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作 芥川龍之介 · 2026-03-31

一

ある日のこと、御釈迦様は極楽の蓮池のほとりを一人でぶらぶらと歩いていました。池の中には、真っ白な蓮の花が咲き誇り、その中心には金色の蕊があり、何とも言えない良い香りが周囲に漂っています。極楽はちょうど朝の光に包まれていました。

しばらくして、御釈迦様は池のふちに立ち止まり、水面を覆う蓮の葉の隙間から、ふと下の様子を見下ろしました。この極楽の蓮池の下は、ちょうど地獄の底にあたるため、水晶のように透き通った水を通して、三途の河や針の山の景色がまるで覗き眼鏡で見るように、はっきりと見えました。

その時、地獄の底に、陀多という男が一人、他の罪人たちと一緒にうごめいている姿が目に留まりました。陀多は人を殺したり、家に火をつけたりと、様々な悪事を働いた大泥棒ですが、ただ一つだけ善行をした記憶があります。ある時、深い森の中を通っていると、小さな蜘蛛が道を這っているのを見つけました。彼はその蜘蛛を踏みつけようとしましたが、「いや、これも命あるものだ。無暗に命を奪うのは可哀そうだ」と思い直し、結局その蜘蛛を助けたのです。

御釈迦様は地獄の様子を見ながら、陀多が蜘蛛を助けたことを思い出しました。そして、その一つの善行に報いるために、できればこの男を地獄から救い出してあげようと考えました。幸いにも、近くには翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が美しい銀色の糸をかけていました。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと手に取り、真っ白な蓮の間から、遥か下にある地獄の底へとまっすぐに下ろしました。

二

一方、地獄の底の血の池で、陀多は他の罪人たちと一緒に浮いたり沈んだりしていました。周囲は真っ暗で、時折ぼんやりと浮かび上がるものは、恐ろしい針の山の針が光るだけです。その心細さは言葉に尽くせません。周りは墓の中のように静まり返り、時折聞こえるのは罪人たちの微かな嘆息だけです。ここに落ちてくるような人間は、様々な地獄の責苦に疲れ果て、泣く力さえ失っているのでしょう。大泥棒の陀多も、血の池の中で苦しみながら、まるで死にかけた蛙のようにただもがいているだけでした。

そんなある日、陀多が何気なく頭を上げて血の池の空を眺めると、静かな暗闇の中から、遠い天上から銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目を避けるかのように細く光りながら、自分の方へ垂れてくるのが見えました。陀多はこれを見て、思わず手を叩いて喜びました。この糸にしがみついて、どこまでも登って行けば、きっと地獄から抜け出せるに違いありません。いや、うまくいけば極楽に入ることさえできるでしょう。そうすれば、針の山に追い上げられることも、血の池に沈められることもなくなるのです。

こう思った陀多は、すぐにその蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみ、一生懸命に上へと登り始めました。元々大泥棒である彼は、こうしたことには慣れていました。

しかし、地獄と極楽の間は何万里もあるため、いくら焦っても簡単には上に出られません。しばらく登るうちに、とうとう陀多も疲れてしまい、もう一たぐりも上には登れなくなりました。仕方がないので、まず一休みしようと、糸の中途にぶら下がりながら、遥かに目の下を見下ろしました。

すると、一生懸命に登った甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、いつの間にか暗い底に隠れていました。あのぼんやり光っている恐ろしい針の山も、足元に感じられます。このまま登って行けば、地獄から抜け出すのも意外と難しくないかもしれません。陀多は両手を蜘蛛の糸に絡めながら、ここに来てから何年も出したことのない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。

しかし、ふと気がつくと、蜘蛛の糸の下の方には、数えきれない罪人たちが、自分の登った後を追って、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へと一心に登ってきているではありませんか。陀多はこれを見て、驚きと恐怖でしばらくただ、呆然と口を開けて目を動かしていました。この細い蜘蛛の糸が、自分一人でさえ耐えられそうもないのに、どうしてあれだけの人数の重みに耐えられるのでしょう。もし途中で切れたら、せっかくここまで登ってきた自分も、元の地獄に逆落しにされてしまうに違いありません。そんなことがあったら大変です。

その時、罪人たちは何百、何千と、暗い血の池の底から這い上がり、細く光る蜘蛛の糸を一列になってせっせと登ってきます。今のうちにどうにかしなければ、糸は真ん中から二つに切れて、落ちてしまうに違いありません。

そこで陀多は大声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に許可を得て登ってきた。下りろ。下りろ。」と叫びました。

その瞬間、今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に陀多のぶら下がっているところから、ぷつりと音を立てて切れてしまいました。陀多はたまらず、あっという間に風を切って、独楽のようにくるくる回りながら、見る見るうちに暗い底へとまっさかさまに落ちてしまいました。

後ろには、ただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に短く垂れているだけでした。

三

御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立ち、この一部始終をじっと見守っていました。やがて、陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまうと、悲しげな表情を浮かべながら、またぶらぶらと歩き始めました。自分だけが地獄から抜け出そうとする陀多の無慈悲な心が、その心に相応しい罰を受けて、元の地獄へと落ちてしまったことが、御釈迦様の目には浅ましく映ったのでしょう。

しかし、極楽の蓮池の蓮は、そんなことには全く気に留めていませんでした。その玉のような白い花は、御釈迦様の足元でゆらゆらと萼を揺らし、その中心にある金色の蕊からは、何とも言えない良い香りが絶え間なく周囲に溢れ出ていました。極楽ももう午に近づいているのでしょう。