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ドグラ・マグラ (4/47)

von 夢野久作

籐椅子の両肘に手をかけ、私は姿勢をぐっと伸ばした。目の前にいる彼女の顔を見守りながら、少しだけ頭を下げた。「どうぞ、気にしないで。お好きなように」と心の中で呟くように思った。

しかし、心の奥では少しの躊躇があった。いや、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさすら感じていた。今朝、私を呼びかけたあの六号室の少女も、目の前にいる若林博士も、実は私を誰か他の人間と間違えているのではないかと思った。こんなに熱心に呼びかけたり、責めたりしているのは、私が誰か他の人間だと思い込んでいるからなのではないか。だから、いつまで経っても何一つ思い出せないのではないか。

これから見せられる私の過去の記念物も、実は私とは無関係な赤の他人のものばかりなのではないか。どこかに潜んでいる、正体不明の冷酷な精神病患者が描いた怪奇で残虐な犯罪の記念品を次々に見せられ、「思い出せ、思い出せ」と責め立てられるのではないか。そんな想像を膨らませながら、私は思わず首を縮め、小さくなっていた。

その時、若林博士は、学者らしい上品さと謙遜を保ちながら、静かに私に一礼し、籐椅子から立ち上がった。ゆっくりと背後の扉を開くと、待っていたかのように一人の小男が大股で入ってきた。

その小男は、頭をクルクル坊主に刈り、黒い八の字髭を生やしていた。白い詰襟の上着に黒ズボン、古い靴で作ったスリッパという見慣れない姿だった。四角い黒革の手提げ鞄と薄汚れた畳椅子を左右の手に提げていたが、後から入ってきた看護婦が、部屋の中央に湯気の立つボール鉢を置くと、その横に元気な態度で畳椅子を広げた。小男は黒い手提げ鞄を椅子の横に置き、ぱっと開けると、中にゴチャゴチャに詰め込まれた理髪用の鋏やブラシを取り出しながら、私に向かってヒョッコリとお辞儀をした。「さあ、どうぞ」と言わんばかりに。

若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向かって「さあ、どうぞ」と目くばせをした。

さて、ここで頭を刈られるのだなと私は思った。素足のまま寝台を降り、畳椅子に乗ると、ほぼ同時に八字髭の小男が白い布を私の周囲に引っかけた。熱湯で絞ったタオルを私の頭にぐるぐる巻きつけ、しっかりと押し付けながら若林博士を振り返った。

「この前の通りの刈り方で、よろしいので……」

この言葉を聞いた若林博士は、何かに気づいたようだった。ちらりと私の顔を盗み見たが、すぐに気を取り直したように答えた。

「そうですね。この前も君にお願いしたんでしたっけ。記憶していますか? あの時の刈り方を……」

「はい、ちょうど一ヶ月前のことですから、特別のご注文でしたので、よく覚えています。真ん中を高くして、顔全体が優しい卵型に見えるように、周りは極短く、東京の学生風に……」

「そうそう、その通りに今回もお願いします。」

「かしこまりました。」

そのやり取りの中で、もう私の頭の上で鋏が鳴り始めた。若林博士は再び寝台の枕元の籐椅子に身を沈め、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから取り出している様子だった。

私は目を閉じて考え始めた。私の過去は、こうして少しずつ明るくなってくる。若林博士から聞かされた途方もない因縁話は別としても、私が自分で事実だと思えることが少しずつ推測されてきているようだ。

私は大正十五年、いつのことか分からないが、この九州帝国大学の精神病科に入院していた。そして、昨日まで無我夢中で過ごしていたのだろう。その途中か、あるいはその前か、一ヶ月ほど前に頭をハイカラな学生風に刈ったことがあるらしい。その時の姿に、今、復旧しつつあるのだ……と。

しかし、それは一人の人間の過去の記憶としては何と貧弱なものだろう。しかも、それも赤の他人の医学博士や理髪師から聞いたことに過ぎないので、真実に自分の過去として記憶しているのは、今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてからの数時間の出来事だけである。その……ブーン……以前のことは、私にとって全くの虚無で、自分が生きていたのか、死んでいたのかすらはっきりしない。

私は一体どこで生まれ、どうしてこんなに成長したのか。あれは何、これは何と、一つ一つ見分ける判断力や知識、または若林博士の説明を震え上がるほど深刻に理解する学力は、どこで自分のものになったのか。そんなに膨大で限りない過去の記憶を、どうしてこんなに綺麗さっぱりと忘れてしまったのか……。

そんなことを考えながら目を閉じ、自分の頭の中の空洞をじっと見つめていると、私の霊魂はいつの間にか小さく縮こまり、無限の空虚の中を当てもなくさまよい回る微生物のように思われてきた。淋しい……つまらない……悲しい気持ちになり、目の中が何となく熱くなっていく。

その時、ひやりとしたものが私の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の襟筋を剃るためにシャボンの泡を塗り付けたのだった。

私はがっくりと項垂れた。

一ヶ月前、若林博士に頭を復旧されたことがあった。そう考えると、今朝の恐ろしい経験も、実はその一ヶ月前にも味わったことがあるのかもしれない。博士の言葉からすると、私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師だけではないようだ。もしそうなら、私はその前にも、何度も何度も同じことを繰り返しているのではないか。まるで、夢遊病患者のように、無意味なことを繰り返しているのではないかと考えた。

若林博士は、そんな冷酷無情な科学者なのだろうか?今朝から続いている出来事も、すべて私の夢遊病患者としての幻覚に過ぎないのではないか。ここで、頭を整えられ、モミアゲや眉を手入れされているのも、実は夢の中の出来事で、私の本当の肉体は、どこか全く違う場所で、奇妙な夢の中を彷徨っているのではないか。

そんなことを考えていると、突然、椅子から飛び上がった。白い布を首に巻いたまま、一直線に駆け出そうとしたが、思いがけない騒音が頭上で始まり、目も口も開けられなくなった。思わず尻を椅子に戻し、首を縮めてしまった。

それは、二つの丸い櫛が私の頭の上で、息もつけぬほどに乱れ飛び回り始めたからだった。その気持ちよさは、まるで自分が狂っているのか、誰が狂っているのか、分からなくなるほどだった。嬉しさも、悲しさも、恐ろしさも、口惜しさも、過去も現在も、宇宙のすべてから切り離されたような感覚に陥り、椅子に凭れかかりながら、底の見えないムズ痒さを掻き回される快感が全身を駆け巡った。もうどうでもいい。何が起ころうとも、若林博士の命令に従うしかないという、全てを諦めた気持ちになってしまった。

「こちらへおいでなさい」

若い女性の声が耳元で聞こえ、驚いて目を開けると、いつの間にか二人の看護婦が入ってきて、私の両手を左右からしっかりと掴んでいた。首に巻かれていた白い布は、理髪師によっていつの間にか外され、扉の外で元気に振り回されていた。

その時、赤い表紙の洋書に夢中になっていた若林博士が、ページを閉じて立ち上がった。長い顔をさらに長くし、「ゴホンゴホン」と咳をしながら、「どうぞあちらへ」と扉の方へ手を動かした。

顔中の髪の毛とフケの中から、辛うじて目を開けた私は、看護婦に引かれながら、冷たい敷石を素足で踏みしめ、生まれて初めて扉の外に出た。

若林博士は扉の外まで見送ってくれたが、途中でどこかへ行ってしまったようだった。

扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋と同じ色の扉が左右に五つ並んでいる。その廊下の突き当たりには、私の部屋の窓と同じように鉄格子と鉄網で厳重に包まれた柱時計が掛かっていた。おそらく、今朝早くの真夜中に、ブウンンと唸って私を目覚めさせた時計だ。どこから手を入れて螺旋をかけるのか分からないが、旧式の唐草模様が施された長針と短針が、六時四分を指し示しながら、巨大な真鍮の振子球を揺らしている。まるで、刑罰を受けている人間のように見えた。その時計の左側が私の部屋で、扉の横には白ペンキ塗りの標札があり、ゴシック体の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」と大きく書かれていた。患者の名札はなかった。

私は二人の看護婦に手を引かれながら、その時計に背を向けて歩き出した。しばらくすると、明るい外廊下に出た。正面には青ペンキ塗りの二階建ての木造西洋館が現れた。廊下の左右には、赤い豆菊や白いコスモス、紅と黄色の鶏頭が咲き乱れ、真白い砂地が広がっている。その向こうには、深緑色の松林が広がっていた。松林の上を流れる薄雲に、朝日の光がほんのりと照りかかり、どこからともなく遠い波の音が静かに漂ってくる心地よさ。

「……ああ……今は秋だな」

私は思った。冷たく流れる新鮮な空気を腹いっぱいに吸い込み、ホッとした。しかし、そんな景色を見回す間もなく、二人の看護婦は私の両手を引っ張り、青い洋館の中の暗い廊下へと連れ込んだ。そして、右手の部屋の前に来ると、待っていたもう一人の看護婦が扉を開け、私たちと一緒に内部に入った。

その部屋は広々とした明るい浴室だった。向こうの窓際にある石造りの浴槽から立ち上る水蒸気が、三方のガラス窓にキラキラと滴り流れていた。その中で、三人の頬が赤らんだ看護婦たちが、揃いの丸い赤い腕と脚を高々と持ち上げ、突然私を捕まえてくるくると回し、丸裸にして浴槽の中に押し込んだ。

温かくなったところで立ち上がると、すぐに流し場の板の上に引きずり出され、前後左右から冷たい石鹸とスポンジを押し付けられ、遠慮もなくゴシゴシと擦り回された。さらに、突然私の頭を押さえつけられ、裸の体に石鹸を擦り付けて泡を盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に扱われた後、何の前触れもなく熱い湯をザブザブとかけられ、目も口も開けられない状態にされてしまった。

再び、有無を言わさず私の両手を引っ張り、

「こちらですよ」

と金切声で命令しながら、再度浴槽の中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴さに、もしかしたら今朝私に食事を持ってきて、ひどい目に遭わせた看護婦が三人の中にいるのではないかと疑いたくなるほどだった。しかし、よく見ると、彼女たちの手際は毎日キ印を扱い慣れているように思え、私はすっかり悲観的になってしまった。

だが、その終わりに、長く伸びた手足の爪を切ってもらい、竹柄のブラシと塩で口の中を掃除してもらった後、再度温まってから新しいタオルで体を拭き、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシとかき上げてもらうと、まるで生まれ変わったような気持ちになった。こんなにすっきりした気持ちになっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと、不思議でたまらないほど良い気持ちになってしまった。

「これにお着替えなさい」

と一人の看護婦が言ったので振り返ると、板張りの上に脱いでおいた患者服はどこかに消えてしまい、代わりに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてあった。結び目を解くと、白いボール箱に入った大学生の制服や制帽、霜降りのオーバー、メリヤスの襯衣、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包まれた編上靴などが出てきた。そして、その一番上に置いてあった小さな革のサックを開くと、銀色に光る小さな腕時計まで現れた。

私はそんなものを疑う間もなく、一つ一つ看護婦から受け取って身に着けたが、その際に気を付けてみると、どれにも私の所持品であることを示す頭文字のようなものは見当たらなかった。しかし、どれもこれもがほぼ仕立てたてのようにしっかりとした折り目がついており、身体を揺すぶってみると、まるで昔からの馴染みのようにしっくりと着心地が良かった。ただ上衣の詰襟の新しいカラーが少し詰まっているように感じられるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までもがぴったりと合っていることに驚いた。あまりにも不思議なので、上衣のポケットに両手を突っ込んでみると、右手には新しい四つ折のハンカチと鼻紙、左手には何が入っているかわからないが、滑らかに膨らんだ小さな蟇口が触れた。

私はまたも狐に捕まったような気分になった。どこかに鏡はないかとキョロキョロと周りを見回したが、残念ながら破片すら見当たらなかった。その私の顔をやはりキョロキョロした目付きで見返しながら、三人の看護婦が扉を開けて出て行った。

すると、その看護婦たちと入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、のっそりと入ってきた。私の服装を検査するかのように、一通り見上げ見下ろすと、黙って私を部屋の隅に連れて行き、向かい合った壁の中途に引っかけてある洗い晒しの浴衣を取り除いた。その下から現れたのは、思いがけない一面の巨大な姿見鏡だった。

私は思わず背後によろめいた。鏡の中に映っている自分の姿が、あまりにも若いことに驚いたからだった。

今朝暗いうちに七号室で撫で回して想像した時には、三十前後のひげ面で、人相の悪い恐ろしい風貌だろうと思っていたが、手入れをしてもらったとはいえ、掌で撫で回した感触と実物がこんなに違っているとは思わなかった。

目の前の等身大の鏡の中に立っている私は、まだやっと二十歳かそこいらの青二才にしか見えなかった。額は丸く、顎は薄く、目は大きく、驚いたような顔をしている。制服がなければ中学生と思われるかもしれない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いがみるみる抜けていくような、何とも言えない気味の悪いような、嬉しいような、悲しいような、一種異様な気持ちになってしまった。

その時、背後から若林博士が催促するように声をかけた。

「……いかがです……思い出されましたか……ご自分のお名前を……」

私は冠りかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷たい唾液をグッと飲み込み振り返ったが、その時に若林博士が、先ほどから私を色々な不思議な方法でいじくり回していた理由がやっとわかった。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手始めに、まず私の過去の姿を引き合わせて見せたのだ。つまり、若林博士は私の入院前の姿を細かいところまで記憶しており、その時の通りの姿に私を復元してから、突然私の目の前に突き出して、昔のことを思い出させようとしているのに違いなかった。……なるほど、これなら間違いはない。確かに私の過去の記念物に相違ない。……他のことはすべて勘違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのない、私自身の思い出の姿だった。

しかしながら、博士の苦心と努力は、残念ながら報われることはなかった。初めて自分の姿を見せられて驚かされたものの、私は何一つ思い出すことができなかった。さらに、自分がまだこんな小さな子供であることに気づくと、以前よりも一層気が引けて、まるで馬鹿にされたような、空恐ろしい気持ちになり、知らず知らずのうちに額の汗を拭いながらうなだれていた。

その私の顔と、鏡の中の顔を無表情な目でじっと見比べていた若林博士は、やがて頷きながら言った。

「……おっしゃる通りです。以前よりもずっと肌の色が白くなり、少しふっくらされているようですから、入院前の印象とは少し違うかもしれません……では、こちらへおいでください。次の方法を試みますから……今度は、きっと思い出されるでしょう……」

私は新しい編上靴を履いた足首と膝を固くしながら、若林博士の後ろに従い、鶏頭の咲いた廊下を戻っていった。元の七号室に帰るのかと思っていたが、その一つ手前の六号室の扉の前で、若林博士は立ち止まり、コツコツとノックをした。すると、半開きになった扉の向こうから、浅黄色のエプロンを掛けた五十歳くらいの付き添いの女性が出てきて、丁寧に一礼した。

「只今、よくお休みになっております」

その女性は若林博士の顔を見上げながら、慎ましく報告し、私たちが出てきた西洋館の方へ立ち去った。

若林博士はその後、用心深く首を伸ばして内部に入った。片手で私の手をそっと握り、もう一方の手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせながら、向こうの壁際に横たわる鉄の寝台に近づいた。そこで、私の手をそっと離し、その寝台の上で眠っている少女の顔を、毛むくじゃらの指で指し示しながら、じろりと私を振り返った。

私は両手で帽子のつばをしっかりと握り締め、自分の目を疑って、何度も瞬きをした。

……それほど美しい少女が、そこにスヤスヤと眠っていた。

その少女は艶やかな髪を、黒い大きな花弁のような奇妙な形に結び、白いタオルで包んだ枕の上に乱していた。肌には、私が今さっきまで着ていたのと同じ白い患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に新しい包帯で包まれた手を、行儀よく重ねている。今朝早くから壁を叩いたり呼びかけたりして、私を悩ませたのは、確かにこの少女だったのだ。もちろん、周囲の壁には、私が今朝想像したような凄惨な血の痕跡は一つも見当たらなかったが、それでも、あれほど物凄い声で泣き叫んでいた人間とは思えないほど、彼女の眠りは平和で無邪気だった。その細長い三日月のような眉、長い濃いまつげ、品のある高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバー型に小さく締まった唇、可愛らしい透き通った二重顎まで、まるで作り物の人形のように清らかな寝姿だった。……否、その時の私は本当にそう疑いながら、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていた。

すると……その私の目の前で、不思議な神秘的な変化が、その人形の寝顔に起こり始めた。

新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、赤い耳をほんのりと並べ、長いまつげを楽しそうに伏せている少女の寝顔が、目に見えないほど静かに、静かに悲しみの表情に変わっていった。しかも、その細長い眉や濃いまつげ、クローバー型の小さな唇の輪郭は、初めの通り美しい位置に静止したままだった。ただ、少女らしい無邪気な桃色の頬の色が、何となく淋しい薔薇色に移り変わっていくのみだったが、それだけで、たった今まで十七八に見えていたあどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人のような気品のある表情に変わっていた。そして、その底から透き通って見える悲しみの色が、なんとも神々しかった。

私は再び、自分の目を疑い始めた。しかし、目をこすることも愚か、呼吸すらできないような気持ちになり、なおも瞬き一つせずに見惚れていると、やがてその長く切れた二重まぶたの間に、透き通った水玉がにじみ現れ始めた。それが見る見るうちに大きな露の珠になり、長いまつげに絡まり、キラキラと光って、あっという間にハラハラと左右に流れ落ちた……と思うと、小さな唇が微かに震えながら動き出し、夢のように淡い言葉が切れ切れに漏れ出した。

「……お姉さま……お姉さま……すみません、すみません。……私は……心からお兄様をお慕い申し上げておりましたのです。お姉さまの大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申し上げて……ですから、とうとうこんなことに……ああ……済みません、済みません……どうぞ……どうぞ……許してくださいましね……許して……ね……お姉さま……どうぞ……ね……」

それは、その震えながら動く唇の様子から、やっと推察できるほどの、たどたどしい音調だった。しかし、その涙は、次から次へと新しく湧き出し、長いまつげの間を左右の目尻へ……ほのかに白いこめかみへ……そして青々とした両こめかみの、透き通るような生え際へ消え込んでいった。