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ドグラ・マグラ (34/47)

von 夢野久作

私はこの時、気絶せずに済んだことが不思議でならなかった。おそらく、これまでにいくつもの奇妙な出来事に慣れていたからかもしれない。それでも、どこか遠くへ散り去りかけている自分の魂を、一生懸命に呼び戻し、元の硝子窓の前にしっかりと立たせるまでに、何度も目を閉じたり開いたりし、ハンカチで顔をこすり続けたことは言うまでもない。それでも、再び窓の外を見直す勇気がどうしても出なかった。頭を低くして床のリノリウムを見つめ、何度も震えるため息をつき、舌の上に広がる強烈なウイスキーの香りを吐き出していた。

その間、正木博士は手に持っていた平たいウイスキーの瓶を診察着のポケットにしまい込み、自分自身もやっと落ち着いたように咳払いをした。

「いや、驚くのも無理はない。あの青年は君と同じ年、同じ月、同じ日、同じ時刻に、同じ女性の腹から生まれたのだからね。」

「……えっ……」

私は正木博士の顔を睨みつけた。同時に、すべてがわかりかけたような気がして、やっと窓の外にいる呉一郎を振り返る勇気が出た。

「……それじゃ、僕とあの呉一郎は双子……」

「いや、違う……」

正木博士は厳しい表情で首を振った。

「双子よりももっと密接な関係を持っているのだ。もちろん、他人の空似ではない。」

「……そんなことが……」

言い終わらないうちに、私の頭は再び混乱し始めた。正木博士の顔に浮かぶ一種の皮肉な微笑み、鼻眼鏡の下の黒い瞳をじっと見つめた。彼は冷やかしているのか、それとも真剣なのか……と疑いながら。

正木博士の顔には、見る見るうちに私を憐れむような微笑が浮かんできた。何度も何度も頷きながら、葉巻の煙を吸い込み、また吐き出した。

「うんうん、迷うのも無理だよ。君は昔から有名な離魂病という病にかかっているのだからね……」

「……え……離魂病……」

「そうだよ。離魂病というのは、もう一人の自分が現れて、別のことをするというもので、昔からさまざまな書物に怪談として記録されている。しかし、精神科学の専門家である私に言わせると、学理上実際にあり得ることなんだ。現実に目の前で見ると、何とも言えない不思議な気持ちになるだろう。」

私は慌てて、もう一度目をこすり直した。恐る恐る窓の外を見たが、青年は元のまま、同じ位置に立っている。今度は少しだけ横顔を見せて……。

「……あれが僕……呉一郎と……どっちが呉一郎……」

「ハハハハハハ、どうしても思い出せないようだね。まだ夢から覚めていないのだね。」

「えっ、夢……僕が夢……」

私は目を真ん丸にして振り返った。得意そうに反り身になっている正木博士を見上げた。

「そうだよ。君は今、夢を見ているんだ。夢の証拠に、私の目で見ると、あの解放治療場内には先ほどから人一人いないんだよ。ただ、枯れ葉をつけた桐の木が五、六本立っているだけだ……解放治療場は、昨日の大事変の発生以来、厳重に閉鎖されているからね……」

「……………」

「こうなんだ……いいかい。これは少し専門的な説明になるが、君の意識の中で、現在目を覚まして活躍しているのは、現実に対する感覚機能が大部分なんだ。つまり、現在の事実を見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、考える、記憶する……といった作用だけで、過去に関する記憶を呼び返す部分は、まだ夢を見ている程度にしか目を覚ましていないのだ。だから、君がこの窓からあの場内の光景を覗くと、その一瞬に、昨日まであそこに立っていた君の記憶が夢の程度にまで甦り、今見ている通りのはっきりした幻影となって君の意識に浮かび上がっている。そして、そこに立っている君自身の現在の意識と重なり合って見えているのだ。つまり、窓の外に立っている君は、君の記憶の中から夢となって現れた、君自身の過去の客観的映像で、硝子窓の中にいる君は現在の君の主観的意識なのだ。夢と現実を一緒に見ているのだよ、君は……今……」

私はもう一度しっかりと目をこすった。大きく瞬きをしながら、正木博士の妙な笑い顔を睨んだ。

「……それなら……僕は……やはり呉一郎……」

「……そうだよ。理論上から言っても、実際上から見ても、君はどうしても呉一郎と名乗る青年でなくてはならなくなるんだ。不思議に思うのは無理もないが仕方がない。それで……その上に君が君自身の過去の記憶を、今見ているような夢の程度ではなく、はっきりした現実にまで完全に回復してしまったとなれば、残念ながらこの実験は若林の大勝利で、私の敗北だ……かどうかは、まだ結果を見ないとわからないがね。フフフフ。」

「……とにかく、これは奇妙なことだ。まったく不可思議だろう。しかし、これを学問的に説明すると、実は何でもないことなんだよ。普通の人でも、頭が疲れている時や神経が衰弱している時には、よくこういうことがあるんだ。もちろん、程度は軽いけれどね……白昼の街を歩きながら、昨夜自分が女性にチヤホヤされていた光景を思い出してニヤニヤしたり、寂しい通りを歩いているうちに、電車に轢かれそうになった瞬間の光景を幻視してハッと立ち止まったりすることがある。女性もまた、古くなった嫁入り道具の鏡の中に自分の花嫁姿を再現してぼんやりしたり、学生時代の思い出を追いかけて、うっかり学校の門の前まで来てしまったり……まだまだいろいろあるだろう。ちょうど夢の中で、自分の未来の葬式の光景を描いているのと同じ心理で、自分の過去に対する客観的な記憶が生んだ虚像と、現在の主観的な意識に映る実像とを、二重に見ているのだ。しかも君の場合、その夢を見ている部分の脳が、普通の睡眠よりもずっと深い状態にあるから、その解放治療場での幻覚も、今君が見ている通り、非常に鮮明なのだ。熟睡している時の夢と同じように、現実と変わらないほどの……いや、それ以上の深い魅力を持って君に迫っているから、現実の意識との区別がつきにくいのだ。」

「……………」

「……さらに言えば、君の頭の中で長い間昏睡状態にあった脳の一部が、最近の出来事に関する記憶を少しずつ甦らせながら見せている夢だと思われるから、もしかすると、まだなかなか目覚めないかもしれない。……目覚める時は、窓の外の君と、今そこにいる君が互いに『これは自分だな』と気づいた時に、ハッと驚くか、あるいは気絶するかして覚醒するだろうと思う。しかし、その時にはこの部屋も、私も、今の君自身も一緒にどこかへ消えてしまって、全く別の場所で、全く別の姿の君を発見するかもしれない……実は、今しがた君が失神しかけた時に、さてはもう覚醒するのかと思っていたのだがね……ハハハハハハ。」

「……………」

いつの間にかまた目を閉じていた私は、ただ正木博士の声を聞いていた。その言葉が持つ二重三重の不可思議な意味に、次第に混乱させられながら、一生懸命に両足を踏みしめて立っていた。今にも目を開けたら、すべてが消えてしまうのではないかとビクビクしながら、口の中でそろそろと舌を動かしていた。

その時だった。無意識に頭を押さえていた右手が、また無意識のまま前額部の生え際まで撫で下ろすと、突然背骨にしみわたるほどの痛みを感じたのだ……。

私は思わず「アッ」と声を上げた。閉じていた目を一層強く閉じ、歯を食いしばった。そうして、さらに念入りにそこを撫で回してみると、気のせいか少し膨らんでいるようだが、腫れ物ではないようだった。確かに何かに強くぶつかったか、あるいは打たれた痕跡である……今までこんな痛みは感じなかったが……それに、今朝から今までの間に、そんなにひどく頭を打った覚えは一つもないのだが……。

夢に夢を見る心地とは、こういう場合を指すのだろう。私はその痛みの上にそっと手を当て、しっかりと目を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁から飛び降りるような気持ちで、思い切って目をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見回してみたが……目を閉じていた前と何一つ変わったところはなかった。ただ、さっきから解放治療場の近くを舞っているらしい、一匹の大きな鳶の影が、また場内の砂地の上をスーッと横切っただけだった。

それを見た時、私はどうしてもすべてが現実であるとしか思えないことを自覚せずにはいられなかった。たとえそれがどんなに不思議で、あるいは恐ろしい精神科学的現象の重なりであったとしても、私自身にとっては決して夢でもなく、現実でもない。確かに実在の姿をこの目で見、実在の音をこの耳で聴いていることを確信せざるを得なかった。……その確信を爪の垢ほども疑う気になれなかった。私は、今一人の自分自身としか思えないほど私によく似ている窓の外の青年、呉一郎の姿を、何の恐怖も感じずに、冷静に見つめることができた。それからゆっくりと正木博士を振り返ると、博士は瞬時に目を細め、義歯を奥の方まで見せて笑った。

「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えてもわからないのかい。君自身を呉一郎とは思えないのか?」

私は無言のまま、はっきりと頷いた。

「ハッハッハッ。いや、すごいすごい。実は今言ったのは……みんな嘘だよ……」

「えっ……嘘……」

そう言いながら、私は思わず頭を押さえていた手を離した。その手を二本ともだらりと下げたまま……口をぽかんと開けて正木博士と向き合い、大きな目を見開いていたように思う。恐らく「呆」という文字をそのままの形で……。

その私の目の前で正木博士は、まるで堪えきれないかのように腹を抱えた。小さな身体から、あらん限りの大きな声を振り絞って笑い始めた。葉巻の煙にむせて、ネクタイを引き緩め、チョッキのボタンを外し、鼻眼鏡をかけ直して、その一声ごとに、室内の空気が消えたり現れたりするかのように徹底的に笑い続けた。

「ワッハッハッハッ。とても痛快だ。君は徹底的に正直だから面白いよ。アッハッハッハッハッハッ。ああ可笑しい……ああたまらない……怒ってはいけないよ君……今まで言ったのは嘘でも何でも、真っ赤な真っ赤な金箔付きの冗談なんだよ……アハ……アハ……でも決して悪気で言ったわけじゃないんだ。本当はあの青年……呉一郎と君が瓜二つに似ているのを利用してちょっと君の頭を試してみたんだよ。」

「……ぼ……僕の頭を試験……」

「そうだよ。実は、これからあの呉一郎の心理遺伝の真相について君に話そうと思っているんだ。でも、その話にはもっと理解できないことが続出するから、しっかり頭を働かせておかないと、ひどい勘違いをしてしまうかもしれない。実際、君が最初にあの青年を『自分と双生児に違いない』なんて思い込んでしまうと、私の話の筋が完全に混乱してしまうから、ちょっと予防線を張っておこうと思ったんだ。アハハハハ」

私はまるで夢から覚めたように深呼吸をした。正木博士の言葉に身震いしながら、再び頭の痛むところに手を当てた。

「……でも、僕のここが、急に……疼き出したのは……」

言いかけて、私は口を閉ざした。再び笑われるのではないかと恐れ、目をパチパチさせた。

しかし、正木博士は笑わなかった。まるで私の頭の上にその痛みがあることをずっと前から知っていたかのように、平然とした口調で言った。

「ウン……その痛みかい」

その言葉に、笑われるよりもさらに不気味な気持ちになった。

「それはね……今急に痛み出したのではない。今朝、君が目を覚ます前からあったのを、今まで気が付かなかっただけなんだよ」

「……でも……でも……」

私は震える指を一本ずつ正木博士の前で折り曲げた。

「……今朝、理髪師が一度、看護婦が一度、そしてその前に自分で何度も掻き回しているんですけど……ちっとも痛くはなかったんです……」

「何度掻き回しても同じことだよ。自分が呉一郎とは全く無関係な赤の他人だと思っている間は、その痛みを感じないが、一度、呉一郎の姿と自分の姿が生き写しだと気づくと、その痛みを突然思い出す。……そこに精神科学の不思議な合理作用が現れるんだ……宇宙万有はすべて『精神』を対象とする精神科学的存在に過ぎないので、いわゆる唯物科学では絶対に説明できない現象が存在することを如実に証明することになる。それが、君の頭の痛みは、あの呉一郎の心理遺伝の終極の発作と密接に関係しているということなんだ。実際、呉一郎は昨夜、その心理遺伝の極限まで達して、壁に頭を打ち付けて自殺を試みたのだから。その痛みが今、君の頭に残っているんだ」

「……えっ……えっ……それじゃ……僕は……やはり呉一郎……」

「まあ、そんなに慌てるな。虻の心は蜂知らず、豚の心は犬知らず。張三が頭を打たれても李四は痛くも何ともないというのが普通の道理だ。つまり、唯物科学的な考え方なんだが」

正木博士は突然、こんな謎めいた言葉を、葉巻の煙と一緒に吐き出した。私がその意味を飲み込めずに戸惑っていると、片目をつぶって顰めっ面をしながらニヤニヤと笑い出した。

「さて、君自身には赤の他人としか思えない呉一郎の頭の痛みが、どのような精神科学の作用で君自身の頭に残っているのか……」

私は再び窓の外を振り向き、解放治療場の一隅にニコニコ笑いながら立っている呉一郎の姿を凝視せざるを得なかった。そして同時に、私の頭の痛みが何となく神秘的な脈動を帯びて、新たに生き生きと疼き出したように感じた。

その眼の前で、正木博士は再び巨大な煙の一団を吹き出した。

「……どうだい。この疑問が君自身で解決できそうかい」

「できません」

私はきっぱりと返事をした。頭を押さえたまま、今朝目が覚めた時と同じような情けない気持ちになっていた。

「できなければ仕方がない。君はいつまでも、どこの誰だかわからない風来坊でいるしかないんだ」

急に胸がいっぱいになった。それは、親に手を引かれて知らない場所を歩いていた子供が、急に親から手を放されて、逃げられてしまったような悲しさだった。思わず頭から手を放し、両手を握り合わせて拝むように言った。

「教えてください……先生。どうか、お願いですから……僕はもう、これ以上不思議なことに出会ったら死んでしまいます」

「意気地のないことを言うな。ハハハハハ。そんなに目の色を変えなくても教えてやるよ」

「どうぞ……誰ですか……僕は……」

「まあ待て……それを理解させる前に、一つ約束しておかなければならないことがある」

「……ど……どんな約束でも守ります」

正木博士の顔から微笑が消え失せた。吐き出しかけた煙を口の中へ引っ込めて、私の顔をじっと見据えた。

「……本当に守るか……」

「必ず守ります……どんな約束です……」

正木博士の顔には再び、博士特有の皮肉な冷笑が浮かんだ。

「何だ。君が今の通りの確かな気持ちで『俺はどんなに間違っても呉一郎じゃないぞ』という自信を持って聞けば、別に大した骨の折れる約束ではないと思うが……つまり、私はこれから呉一郎の心理遺伝事件について、徹底的に突っ込んだ素晴らしい話を進めるつもりだ。その話の内容が、どんなに恐ろしい、またはあり得ないことであろうとも、我慢して最後まで聞くか」

「聞きます」

「うん……そして、その私の話が終わった後、その内容が一点の虚偽を交えない事実であることを君が認めると同時に、その事実を記録して、私の遺言書と一緒に社会に公表するのが君の一生涯の義務であり、人類に対する君の大責任であることがわかったならば、たとえそれが君自身にとって迷惑であり、恐怖に値する仕事であろうとも、必ずその通りに実行するか」

「誓って致します」

「うん……それからもう一つ……もしそうなった場合には、君は当然、あの六号室の少女と結婚し、あの少女の現在の精神的な異常の原因を取り除いてやる責任があることも同時に理解するだろうと思うが、その責任も君は果たせるか」

「……そんな責任が本当に……僕にあるんでしょうか」

「それはその場になって、君自身が考えてみればいい。とにかく、そんな責任があるかないか、言葉を換えれば、呉一郎の頭の痛みがどうして君の額の上に移ったのか、その理由を明らかにする方法は、非常に簡単なんだから。物の五分もかからないだろう。」

「……そんな、そんな簡単な方法なんですか?」

「ああ、雑作ないことなんだ。しかも理屈は小学生でもわかるくらいで、私の説明なんて一言も加えなくていい。君がある場所に行って、ある人間とピッタリ握手するだけでいいのだ。そうすると、そこに私が予期している、ある素晴らしい精神科学の作用が電光のように閃いて……ああ、そうだったか、俺はこんな人間だったのかと気づくと同時に、今度こそ本当に気絶するかもしれない。もしかすると、まだ握手しないうちに、その作用が起こるかもしれないがね。」

「……それを今やってはいけないんですか……?」

「いけない。断じていけない。今君が誰だということがわかると、今言った通り、飛んでもない錯覚に陥って、私の実験をめちゃくちゃに壊す恐れがあるんだ。だから君がすっかり前後の事実を飲み込んで、それを一つの記録にして社会に公表するために、私の指示通りの手段を取るのをちゃんと私の目で見届けた上でなければ、その実験をやるわけにはいかないんだ。……どうだ。できるかい、その約束が……?」

「……できます……」

「よろしい。それじゃ話そう。いや、話が堅苦しくなった。こちらへ来たまえ……」

そう言いながら正木博士は、私の手を引っぱって大きなテーブルのところへ連れて行き、座らせた。自分も古い肘掛けの回転椅子に私と向かい合って座ると、白い服のポケットからマッチを取り出し、新しい葉巻に火をつけた。吸い残しの短い葉巻は、達磨の灰落としの口へ叩き込んだ。

私は窓の外が見えなくなったので、ホッと重荷を下ろしたような気持ちになった。どうしても解けそうにない疑問が、ますます深刻に交錯してくるのを、頭の中心にハッキリと感じながら……。

「いや、馬鹿に話が堅苦しくなった。」

と今一度わざとらしく繰り返した正木博士は、今までよりもずっと砕けた態度になり、机の上に両肘をついた。その上に顎を載せて、長い葉巻を横に咥えながら、ニヤニヤと私の顔を覗き込んだ。

「ところでどうだい。君自身が何者かという問題はとりあえず別にしておくとして、今朝見たあの少女をどう思うね?」

私は質問の意味がわからず、目をパチパチさせた。

「どう思う……とは……?」

「美しいとは思わなかったかね?」

不意打ちにこうした方向違いの質問を浴びせられ、私は狼狽せずにはいられなかった。頭の中を羽虫のように飛び回っていた大小無数の「?」が一瞬に消え、その代わりに黒く潤んだ目、小さな赤い唇、青い長い三日月眉、ぽーっと薄毛に包まれた耳などが、交互に目の前に浮かんできた。すると、私の首筋がポカポカと暖かくなるのを感じた。それにつれて、今しがた気絶しかけた時に飲まされたウイスキーの酔いが、グングンと身体中を巡り始めたように思い、知らず知らずハンカチで顔を拭いた。顔中から一面に湯気が湧き出すような気がして……。

正木博士はニヤニヤしながら顎でうなずいた。

「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうかと訊かれて平気で返事のできる青年は、恋愛遊戯に疲れた不良連中か、あるいは八犬伝や水滸伝に出てくる性的不能患者の後裔だからね……しかし君はあの少女を、それっきり何とも思わなかったかね?」

私は本当のことを言うと、この時の私の心持ちをここに記録したくなかった。しかし、事実を偽ることはできない。正木博士からこう尋ねられたおかげで、あの少女に対する私の気持ちが、今朝初めて会った時以上に一歩も進んでいないことに、初めて気が付いた。ただ、その気味の悪いほどの初々しさと、目も当てられぬいじらしい美しさに打たれただけであった。どうにかして正気に返してやりたい、この病院から救い出してやりたい、そう思っている青年に会わせてやりたいと思い続けていただけだった。それが果たして彼女に対する私の「恋の表現」の「変形」であったかどうか、そんなことを考える暇もなかった。いや、それ以上に深く自分の心を解剖することを彼女に対する冒涜とさえ考え、心の奥の奥で警戒していた。その図星を正木博士に指摘されたような気がして、私は何のたわいもなく赤面させられてしまった。石のように固くなり、切口上で返事をした。

「え……可哀想とは……思いました。」

正木博士はこう聞くと、満足気に何度も何度も頷いた。その態度を見ると、正木博士はこの時に私があの少女を恋しているものと思い込んでしまったらしかったが、それを打ち消すだけの心の余裕も私は持たなかった。何とかして誤解をさせないようにとヤキモキ考えているうちに、正木博士はなおも悠々と念入りに頷き続けた。

「そうだろうとも、そうだろうとも。美しいと思ったのは、すなわち恋したことだからね。そうでないという奴は似非道徳屋……」

「……そ、そんな乱暴な……せ、先生……誤解です……」

と私は慌てて半分持った手をあげつつ叫んだ。

「……異性の美しさを感じる心と、恋と、愛と、情欲とはみんな別物だ。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋だ……異性に対する冒涜だ……精神科学者にも似合わない乱暴な言い草だ……無茶苦茶だ。それは……」