十 (4/4)
作 夏目漱石
「いいえ、学校の名前なんて書きませんよ」
「学校の名前を書かないだけでも、まあ良かった。これで学校の名前が出てしまったら、それは文明中学の名誉に関わることになる」
「どうなるんでしょう、退校になってしまうんでしょうか?」
「そうだな」
「先生、僕のお父さんはとても厳しい人で、それにお母さんは継母ですから、もし退校になったら、僕は本当に困ってしまいます。本当に退校になるんでしょうか?」
「だから、無茶なことはしない方がいい」
「するつもりはなかったんですが、ついしてしまったんです。退校にならないようにできないでしょうか?」と武右衛門君は泣き出しそうな声で、何度も哀願している。襖の陰では、最初から細君と雪江さんがくすくす笑っている。主人は相変わらずもったいぶって「そうだな」と繰り返している。なかなか面白い。
私が面白いと言うと、何がそんなに面白いのかと尋ねる人がいるかもしれない。それはもっともなことだ。人間も動物も、自分を知ることは生涯の大事である。自分を知ることができれば、人間も猫よりは尊敬されるべき存在である。その時には、私もこんないたずらを書くのは気の毒だから、すぐにやめるつもりでいる。しかし、自分の鼻の高さが分からないのと同じように、自分自身の何かを見つけるのはなかなか難しいようで、普段から軽蔑している猫に対してさえ、そんな質問をしてしまうのだろう。人間は生意気に見えても、どこか抜けている部分がある。万物の霊だなどと自負しながら、こんな小さな事実が理解できないのだ。しかも、平然としている様子を見ると、少し笑いたくなる。彼は万物の霊を背負いながら、「僕の鼻はどこにあるのか教えてくれ、教えてくれ」と騒ぎ立てている。万物の霊を辞めるかと思うと、どうしても手放そうとしない。このくらい公然と矛盾していても平気でいられるのなら、それは愛嬌になる。しかし、愛嬌の代わりには馬鹿を甘受しなければならないのだ。
私がこの場で武右衛門君と、主人、そしてその奥さんや雪江嬢を楽しんでいるのは、単に外部の出来事が重なり、その影響が独特の波動を生み出すからではない。実際には、その出来事の反響が人々の心にそれぞれ異なる響きをもたらすからだ。
まず、主人はこの事件に対してむしろ冷淡だ。武右衛門君のお父さんがどれほど騒がしく、お母さんがどれほど彼を継子扱いしようとも、あまり驚くことはない。驚く理由がないのだ。武右衛門君が退校になることは、自分が職を失うこととは大きく異なる。もし千人近くの生徒が一斉に退校することになれば、教師も生活に困るかもしれないが、古井武右衛門君一人の運命が主人の朝夕にほとんど関係ないのだ。関係が薄いところには同情も自然と薄くなる。見知らぬ人のために眉をひそめたり、ため息をついたりするのは、決して自然な傾向ではない。人間がそんなに情深く、思いやりのある生き物であるとは、なかなか受け入れがたい。結局、世の中に生まれてきた以上、時折交際のために涙を流したり、気の毒な顔を作ったりするだけのことだ。それは言わばごまかしの表情であり、実を言うとかなり骨の折れる芸術である。このごまかしをうまくやる人を、芸術的良心の強い人と呼び、世間から大変珍重される。しかし、珍重される人間ほど怪しいものはない。試してみればすぐに分かる。この点において、主人はむしろ拙い部類に属すると言える。拙いから珍重されない。珍重されないから、内心の冷淡を隠すことなく表に出している。彼が武右衛門君に「そうだね」と繰り返しているのも、ここにその理由がある。皆さんは冷淡だからといって、決して主人のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本来の性質であり、その性質を隠そうとしないのは正直な人である。もし皆さんがこのような時に冷淡以上のものを望むなら、それこそ人間を買い被ったと言わなければならない。正直さすら欠けている世の中で、それ以上を期待するのは、馬琴の小説から志乃や小文吾が抜け出して、向こう三軒両隣へ八犬伝が引っ越した時でなければ、当てにならない無理な注文である。
主人はこのくらいにして、次に茶の間で笑っている女性たちに目を向けるが、これは主人の冷淡を一歩越えて、滑稽な領域に飛び込んで楽しんでいるようだ。この女性たちは、武右衛門君が頭痛に悩まされている艶書事件を、仏陀の福音のようにありがたく思っている。理由はない、ただありがたいのだ。強いて言えば、武右衛門君が困っているのがありがたいのである。皆さん、女性に向かって聞いてみてほしい。「あなたは人が困るのを面白がって笑いますか?」と。聞かれた人は、この質問をした者を馬鹿だと言うだろう。馬鹿と言わなければ、わざわざこんな質問をして淑女の品性を侮辱したと思うだろう。侮辱したと思うのは事実かもしれないが、人の困るのを笑うのも事実である。そうであれば、これから私が品性を侮辱するようなことを自分でしてお見せしますから、何とか言っちゃいやよと断るのが普通である。
私は泥棒をする。しかし、決して不道徳だと言ってはならない。もし不道徳だなどと言えば、私の顔に泥を塗ったことになる。私を侮辱したことになるのだ。女性はなかなか利口で、考えに筋道が立っている。人間に生まれた以上は、踏んだり蹴ったり、叱られたりしても、他人が振り向きもしない時に平気でいる覚悟が必要であるだけでなく、唾を吐きかけられ、糞をかけられた上に、大声で笑われることを快く思わなくてはならない。それができなければ、こうした利口な女性と交際することはできない。
武右衛門君も、ちょっとしたはずみからとんでもない間違いをして大いに恐れているようだが、そんな彼を陰で笑うのは失礼だと考えるかもしれない。しかし、それは年齢に見合わない幼稚さであり、人が失礼をした時に怒るのを気が小さいと呼ぶそうだから、そう言われたくなければおとなしくしているがよい。
最後に、武右衛門君の心の内を少し紹介しよう。彼は心配の権化である。あの偉大な頭脳は、ナポレオンのそれが功名心で満たされているように、まさに心配でいっぱいになっている。時折、その団子っ鼻がぴくぴく動くのは、心配が顔面神経に伝わり、無意識に反応しているからだ。彼は大きな鉄砲玉を飲み込んだかのように、腹の中にどうしようもない塊を抱えて、ここ数日、どう対処すべきかに困っている。その切なさのあまり、特に分別の出所もないから、監督と名のつく先生のところへ助けを求めに行ったのだ。いやな人の家へ頭を下げに行くことになった。
彼は普段学校で主人をからかったり、同級生を煽動して主人を困らせたりしたことをすっかり忘れているようだ。いかにからかおうとも困らせようとも、監督と名のつく以上は心配してくれるに違いないと信じているらしい。随分と単純なものだ。監督は主人が好んでなった役職ではない。校長の命によってやむを得ず引き受けている、言わば迷亭の叔父さんの山高帽子のようなものである。ただの名前である。名前だけではどうにもならない。名前がいざという時に役に立つなら、雪江さんは名前だけで見合いができるわけだ。
武右衛門君はただ我儘なだけでなく、他人は自分に必ず親切でなければならないという、人間を買い被った仮定から出発している。笑われるなどとは思いもよらなかっただろう。武右衛門君は監督の家へ来て、きっと人間について一つの真理を発見したに違いない。彼はこの真理のために、将来ますます本当の人間になるだろう。人の心配には冷淡になり、人が困っている時には大きな声で笑うようになるだろう。こうして天下は未来の武右衛門君で満たされるだろう。金田君や金田令夫人でも満たされるだろう。私は心から武右衛門君が一刻も早く自覚して真人間になってほしいと願っている。そうでなければ、いかに心配しようとも、いかに後悔しようとも、いかに善に移ろうと心が切実であっても、決して金田君のような成功は得られないだろう。いや、社会はそう遠くないうちに君を人間の居住地以外に追放するだろう。文明中学の退校どころではないのだ。
面白いことを考えていると、格子戸ががらがらと開き、玄関の障子の影から顔が半分覗いた。
「先生」
主人は武右衛門君に「そうさな」と繰り返していたところへ、玄関から呼ばれたので、誰だろうとそちらを見ると、半分ほど筋違いに障子から顔を出しているのはまさしく寒月君だった。「おい、入ってきな」と言ったきり、座ったままだ。
「お客ですか?」と寒月君は顔を半分だけ出して聞き返す。
「何も気にしないで、さあ上がりなさい」
「実はちょっと先生を誘いに来たんですが」
「どこへ行くつもりだい?また赤坂かい?あの方面はもう勘弁だ。前回は無理やり連れ回されて、足が棒のようになったから」
「今日は大丈夫です。久しぶりに出かけませんか?」
「どこへ行くんだい?まあ上がりなさい」
「上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」
「つまらないじゃないか、それよりちょっと上がりなさい」
寒月君は遠方での交渉が不調だと思ったのか、靴を脱いでのそのそと上がってきた。いつものように鼠色の、尻に当て布のあるズボンを穿いているが、これは時代のせいでも尻が重いからでもなく、本人の弁によると最近自転車の練習を始めたために、局部に比較的多くの摩擦が生じているからだという。未来の妻に注目された本人は、恋の仇を夢にも知らず、「やあ」と言って武右衛門君に軽く会釈をし、縁側に近いところに座った。
「虎の鳴き声を聞いたってつまらないじゃないか」
「ええ、今じゃいけません。これからあちこち散歩して、夜の十一時頃に上野へ行くんです」
「へえ」
「すると公園内の老木は森々として物凄いでしょう」
「そうだな、昼間より少しは寂しいだろう」
「それで、なるべく樹の茂った、昼間でも人が通らないところを選んで歩いていると、いつの間にか紅塵万丈の都会に住んでいる気がなくなって、山の中に迷い込んだような心持ちになるに違いないです」
「そんな心持ちになってどうするんだい?」
「そんな心持ちになって、しばらく佇んでいると、たちまち動物園の中で虎が鳴くんです」
「そんなに上手く鳴くかい?」
「大丈夫、鳴きます。あの鳴き声は昼間でも理科大学に聞こえるくらいなんですから、深夜の静けさの中で、四方に人がいなくて、鬼気迫るような状況で……」
「鬼気迫るとは何のことだい?」
「そんなことを言うじゃありませんか、怖い時に」
「そうかな。あまり聞かないようだが。それで?」
「それで虎が上野の老杉の葉をことごとく振り落とすような勢いで鳴くでしょう。物凄いですよ」
「それは物凄いだろう」
「どうです、冒険に出掛けませんか?きっと愉快だと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜中に聞かなくちゃ、聞いたとは言えないと思うんです」
「そうだな」と主人は武右衛門君の哀願に冷淡であるように、寒月君の探検にも冷淡だった。
この時まで黙って虎の話を羨ましそうに聞いていた武右衛門君は、主人の「そうだな」で再び自分の身の上を思い出したようで、「先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」と再び尋ねる。寒月君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。私は思うところあって、ちょっと失礼して茶の間へ回る。
茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶をたっぷり注ぎ、アンチモニーの茶托の上に載せて、
「雪江さん、憚りさま、これを出して来てください」
「私、いやよ」
「どうして?」と細君は少し驚いた様子で笑いを止めた。
「どうしてでも」と雪江さんはやにわに作った顔をし、傍にあった読売新聞の上に目を落とした。細君はもう一度協商を始める。
「あら、妙な人ね。寒月さんですよ。構わないわ」
「でも、私はいやなんですもの」と読売新聞の上から目を離さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないとバカにされたらまた泣き出すだろう。
「ちっとも恥ずかしいことはないじゃありませんか」と今度は細君が笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上に押しやる。雪江さんは「あら、人が悪い」と新聞を茶碗の下から抜こうとする拍子に茶托に引っかかり、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目に流れ込んだ。「それ御覧なさい」と細君が言うと、雪江さんは「あら、大変だ」と台所へ駆け出して行った。雑巾でも持ってくるつもりだろう。私はこの騒動がちょっと面白かった。
寒月君はそれとも知らず、座敷で妙なことを話している。
「先生、障子を張りやすくしましたね。誰が張ったんです?」
「女が張ったんだ。よく張れているだろう」
「ええ、なかなかうまい。あの時々おいでになる御嬢さんが張ったんですか?」
「うん、あれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると威張ってるぜ」
「へえ、なるほど」と言いながら寒月君は障子を見つめている。
「こっちの方は平らだけど、右の端は紙が余って波ができていますね」
「あそこが張りたてのところで、もっとも経験の乏しい時にできたところさ」
「なるほど、少し手際が落ちますね。あの表面は超絶的曲線で、とうてい普通の機能では表せないです」と、理学者らしく難しいことを言うと、主人は「そうだな」といい加減な挨拶をした。
この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込みがないと思い切った武右衛門君は突然、その偉大なる頭蓋骨を畳の上に押し付けて、無言のうちに暗に訣別の意を表した。主人は「帰るかい?」と言った。武右衛門君はしょんぼりとして薩摩下駄を引きずりながら門を出た。可哀想に。打ち捨てておくと、巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかもしれない。元を辿れば金田令嬢のハイカラさと生意気から起こったことだ。もし武右衛門君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが世界から一人や二人消えてなくなったって、男子は少しも困らない。寒月君はもっと令嬢らしいのをもらうがいい。
「先生、あれは生徒ですか?」
「うん」
「大変大きな頭ですね。学問はできますか?」
「頭の割にはできないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳してくれって言われて、大いに困った」
「全く頭が大きすぎますから、そんな余計な質問をするんでしょう。先生、何とおっしゃいました?」
「ええ? 何を言っているんですか、適当に訳してくれたんですね。」
「それでも訳したんだから、すごいことですよ。」
「子供は何でも訳してもらわないと信用しないからね。」
「先生もなかなか政治家になりましたね。でも今の様子だと、なんだか元気がなさそうで、先生を困らせるようには見えませんね。」
「今日はちょっと弱っているんだよ。馬鹿な奴だ。」
「どうしたんですか? さっき見たばかりなのに、すごく可哀想になりました。全体どうしたんです?」
「愚かなことだ。金田の娘に艶書を送ったんだ。」
「え? あの大頭がですか? 最近の書生は本当にすごいですね。驚きました。」
「君も心配だろうが……」
「全然心配じゃありません。むしろ面白いです。いくら艶書が届いたって大丈夫です。」
「君が安心しているならいいけど……」
「構いませんよ、私は全然気にしません。でもあの大頭が艶書を書くなんて、少し驚きますね。」
「それがさ、冗談でやったんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人で共同して……」
「三人で一本の手紙を金田の令嬢に送ったんですか。ますます奇妙ですね。一人前の西洋料理を三人で食べるようなものじゃありませんか。」
「ところが手分けがあるんだ。一人が文章を書く、一人が投函する、一人が名前を借りる。で、今来たのが名前を借りた奴なんだが、これが一番愚かだね。しかも金田の娘の顔も見たことがないって言うんだ。どうしてそんな無茶なことができたんだろう。」
「それは最近の大出来ですよ。傑作ですね。あの大頭が女に文を送るなんて面白いじゃありませんか。」
「飛んだ間違いにならなければいいけど。」
「何があっても構いません、相手が金田ですから。」
「だって君がもらうかもしれない人だよ。」
「もらうかもしれないから構わないんです。金田なんか、気にしません。」
「君が構わなくても……」
「金田だって気にしません、大丈夫です。」
「それならそれでいいとして、当人が後になって急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、大いに恐縮して僕のところに相談に来たんだ。」
「へえ、それであんなにしょんぼりしているんですか。気の小さい子のようですね。先生、何とか言ってやったんでしょう?」
「本人は退校になるかどうかを一番心配しているんだ。」
「何で退校になるんです?」
「そんな悪い、不道徳なことをしたから。」
「不道徳と言うほどでもありませんよ。構いません。金田は名誉に思って、きっと自慢していますよ。」
「まさか。」
「とにかく可哀想ですよ。そんなことをするのが悪いとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。あの子は頭は大きいけど、人相はそんなに悪くありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです。」
「君もだいぶ呑気なことを言うね。」
「何、これが時代の流れです。先生はあまり昔の風だから、何でも難しく解釈するんです。」
「しかし愚かじゃないか、知らないところにいたずらに艶書を送るなんて、まるで常識を欠いているじゃないか。」
「いたずらは、たいてい常識を欠いていますよ。救ってあげなさい。功徳になりますよ。あの子なら華厳の滝へ出かけますよ。」
「そうだな。」
「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある僧たちがそれどころじゃない、悪いいたずらをして知らん顔をしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らを片っ端から追放しなくちゃ不公平ですよ。」
「それもそうだね。」
「それでどうですか、上野へ虎の鳴き声を聞きに行くのは?」
「虎かい?」
「ええ、聞きに行きましょう。実は二、三日中にちょっと帰国しなければならないことができましたから、当分どこへもお伴はできませんから、今日はぜひ一緒に散歩をしようと思って来たんです。」
「そうか、帰るのかい? 用事でもあるのかい?」
「ええ、ちょっと用事ができたんです。――ともかくも出ようじゃありませんか。」
「そう。それじゃ出ようか。」
「さあ行きましょう。今日は私が晩餐を奢りますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうどいい時間です。」としきりに促すものだから、主人もその気になって、一緒に出かけて行った。後では細君と雪江さんが遠慮のない声で、げらげらと笑っていた。