閉じる

ゲエルの微笑み

作 芥川龍之介 · 2026-09-21

しかし硝子会社社長のゲエルは、愛想の好い河童であったに違いない。

僕はしばしばゲエルと一しょに、ゲエルの属するクラブへ行って楽しい夜を過ごした。一つはそのクラブがトックの属する超人クラブよりも、遙かに気楽であったからである。

その上ゲエルの話は哲学者マグの話のように、深みはなかったかも知れないが、僕に全く新しい世界を、――広い世界を覗かせた。ゲエルはいつも純金の匙で、コーヒーカップをかきまぜながら、快活にいろいろな話をしたものである。

ある霧の深い夜であった。僕は冬薔薇を活けた花瓶を間に、ゲエルの話を聞いていた。部屋全体は勿論、椅子や卓子まで白い地に細い金縁をつけた、分離派風の部屋であったと記憶している。

ゲエルはいつになく得意そうに、顔いっぱいの微笑を湛えながら、ちょうどその頃天下を握っていたクオラックス党内閣の話などをした。

クオラックスという言葉はただ意味のない感嘆詞だから、「あら」とでも訳すより仕方がない。とにかく何よりも先に「河童全体の利益」を主張する政党であった。

ゲエル: クオラックス党を支配するのは名高い政治家ロッペである。「正直は最善の外交なり」とはビスマルクの言葉である。しかしロッペは正直を国内の政治にまで及ぼしているのだ……。

僕: しかしロッペの演説は……。

ゲエル: まあ、僕の言うことを聞き給え。あの演説は勿論皆嘘だ。しかし嘘だということは誰でも知っているのだから、結局正直なのと変りはない。それをむやみに嘘だというのは君たちの偏見だよ。

ゲエル: 私たちカッパはあなた方のように……。しかし、それはどうでもいいことです。私が話したいのはロップの話です。ロップはクオラックス党を支配し、そのロップを支配しているのはプー・フー新聞社長のクイ・クイです。

(この「プー・フー」という言葉もやはり意味のない感嘆詞です。あえて訳すなら「ああ」としか言えません。)

ゲエル: しかし、クイ・クイも自分自身の主人ではありません。クイ・クイを支配しているのは、あなたの目の前にいるこのゲエルなのです。

私: しかし、―失礼かもしれませんが、プー・フー新聞は労働者の味方をする新聞ですよね。その社長のクイ・クイもあなたの支配下にあるというのは……。

ゲエル: プー・フー新聞の記者たちはもちろん労働者の味方です。しかし、記者たちを支配しているのはクイ・クイ以外にはいないでしょう。それに、クイ・クイはこのゲエルの後援なしには持ちこたえられないのです。

ゲエルは依然として微笑みながら、純金の匙をおもちゃのようにいじっていました。このようなゲエルを見ていると、ゲエル自身を憎むよりも、プー・フー新聞の記者たちが気の毒に思えました。

するとゲエルは、私の沈黙からたちまちその同情を察したのか、大きな腹を膨らませてこう言うのです。

ゲエル: 何を言っているのですか、プー・フー新聞の記者たちも全員が労働者の味方ではありません。少なくとも私たちカッパという種族は、誰かの味方をする前にまず自分自身の味方をするのですから……。しかし、もっと厄介なのは、このゲエル自身までもがやはり他人の支配を受けているということです。

ゲエル: それが誰だと思いますか? 私の妻です。美しいゲエル夫人です。

ゲエルは大きな声で笑いました。

私: それはむしろ幸せなことでしょう。

ゲエル: とにかく私は満足しています。しかし、これもあなたの前でだけ、―河童ではないあなたの前でだけ、堂々と自慢できることなのです。

私: それなら結局、クオラックス内閣はゲエル夫人が支配しているということになりますね。

ゲエル: さあ、そう言うこともできるでしょう……。しかし、七年前の戦争のようなものは、きっとあるメス一匹のせいで始まったに違いありません。

私: 戦争ですか?この国にも戦争があったのですか?

ゲエル: ありましたとも。これからもいつあるかわかりません。とにかく隣国がある限りは……。

私は実はこの時初めて、河童の国も国家として孤立していないことを知りました。ゲエルの説明によると、河童はいつもカワウソを仮想敵としているそうです。しかもカワウソも河童に劣らない軍備を整えているというのです。

私はこのカワウソを相手に河童が繰り広げた戦争の話に少なからず興味を覚えました。(とにかく河童の強敵がカワウソだというのは、『水虎考略』の著者だけでなく、『山島民譚集』の著者柳田國男氏さえ知らなかったような新しい事実ですから。)

ゲエル: その戦争が起こる前はもちろん、両国とも油断せず、じっと相手をうかがっていました。どちらも同じように相手を恐れていたからです。

ゲエル: ところが、この国にいたカワウソが一匹、ある河童の夫婦を訪ねました。その夫婦のメスは夫を殺すつもりだったのです。とにかく夫が放蕩者でしたから。それに生命保険に入っていたことも、少しは誘惑になったのかもしれません。

私: その夫婦をご存知ですか?

ゲエル: ええ、―いいえ、オスだけ知っています。私の妻は、そのカッパを悪党のように言いますがね。私から見れば悪党というより、メスに捕まるのを恐れる被害妄想のひどい狂人ですよ。

ゲエル: ……それで、そのメスは夫のココアカップに青酸カリを入れておきました。ところが、それをまたどう間違えたのか、客のカワウソに飲ませてしまったのです。カワウソはもちろん死んでしまいました。そして……。

私: それで戦争になったのですか?

ゲエル: ええ、あいにくそのカワウソが勲章を持っていたのですよ。

私: 戦争はどちらが勝ちましたか?

ゲエル: もちろんこの国が勝ちましたよ。三十六万九千五百匹のカッパがそのために立派に戦死しました。しかし、敵国に比べればその程度の損害は何でもありません。この国にある毛皮という毛皮は、たいていカワウソの毛皮なのです。

ゲエル: 私もその戦争の時は、ガラスを作る以外にも石炭灰を戦場に送りました。

私: 石炭灰を何に使うのですか?

ゲエル: もちろん食料として使いますよ。私たちは、カッパは腹が減れば何でも食べるようになっていますからね。

私: それは、―どうか怒らないでください。それは戦場にいるカッパたちにとっては……。私の国でならスキャンダルなのですが。

ゲエル: この国でもスキャンダルであることは間違いありません。しかし、私自身がこう言って回れば誰もスキャンダルにしないものですよ。哲学者マグも言っていませんでしたか。「汝の悪は汝自身が語れ。悪は自ずと消滅するだろう。」……それに私は利益以外にも愛国心に燃えていましたからね。

ちょうどその時、このクラブの給仕が入ってきました。給仕はゲエルに恭しくお辞儀をした後、何か朗読でもするかのようにこう言いました。

「お宅の隣家が火事です。」

ゲエル: か、火事だと!

ゲエルは驚いて飛び起きました。もちろん私も立ち上がりました。しかし、給仕は落ち着いて次の言葉を付け加えました。

「しかし、もうすべて消しました。」

ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いのような表情を浮かべました。

その顔を見て、私はいつの間にかこのガラス会社の社長を憎んでいたことに気づきました。しかし、今のゲエルは大資本家でも何でもなく、ただの一匹の河童になって立っていました。

私は花瓶から冬のバラを取り出し、ゲエルの手に渡しました。

私: 火は消えたとはいえ、奥様はさぞ驚かれたことでしょう。さあ、これを持って帰りなさい。

ゲエル: ありがとう。

ゲエルは私の手を取りました。そして突然ニヤリと笑い、小さな声でこう囁きました。

ゲエル: 隣の家は私の貸家なんですよ。火災保険金だけは受け取れるんです。

私はその時のゲエルの笑顔、軽蔑することも憎むこともできないゲエルの笑顔を今でも鮮明に覚えています。