ドグラ・マグラ (17/47)
von 夢野久作
細胞というものは、私たちの身体の中に存在する、何十兆分の一という微小な粒子です。普通の顕微鏡では捉えきれないほどの小さな存在ですから、その複雑さや能力についても、私たち全体の能力の何十兆分の一程度だろうと、多くの科学者たちは考えてきました。つまり、細胞は極めて単純で無力なものだというのが、これまでの常識だったのです。そのため、細胞の不思議な生活や繁殖、遺伝の能力が次々と発見され、科学者たちを驚かせてきたものの、研究は依然として顕微鏡や化学的な分析の範囲に限られ、細胞の本質についての理解は進んでいませんでした。そうした研究は、唯物科学を冒涜するものとさえ見なされていたのです。
しかし、これは現代の唯物科学に囚われた学者たちが、細胞の内容や能力をその形や大きさから推測し、「おそらくこれくらいだろう」と考えた結果、非常に不合理な先入観に基づく誤解です。生命の神秘や夢の不可思議さが科学界の大きな謎として残っているのは、こうした狭い視野からの研究に起因しています。もっと自由な視点で宇宙全体を観察し、この問題を実際の現象に照らし合わせて考えると、細胞の中には顕微鏡や化学実験室で測定できる以上に偉大で深遠な内容が含まれていることに気づくべきです。唯物科学的な研究方法に固執する人々は、否定しようとしても否定できない事実に直面しなければならないのです。
まず第一に挙げなければならないのは、細胞が人間を作り上げる能力です。母胎に宿った唯一の細胞は、分裂し成長しながら、先祖の進化の跡を辿っていきます。魚、蜥蜴、猿、人間という順序を間違えることなく、自分自身を形成していくのです。しかも、両親の美点や長所を組み合わせて、少しでも進化した存在を目指します。耳や目、鼻、口の位置は万人共通でありながら、個々の特徴が微妙に組み合わさっていくのです。細胞一つ一つの記憶力や判断力、向上心、良心、さらには芸術的な感受性など、その深さは計り知れません。
さらに、人間という細胞の大集団は、宇宙のあらゆる現象に接し、それを理解し、共鳴し合いながら、国家や社会といった大きな集団を形成し、人類文化を築いていきます。その創造力の広がりはどれほどのものでしょうか。こうした全知全能とも言える力は、最初の一粒の細胞の霊的な力の現れであると考えられます。現代人類の広大な文化も、結局はこの微細な細胞の中に含まれる霊的な力が地球上に反映されたものに他なりません。
このように、偉大な内容を持つ細胞の集団が、脳を通じてその霊的な力を統一したものが人間です。だからこそ、人間が表現する知識や感情、意志は、細胞一つ一つのそれよりも遥かに素晴らしいものであるはずですが、実際にはその逆の現象が起きています。歴史上の賢人や偉人でさえ、細胞の持つ霊的な力の前では無力であり、太陽の前の星のようにひれ伏さざるを得ないのです。つまり、人間の形に統一された細胞の集団の能力は、細胞一つ一つの力の何十兆分の一にも満たないという驚くべき現象が存在します。これは、細胞の霊的な力を統一する脳の進化がまだ十分ではないため、細胞の力が十分に発揮されていないからだと考えられます。
同時に、地上に最初に現れた生命の種である単細胞が、初めての瞬間に持っていた無限の霊的な力が、様々な過程を経て、最も有能な人間に進化してきたことを考えると、今もなお進化の途中にある未完成の生物が現在の人間であるために、こうした矛盾や不都合な現象が現れているのかもしれません。このことは非常に重要な研究課題であり、一朝一夕に解決できるものではないため、ここでは一言だけ触れておきます。
そして、人間の肉体や精神と細胞の霊的な力との関係が明らかになった以上、「夢」というものの本質についての説明も、非常に容易になってくるのです。
すべての細胞は、それぞれが私たち一人ひとりの生命と同じか、それ以上の意識を持つ存在です。だからこそ、細胞は何らかの仕事をしている限り、栄養を吸収し、成長し、分裂し、増殖し、疲れ、老いていき、最終的には分解され消えていくことが、現代医学によって証明されています。そして、その細胞一つ一つが、働きながら感じる苦しみや喜びを、私たちと同じように、あるいはそれ以上に意識しているのです。まるで一つの国家が興亡する過程で、無数の芸術作品を生み出していくように。
この事実を端的に示しているのが、私たちが見る夢です。
夢とは、全身が眠っている間に、体内の一部の細胞が刺激を受けて目を覚まし、活動している状態です。その目覚めた細胞の意識が脳に反映され、私たちはそれを「夢」と呼んでいます。
例えば、誰かが消化不良のまま眠りに落ちると、胃の細胞だけが目を覚まし、懸命に働いています。「ああ、苦しい。どうなってしまうのか。どうして私たちだけがこんな目に遭うのか」と不満を抱えながら。その胃の細胞の苦しみや不満が、脳に反映され、夢の中で主人公が無実なのに刑務所に入れられ、重い鎖に繋がれ、過酷な労働を強いられている様子が描かれます。あるいは、不可抗力の地震で家が崩れ、もがき苦しんでいる姿が浮かぶのです。やがて消化の仕事が楽になってくると、夢の中の気持ちも変わり、山の頂上で日の出を拝んだり、スキーで素晴らしい斜面を滑り降りたりするようになります。
また、寝る前に「彼女に会いたいな」と思って目を閉じると、その思いだけが残り、彼女に会いたくてたまらない気持ちが夢に表れます。彼女の姿は美しい花や鳥、風景として象徴され、彼の前に微笑んでいますが、近づこうとすると様々な障害が立ちはだかります。太古の天変地異が突然現れ、祖先が住んでいた高山や断崖が目の前に現れます。祖父が落ちぶれて乞食をしていた時の気持ちや、父が大川を泳ぎ渡った光景が思い出され、また猿になって山を越えたり、魚になって海に潜ったりしながら、ようやく彼女を手に入れることができたと思うと、最初の苦しい気持ちが消え、夢も終わりを迎えます。
また、寝小便をしたおかげで、太古の大洪水の夢を見ることもあります。鼻が詰まったおかげで、少年時代の溺れかけた苦しみを再び夢に描かせられることもあります。このように、手でも足でも、内臓でも、皮膚の一部でも、全身が眠っている間に何らかの刺激を受けて目を覚ます細胞は、その刺激に応じた夢を見ているのです。つまり、その時々の細胞の気持ちに合った場面や光景を、先祖代々から受け継いできた記憶や、自分自身の過去の記憶から引き出し、自由に組み合わせて描き出しているのです。
もしその気持ちが非常識や変態的なもので、それに合った材料が見当たらない場合には、想像の中で補填し、埋め合わせていきます。人体内の細胞が表現する恐怖や不安を、蚯蚓や蛇のようにうごめく道具で象徴したり、苦痛を表すために鮮血の滴る大木や炎の中に咲く花を描いたりするのは、神秘の正体を知らない人間が羽根の生えた天使を想像するのと同じです。
これは、私たちが目覚めている間の気分が周囲の状況によって変わるのとは正反対で、夢の中では気分が先に立って移り変わります。その気分に合った光景や場面が、気分の変化に応じて後から追いかけるように変わっていくため、どんなに突飛で辻褄の合わないものであっても、矛盾や不自然さを感じることはありません。むしろ、現実の印象よりも自然で、深刻で痛切な感覚を受けるのは当然のことです。
言い換えれば、夢とは、その夢の主人公である細胞だけが理解できる気分や感情を象徴する形象や物体の記憶、幻覚、連想の集まりを、理屈も筋もなく組み合わせて、気分の移り変わりを極めて鮮明に描き出す、細胞独特の芸術と言えるでしょう。
夢の正体は、細胞の発育や分裂、増殖に伴う、細胞自身の意識が脳に反映されることである。このことは既に説明した通りだが、次に夢の中で感じる時間と、実際の時間が一致しない理由を明らかにしよう。一般の人々は、時計や太陽によって示される時間を真実の時間と信じているため、大きな錯覚を抱き、科学的な判断に混乱を来している。この疑問を解消すれば、理解はすぐに得られるはずだ。
現代医学によれば、普通の人の平静な呼吸は約十八回、脈拍は七十回ほどであり、これを基準に一分間が定められている。その六十倍が一時間、さらにその二十四倍が一日、そして三百六十倍が一年と規定されている。また、その一年は地球が太陽を一周する時間に相当するため、信頼できる時計が示す時間は万人にとって同じ一時間となる。しかし、これはあくまで人工的な時間であり、真実の時間の本質とは異なる。実際に、同じ長さの人工の時間を個々が使うと、驚くほどの相違が現れるのだ。
例えば、同じ時計で計った一時間でも、面白い小説を読んでいる時の一時間と、停車場でぼんやりと汽車を待っている一時間では、感じる長さに驚くほどの違いがある。尺竹で計った一尺の長さが万人に同じように見えるわけではないのと同じだ。また、水に潜って息を詰めている一分間と、雑談をしている一分間を比べても、前者は耐えがたいほど長く感じるのに対し、後者は一瞬のように感じられる……これが真実でなければならない。
さらに一歩進んで、死者の存在を考えてみよう。もしその死者が、死後も無感覚の中で時間の流れを感じているとすれば、一秒も一億年も同じ長さに感じるはずだ。そう感じることが死後の真実の感覚であり、一秒の中に一億年が含まれていると同時に、宇宙の寿命の長さも一秒の中で感じることができるのだ。この無限の宇宙を流れる無限の時間の本質は、極端な錯覚の中にあり、無限の真実の中で静止し、また疾走しているものに他ならない。
真実の時間とは、通常考えられている人工の時間とは全く異なる。むしろ太陽や地球、その他の天体の運行や時計の針の動きとは無関係に、無量無辺の生命がそれぞれの感覚に対して、同時に無限の伸縮性を持って流れ続けているのだ。
次に、地上に存在する生命の長さを比較してみると、何百年も生きる植物や百年以上生きる大動物から、数分や数秒で生まれ死ぬ微生物まで、形が小さいものほど寿命が短い傾向がある。細胞も同様で、人体の各細胞の中で寿命が長いものと短いものを平均すると、人間全体の生命の長さに比べて、国家の寿命と個人の寿命ほどの違いがあると考えられる。しかし、これらの長い、または短い細胞の生命が、主観的に感じる一生の長さは同じであり、生まれてから死ぬまでの間が、人工の時間で一分間であろうが百年であろうが、関係ない。実際に感じる時間の長さは、どれも同じ一生の長さである。この道理を知らずに、朝生まれて夕方死ぬ赤ん坊の哀れさを、同じく朝生まれて日暮れに老死する虫の生命と比較して諦めようとするのは、馬鹿げた不自然で不合理な話だ。結局、融通の利かない人工の時間と、無限に伸縮自在な自然の時間を混同して考えることから起こる悲喜劇に過ぎない。
すべての自然、すべての生物は、こうして無限に伸縮自在な自然の時間を各自の好きな長さに占有し、その長さを一生の長さとして呼吸し、生長し、繁殖し、老死している。同様に、人体を作る細胞の寿命が、人工の時間で計ってどれほど短くとも、その持っている自然の時間は無限でなければならない。だから、その細胞が無限の記憶と時間を使って、大車輪で「夢」を描くとすれば、五十年や百年の出来事を一瞬、一秒の間に描き出すことは何の難しさもないのだ。中国の古い伝説として日本に伝わる「邯鄲夢枕物語」には、盧生が夢の中で五十年を過ごしたとあり、実際には粟飯を一炊きする間の出来事であると記されているが、これは何の不思議もないことだ。
以上のことから、一粒の細胞の霊的な力がいかに絶大無限であるか、特にその「細胞の記憶力」がいかに深く、無量であるかが理解できるだろう。人間の精神と肉体を同時に形成していく「細胞の記憶力」の大きな作用を認識することで、胎児をそうさせた理由、つまり「胎児の夢」の存在に関する疑問も大部分が解消されると信じている。
胎児は母の胎内にいて、外界の感覚から完全に遮断されているため、深い睡眠のような状態にある。その間、胎児の全身の細胞は活発に分裂し、繁殖し、進化しながら、「人間へ人間へ」と志し、先祖代々の記憶を繰り返し、当時の情景を次々に胎児の意識に反映させている。そして、胎児は母胎によって外界の刺激から完全に遮断され、非常に平穏に育まれているため、他のことを考える必要はない。ただ一心に「人間へ人間へ」という夢を守っていればよい。そのため、その夢の内容も極めて順調かつ正確に、細かく移り変わっていく。この点が、自由で奔放な成人の夢とは異なるところである。
胎児を創り出すものは、胎児自身の夢であると言える。そして、その夢を支配するのは「細胞の記憶力」だ。このため、すべての胎児が母体の中で繰り返す進化の道筋と、それにかかる時間が共通している。現在の人類が、ある共同の祖先から進化してきたため、細胞の記憶、つまり「胎児の夢」の長さが共通しているのだ。
また、数億年、あるいは数十億年にわたる「胎児の夢」が、わずか十ヶ月の間に見られるのも、前述の細胞の霊的な力を考えれば、決して不思議なことではない。進化の程度が低い動物の胎生の時間が比較的短いのは、その動物の進化の記憶が単純だからだ。したがって、原始以来何の進化も遂げていない下等微生物は、全く「胎児の夢」を持たない。祖先そのままの姿で、瞬時に分裂し繁殖していく理由も、ここで容易に理解できるはずだ。
このような事実、すなわち「細胞の記憶力」やその他の細胞の霊的な力が、いかに深刻で微妙なものであるか、そしてそれがすべての生物の子孫にどのように影響を与え、運命を支配しているかについては、数千年前からエジプトの一神教を起源とする様々な経典に説かれている。現在、世界各地に存在する宗教は、こうした科学的な考察を装飾し、未開の人々に教えた儀礼や方便の迷信化された残骸である。したがって、この「胎児の夢」の存在も、決して新しい学説ではないことを特に記しておく。
では、私たちの記憶に残っていない「胎児の夢」の内容を具体的に説明すると、どのようなものであろうか。これまで述べてきたことを考慮すれば、ある程度の推測は可能だが、参考までに筆者自身の推測を述べると、次のようなものでなければならないと思う。
人間の胎児が母の胎内で見る先祖代々の進化の夢の中で、最も多く見るのは悪夢であるに違いない。なぜなら、人間という動物は、今日の進化の過程で、牛のような力強さも、虎のような鋭い爪も、鳥の翼や魚の保護色、虫の毒、貝の殻といった自然の防御や攻撃の手段を一切持っていないからだ。他の動物と比べて、はるかに弱々しく、無害で、無毒で、特徴のない肉体を持ちながら、それをそのまま、あらゆる厳しい生存競争にさらし、恐ろしい天変地異と戦いながら、ついには今日のような高等な動物にまで進化してきた。その過程で、他の動物と比較にならないほどの生存競争の苦痛や、自然淘汰の迫害を経験してきたに違いない。その艱難辛苦の思い出は、計り知れないほどで、息をするのも難しいほどだったろう。
その中でも、自分の過去に属する同じ種の先祖たちの、何億年、何千万年にもわたる深刻な思い出を、一つ一つはっきりと夢に見ながら、それを事実と同じ長さに感じつつ、胎児はジリジリと成長していく。その苦労は、親たちがこの世で受けている短く浅い苦労とは比べ物にならないだろう。
一粒の細胞が、すべての生物の祖先である微生物として、子宮の内壁の一角に付着した。その瞬間、彼は何億年も前の無生代に、仲間の微生物たちと共に生暖かい水の中を浮遊している夢を見始めた。無限とも言える数の微生物たちは、透明な身体で大空の光を吸収し、反射し、時には七色の虹を放ったり、金銀の光を散らしたりしながら、自由に泳ぎ回っていた。
その瞬間、彼は生の喜びと美しさを感じていた。しかし、突然、水の中に起きた小さな変化が、耐え難い苦痛となって襲いかかってきた。仲間たちが次々と死んでいくのを目の当たりにし、彼も逃げようとしたが、全身を包む苦痛に縛られて動けなかった。その苦しみは耐え難く、やがて通り過ぎたと思った瞬間、元始の太陽が烈火のように迫り、蒼白い月の光が氷のように透過してきた。
風に吹き散らされ、雨に打たれ、想像を絶する恐怖と苦悩の中で、彼は生死を忘れ、翻弄され続けた。「どうか、もっと頑丈な姿になりたい。寒さにも熱さにも耐えられる身体になりたい」と、彼は必死に願った。その願いが通じたのか、細胞は次第に分裂し、やがて人間の先祖である魚の形に進化した。暑さ寒さをしのげる皮膚や鱗、泳ぎ回る鰭や尻尾、目や口、判断する神経が備わった姿は、驚くべき進歩だった。
「これなら申し分ない。俺のような気の利いた生物はいない」と、彼は波打際を散歩していた。しかし、突然、彼の身体の何千倍もある巨大な章魚が、天を覆うように手を広げて迫ってきた。「助けて!」と叫びながら、彼は海藻の森に逃げ込み、息を潜めた。やっと助かったと思い、頭を持ち上げようとすると、今度は前の章魚よりも何十倍も大きな海蠍の鋏が鼻先に迫ってきた。
「また一大事だ!」と身を翻して逃げようとすると、背中から雲のような三葉虫が覆いかかってきた。横からはイソギンチャクが毒槍を閃かせていた。命からがら逃げ出し、小石の下に潜り込むと、震えが止まらなかった。「こんな調子では、まだ安心して生きていられない」と思った。進化してきた仲間たちは、危険から身を守るために固い殻で自分を包んだり、岩の間から手足だけを出したりしているが、彼はそんなことをしてこの暗い水の中で耐えるのは嫌だった。
「早く陸に上がりたい。あの軽やかで明るい空気の中で、自由に跳ね回れる身体になりたい」と、彼は一生懸命に祈った。その願いが叶い、小さな三つ眼の蜥蜴のような姿になって、彼は陸の上に這い上がることができた。