと睨みつけていた。

私は深いため息をついた。そして、できるだけ気を落ち着けて返事をした。「解放治療場を見ているのです。」

「フ――ウ――ム」と、腹の底から唸るように言った正木博士は、やはり瞬き一つせずに私の瞳を見つめ続けた。

「フ――ム。……それで、何か見えているのかね……解放治療場の中に……」

正木博士の尋ね方がどこか異様に感じられ、私は静かにその瞳を見返した。「はい……狂人が十人いるようです。」

「……ナニ……狂人が十人……」正木博士は慌てた声で言い、何かしら驚いた様子で再び私をじっと睨み付けた。

その視線を横顔に感じながら、私は再び解放治療場の中を振り返り、呉一郎の後ろ姿を凝視し始めた。今にもこちらを振り向いて、私と顔を合わせそうな気がして、そうなったら何か大変なことが起こりそうに思え、身体全体が自然と固くなるように感じた。

「ウーム……」正木博士は私の横で気味の悪いほどはっきりと唸った。「あの中で狂人が遊んでいるのが、アリアリと見えるのかね君には……」

私は無言のまま頷いた。奇妙な質問の仕方だとは思ったが、特に気には留めなかった。「フ――ム。そうして人数はやっぱり十人いるというのかね。」

私は再び頷きながら振り返った。「はい。きっちり十人おります。」

「……ウ――ム……」正木博士は唸り、真っ黒な眼の球を奥の方へ凹ませながら考え込んでいるようだった。「フーム。こいつは妙だ。……とても面白い現象だぞ、これは……」

独り言のように呟きながら、彼は徐ろに私の顔から視線を外し、窓の外を見た。心持ち青白い顔になって、じっと考え込んでいるようだったが、やがて以前のように元気な顔色に戻り、ニッコリと白い歯を見せながら私を振り返った。窓の外を指しつつ、快活な口調で尋ねた。

「それじゃあ、もう一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう。」

「はい。おります。」

「……ウム……いる。ところでその青年は今、どっちを向いて突立っているかね。」

正木博士の質問がますます奇妙になってきて、私は妙な気持ちになりながら答えた。「こちらに背中を向けて突立っています。ですから顔はわかりません。」

「ウン……多分そうだろうと思った。しかし、見ていたまえ。今にこちらを向くかもしれないから、その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は……」

正木博士がこう言った瞬間、私の全身は何故かビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸が同時に止まったように思った。

その時、正木博士が指していた青年、呉一郎の後ろ姿は、まるで何かの暗示を受けたかのように、ふっとこちらを振り返った。私たちが覗いている硝子窓越しに、私と視線がぴったり合った。その顔には、今まで含まれていた微笑がスーッと消え失せ、今朝あの湯殿の鏡の中で見た私の顔と寸分違わない、驚いたような表情に変わった。顔は丸く、目は大きく、あごは薄い……と思う間もなく、再びニコニコと微笑を浮かべながら、静かに老人の畠打ちの方に向き直ってしまったように思う。

いつの間にか、私は両手で顔を覆っていた。

「……呉一郎は……私だ……私は……」と叫びながら、よろよろとうしろに倒れそうになった。

その時、正木博士が私を抱き止めてくれた。そして、噎せかえるほど芳烈で、火のように舌を刺す液体をドクドクと口の中へ注ぎ込んでくれたように思うが、何が何だかはっきりとは記憶していない。ただ、その時に正木博士が私の耳の傍で怒鳴っていた言葉だけが、かすかに記憶に残っている。

「……しっかりしろ。確りしろ。そして今一度よく、あの青年の顔を見直すのだ。……さあ、そんなに震えてはいけない。そんなに驚くことはないんだ。ちっとも不思議なことはない。……気を落ち着けて、さあ……」