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一〜三

作 芥川龍之介 · 2026-03-31

堀川の大殿様のような方は、これまでにも、そしてこれからも二人といないでしょう。噂によれば、あの方が生まれる前に、大威徳明王の姿が母君の夢に現れたと言います。生まれた時から、普通の人とは違っていたようです。そのため、あの方がなさることは、私たちの予想を超えたものばかりでした。堀川のお邸の規模を見ても、壮大で豪放、私たちの凡庸な考えでは到底及ばない、思い切ったところがありました。

中には、あの方の性行を始皇帝や煬帝に例える人もいましたが、それはまるで盲人が象を触るようなものではないでしょうか。あの方の思いは、決して自分だけの栄華を求めるものではなく、もっと下々のことまで考え、天下と共に楽しむような、大きな器量を持っていました。

そのため、二条大宮の百鬼夜行に遭遇しても、特に障りはなかったのでしょう。また、陸奥の塩竈の景色を模した東三条の河原院に、夜な夜な現れるという噂の融の左大臣の霊さえ、大殿様のお叱りを受けて姿を消したのではないかと思います。その威光のため、当時洛中の老若男女が「大殿様」と言うと、まるで権力者の再来のように尊敬されていました。ある時、内の梅花の宴からの帰りに、御車の牛が放れて、通りかかった老人に怪我をさせたことがありましたが、その老人は手を合わせて、大殿様の牛にかけられたことを感謝していました。

このような事情から、大殿様の一生の間には、後々まで語り草となる出来事がたくさんありました。大饗の引出物に白馬を三十頭賜ったことや、長良の橋の橋柱に御寵愛の童を立てたこと、さらには華陀の術を伝えた震旦の僧に、御腿の瘡を切らせたことなど、数え上げればきりがありません。しかし、その中でも今では家の重宝となっている地獄変の屏風の由来ほど恐ろしい話はないでしょう。普段は物に騒がない大殿様でさえ、その時ばかりは驚かれたようでした。まして、側に仕えていた私たちは、魂が消えるほどの恐怖を感じたことは言うまでもありません。私自身、大殿様に二十年仕えていましたが、あのような凄まじい光景に出会ったことは一度もありませんでした。

しかし、その話をするには、まず地獄変の屏風を描いた画師、良秀について触れておく必要があります。

良秀と言えば、今でもその名を覚えている方がいるかもしれません。彼は当時、絵筆を持てば右に出る者はいないと言われるほどの高名な画師でした。その時、彼はもう五十歳を迎えていたでしょう。見た目は背が低く、骨と皮だけの痩せた、意地悪そうな老人でしたが、大殿様の邸に訪れる際には、丁字染の狩衣に揉烏帽子をかぶっていました。しかし、彼の人柄は至って卑しく、年相応とは思えないほど、唇が赤く目立ち、どこか獣めいた印象を与えるものでした。中には、画筆を舐めるから紅がつくのだと言う人もいましたが、どうなのでしょうか。さらに口の悪い者は、良秀の立ち居振る舞いが猿のようだと言い、猿秀というあだ名までつけていました。

猿秀と言えば、こんな話もあります。当時、大殿様の邸には、十五歳になる良秀の一人娘が小女房として仕えていましたが、彼女は生みの親には似ず、愛嬌のある娘でした。早く母親と別れたせいか、思いやりが深く、年齢よりも成熟した賢い性格で、若い女房たちにも可愛がられていました。

ある日、丹波の国から人なれした猿が献上され、若殿様がその猿に「良秀」という名前をつけました。その猿の姿が面白かったため、邸内の誰もが笑わずにはいられませんでした。笑うだけならまだしも、面白半分で皆が「良秀、良秀」と呼び立てては、いじめるようなこともありました。

ところが、ある日のこと、良秀の娘が、文を結んだ寒紅梅の枝を持って長い廊下を通りかかると、遠くの遣戸の向こうから、あの小猿の良秀が、どうやら足を挫いたらしく、いつものように柱に駆け上る元気もなく、跛を引きずりながら逃げてきました。その後ろからは、若殿様が「柑子盗人め、待て。待て。」と叫びながら追いかけてきました。良秀の娘はこれを見て、少しためらったようですが、その時逃げてきた猿が袴の裾にすがりつき、哀れな声を上げて泣き立てました。すると、急に可哀想だと思う気持ちが抑えきれなくなり、片手に梅の枝をかざしながら、もう片方の手で紫匂の袿の袖を軽やかにはらりと開き、その猿を優しく抱き上げて、若殿様の前に小腰をかがめて「恐れながら畜生でございます。どうか御勘弁ください」と涼しい声で申し上げました。

しかし、若殿様の方は、気負って駆けてきたところで、難しい顔をして二、三度足を踏み鳴らしながら、

「どうしてそんなことを言うの?その猿は柑子を盗む悪党なんだよ。」

「畜生だから、仕方ないんです……」

娘はもう一度繰り返しましたが、やがて寂しげに微笑みました。そして、思い切ったように言いました。「それに良秀のことを考えると、父が叱られるのを見るのが辛くて、どうしても見ていられません。」

この言葉には、さすがの若殿様も心を動かされたようでした。

「そうか。父親が命乞いをするのなら、少しは赦してやろう。」

不承不承にそう言い残すと、若殿様は猿をそのまま置いて、元いた出口の方へ帰ってしまいました。

それから、良秀の娘とその小猿の仲は良くなりました。娘は姫様からいただいた黄金の鈴を、美しい真紅の紐に下げて、猿の頭にかけてやりました。猿は、どんなことがあっても、滅多に娘のそばを離れませんでした。ある時、娘が風邪をひいて床に就いたとき、小猿はその枕元に座り込んで、心細そうな顔をしながら、頻繁に爪を噛んでいました。

こうなると不思議なもので、誰も今までのようにその小猿をいじめる者はいなくなりました。いや、逆にどんどん可愛がられるようになり、しまいには若殿様でさえ、時々柿や栗を投げて与えるようになりました。侍の誰かがその猿を足蹴にしたときには、若殿様は大層怒ったそうです。その後、大殿様がわざわざ良秀の娘に猿を抱かせて御前に出るようにとお命じになったのも、若殿様の怒りを聞いてからだと言われています。おそらく、娘が猿を可愛がる理由も耳に入ったのでしょう。

「孝行な奴だ。褒めてやろう。」

こうした意向で、娘はその時、紅の袙を褒美にいただきました。しかし、その袙を見よう見まねで猿が恭しく押し頂くと、大殿様の機嫌は一層良くなったそうです。したがって、大殿様が良秀の娘を贔屓にされたのは、全くこの猿を可愛がった孝行の情をお賞美になったからであり、決して世間で言われるような色好みのためではありません。もちろん、そうした噂が立った理由も無理はありませんが、それはまた後でお話ししましょう。ここではただ、大殿様がいかに美しい者に対しても、絵師の娘に思いを寄せるような方ではないということを申し上げておきます。

さて、良秀の娘は面目を施して御前を下りましたが、元々賢い女ですから、はしたない外の女房たちから妬まれるようなことはありませんでした。むしろ、それ以来猿と一緒に何かと可愛がられ、特に姫様の側からは離れることがなかったと言っても良いほど、物見車の供にも欠かしたことはありませんでした。

しかし、娘のことは一先ず置いておいて、これからまた親の良秀のことを申し上げましょう。確かに猿の方は、こうしてすぐに皆に可愛がられるようになりましたが、肝心の良秀は相変わらず誰にも嫌われ、陰に隠れては「猿秀」と呼ばれていました。それは御邸の中だけではなく、実際に横川の僧都様も、良秀の名を聞くと、まるで魔障にでも遭ったかのように顔色を変えて、憎まれていました。(もっとも、これは良秀が僧都様の行状を戯画に描いたからだとも言われていますが、何分下世話の噂ですから、確かとは言えません。)とにかく、あの男の評判はどこに行ってもそういう調子でした。もし良いことがあったとすれば、それは二、三人の絵師仲間か、あるいはあの男の絵を知っているだけで、あの男の人間性を知らない者ばかりでしょう。

しかし実際、良秀には、見た目が卑しかっただけでなく、もっと人に嫌がられる悪い癖があったのですから、それも全く自業自得としか言いようがありません。