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ドグラ・マグラ (32/47)

von 夢野久作

その瞬間、私は若林博士の声だと思った。しかし、すぐにそれが全く違う口調で、明るく若々しい響きを持っていることに気づき、驚いて背後を振り向いた。しかし、部屋の隅々までガランとしていて、鼠一匹も見当たらなかった。

……不思議だ……。

明るい秋の朝の光が、三方の窓から洪水のように流れ込み、標本棚のガラスやニス塗りの机、リノリウムの床に眩しく反射して静まり返っていた。

……チチチチチチチ……クリクリクリクリクリクリ……チチ……

小鳥たちの声が、松の間を渡って聞こえるだけだった……。

……おかしいな……と思いながら、読んでしまった遺言書をパタリと伏せると、目の前に何かがいることに気づいて、驚き立ち上がりそうになった。

私の鼻先に、奇妙な人間がいる……最初から若林博士が座っていると思い込んでいた大卓子の向こうの肘掛け椅子には、若林博士の姿は影も形もなく消えてしまい、その代わりに、白い診察服を着た小さな骸骨のような男が、私と向かい合って座っていた。

その男は、頭をクルクルに刈り上げ、眉毛を剃り落とした、全体に赤黒く日に焼けた五十代の紳士だったが、実際にはもっと若いようにも見えた。高い鼻の上に大きな縁なしの鼻眼鏡をかけ、大きなへの字型の唇に、火をつけたばかりの葉巻をギュッと咥え、両腕を高々と胸の上に組んで反り返っている……骸骨そっくりの小男が、私と視線を合わせると、悠々と葉巻を右手に取りながら、真っ白な歯を見せてクワッと笑った。

私は飛び上がった。

「ワッ……正木先生……」

「アハハハハハ……驚いたか……ハハハハハハハ。いや、すごいすごい。私の名前をちゃんと覚えていてくれたのは素晴らしい。おまけに幽霊と間違えて逃げ出さないところは、いよいよ感心だ。ハッハッハッハッハ。アッハッハッハッ」

その笑い声の反響に圧倒され、全身が痺れていくように感じた。右手に持っていた正木博士の遺言書をパタリと大卓子の上に落とした……と同時に、正木博士の出現によって、今朝からの出来事がすべて否定されてしまったように感じ、急に全身の力が抜けて、再び元の回転椅子にドタンと尻餅をついてしまった。何度も何度も唾液を飲み込みながら……。

私の態度を見た正木博士は、ますます愉快そうに椅子の上で反り返って笑った。

「アッハッハッハッハッ。ひどく驚いているじゃないか。アハハハハハ。何もそんなに魂消ることはないんだよ。君は今、飛んでもない錯覚に陥っているんだよ」

「……飛んでもない……錯覚……」

「……まだわからないかね。フフフフフ。それじゃ考えてみたまえ。君はさっき……八時前だったと思うが……若林に連れられてこの部屋に来て、色んな話を聞かされたろう。私が死んでから一ヶ月目だとか何とか……あのカレンダーの日付がどうとかこうとか……ハハハハハ驚いたか、何でも知っているんだからな……私が……。それから君がその『キチガイ地獄の祭文』だの『胎児の夢』だの新聞記事だの、遺言書だのを読まされているうちに、私はもう一ヶ月前に死んでいるものと、本当に思い込んでしまったろう……そうだろう」

「……………」

「アハハハハハ。ところがそれは、せっかくのことだが若林の冗談なんだ。君は若林のペテンにまんまと引っかかってしまっているんだ。その証拠に見たまえ。その遺言書の一番最後のところを見ればわかる。ちょうどそこが開いているだろう。……どうだい……昨夜から私が夜通し書いていた証拠に、まだ青々としたインクの匂いがしているだろう。ハハハハハ。どうだい。遺言書というものは、必ず本人が死んだ後に現れなければならないものと決まっているわけじゃない。私がまだ生きていたって、何も不思議はないじゃないか。アッハッハッハッハッ」

「……………」

私は開いた口が閉じられなかった。正木、若林の両博士が、何のためにこんな奇妙なイタズラをするのかと迷った。悪戯にしてもあまりに奇妙で、不合理なことばかり……一体今朝から見た色んな出来事や、様々な書類の内容は、みんな真剣な事実なのか、それとも二人の博士が馴れ合いで私を戯弄うために仕組んだ芝居に過ぎないのか……そんな風に考えを巡らせているうちに、今まで私の頭の中に積み重なっていた感激や驚き、好奇心が、同時にユラユラと崩れ始め、自分の身体と一緒にスーッとどこかへ消えていくように感じた。

それをじっと堪え、大卓子の端に両手をしっかりと突いた私は、鼻の先にニヤニヤしている正木博士の顔を、夢のようにぼんやりと眺めていた。

「ウッフッフッフッフッ」

と正木博士は噴飯した。その拍子に、咥えていた葉巻の煙にむせて、苦しさと可笑しさが入り混じった表情をしながら、慌てて鼻眼鏡を押さえた。

「アッハッハッハッハッ……ゴホンゴホン……妙な顔をしているじゃないか……ウフフフフフフ、ぜひとも私が死んでいないと具合が悪いと……ゲッヘンゲッヘン……言うのかね。ゲヘゲヘ、弱ったな、どうも……こうなんだよ。いいかい。君は今朝早く……多分午前一時頃だったと思うが、あの七号室の真ん中に大の字形に寝ていた。そうして目を覚ますと、いきなり自分の名前を忘れているのに驚いて、一人で騒ぎ回ったろう」

「……えっ……どうしてそれを知って……」

「あなた、何を言っているの? 大声で怒鳴り散らしていたじゃないか。他の人たちはみんな寝ていたけれど、私がこの部屋で遺言書を書いていたから、君の声が聞こえてきたんだ。君は七号室で、一生懸命に自分の名前を探している様子だった。……やっと夢遊状態から目覚めかけているのかと思って、急いで遺言書を書き上げるために二階に戻ったんだ。そのうちに夜が明けて、私が居眠りから目を覚ましたとき、ぼんやりしていると、若林が新式のサイレンを鳴らしながら自動車で駆けつけてくるのが見えた。……これは面白い。君が夢中から目覚めかけているのを、誰かが早くも見つけて若林に報告したようだ。なかなか機敏だが、さて、駆けつけて何をするつもりなんだろう……と物陰から様子を見ていると、若林は君の髪を整えて、湯に入れて、堂々たる大学生の姿に仕立て上げた。そして、君の隣の六号室に入院している美少女に引き合わせたんだ。……しかも、その子が君の許嫁だと聞いて、君は驚いたに違いない。」

「えっ……それじゃあの子は、やっぱり精神病患者……?」

「そうだ。しかも、学界でも珍しい精神異常だ。大事な結婚式の前の晩に、花婿が思いもよらない『変態性欲の心理遺伝』という夢遊発作を見せたために、知らず知らずのうちにその暗示にかかって、同じ系統の発作を起こし、仮死状態に陥ってしまった。しかし、若林の腕によって息を吹き返すと、今度は千年前に亡くなった玄宗皇帝や楊貴妃を慕ったり、いない姉に謝ったり、赤ん坊を抱く真似をして「お前は日本人になるんだよ」と言ったりしていた……まあ、今ではだいぶ正気を取り戻しているがね。」

「……それじゃ……あの子の……名前は……何というの……?」

「何だ、名前を聞かなくてもわかっているだろう。音に聞こえた姪の浜小町、呉モヨ子だ。」

「……えっ……それじゃ……僕は呉一郎……?」

私がそう言いかけたとき、正木博士はその大きな口をピタリと閉じた。葉巻の煙に顔をしかめながら、黒い瞳を私の顔に向けてじっと見つめていた。

私は全身の血が心臓に集中して、消え去っていくように感じた。額から汗がポタポタと落ち、唇が震え出し、またもふらふらとなりかけた。大きなテーブルに両手をついて立っている自分の身体が、空気と一緒に散っていくような感覚の中で、目だけが正木博士をしっかりと見つめているような気持ちだった。私の魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの速さで駆け巡っていた……呉一郎としての過去を思い出すことができるのかと恐れおののきながら、自分の肺と心臓が、どこか遠くからの大波に責め立てられる音に耳を澄ませていた。

しかし……その心臓と肺がいくら騒ぎ立てても、私の魂はどうしても呉一郎としての過去を思い出すことができなかった。その間に何度も頭の中で繰り返した「呉一郎」という名前に対して、懐かしさや親しみを微塵も感じることができなかった。私の過去の記憶は、今朝暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまで遡ると、そこで行き詰まってしまった。……私は他人が何と思おうとも、どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉一郎と認めることができなかった。

……私は深いため息を一つついた。それと同時に、全身の意識が徐々に私の周りに戻ってきた。心臓と肺の波動が静まり始め、椅子に腰を下ろした瞬間、両脇から冷汗がタラタラと滴り落ちた。

すると、その瞬間、澄ました顔をしていた正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。

「どうだい。自分の過去を思い出したかい?」

私は無言のまま頭を左右に振った。そしてポケットから新しいハンカチを取り出して顔の汗を拭いているうちに、少し気が落ち着いてきたように思った。……しかし、それにしても訳のわからないことがあまりにも多すぎて、身動きするのさえ恐ろしくなり、椅子の中でじっとしていた。……すると、間もなく正木博士が大きな咳払いを一つしたので、私はまた驚いて飛び上がりそうになった。

「……エヘン……思い出さなければもう一度言って聞かせるが、いいかい……気を落ち着けてよく聞きたまえ。君は現在、一つのトリックに引っかけられているのだよ。つまり……私の同輩、若林鏡太郎博士は、君自身を呉一郎と認めさせて、確信を持たせた上で、私に面会させようとしているのだ。そして、私をこの世に二人といない極悪無道の人非人として君に指摘させようとしているのだよ。」

「えっ。あなたを……?」

「うん。まあ聞け。君がよく気を落ち着けて、今朝から起こった出来事をもう一度はっきりと考え合わせれば、万事が何の苦もなく解決するのだ。……いいかい?」

正木博士は改めて真面目な表情で、落ち着いた調子で咳を一つした。椅子に反り返り、濃い煙を次々に吹き上げながら、悠然と大暖炉の横にかかったカレンダーを振り返った。

「いいかい、改めて言っておくけど、今日は大正十五年の十月二十日だ。もう一度繰り返すよ。今日は大正十五年の十月二十日……この遺言書に書いてある通り、呉一郎が一ヶ月ぶりにこの解放治療場にふらりと現れ、鉢巻儀作爺の畑仕事を見物していた、十月十九日のその翌日なんだ。……その証拠に、あのカレンダーを見てごらん。……OCTOBER……19……つまり昨日の日付になっている。これは、私が昨日から忙しくて、その一枚を破るのを忘れていたからで、同時に私が昨日から徹夜してここにいたことを証明しているんだ……いいかい、分かったね。……それから、ついでに私の頭の上の電気時計を見てごらん。今は十時十三分だろう。そう、私のとぴったり合っている。つまり、私が今朝になってこの遺言書を書き終えたまま居眠りを始めてから、まだ五時間しか経っていないということになるんだ。……こうした事実と、その遺言書の最後のインクがまだ青々としている事実を合わせて考えれば、私がこうして元気でいるのも不思議ではないだろう。いいかい……この点をしっかりと頭に入れておかないと、後でまた大変な錯覚に陥るかもしれないからね。」

「……しかし……若林先生が先ほど……」

「いけない……」

正木博士の声が一際大きく響いた。彼の右手の拳が高く上がり、私の頭の中の迷いを一気に打ち消すように空間で躍った。……活気に満ちた……すべてを打ち消すようなエネルギーが溢れ出ていた。

「いけない。私の言うことを信じてくれ。若林の言うことを本当に信じてはいけない。若林はさっきからこの一点でただ一つの大失敗をしているんだ。彼は先ほどこの部屋に入るとすぐに、私がこの大暖炉の中で焼き捨てた原稿の焦げ臭い匂いに気づいたに違いない。それからこの遺言書をこの卓上で見つけると、すぐに一つのトリックを思いついて、その通りに君に説明したんだ。」

「……でも……けれども……今日は先生がお亡くなりになってから一ヶ月後の十一月二十日だと……」

「ちぇっ……仕方がないな。どうもそういう風に先入観に囚われてしまうと、こちらも手をこまねいてしまう……いいかい、よく聞いてくれ……こうなんだよ。」

正木博士は噛みしめるように言いながら、忌々しげに舌に粘りついた葉巻の屑を床に吐き捨てた。それから机の上に両肘をつき、呆然とした私の鼻先に、煙草の脂で黄色くなった右手の指を突きつけて、一語一語私の頭の中に押し込むように説明を続けた。

「いいかね。よく聞きなさい。間違わないようにね……今日は私の死後一ヶ月目だなんて、若林が言ったのは、君を騒がせないための小細工に過ぎないんだよ。いいかい……もし私がこの遺言書を書いたまま、どこかへ消えてから、まだ幾時間も経っていないということが君に分かれば、君はきっと私が自殺に出かけたと思ってハラハラするだろう。実際そうなったら、若林だってじっとしてはいられない。友人としての義務、また学部長としての責任から、何もかも投げ捨てて、私の行方を突き止め、自殺を止めなければならなくなるだろう。……ところがそうなると、若林は、自分の手一つで君の過去の記憶を呼び戻す唯一の機会を失うかもしれない……ね……そうだろう……君が過去の記憶を思い出すかどうかは、若林にとって生涯の一大事になるわけだからね。しかも今朝が絶好の機会なんだから……」

「……………」

「……だから若林は、私がどこからか耳を澄ましているのをちゃんと知りながら、今日はこの遺言書が書かれてから一ヶ月後の十一月二十日だなどと、法医学者にも似合わない出鱈目を言って、とにかく君を落ち着かせようとしたんだ。そうしてゆっくりとこの実験を遂げて、呉一郎としての君の記憶を回復させさえすれば、もう何もかもこちらのものだと考えたんだ。……君が若林の思惑通りに、呉一郎としての過去の記憶を回復しさえすれば、その次に、私を君の不倶戴天の親の仇、兼、妻の仇と認めさせるくらいのことは、説明の仕様で何の苦労もないことになるんだからね。……また、実際私はありがたいことに精神科学者だから、何も知らない呉一郎に催眠術でもかけて、親や妻を絞め殺させて、これだけの実験材料を用意するくらいのことはいつでもできる自信があるんだからね。この事件の嫌疑者にはぴったりの人物なんだ。ね。そうだろう。」

「……………」

「そして、もし万が一その実験がうまくいかなかったら……つまり、そんな書類を君に読ませても、君自身が何も思い出さなかったら、最後の手段を用意してくれるだろう……今度は君に気づかれないようにそっと姿を隠して、後からきっとここに出てくるであろう私と君を突き合わせて、私の顔を君が思い出すかどうか……そうして思い出したら、その印象によって君自身の過去の記憶が回復されるかどうかを試すんだ……そして万が一その試験がうまくいったら、究極的には、私の力で私を恐れ入らせてやろうという、実に巧妙で辛辣な計略を練ったわけだ。その辺の呼吸の鋭さというのは、実に彼奴一流の専売特許なんだよ。いいかい。」

「……………」

元々、彼はこうした策略に関しては独特の腕前を持っていた。どんなに身に覚えのない嫌疑をかけられても、彼の手にかかると、責め立てられるうちに頭が混乱し、考えがまとまらなくなってしまうのだ。最終的には、何が何だかわからなくなったり、逃れられないと観念してしまったり、あるいは慌てた挙句に「なるほど、確かにそうだ」と感心してしまったりして、知らぬ罪を引き受けることさえある。最近、アメリカで行われているような雑な取り調べなど、彼の手法に比べれば屁の河童だ。彼は第一級から百級まで、ありとあらゆる裏表を使い分けてくるから、たまったものではない。

今もそうだ。仮に私が彼の思惑通りに斎藤先生を殺し、その後釜に座って、こんな実験を試みて失敗し、自殺を考えるような人間になったとしよう。その私がどこかで耳を澄ませている前で、徐々に私がそんな大悪人として認められていく様子を見せられ、君自身が私の敵である呉一郎だと認識させられるように、合理的に話が進んでいく。さらに、その私の生涯を賭けた事業の成果が、何もできないまま奪われていくのを見たり聞いたりしなければならない状態に陥ったとしたら、私にとってこれ以上の拷問はないだろう。黙って自殺するか、飛び出して白状するか、二つに一つの道しかないのではないか……彼のやり口は、要するにこんな具合だからたまらないのだ。どんな難事件でも、一度彼の手にかかると、必ずどこからか犯人を引きずり出してくる。そのために彼が『迷宮破り』と新聞に称賛されている裏には、こうした事情が隠れているのだ。

「……」

「ところが、今回はそうはいかないらしい。今朝から連続して試みてきた彼の実験が、すべて見込み外れになってしまって、君自身に何の反応も示さなかったばかりか、彼の得意な取り調べのトリックが、こんな風に上手くいかない様子を見ると、そんなに恐れることもないようだね。さすがの法医学者も、相手が私だということで緊張しすぎたのか、今朝から少し慌てているようだ。もしかすると、これが彼の『空前絶後の失敗』かもしれないがね。ハッハッ……」

「でも……でも……でも……」

「まだ『でも』が残っているのかい……その『でも』は何だい……」

「……でも……その実験は先生がなさるのが当たり前……」

「そうさ。もちろん、君の過去を思い出させる実験は私がやるのが当然だ。だから彼はこんなトリックを使って、この実験の結果を独り占めにしようとしたんだ……彼はできる限り私を見殺しにしようとしたのだよ。」

「えっ……そんな無茶なことが……」

「ちゃんと実行されているから面白いだろう。第一、私がその手に引っかからずに、こうして生き延びてここに出てきて喋っていることが何よりの証拠じゃないか。」

正木博士はこう言い終えると、憎々しい冷笑を浮かべた。回転椅子に反り返り、傲然と腕を組んで、葉巻の煙を高々と吹き上げながら嘯いた。まるで若林博士がどこかで耳を澄まして聞いているのを予期しているかのように。

その様子を見て、私の心臓は新たな恐怖に打たれ、縮み上がってしまった。何という物凄い両博士の闘いだろう。何という深刻で執拗な知恵比べだろう。今まで、そんな恐ろしい争いの中に自分がいることを夢にも知らなかった私は、今までの苦しさや切なさ、恐ろしさや狂気が、すべてこの二人の博士の悪魔のようなトリックの引っかけ合いによって引きずり回されてきたことに、初めて気が付いた。もう悲鳴を上げて逃げ出したい衝動に駆られ、今にも立ち上がりそうになった。

しかし、この時の私は、どういうわけか一寸も椅子から離れることができなかった。額に滲み出る汗をハンカチで拭いながら、再び腰を落ち着けてため息をついた。そして、正木博士の顔を一心に凝視し、その黒ずんだ気味の悪い唇が動き出すのを、生命を賭けた気持ちで待っているような心理状態に陥ってしまった。おそらく、この二人の博士が全力を尽くして奪い合っている、怪奇を極めた精神科学の実験そのものの魅力に、私の魂がすっかり吸い寄せられていたのだろう。その話の底に流れる形容しがたい真実性が、私の心臓を掴み、言い知れぬ好奇心の血を波打たせているのかもしれない。そんなことを考えながら茫然として、眼の前の空間を凝視していると、再び咳を一つした正木博士の声が、新しく、活き活きと響いてきた。

「ハハハハハハ……どうだい、もうわかったかい?錯覚の原因が……そう、わかった。けれど、まだ少し理解できていない部分があるだろう。そう、あるんだ……なかなか頭がいいね。まず、君自身がどこの何という青年で、どんな因果関係でこの事件に巻き込まれたのか、君には全く理解できていないはずだからね。ハッハッハッ……でも心配しないで。これから話すことを聞いていれば、すべての疑問が櫛の歯で梳くようにスッキリ解決するから。

その話は、少し重複するかもしれないが、私の遺言書の続きになるもので、私と若林の過去の秘密から始まり、徐々に呉一郎の心理遺伝の内容に入っていく。そして最後には、君自身が何者であるのかがやっとわかる段取りになるんだ。もちろん、その途中で君自身が自分の身の上に気づくことがあれば、それは仕方がない。話がそれで終わるわけではないが、その時はその時として、まずはそれまでのお楽しみとして聞いていてくれ。

ただ、もう一度念を押しておくが、これ以上錯覚を起こしたりしてはいけないよ。私が幽霊だとか、私が死んでから一ヶ月目だとか、そんなふうに思い込まれると困る。ハッハッハッ、いいかい?これからの話を聞いてそんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しがつかなくなるかもしれないからね。いいかい……本当に大丈夫かい?……うん、よしよし。それじゃ、安心して話を進めるよ……」