ドグラ・マグラ (25/47)
von 夢野久作
母は試験の結果が良くても、あまり嬉しそうな顔をしませんでした。これはずっと前からのことでした。母は、私が勉強をして成績が上がることには何も言わなかったのですが、成績が発表されたり、私の名前が新聞や雑誌に載ることは心から嫌がっていたようです。私もその気持ちは理解していたので、学校の規則で成績を掲示しなければならない時には、母がわざわざ私を連れて行き、「なるべく目立たない隅の方に出してください」と先生に頼みに行ったこともありました。先生は「なかなか奥ゆかしい方ですね」と母を褒めていましたが、母は本気で嫌がっていたようでした。
高等学校に進む際も、私の名前が福岡の新聞に載ることを心配していた母に、「それなら、東北かどこか遠い私立の専門学校を受けて、そこに引っ越したらどうですか。そうすれば福岡の新聞には載らないかもしれませんよ」と提案しました。すると、母はしばらく考えた後に、「お前はどうしても大学に入らなければならないし、これだけの塾生を見捨てるのも惜しいから」と言って、結局福岡を受けることに決めました。しかし、それでも「福岡には不良少年や不良少女がたくさんいるから、無闇に寄宿舎から出てはいけない」とか、「知らない人から話しかけられても、無闇に口を利いてはいけない」と、いろいろと注意をしていました。今考えると、あの狸穴の先生が言ったことは的を射ていたのかもしれません。母は何か人に狙われるような不安を抱えていたために、自分たちの居場所をできるだけ隠そうとして、いろいろと気を揉んでいたのだと思います。
学校にいる間は寄宿舎に住んでいましたが、土曜の晩から日曜にかけては必ず直方に帰ってきました。休暇の間もずっと家にいて、毎朝少し早く起きて母の手伝いをしたりしていましたが、その代わり夜は九時か十時頃には寝ていました。母は非常に気の強い女性で、人気の悪い直方に住んでいながら、私がいない時は一人でこの部屋に寝ていました。「朝は八時半頃から生徒が来るし、夜は十一時頃まで休む間もないから、全然寂しいとは思わない。勉強が忙しい時は無理に帰ってこなくてもいいよ」とよく言っていました。
最近になっても特に変わったことはありませんでした。ただ、去年の夏、母が刺繍材料の包み紙になってきたアメリカの新聞を持ってきて、「これは何という人か」と尋ねてきました。記事を読んでみると、ロンチェニーという活動俳優が扮した道化役だとわかりました。母はつまらなさそうに「ふん、そうかい」と言って降りて行きました。その時、私は父があんな顔をした人間で外国にいるのだなと思い、その写真は細かいところまでよく覚えています。ちょっと見ると大きなお蚕様のような顔でしたので、私はそっと下に降りて、六畳の部屋に置いてある母の鏡台の前に行って、自分の顔を覗いてみましたが、全然似ていませんでした。
あの晩も特に変わったことはありませんでした。私はいつものように九時頃に寝てしまいましたが、母が休んだのは何時頃だったか覚えていません。いつも通りなら十一時頃に寝たのでしょう。
その後、これは警察には言いませんでしたが、あの晩、私は夜中に目を覚ましたのです。こんなことは今まで滅多にありませんでしたので、話して疑われると面倒だと思い、何だかわかりませんが、ゴトンと大きな音がしたように思いました。ふと目を覚ますと、真っ暗で何もわからないので、寝しなに枕元に近づけておいた電気を捻って、読みかけの本の下にある腕時計を見ました。すると、一時に五分過ぎていました。
それからお小用に行こうと思って起き上がりかけに、こちらを向いてスヤスヤ眠っている母の顔を何の気もなく見ました。口を少し開いて、頬が真っ赤で、額が陶器のように真っ白で透き通っていて、不思議なくらい若く見えました。ちょうど家に来る大きな生徒くらいにしか見えませんでした。それから下に降りて用を足し、六畳と八畳の電灯をつけてみましたが、何も変わったことはありません。最初のゴトンという音は何だったのかと考えてみましたが、もしかしたら私の思い違いかもしれないと思い、再び二階に上がって母の顔を見ました。すると、もう向こうを向いて布団に潜っていて、櫛巻きの頭だけしか見えませんでした。私はそれからすぐに電灯を消して寝ましたが、母の顔はそれっきり見ませんでした。
その後、警察署で先生にお話ししたように、変な夢ばかり見ていました。私は夢なんか滅多に見たことがないのに、あの晩は本当に不思議でした。人を殺すような夢は見なかったと思いますが、汽車が線路から外れてうなりながら私を追いかけてきたり、巨大な黒い牛が紫色の長い舌を出してギョロギョロと私を睨んだり、青い空の真ん中で太陽が真っ黒な煤煙を噴き出して転げ回ったり、富士山の頂が二つに裂けて真っ赤な血が洪水のように流れ出して私の方へ大浪を打ってきたりして、とても恐ろしくてたまりませんでした。しかし、なぜか足が動かなくなり、いくら逃げようとしても逃げられないのです。その中に家主さんの養鶏所から鶏の鳴き声が二三度聞こえたように思いましたが、それでも、そんな恐ろしい夢が次から次へと鮮明に浮かんできて、どうしても目が覚めることができませんでした。ですから、一所懸命になって苦しがってもがいているうちに、やっとの思いで目を開けることができました。
その時、窓の格子が明るくなっているのを見て、僕はほっと安心しました。起き上がろうとした瞬間、頭がズキズキと痛み、口の中が妙な臭いがして、胸がムカムカしてきました。これはきっと病気になったに違いないと思い、再び寝てしまいました。少しのつもりだったのに、今度は夢も見ずに、汗をびっしょりかいて、ぐっすりと眠り込んでしまったようです。
しばらくすると、誰かが不意に僕を引きずり起こし、右手をしっかりと押さえつけて、どこかへ連れて行こうとしました。寝ぼけたまま、夢を見ているのかと思い、振りほどいて逃げようとすると、もう一人が現れて、今度は左手を押さえて、ズンズンと梯子段の方へ引っぱって行きました。その時、やっと気がついて振り返ると、背広を着た男と、サーベルを持った巡査が母の枕元で何かを調べているのが見えました。
それを見て、僕は母が何か重い病気にかかってしまったのだろうと思いました。そして、僕も同じ病気にかかっているから、こんなに体調が悪いのだと、半分夢うつつの状態で二人の男に引っぱられて行きました。その時の苦しさは今でも忘れられません。身体中が溶けるようにだるく、骨が抜け落ちそうで、段を一つ降りるごとに目の前が真っ暗になり、頭の中が水のように揺れて痛みました。立ち止まって我慢しようとすると、下から急に片手に引っぱられ、思い切って転がるように段を降りて行きました。その途中で顔を上げると、階段の手すりから、母の色の褪せた帯が輪になってぶら下がっているのが目に入りました。
しかし、その時はそれがなぜそうなっているのか考える余裕もありませんでした。再び引っぱられ、男からひどく小突かれて目が眩みそうになりながら、勝手口に来ました。母が普段履いていた赤い鼻緒の下駄を履いて横道に出ると、もしかしたら母はもう死んでいるのではないかと思い、ハッとして立ち止まりました。左右を見ると、両手を押さえている男は、顔だけ知っている直方署の刑事と巡査で、怖い顔をして僕を睨みつけながら、ぐいぐいと両手を引っぱって行きました。何も尋ねることはできませんでした。
外は眩しいほど日が照っていて、家の前には大勢の人が集まっていました。僕が出て行くと、一斉にこちらを見ました。近くにいる人たちは逃げ退いていきましたが、彼らの黄色く光る顔を見ると、また目が回って倒れそうになりました。それと同時に、頭の中がシンと痛くなり、吐き気がしてきました。額を押さえようとしましたが、両手を押さえられているので何もできませんでした。その時、母は病気ではなく、殺されるかどうかして自分に疑いをかけられているのだと気づきました。そのまま優しく引かれて行きました。
その時、僕はきっと頭がどうかなっていたのでしょう。全く悲しくも恐ろしくもありませんでした。しかし、身体中が汗だくで、背中や腰の周りがびしょびしょになった白い浴衣の寝巻き一枚しか着ていなかったので、たまらなく寒気がしました。さらに、頭上から照りかかる太陽の光が、妙に黄臭く、息苦しいように感じ、気が遠くなりかけました。口の中が腥くて吐きそうになりながら、時々目を開けてキラキラ光る地面を見つめ、唾を吐きながら歩きました。そうしたら、やっぱり医者のところではなく、警察の方へ曲がって行きました。急に胸がドキドキしましたが、警察の入口の段を上ると、またすっかり落ち着いてしまいました。まるで自分のことを書いた探偵小説を読んでいるような、夢見ているような気持ちになり、汚れた床板を見つめていると、不意に背後で大きな声が聞こえました。驚いて振り向くと、それは僕を連れて来た刑事が怒鳴っていて、後からついて来た大勢の人が警察の中に入ろうとするのを叱っていました。その中には知っている顔もあったように思いますが、誰だったかはっきりとは覚えていません。
その後、奥の方にある狭い部屋で、木製のバンコに腰かけさせられ、巡査部長や刑事からいろいろなことを訊かれました。しかし、頭が割れるように痛んでいたので、どんな返事をしたかはすっかり忘れてしまいました。「嘘だろう、嘘だろう」と何度も言われたので、「嘘じゃない、嘘じゃない」と言い張ったことだけは覚えています。
すると、間もなくこの直方の町中で知らない人はいない「鰐警部」と呼ばれる谷警部が入ってきて、いきなり「お前の母親は殺されたんだぞ」と言いました。その瞬間、胸がいっぱいになり、どんなに我慢しても声を立てて泣かずにはいられない気持ちになりましたが、一生懸命に我慢して涙を拭いていました。しばらく黙っていた谷警部は、「お前が知らないはずはない」と言って、僕の前にある汚い木の机の上に何かを投げ出しました。それは母がいつも寝床の上に置いて寝る普段着の帯締めで、紫色の打紐に鉄の茄子が付いていました。どうやらとても古いもので、母が故郷を出る時から締めていたものだそうですが、それがどうしたのかはよくわかりませんでした。俯いていると、「お前はこれで母親を締め殺したんだろう」と谷警部が雷のような声で怒鳴りました。あまりにも非道い言葉に僕はカッとなり、思わず立ち上がって谷警部を睨みつけましたが、その時また頭が割れるように痛み、吐き気がしてきました。机の上に両手をついて、身体をブルブル震わせながら我慢していましたが、悔しくて悔しくて涙がポロポロと出てくるのを、どうしても止めることができませんでした。
谷警部は、僕にいろいろと責め立ててきました。彼はこの辺りの炭鉱の悪党たちが「鬼」や「鰐」と恐れている存在だそうですが、僕には何の感情も湧きませんでした。ただ黙って彼の話を聞いていると、今朝の八時半頃、いつものように塾生が二、三人お稽古に来たのですが、いつもとは違って裏の戸が閉まっているのに気づきました。そこで裏の家主さんに知らせると、家主のおじいさんが勝手口の戸の隙間から大声で呼んでみましたが、誰も起きませんでした。そのうち、勝手口の方へ降りる階段の昇り口に白い足が二本ブラ下がっているのが薄明るい中で見えたので、おじいさんは真っ青になり、警察に駆け込んできました。
警察が来て調べると、勝手口の突っかい棒が落ちているのがまず見つかりました。それから二階に上がろうとすると、母が寝巻き一つのまま階段の上の手摺に細帯を結んで、首を引っかけて手足を垂らしているのが発見されました。僕はそんなことを知らないかのように、床から半分脱け出して大の字になってグーグー寝ていました。しかし、母の遺体を調べると、首の周囲の傷跡は細帯と一致せず、寝床も乱れていることから、明らかに絞殺した後に首を縊ったように見せかけたのだと分かりました。また、家の中には何も盗まれた様子もなく、外から誰かが入ってきた形跡もないため、僕以外に怪しい者はいないということになりました。
さらに続けて、谷警部は言いました。「お前の母は寝床の中で絞殺される際に相当苦しんでいたようだ。その絞めた跡が二重にも三重にもなっている。横に寝ていたお前が目を覚まさなかったはずがない。第一、お前は普段と違って三時間以上も余計に寝ていたのはどういうことだ。絞め殺しておいてごまかすつもりで寝ていたのかもしれない。お前には他に好いている女がいるのか?それとも塾生の中に好いている娘がいて、そのことで母親と喧嘩したのではないか。母親にお金を強請ったことはないか。毎月いくら小遣いをもらっているのか。一体、あれは本当の母親なのか?情婦を親に見せかけていたのではないか。すべて白状しろ……」と、次々と飛び抜けたことを言い始めました。
その言葉を聞いているうちに、頭が痺れたようになり、果たして人間は自分でも知らないうちに人を殺すことが本当にあるのだろうかと考えました。もしかしたら、夢うつつの中で母親を殺して忘れてしまったのではないかとぼんやり思いながら俯いていると、「それならここで考えていろ」と留置場に入れられました。
その日と、その晩は何も食べずに眠ったり目を覚ましたりして過ごしました。翌朝のご飯も頭が痛くてそのままにしていましたが、あまりにお腹が空いてきたので、お昼のご飯をいただくと、とても美味しくて頭の痛みがすっかり癒されました。夕方になると、母にそっくりな女性が面会に来て驚きましたが、それは伯母でした。生まれて初めて会ったのです。その時、伯母も先生と同じことを言いました。「何か夢を見ていなかったか」と……。しかし、その時はどうしても思い出せなかったので、何も知らないと答えました。麻酔剤を嗅がされていたことなど、全く知らなかったのです。
翌日、先生が訪れ、中学時代の担任の鴨打先生も会いに来てくださいました。そのまた翌日には裁判所からも人が来て、親切にいろんなことを聞いてくれたので、何だか許されそうな気がしました。母がどんなになっているのか見に行きたくてたまりませんでしたが、一昨日帰ってみると、母の遺体はもう火葬にされていて、がっかりしました。家には母の写真が一枚もないので、彼女の顔を見ることができません。しかし、明日は伯母が僕を姪の浜の自宅に連れて行ってくれると言いますし、モヨ子という従妹もいるそうなので、それほど寂しくはないだろうと思います。
僕が一番好きなのは語学ですが、その中でも特に面白いのは外国の小説を読むことです。特にポーやスティーブンソン、ホーソンが好きです。みんな古いと言いますが……大学に入ったら精神病を研究してみようかとも考えています。本当は文科に進んで各国の言葉を学び、母と一緒に父の行方を探しに行きたいと思っていましたが、母が父については少ししか話さずに亡くなってしまったので、がっかりしています。それ以外には、今のところ何になろうとも考えていません。国語や漢文も嫌いではありませんが、中学を卒業した後はわざわざ勉強しようとは思いませんでした。次に好きなのは歴史と博物ですが、つまらないと思ったのは地理と物理、数学です。一番苦手なのは唱歌ですが、それでも聴くのは大好きです。良い西洋音楽のレコードを聴くと、名画を見ているような気持ちになります。民謡も、母が機嫌がいいときに塾生と一緒に歌っていたので、良いなあと思って聞いていました(赤面)。
僕は今まで病気になったことは一度もありません。母も寝込んだことはないようです。
これから、警察に訪ねてきてくださった鴨打先生のところへお礼に行きます。
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同じ場所、同じ時刻において、呉一郎が外出した後――
本当に何もかも夢のようです。一郎は私の妹の子に違いありません。目鼻立ちが母親に生き写しで、声までが私たちの父親にそっくりです。
ずっと昔のことはよく覚えていませんが、私の家は代々姪の浜で農業を営んでいました。私たち姉妹は、母と早くに別れました。父も私が十九歳の正月に亡くなり、家族は私と妹の千世子の二人だけになってしまいました。
その年の暮れ、私は亡き夫の源吉を迎えましたが、妹は「東京へ行って絵と刺繍の勉強をし、生涯独身で過ごすから、構わないでほしい」と書いた手紙を残して家を出て行きました。それが明治四十年の新年頃のことでした。その後、福岡で妹を見かけたという人もいましたが、はっきりしたことは分かりませんでした。妹は本当に絵と刺繍が好きだったのでしょう。一郎が言うように、彼女は人並み外れた勝気な娘で、十七歳の時には県立の女学校をトップで卒業しました。何かに取り組むと夢中になる性質で、夜通し寝ずに小説を読んだり、絵を描いたりすることがよくありました。特に刺繍は小学校の頃から好きで、夕方になると縁側に出て、お寺の襖の絵を写しては木綿の糸で縫っていました。私が夫を迎えたのを見て、彼女はその方面の勉強をしに行ったのだと思います。今思えば、その時が生涯のお別れでした。
妹は田んぼや畑の仕事を嫌っていたので、よく留守番をさせていましたが、私の家は町の近くにあり、出入りも多かったため、特に変わったことをして出て行ったとは思えません。
その後、妹からの便りは、明治四十年の暮れに東京近くの駒沢村で一郎という男の子が生まれたという役場からの知らせだけでした。その時もすぐに警察に頼んで捜索してもらいましたが、届出のあった住所はずっと前から貸家になっていたそうです。さらに、私が出していた手紙も戻ってきてしまい、力を落としてしまいました。一郎が小学校に入学した時の戸籍の書類がどうやって手に入ったのか、全く分からないまま、音沙汰がなくなってしまいました。そして、私が二十三歳の正月に夫と別れた後、すぐに今いるモヨ子という娘を一人産みました。それからは、娘と二人きりで暮らしていました。
今回の件を新聞で見た時は、夢のように駆けつけました。いろいろ調べてもらいましたが、今のところお答えできることはこれだけです。
初めて一郎を見た時、思わず涙が出ました。その時に夢のことを尋ねたのは、私のところにいる若い者が読んでいた活動の話に夢遊病について書かれていたからです。何か西洋のことらしく、私たちにはよく分からないのですが、夢遊病にかかってしたことなら罪にならないから、これから夢遊病の真似をして悪いことをしようかと若者が言って笑っていました。そのことを思い出し、もしやと思って尋ねてみたのです。女の癖に差し出がましいとは思いましたが、助けたい一心でしたので(赤面)。おかげ様で、一郎が元の潔白な身体に戻るだけでなく、妹にも長い間不品行なことがなかったことが、亡骸を調べて分かったとのことでした。これがせめてもの心遣いです。ですから、私はここで立派に法事を営み、世話になった皆様に世間並の挨拶をして立ちたいと思っています。
昨日、東京の近江屋の主人からお香典に添えて手紙が届きました。「宮内省のお役人から、装束の修繕を頼まれて妹の行方を探していたところ、警察から人が来たので初めて知って驚いた」と書かれていました。その手紙の様子から、妹がいろいろと身の上話をお聞かせした奥様は、もう亡くなっているようです。妹もせめてもう少し生きていたら、良い目にあったかもしれませんが……何の恨みか分かりませんが、このような酷いことをした者が捕まったら、八つ裂きにしてやりたいくらいです(涙)。
私の家には今、遠い親類しかいませんので、親身になってくれるのは娘と私の二人だけです。一郎は私の子供として、私の力を尽くして立派な人間に育て上げたいと思っていますが……父も無く、位牌を頼りに暮らすことを思うと……(涙)。
◆第三参考 松村マツ子女史(福岡市外水茶屋、翠糸女塾主)談
▼同年同月四日 玄洋新報社朝刊切抜抜萃再録
その刺繍が上手なお嬢さんが、この翠糸女塾に通っていたのは、もう二昔前の日露戦争頃のことです。私が三十代の時ですから、詳しいことは分かりませんが、確かに通っていました。その頃、彼女は十七か八歳くらいでした。少し目立たない感じでしたが、小柄でキリリとした美しい娘で、名前は虹野ミギワさんと言いました。間違いありません。珍しい名前なのでよく覚えています。また、今お話しになった「縫い潰し」という刺繍ができる人は虹野さん以外には見たことがありません。