ドグラ・マグラ (1/47)
von 夢野久作 · 2026-03-31
胎児よ、何故躍るのか。母の心を理解しているのか、それとも恐ろしいのか。
……ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン…………。
私は、薄暗い意識の中で目を覚ました。蜜蜂のような唸り声が、まだ耳の奥に残っている。じっとその音を聞いているうちに、今は真夜中だと気づいた。近くでボンボンと時計が鳴っているのだろうと思い、またウトウトしていると、その蜜蜂の音は次第に消えていき、周囲は静まり返った。
私はふっと目を開けた。
高い白い天井から、埃に覆われた裸の電球が一つぶら下がっている。その赤黄色い光の横に、大きなハエが一匹とまっていて、まるで死んだように動かない。冷たい人造石の床の上に、私は大の字に寝ているようだった。
……おかしいな……。
私はそのまま大の字に寝たまま、瞼を大きく開いて、目だけを上下左右に動かしてみた。
青黒いコンクリートの壁に囲まれた、二間四方ほどの部屋だった。三方の壁には、黒い鉄格子と鉄網で二重に張られた大きな磨硝子の窓が三つ、しっかりと取り付けられている。とても堅固な部屋の印象だ。
窓のない側の壁には、鉄製の寝台が一つ、入口の方向を枕にして横たわっている。その上には真っ白な寝具がきちんと敷かれていて、まだ誰も寝たことがないようだった。
……おかしいぞ……。
私は少し頭を持ち上げて、自分の身体を見回した。
白く新しいゴワゴワした木綿の着物が二枚重ねて着せられ、短いガーゼの帯が胸の高い位置で結ばれている。そこから突き出た四本の手足は、全体に黒ずんでいて、汚れだらけだった……その汚らしさ……。
……いよいよおかしい……。
恐る恐る右手をあげて、自分の顔を撫で回してみた。
……鼻が尖っていて、目が落ち窪んで、頭髪は乱れ、顎鬚がモジャモジャと伸びている……。
……私はガバッと跳ね起きた。
もう一度、顔を撫で回してみた。周囲をキョロキョロと見回した。
……誰だろう……こんな人間を知らない……。
胸の動悸が高まり、早鐘のように乱れ始めた。呼吸も荒くなり、まるで死ぬかと思うほど喘ぎ出した。……しかし、次第に静まっていった。
……こんな不思議なことがあろうか……。
……自分で自分を忘れてしまっている……。
……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。今聞いたボンボン時計の音だけが、記憶に残っている……それだけだ……。
……それでも気は確かだ。静寂が部屋の外を取り巻き、どこまでも続いていることがはっきりと感じられる……。
……夢ではない……確かに夢ではない……。
私は飛び上がった。
窓の前に駆け寄り、磨硝子の平面を覗いた。そこに映った自分の容貌を見て、何かの記憶を呼び起こそうとした。しかし、映っていたのは髪の毛が乱れた悪鬼のような自分の影法師だけだった。
私は身を翻して、寝台の枕元にある入口の扉に駆け寄った。鍵穴だけがポツンと開いている真鍮の金具に顔を近づけたが、その金具は私の顔を映さなかった。ただ、黄色い薄暗い光を反射するだけだった。
……寝台の脚を探し回り、寝具を引っくり返してみた。着ている着物も帯を解いて裏返してみたが、私の名前はおろか、頭文字すら見つけられなかった。
私は呆然とした。私は依然として未知の世界にいる未知の私だった。自分自身にも誰だかわからない私だった。
考えているうちに、私は帯を引きずったまま、無限の空間にス――ッと垂直に落ちていくような気がし始めた。臓腑の底から湧き上がる戦慄と共に、我を忘れて大声をあげた。
それは金属的な、突拍子もない甲高い声だった……が、その声は私に過去の何かを思い出させる間もなく、四方のコンクリート壁に吸い込まれて消えてしまった。
また叫んだ。しかし、やはり無駄だった。その声が一しきり波動して渦巻いた後、四つの壁と三つの窓、一つの扉は、ますます厳粛に静まり返っていた。
再び叫ぼうとした。しかし、その声はまだ声にならないうちに、喉の奥に引っ込んでしまった。叫ぶたびに深まる静寂の恐ろしさ……。
奥歯がガチガチと音を立て始め、膝頭が自然とガクガクし出した。それでも自分が何者であったかを思い出せない……その息苦しさ。
私はいつの間にか喘ぎ始めていた。叫ぼうにも叫べず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中央に立ち尽くして喘いでいた。
……ここは監獄か……精神病院か……。
そう思うほどに高まる呼吸の音が、凩のように深夜の四壁に反響していた。
そのうちに私は気が遠くなってきた。目の前が真っ暗になり、全身が強直して生汗をかき、仰向けに倒れそうになった。その瞬間、無意識に目を閉じた……と思ったが、またハッと目を開けた。寝台の向こう側のコンクリート壁を凝視した。
その壁の向こうから、奇妙な声が聞こえてきた。
それは確かに若い女性の声だった。しかし、その音調は人間の肉声とは思えないほど嗄れていて、底悲しい響きだけが、コンクリートの壁を透してきた。
「……お兄さま。お兄さま。お兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……もう一度……今のお声を……聞かせて……」
私は愕然として縮み上がった。思わずもう一度、背後を振り返った。この部屋の中に、私以外の人間が一人もいないことを承知していながら……再び、その女の声が滲み透るように響いてくるコンクリート壁の一部分を、穴が開くほど凝視した。
「……お兄さま、お兄さま、お兄さま……お隣のお部屋にいらっしゃるお兄様……あたしです。妾です。お兄様の許嫁だった……貴方の未来の妻でした妾……あたしです。あたしです。どうか……どうか今のお声をもう一度聞かせて……聞かせて頂戴……聞かせて……聞かせてエ――ッ……お兄様、お兄様、お兄様……おにいさまア――ッ……」
私は眼瞼が痛くなるほど両目を見開いた。唇をアングリと開いた。その声に吸い寄せられるように、ヒョロヒョロと二、三歩前に出た。そして両手で下腹をしっかりと押さえたまま、一心にコンクリートの壁を白眼で見つめた。
それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げるほどの、ものすごい純情の叫びだった。臓腑をドン底まで凍らせずにはおかない、たまらない絶体絶命の声だった。……いつから私を呼び始めたのかわからない……そしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深い怨みの声だった。それが深夜のコンクリート壁の向こうから私を呼びかけているのだった。
「……お兄さま……お兄さま、お兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしですあたしです。お兄さまはお忘れになったのですか。妾ですよ。あたしですよ。お兄様の許嫁だった……妾……妾をお忘れになったのですか。……妾はお兄様と一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがちゃんと生き返って……お墓の中から生き返ってここにいるのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……お兄さま、お兄さま、お兄さま……なぜ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時のことをお忘れになったのですか……」
私はよろよろと背後に蹌踉いた。もう一度目を皿のようにして、その声の聞こえてくる方向を凝視した……。
……何という奇怪な言葉だ。
……壁の向こうの少女は私を知っている。私の許嫁だと言っている。……しかも私と結婚式を挙げる前の晩に、私の手にかかって殺された……そうしてまた、生き返った女だと自分自身で言っている。そうして私と壁一枚を隔てた向こうの部屋に閉じ込められたまま、ああして夜となく昼となく、私を呼びかけているらしい。想像も及ばない怪奇な事実を叫び続けながら、私の過去の記憶を呼び起こすべく、死に物狂いに努力し続けているらしい。
……キチガイだろうか。
……本気だろうか。
いやいや。キチガイだ、キチガイだ……そんな馬鹿な……不思議なことが……アハハハ……。
私は思わず笑いかけたが、その笑いは私の顔面の筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。……再び一層悲痛で深刻な声が、コンクリートの壁を貫いてきたのだ。笑うにも笑えない……確かに私を私と知っている確信に満ちた……真剣な……悲痛な……。
「……お兄さま、お兄さま、お兄さま。なぜ、御返事をなさらないのですか。妾がこんなに苦しんでいるのに……たった一言……たった一言……御返事を……」
「……………………」
「……たった一言……たった一言……御返事をして下されば……いいのです。……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでないことが……わかるのです。そうして……お兄様も妾の声が、おわかりになるようになったことが、院長さんにわかって……御一緒に退院できるのに………お兄様、お兄さま……なぜ……御返事をして下さらないのですか……」
「……………………」
「……妾の苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様のお耳に入らないのですか……ああ……お兄様、お兄さま……あんまりです、あんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」
そう言っているうちに、壁の向こうから、もう一つ別の新しい物音が聞こえ始めた。それは平手か、拳かわからないが、とにかく生身の柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトと叩く音だった。皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気込みで叩き続ける弱々しい女の手の音だった。私はその壁の向こうに飛び散り、粘り付いているであろう血の痕跡を想像しながら、なおも一心に目を見開き、奥歯を噛み締めていた。
「……お兄様、お兄さま……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。そうして生き返っている妾です。お兄様よりほかにお便りする方は一人もない可哀想な妹です。一人ぼっちでここにいる……お兄様は妾をお忘れになったのですか……」
「お兄様もおんなじです。世界中にたった二人の妾たちがここにいるのです。そうして他人からキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ込められているのです」
「……………………」
「お兄様が返事をして下されば……妾の言うことが本当のことになるのです。妾を思い出して下されば、妾も……お兄様も、精神病患者でないことがわかるのです……たった一言……たった一言……御返事をして下されば……モヨコと……妾の名前を呼んで下されば……ああ……お兄様、お兄さま……ああ……妾は、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」
私は思わず寝台の上に飛び乗った。その声のあたりと思われる青黒いコンクリート壁に縋り付いた。すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、たまらない衝動に駆られてそうしたのだった。……が……またグッと唾液を飲み込んで思い止まった。
そろそろと寝台の上から滑り降りた。その壁の一点を凝視したまま、できるだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置にある窓の方へジリジリと後退りをしていった。
……私は返事ができなかったのだ。否……返事をしてはいけなかったのだ。
私は、彼女が私の妻であるかどうかもわからない人間だ。あれほど深刻で痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながら、その顔さえ思い出せない自分がいる。自分の過去の真実の記憶として呼び起こせるものは、ただ今聞いた時計の音だけだという、なんとも不思議な痴呆のような状態にいるのだ。
そんな私が、どうして彼女の夫として返事をすることができるだろうか。たとえ返事をしたことで、私の自由が得られるようなことがあったとしても、その時に私の本当の身分や、本名が聞かれるかどうか、わかったものではない。彼女が果たして正気なのか、それとも精神病を患っているのかすら、判断する根拠を持たない私なのだ。
万が一、彼女が本当に精神病患者で、彼女の呼びかけの相手が彼女の深刻な幻覚そのものであったとしたら、どうなるだろう。私がうっかり返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原因にならないとも限らない。ましてや、彼女が呼びかけている人間が、確かにこの世に存在する人間で、しかもそれが私以外の人間だったとしたら、私は自分の軽率から他人の妻を奪ったことになるのではないか。他人の恋人を冒涜したことになるのではないか……といった不安と恐怖が次々に襲いかかり、私は繰り返し唾液を飲み込み、両手をしっかりと握り締めていた。
その時、彼女の叫び声が壁を貫いて、私の真正面から襲いかかってきた。
「お兄様、お兄様、お兄様、お兄様、お兄様。あんまりです、あんまりです、あんまりです、あんまりです、あんまりです……」
そのか弱い、痛々しい、幽霊のような、限りない純情の怨みの叫び……。
私は頭髪を両手で引っ掴み、長く伸びた爪で血が出るほど掻きまわした。
「……お兄さま、お兄さま、お兄さま。妾は貴方のものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
私は掌で顔を激しくこすりまわした。
……違う、違う……違います、違います。貴女は思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。
……ともう少しで叫びかけるところだったが、またハッと口を噤んだ。そうした事実すらはっきりと断言できない今の私。自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生まれ故郷はもちろんのこと……自分が豚だったか人間だったかすら、今まで知らずにいた私。
私は拳を固めて、耳の後ろの骨をコツンコツンと叩いた。しかし、そこからは何の記憶も浮かび上がってこなかった。
それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに、ほとんど聞き取れないくらい悲痛に深刻に高潮していった。
「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」
私はその声に追立てられるように、今一度、四方の壁と窓と扉を見回した。駆け出しかけてまた立ち止まった。
……何も聞こえないところへ逃げて行きたい……。
と思ううちに、全身がゾッと粟立ってきた。
入口の扉に走り寄り、鉄のように頑丈な青塗りの板の平面に全力で衝突してみた。暗い鍵穴を覗いてみると……なおも引き続き聞こえてくる執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、痺れ上るほど脅かされながら……窓の格子を両手で掴んで力いっぱい揺すぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引き歪めることができたが、それ以上は人間の力では引き抜けそうになかった。
私はがっかりして部屋の真ん中に引き返してきた。ガタガタ震えながらもう一度、部屋の隅々を見回した。
私はいったい人間世界にいるのだろうか……それとも私はつい今しがたから幽冥の世界に来て、何かの責苦を受けているのではないか。
この部屋で正気を回復すると同時に、ほっとする間もなく、襲いかかってきた自己忘却の無間地獄……何の反響もない……聞こえるものは時計の音ばかり……。
……と思う間もなく、どこの何者とも知れない女性の叫びに苛責され始めた絶体絶命の活地獄……この世のこととも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げることもできない永劫の苛責……。
私は踵が痛くなるほど強く地団駄を踏んだ……そして、ベタリと座り込んだ……仰向けに寝た……また起き上がって部屋の中を見回した。……聞こえるか聞こえぬかわからぬくらい弱ってきた隣室の物音と、切れ切れに起こる咽び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そして、できるだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にはっきりした返事を聞かせるべく……。
こうして私は何十分の間……もしくは何時間の間、この部屋の中を狂いまわったか知らない。しかし、私の頭の中は依然として空虚であった。彼女に関係した記憶はもちろんのこと、私自身についても何一つとして思い出したことも、発見したこともなかった。空っぽの記憶の中に、空っぽの私が生きている。それがあられもない女の叫び声に追いまわされながら、やみくもに藻掻きまわっているばかりの私だった。
そのうちに壁の向こうの少女の叫び声が弱ってきた。次第に糸のように細くなり、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう以前の通りの森閑とした深夜の四壁に戻っていった。
同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。扉の外の廊下の突き当たりと思われるあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったのかわからない最初の無意識状態に、ズンズンと落ち帰っていった……。
……コトリ……と音がした。
気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に身体を寄せかけて、手足を前に投げ出し、首をガックリと胸の処まで項垂れたまま、鼻の先にある人造石の床の上の一点を凝視していた。
見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。
……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。
静かな雀の声が耳に届く。遠くからは電車の音がかすかに響き、天井裏の電灯はいつの間にか消えていた。
夜が明けたのだ。
私はぼんやりとそう思い、両手で目をこすり上げた。ぐっすりと眠っていたせいだろうか。今朝、暗いうちに起きた不可思議で恐ろしい出来事を、すっかり忘れてしまっていた私は、身体のあちこちが変にこわばって痛むのを感じながら、思い切って大きく伸びをした。しかし、まだ十分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。
入口の扉の横にある小さな切戸が開き、白い食器や銀色の皿を載せた白木の膳が入ってくるようだった。
その瞬間、私は何かに気づかされた。無意識のうちに、今朝からの疑問が頭の中で活発に動き始めた。思わず立ち上がり、爪先立ちで切戸のそばに駆け寄り、白木の膳を差し入れている赤くて丸々とした女の腕を無手で掴んだ。すると、お膳やトースト、野菜サラダの皿、牛乳の瓶がガラガラと床に落ちて転がった。
私はかすれた声を振り絞った。「……どうぞ……教えてください。僕の名前は、何というのですか?」
相手は身動き一つしなかった。白い袖口から出ている冷たい赤大根のような二の腕が、私の手の下で見る見るうちに紫色になっていく。
「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕は狂人でも……何でもない……」
その時、切戸の外で若い女の悲鳴が上がった。「……アレエ――ッ……」
私に掴まれた紫色の腕が、力なくもがき始めた。「……誰か……誰か来てください。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」
「……シッシッ。静かに静かに……黙ってください。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……どこなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」
その瞬間、ワ――アッという泣き声が響いた。私の両手の力が緩んだのか、女の腕がスッポリと切戸の外へ抜け出すと、同時に泣き声はぴたりと止まり、廊下の向こうへバタバタと走っていく足音が聞こえた。
一所懸命に掴んでいた腕を引き抜かれ、私はバランスを崩して固い人造石の床にドタリと尻餅をついた。危うく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたように周りを見回した。
すると、また不思議なことが起こった。
今まで一所懸命に張り詰めていた気持ちが、尻餅をついた瞬間にみるみる緩んでいく。すると、何とも言えない可笑しさが腹の底から湧き上がり始め、どうすることもできなくなった。それはとても耐え難いほど変てこで可笑しいもので、頭の毛が一本一本震え出すほどの笑いだった。魂の底から湧き上がり、全身を揺さぶり、笑いが止まらなくなる。骨も肉もバラバラになるまで笑わなければならないほどの可笑しさだった。
「アッハッハッハッハッ。なんて馬鹿馬鹿しいんだ。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたって全然不自由はしない。俺は俺に間違いないじゃないか。アハアハアハアハアハ……」
こう気づくと、私はますますたまらなくなり、床の上に引っくり返った。頭を抱え、胸を叩き、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った……笑った。涙を飲み込みながらむせ返り、身体を捻じり回しつつ、ノタ打ち回りながら笑いころげた。