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十 (2/4)

作 夏目漱石

子供というのは本当にすごいものだ。父親が困り果てていることなど夢にも知らず、楽しそうにご飯を食べている。ところが、手に負えないのは坊やの方だ。坊やはまだ三歳で、母親が気を使って小さな箸と茶碗を用意してくれるのだが、坊やはそれを全く受け入れない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、扱いの下手な道具を無理に使おうとする。世の中を見渡すと、無能で無才な小人ほど、やたらと権力を欲しがるものだが、その性質はまさにこの坊やの時代から芽生えているのだ。だから、教育やしつけでどうにかなるものではないと、早々に諦めてしまうのが賢明だ。

坊やは隣から奪った立派な茶碗と長い箸を使って、しきりに我が物顔で振る舞っている。使いこなせない者が無理に使おうとするから、どうしても暴れん坊になってしまう。坊やはまず、箸の根元を二本一緒に握ったまま、茶碗の底に突っ込んだ。茶碗の中にはご飯が八分目盛られ、その上に味噌汁がたっぷりと注がれている。箸が茶碗に触れた瞬間、今までどうにか保たれていたバランスが崩れ、急に茶碗が三十度ほど傾いた。同時に味噌汁が容赦なく胸のあたりにこぼれ始める。坊やはそんなことでは決してへこたれない。坊やは暴君なのだ。今度は突き込んだ箸を力いっぱい茶碗の底から持ち上げ、同時に小さな口を茶碗の縁まで持っていき、持ち上げられた米粒を口の中に受け入れた。こぼれた米粒は黄色い汁と混ざり合い、鼻の頭や頬、顎にまで飛び散った。飛び散ったものの中には、畳の上に落ちたものもあり、無駄にこぼれてしまった。実に無分別な食べ方だ。私は、名高い金田君や天下の権力者たちに忠告したい。彼らが他人を扱う際、坊やの茶碗と箸を扱うようにすれば、彼らの口に飛び込む米粒は極めて少ないだろう。必然的に飛び込むのではなく、無意識に飛び込むのだ。どうか再考をお願いしたい。世の中の敏腕家たちには似合わないことだ。

姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊やに奪われて、仕方なく小さな茶碗で我慢していた。しかし、元々小さすぎるため、一杯分も持っていれば、あっという間に三口ほどで食べてしまう。だから、頻繁におはちの方へ手を伸ばす。もう四膳も替えて、今度は五杯目だ。とん子はおはちの蓋を開けて、大きなしゃもじを取り上げ、しばらく眺めていた。これは食べようか、よそうかと迷っていたようだが、ついに決心したのか、焦げていない部分を見計らって一掬いしゃもじに乗せたまでは良かったが、それを裏返してぐいっと茶碗の上にこぼした。茶碗に入りきらないご飯は、塊のまま畳の上に転がり出た。とん子は驚く様子もなく、こぼれたご飯を丁寧に拾い始めた。拾って何をするのかと思ったら、全部おはちの中に入れてしまった。少し汚いようだ。

坊やが一大活躍を試みて箸を持ち上げた時、ちょうどとん子がご飯をよそい終わったところだった。さすがに姉は姉だけあって、坊やの顔が乱雑なのを見かねて、「あら坊やちゃん、大変よ、顔がご飯粒だらけよ」と言いながら、すぐに坊やの顔を拭き始めた。まず鼻の頭にくっついていた粒を取り払う。取り払って捨てると思ったら、なんとすぐ自分の口の中に入れてしまった。それから頬にかかっている粒を見つける。ここにはかなりの数があり、両方合わせて約二十粒もあっただろう。姉は丁寧に一粒ずつ取っては食べ、取っては食べ、とうとう妹の顔中にある粒を一つ残らず食べてしまった。この時、今までおとなしく沢庵をかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋の崩れたものをすくい出し、勢いよく口の中に放り込んだ。皆さんもご存知の通り、汁にした薩摩芋の熱さは口の中にこたえるものだ。大人でも注意しないと火傷しそうな心持ちになる。ましてや、薩摩芋にあまり経験のないすん子は、当然狼狽するわけだ。すん子は「ワッ」と叫びながら、口の中の芋を食卓の上に吐き出した。その二、三片がどういうわけか、坊やの前まで滑り込んできて、ちょうどいい距離で止まった。坊やはもちろん薩摩芋が大好きだ。大好きな薩摩芋が目の前に来たのだから、すぐに箸を投げ出し、手で掴んでむしゃむしゃ食べてしまった。

その様子をずっと見ていた主人は、一言も言わずに、自分のご飯を食べ、自分の汁を飲んでいた。この時、すでに楊枝を使っている最中だった。主人は娘の教育に関して絶対的な放任主義を貫くつもりのようだ。今に三人が海老茶式部か鼠式部かになって、三人とも申し合わせたように情夫を作って出奔しても、やはり自分のご飯を食べ、自分の汁を飲んで平然としているだろう。働きのないことだ。しかし、今の世の中で働いているという人々を見ると、嘘をついて人を釣ることや、先に回って馬の眼玉を抜くこと、虚勢を張って人を脅かすこと、罠を仕掛けて人を陥れること以外に何も知らないようだ。中学生たちまでが見様見真似で、こうしなければ幅が利かないと勘違いして、本来なら赤面すべきことを得意になってやっている。これは働き手ではない。ごろつき手である。私も日本の猫だから、多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに、叩いてやりたくなる。こんな者が一人でも増えれば、国家はそれだけ衰えるのだ。こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であり、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにもかかわらず、世の中にはごろごろといるのは理解に苦しむ。日本の人間は猫ほどの気概もないようだ。情けないことだ。こんなごろつき手に比べると、主人などは遥かに上等な人間と言わざるを得ない。意気地がないところが上等なのだ。無能なところが上等なのだ。猪口才でないところが上等なのだ。

主人は、何の働きもせずに朝食を終えた後、洋服に着替えて車に乗り込み、日本堤分署へと向かった。車の中で、運転手に「日本堤を知っているか?」と尋ねると、運転手はへへへと笑った。「あの遊廓のある吉原の近くの日本堤だよ」と念を押したのは、少し滑稽だった。

主人が珍しく車で玄関を出た後、妻はいつものように食事を終え、「さあ、学校へ行きなさい。遅れますよ」と急かした。しかし、子供は平気な顔をして「あら、でも今日はお休みよ」と支度をする様子が見えなかった。「お休みなんてないの、早くしなさい」と叱るように言うと、「でも昨日、先生が休みだっておっしゃったの」と姉はなかなか動じなかった。妻もここに至って少し変だと思ったのか、戸棚からカレンダーを取り出して繰り返し見ると、赤い字でしっかりと「祭日」と書かれていた。主人は祭日とも知らずに学校へ欠勤届を出したのだろう。妻も知らずに郵便箱に投函してしまったのだろう。ただ、主人の迷亭は本当に知らなかったのか、知っていて知らん顔をしたのか、その辺りは少し疑問だった。驚いた妻は「それじゃ、みんなでおとなしく遊びなさい」と普段通り針箱を出して仕事に取りかかった。

その後の三十分間は家の中は平穏で、特に私の材料になるような事件も起こらなかったが、突然妙な人が訪ねてきた。十七、八歳の女学生だった。踵の曲がった靴を履き、紫色の袴を引きずりながら、髪を算盤の珠のようにふくらませて、勝手口から案内も求めずに上がってきた。これは主人の姪で、学校の生徒だそうだが、時々日曜にやって来ては、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く雪江という美しい名前のお嬢さんだった。もっとも、顔は名前ほどではなく、ちょっと外に出て一、二町歩けば必ず会えるような人相だった。

「叔母さん、今日は」と茶の間に入ってきて、針箱の横に腰を下ろした。

「おや、早くから来たのね……」

「今日は大祭日ですから、朝のうちにちょっと上がろうと思って、八時半頃から家を出て急いできました」

「そう、何か用があるの?」

「いいえ、ただあまりご無沙汰していたから、ちょっと顔を出しただけです」

「ちょっとじゃなくて、ゆっくり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰ってきますから」

「叔父さんは、もうどこかへ行ってしまったの? 珍しいわね」

「ええ、今日はね、妙なところへ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう」

「あら、何で?」

「この春入った泥棒が捕まったんだって」

「それで引き合いに出されるの? いい迷惑ね」

「なあに、品物が戻るのよ。取られたものが出たから取りに来いって、昨日巡査がわざわざ来たもんですから」

「おや、そう、それでなくちゃ、こんなに早く叔父さんが出かけることはないわね。いつもなら今頃はまだ寝ているはずだわ」

「叔父さんほど寝坊はないんですから……そうして起こすとぷんぷん怒るのよ。今朝なんかも七時までに必ず起こせと言うから、起こしたでしょう。すると布団の中に潜って返事もしないんですもの。こちらは心配だから二度目にまた起こすと、夜着の袖から何か言うのよ。本当にあきれ返ってしまうの」

「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」

「何ですか?」

「本当にむやみに怒る方ね。あれでよく学校が勤まるのね」

「なに、学校じゃおとなしいんですって」

「じゃなお悪いわ。まるで蒟蒻閻魔みたいね」

「なぜ?」

「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか」

「ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と言えば左、左と言えば右で、何でも人の言う通りにしたことがない、――それは強情ですよ」

「天探女でしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、裏を言うと、こちらの思い通りになるのよ。こないだ蝙蝠傘を買ってもらう時にも、いらない、いらないってわざと云ったら、いらないことがあるものかって、すぐ買って下さったの」

「ホホホホ、面白いわね。私もこれからそうしよう」

「そうなさいよ。それでなくちゃ損だわ」

「こないだ保険会社の人が来て、ぜひ入ってくださいって勧めていたでしょう、――いろいろ訳を言って、こういう利益がある、ああいう利益があるって、一時間も話をしたんですが、どうしても入らないの。うちだって貯蓄はないし、こうして子供は三人もいるし、せめて保険にでも入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんなことは少しも構わないんですもの」

「そうね、もしものことがあると不安心だわね」と、十七、八の娘に似合わない世帯染みたことを言った。

「その談判を陰で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に入る必要はないじゃないかって強情を張っているんです」

「叔父さんが?」

「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命というものは丈夫なようで脆いもので、知らないうちに、いつ危険が迫っているか分かりませんと言うと、叔父さんは、大丈夫、僕は死なないことに決心しているって、まあ無法なことを言うんですよ」

「決心したって、死ぬわねえ。私なんか是非合格するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」

「保険社員もそう言うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長生きができるものなら、誰も死ぬものはないって」

「保険会社の方が至当ですわ」

「至当でしょう。それがわからないの。いえ、決して死なない。誓って死なないって威張っているの」

「妙ね」

「妙ですとも、大妙ですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遥かにましだってすまし切っているんですよ」

「貯金があるの?」

「あるもんですか。自分が死んだ後なんか、ちっとも構う考えなんかないんですよ」

「本当に心配ね。なぜ、あんな人がいるんでしょう、ここにいらっしゃる方だって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」

「いるものですか。無類ですよ」

「ちょっと鈴木さんにでも頼んで意見でもしてもらうといいんですよ。ああいう穏やかな人だとよっぽど楽ですがねえ」

「ところが鈴木さんは、私たちの間では評判が良くないのよ。」

「みんな逆なんですね。それなら、あの方がいいでしょう――ほら、あの落ち着いている方。」

「八木さん?」

「そう。」

「八木さんには、ちょっと閉口しているんです。昨日、迷亭さんが来て悪口を言ったものだから、思ったほど良くないかもしれません。」

「でも、いいじゃありませんか。あんな風に悠然としていれば――こないだ学校で演説をなさったんでしょう?」

「八木さんが?」

「ええ。」

「八木さんは雪江さんの学校の先生なの?」

「いいえ、先生ではないけれど、淑徳婦人会の時に招待して、演説をしていただいたの。」

「面白かった?」

「そうね、そんなに面白くもなかったわ。でも、あの先生、あんな長い顔をしていて、天神様のような髭を生やしているから、みんな感心して聞いていたのよ。」

「お話は、どんなお話だったの?」と妻君が聞こうとしたその時、雪江さんの声が聞こえ、三人の子供たちがどたばたと茶の間に乱入してきた。彼らは今まで竹垣の外の空地で遊んでいたのだろう。

「あら、雪江さんが来た!」と二人の姉は嬉しそうに声を上げる。妻君は「そんなに騒がないで、みんな静かにして座りなさい。雪江さんが今、面白い話をしてくださるところだから」と言って、仕事を片付ける。

「雪江さん、何のお話をしてくれるの? 私、お話が大好き!」ととん子が言い、すん子が「やっぱりかちかち山のお話?」と聞いた。三女は姉たちの間から膝を前に出し、「坊ばもお話しする」と言い出した。ただし、これはお話を聞くという意味ではなく、坊ばもお話をするという意味だ。「あら、また坊ばちゃんの話だ」と姉が笑うと、妻君は「坊ばは後でね。雪江さんのお話が終わってからにしましょう」と促す。坊ばはなかなか聞きそうにない。「いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「おお、よしよし坊ばちゃんから始めよう。何て言うの?」と雪江さんは謙遜した。

「あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって。」

「面白いね。それから?」

「わたちは田んぼへ稲刈りに。」

「そう、よく知ってること。」

「お前が来ると邪魔になる。」

「あら、来るじゃないわ、来るだわね」ととん子が口を出す。坊ばは相変わらず「ばぶ」と一喝して、すぐに姉を辟易させる。しかし、中途で口を出されたため、続きを忘れてしまい、後が出てこない。「坊ばちゃん、それだけなの?」と雪江さんが聞く。

「あのね。あとでおならはごめんだよ。ぷう、ぷうぷうって。」

「ホホホホ、いやだこと、誰にそんなことを教わったの?」

「御三に。」

「悪い御三ね、そんなことを教えて」と妻君は苦笑しながら言ったが、「さあ、今度は雪江さんの番よ。坊やはおとなしく聞いているのよ」と言うと、さすがの暴君も納得したようで、その後はしばらく静かになった。

「八木先生の演説はこんな感じよ」と雪江さんが口を開いた。「昔、ある辻の真ん中に大きな石地蔵があったんですって。ところが、そこは馬や車が通る賑やかな場所だったので、邪魔になって仕方がなかったんです。町内の人たちが集まって、どうやってこの石地蔵を隅の方に移動させるか相談したんですって。」

「それは本当にあった話なの?」

「どうですか、そんなことは何とも言えませんが――みんながいろいろ相談した結果、その町内で一番強い男が、『私がきっと片づけて見せます』と、一人でその辻へ行って、両肌を脱いで汗を流して引っ張ったけれど、どうしても動かないんですって。」

「よっぽど重い石地蔵なのね。」

「ええ、それでその男が疲れてしまって、家に帰って寝てしまったので、町内の人たちはまた相談を始めました。すると今度は町内で一番利口な男が、『私に任せてご覧なさい、一番やってみますから』と言って、重箱の中に牡丹餅をたくさん入れて、地蔵の前に来て、『ここまでおいで』と牡丹餅を見せびらかしたんですって。地蔵も食い意地が張っているから、牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、全く動かないんですって。利口な男はこれではいけないと思って、今度は瓢箪にお酒を入れて、その瓢箪を片手にぶら下げて、もう片手に猪口を持って地蔵の前に来て、『さあ、飲みたくはないかね、飲みたければここまでおいで』と三時間ばかりからかってみたけれど、やはり動かないんですって。」

「雪江さん、地蔵様はお腹が減らないの?」ととん子が聞くと、「牡丹餅が食べたいな」とすん子が言った。

「利口な人は二度も失敗したから、その次には偽札をたくさん作って、『さあ、欲しいだろう、欲しければ取りにおいで』と札を出したり引っ込めたりしたけれど、これも全く役に立たなかったんですって。よっぽど頑固な地蔵様なのよ。」

「そうね。少し叔父さんに似ているわ。」

「ええ、まるで叔父さんよ。しまいには利口な人も愛想を尽かしてやめてしまったんですって。それでその後から、大きな法螺を吹く人が出てきて、『私ならきっと片づけて見せますから、ご安心なさい』と、さも容易いことのように受け合ったそうです。」

「その法螺を吹く人は何をしたの?」

「それが面白いのよ。最初には巡査の服を着て、付け髭をして、地蔵様の前に来て、『こらこら、動かないとその方のためにならんぞ、警察で捨てておかんぞ』と威張って見せたんですって。今の世に警察の仮声なんか使ったって、誰も聞かないわね。」

「本当ね。それで地蔵様は動いたの?」

「動くもんですか、叔父さんですもの。」

「でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ。」

「あらそう、あんな顔をして?それじゃ、そんなに怖いことはないわね。でも地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹は大変怒って、巡査の服を脱いで、付け髭を紙屑籠に投げ入れて、今度は大金持ちの服装をして出てきたそうです。今の世で言うと岩崎男爵のような顔をするんですって。おかしいわね。」

「岩崎のような顔って、どんな顔なの?」

「ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も言わないで地蔵の周りを、大きな巻煙草をふかしながら歩いているんですって。」

「それが何になるの?」

「地蔵様を煙に巻くんです。」

「まるで噺家の洒落みたいだね。うまく煙に巻いたの?」

「ダメよ、相手が石だから。ごまかしもほどほどにしないと、今度は殿下に化けてきたんだって。バカみたい。」

「へえ、その時代にも殿下がいるの?」

「いるみたいよ。八木先生がそう言ってたから、確かに殿下に化けたらしいけど、恐れ多いことだし、そもそも不敬じゃないの、法螺吹きの分際で。」

「殿下って、どの殿下のこと?」

「どの殿下かなんて、そんなことを聞くのも不敬よ。」

「そうね。」

「殿下でも通じないみたい。法螺吹きなんてどうしようもないから、あの地蔵のことは何もできないと降参したらしいわ。」

「いい気味ね。」

「ええ、ついでに懲役にでもすればいいのに。でも町内の人たちは大いに心を痛めて、また相談を開いたんだけど、もう誰も引き受ける人がいなくて困ってるみたい。」

「それで終わり?」

「まだ続きがあるのよ。一番最後に車屋とゴロツキをたくさん雇って、地蔵様の周りを騒がせていたんだって。ただ地蔵様をいじめて、いたたまれないようにすればいいと、昼夜交替で騒いでいたらしい。」

「ご苦労様ね。」

「それでも取り合わないんだって。地蔵様の方も随分強情みたい。」

「それからどうなったの?」ととん子が熱心に尋ねる。

「それからね、毎日毎日騒いでも効果が見えないので、みんながだんだん嫌になってきたんだけど、車夫やゴロツキは日当がもらえるから喜んで騒いでいたの。」

「雪江さん、日当って何?」

「日当っていうのはね、お金のことよ。」

「お金をもらって何に使うの?」

「お金をもらって……ホホホ、いやなすん子さんだ。――それで叔母さん、毎日毎晩騒いでいると、その時町内に馬鹿竹という、何も知らない、誰も相手にしない馬鹿がいたんだって。その馬鹿がこの騒ぎを見て、何でそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵一つ動かすことができないのか、可哀想なものだと言ったらしいの。」

「馬鹿のくせにえらいのね。」

「なかなかえらい馬鹿なのよ。みんなが馬鹿竹の言うことを聞いて、物は試しだ、どうせダメだろうけど、まあ竹にやらせてみようじゃないかと頼んだら、竹は一も二もなく引き受けて、そんな邪魔な騒ぎをしないで静かにしろと車引やゴロツキを引き込んで、飄然と地蔵様の前に出てきたの。」

「雪江さん、飄然って、馬鹿竹のお友達?」

とん子が肝心なところで奇問を投げかけ、細君と雪江さんは思わず笑い出した。

「いいえ、お友達じゃないのよ。」

「じゃ、何?」

「飄然っていうのはね。――言いようがないわ。」

「飄然って、言いようがないの?」

「そうじゃないのよ、飄然っていうのはね――」

「ええ。」

「ほら、多々良三平さんを知ってるでしょう。」

「ええ、山の芋をくれてよ。」

「あの多々良さんみたいなことを言うのよ。」

「多々良さんは飄然なの?」

「ええ、まあそうよ。――それで馬鹿竹が地蔵様の前に来て、懐手をして、地蔵様、町内の人たちがあなたに動いてくれと言っているから、動いてあげてくださいと言ったら、地蔵様はすぐに、そうか、早くそう言えばよかったのに、とのこのこ動き出したそうよ。」

「妙な地蔵様ね。」

「それからが演説よ。」

「まだ続きがあるの?」

「ええ、それから八木先生がね、今日は婦人の会がありますが、私がこういう話をわざわざしたのは少々考えがあるので、こう言うと失礼かもしれませんが、婦人というものは物事をするのに正面から近道を通らず、かえって遠回りの手段をとる弊がある。もっともこれは婦人に限ったことではなく、明治の時代は男子も文明の影響を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数と労力を費やして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解している人が多いようだが、これらは開化の業に束縛された畸形児である。特に婦人においては、なるべく昔話を思い出して、いざという時には馬鹿竹のような正直な考えで物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば、夫婦の間や嫁姑の間に起こる忌まわしい葛藤の三分の一は確実に減るに違いない。人間は魂胆があればあるほど、その魂胆が祟って不幸の源になるので、多くの婦人が平均的な男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからだ。どうか馬鹿竹になってください、という演説なの。」