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ドグラ・マグラ (16/47)

von 夢野久作

……さて、皆さん、驚きましたか?見ましたか?聞きましたか?感心しましたか?

私、アンポンタン・ポカンが一度『脳髄は物を考える場所ではない』と叫ぶと、木々はその緑を失い、花はその色を消してしまったのです。一切の唯物文化は根本から覆され、あらゆる精神病学は机上の空論に過ぎなくなってしまったのです。

……繰り返します。

人類は物を考える脳によって神を否定しました。大自然に逆らい、唯物文化を創り出しました。自然の心理から生まれた人情や道徳を排除し、個人主義の唯物宗を信じ込んでしまったのです。その結果、唯物文化は日々虚無化し、無中心化し、動物化し、自涜化し、神経衰弱化し、発狂し、自殺に至ったのです。

これはすべて『物を考える脳』のいたずらでした。『脳の幽霊』を信じる唯物宗の害毒でした。

しかし、今やこの迷信を清算しなければならない時が来ました。神を否定した人類は、今や『物を考える脳』を否定しなければならない局面に追い込まれています。唯物科学の不自然から唯心科学の自然に立ち返る素晴らしい時代が到来したのです。

だからこそ、私、アンポンタン・ポカンはこの通り、自分自身の『物を考える脳』を地面に叩きつけてみせたのです。

そして、ここで踏み潰してしまうのです。

……エイッ……ウ――ン……

×          ×          ×

……さて……。

アハハハハハ……どうだい、驚いたか。……見たか。聞いたか。感心したか。

これが私の言う、絶対科学探偵の事実小説なのだ。超脳髄式の青年名探偵、アンポンタン・ポカン博士が、自らの脳を追い回し、物の美しさを捉え、地面に叩きつけて、引導を渡すまでの経過報告だ。世界最高級の科学ロマンス「脳髄−脳髄」の高次方程式の分解公式なのだ。

だからこの小説のトリックの面白さが、本当にわかる頭を持っているなら……ほら……この間君に貸したあの「胎児の夢」という論文の恐ろしさがわかるだろう。その胎児が、母の胎内で見ている素晴らしい大悪夢を支配する原理がわかる。その驚くべき原理を実験している解放治療の内容や、そこに収容されているアンポンタン・ポカン博士の正体、そしてその戦慄すべき経歴が、手に取るように理解できるのだ。

さらに、もう一つおまけとして……「脳が物を考える」という従来の考え方を突き詰めていくと、「脳は物を考える場所ではない」という結論が生まれる……という事実がわかる。その「考える場所ではない」をさらに突き詰めていくと、結局また最初の「物を考える場所」に逆戻りしてしまうという、奇妙で不思議な吾輩独特の精神科学的な原則まで理解できるという……このことに気づいたなら、拍手をお願いしたい……。

……何だ、目が眩んできた……。

アハハハハハ……それは眩しいだろう。私の気焰を聞かされたら、大抵の奴はフラフラしてしまう……。

……な、なんだ。そうじゃない。葉巻に酔ったんだと?……

アッハッハッハッ……こいつは大笑いだ。

ワッハッハッハッハッハッハッ。 (文責:記者)

胎児の夢

――人間の胎児によって、他の動植物の胚胎をすべて代表させる。

――宗教、科学、芸術、その他、無限に広がる考証、引例、及び文献に関する注記、説明は省略、もしくは極めて大要に止める。

人間の胎児は、母の胎内にいる十ヶ月の間に一つの夢を見ている。

その夢は、胎児自身が主役となって演出する「万有進化の実況」とも言うべき、数億年、あるいは数百億年にわたる恐ろしい長尺の連続映画のようなものである。すなわち、その映画は、胎児自身の最古の祖先である元始の単細胞微生物の生活状態から始まり、次第にその主人公である単細胞が人間の姿、すなわち胎児自身の姿に進化していく過程を描いている。想像を超える長い年月にわたり、驚くべき天変地異や自然淘汰、生存競争から受けた災難や辛苦、艱難を、胎児自身の直接的な主観として描き出す、素晴らしい、想像を超越した怪奇映画である。……その中には、既に化石となっている有史以前の怪動植物や、そんな動植物を絶滅させた天変地異の壮大な光景が、実感をもって映し出されることは言うまでもない。続いて、その天変地異の中で生き残り、進化してきた元始人類から、現在の胎児の直接の両親に至るまでの代々の先祖たちが、深刻な生存競争や様々な欲望に駆られて犯してきた無数の罪業を、胎児自身の現実の行為として描き出す、驚愕と戦慄に満ちた大悪夢でなければならないことが、次に述べる「胎生学」と「夢」に関する二つの大きな不可思議現象を解決することによって、直接、間接に立証されるのである。

まず第一に、人間の胎児が母の胎内に宿ったとき、その最初に現れる形は、すべての生物の共同の祖先である元始動物と同様に、ただ一つの丸い細胞である。

その丸い細胞の一粒は、母胎に宿ると間もなく、左右の二粒に分裂増殖する。そしてそのまま密着し合って、やはり一つの生物となっている。

その左右の二個はやがてまた、各々上下の二個ずつに分裂、増殖する。そうしてやはり、その四個とも一つに密着し合って、母胎から栄養を摂りつつ、一つの生物の機能を営んでいる。

このようにして四個、八個、十六個、三十二個、六十四個……以上無数……という風に、倍数に分裂しては密着し合い、次第に大きくなりつつ、人類の最初の祖先である単細胞の微生物から、人間にまで進化してきた先祖代々の姿を、その進化してきた順序通りに、間違いなく母胎内で繰り返している。

まず魚の形になる。

次にはその魚の前後のひれを四足に変化させて、這い回る水陸両生類の姿に変わる。

次に、四足の獣が力強く駆け回る姿が描かれる。

そして、ついには尻尾を引っ込め、前足を持ち上げて手の形にし、後足で立ち上がって歩く人間の姿へと進化する。普通の胎児の姿にまで至り、オギャアと生まれるという流れになる。このような過程は、誰もがほぼ同じ時間をかけて行うのが常である。

これは胎生学において既に明らかにされている事実であり、誰一人として否定することはできない現象だ。しかし、それならば、なぜすべての胎児がこのように手間のかかる胎生の過程を母胎内で繰り返すのだろうか。なぜ、すぐに小さな人間の形になり、そのまま成長して生まれてこないのだろうか。また、最初の一粒の細胞がなぜ、万人が一致したかのように、寸分の違いもなくこの胎生の過程を繰り返すのだろうか。つまり、

「何が胎児をそうさせたのか」

という問題に直面すると、誰もが適切な解釈を下すことができない。現代の科学書を隅から隅まで探しても、この解釈だけは見つからない。ただ、不思議というほかに説明のしようがないことになっている。

次に、すべての胎児はこのようにして、自分の先祖が進化してきた姿を、その順序通りに間違いなく母の胎内で繰り返す。しかし、その経過時間は非常に短縮されているため、人間の先祖が何百万年、あるいは何千万年もかけて鰭を手足に、鱗を毛髪に変えてきた各時代の姿を、わずか数分や数秒のうちに繰り返して経過することさえある。これは既に説明のつかない不思議とされるが、さらに興味深いのは、その短縮された時間と実際の進化に要した時間の割合が、決して無茶なものではないらしいことだ。

つまり、人間の胎児はおおよそ十ヶ月間で、原始以来の先祖の進化の道程を繰り返すことになっているが、他の動物は進化の度合いが低いほど、その胎生に要する時間が短くなる。進化の度が最も低い、すなわち原始時代の姿のままの細菌やその他の単細胞動物は、ほとんど胎生の時間を持たず、そのままの姿で分裂して二つの新しい生物になっていくのが実際の事実である。これは一体、どうしてなのだろうか。進化の度が最も高い人間の胎児が、なぜ最も長い胎生の時間を要するのだろうか。換言すれば、

「何が胎児をそうさせるのか」

という問題に適切な解釈を加えようとすると、現代の科学知識では絶対に不可能であることがわかる。やはり、ただ不思議というほかに説明のしようがないのだ。

以上は胎児に関する不可思議な現象の実例だが、次に、こうして出来上がった人間の「肉体」を解剖学の観点から研究し観察してみると、また同じような不可思議な現象が数多く現れてくる。

人間の肉体を表面から観察すると、その進化の度が高いだけに、他の動物よりも遥かに高尚で優美にできていることが一目でわかる。その柔和で威厳を含んだ顔立ちから、綺麗な皮膚、美的に均整の取れた骨格や肉付きまで、まさに万物の霊長らしく見える。しかし、一度その肉体の表皮を剥がし、肉を引き離し、内臓を検査し、脳や五官の内容を解剖して細かく観察してみると、その各部分の構成は、下等動物から進化してきた先祖の生活器官の「お譲り」であることが明らかになる。一本の歯の形や一筋の毛髪の組織にまで、驚くべき長い年月にわたる自然淘汰や生存競争の歴史が刻まれており、その歴史を一つ一つ記念して、胎児の姿を繰り返し進化させて人間の姿に仕上げてきた存在の偉大で深刻な記憶作用が、完成した人間の細胞の隅々にまで明瞭に刻み込まれているのだ。

このような現象は進化論、遺伝学、解剖学などで如実に証明されている事柄だから、ここで詳細な説明は省くが、しかし、それは一体誰が記憶していて、そのような歴史を繰り返させたのか。

「何が胎児をそうさせたのか」

ということについては、まだ何一つ説明が与えられていない。やはり、ただ不思議というほかに説明できないことになっている。

さらに、それだけではない。

今一歩進んで人間の精神を観察すると、こうした事実がさらに深刻に立証されてくる。

人間の精神もまた、表面から観察すると、他の動物とは比べ物にならないほど段違いの美しさを示している。「人間は万物の霊長である」という自覚、あるいは「文化的プライド」と名付けられる、いわゆる「人間の皮」一枚で自己の精神生活を覆い隠し、常識や人格といった化粧を施して、超然とした態度を見せている。しかし、一旦その表皮、すなわち人間の皮を一枚剥ぎ取ってみると、その下から現れるのは、やはり人間の遠い祖先である微生物が、現在の人間にまで鍛え上げられてきた、驚くべき長い年月にわたる自然淘汰や生存競争の大迫害に対する警戒心、あるいは生存競争心理が、その時代の動物心理の姿としてそのまま遺伝されたものであることが、あまりにも明白に発見されるのだ。

まず、いわゆる文化人の表皮……博愛や仁慈、正義や人道、礼儀作法などで粉飾された人間の皮を一枚剥くと、その下からは野蛮人や原始人の生活心理が現れてくる。

無邪気な子どもが、この事実を最もよく証明している。まだ文化の表面を知らない子どもは、同じく文化の表面を知らない古代の民族の性格をあちこちで見せている。たとえば、棒切れを拾うと、戦争ごっこをしたくなるのは、部落や種族間の戦争行為によって生き延びてきた、いわゆる好戦的な原始人の性質が遺伝しているからだ。細胞の中に潜む野蛮な時代の本能的な記憶が、棒切れという武器に似たものの暗示によって刺激され、目覚めるのだ。

また、虫を見つけると、何の意味もなく追い回すのは、動くものを見れば何でも追いかけたくなる狩猟時代の心理の名残であり、虫を捕まえて手足を引きちぎり、羽を奪い、火であぶることで喜ぶのは、古代の民族が獲物や捕虜を処分し、弄び、侮辱して、勝利感や優越感を満たそうとした残忍性の記憶を再現しているのに他ならない。

さらに、赤ん坊を暗い場所に置くと泣き出すのは、火を持たない時代の原始人が猛獣や毒蛇に満ちた暗闇への恐怖を思い出すからであり、どこでも大小便を漏らすのは、昔、樹の根や草の中で寝ていた時代の習慣の再現である。これは現代の進んだ心理学の研究によっても説明されている。

次に、この野蛮人または原始人の皮を剥くと、その下には畜生、つまり獣の性格が溢れ出ていることがわかる。

たとえば、知らない男同士や女同士が初対面をすると、一応は人間らしい挨拶を交わすが、内心では妙に目を白くし合い、相手の周囲を嗅ぎまわる心理状態を示す。油断すると、相手の尻のあたりまで気を回し、微細な不快な点を見つけては、お互いに鼻をひそめたり、歯をむき出しにしたりする気持ちをほのめかす。うっかりすると吠え立て、噛みつく。町の辻で出会った犬や猫の心理と全く同じだ。

また、自分より弱いものを見つけると、ちょっといじめてみたくなるし、少し邪魔になる奴は殺してしまおうかと思う。誰もいなければ盗んでやろうか、他の小便を嗅いでおこうか、自分の遺物は埋めておこうか……こうした畜生のままの心理が、日常生活のあちこちに表れている。誰もが口にする「この畜生」や「この獣め」という罵倒の言葉も、これに他ならない。

次に、この獣の性質の下にある隔膜を切り開くと、今度はその下から虫の心理がうじゃうじゃと現れてくる。

たとえば、仲間を押しのけてでも高いところへ這い上がろうとする。誰にも見えないところを這い回って美味しいことをしようとする。うまくいくと、すぐに安全な穴に潜り込もうとする。栄養のあるものを見つけると、こっそり近づいて寄生しようと試みる。周囲を気にせず不愉快な姿や動作をして自分を守ろうとする。固い殻に隠れて寄せ付けまいとする。敵を見つけると、他の者を犠牲にしてでも自分だけ助かろうとする。いよいよとなると毒針を振り回し、墨汁を吹き、小便を放射し、悪臭を放つ。あるいは周囲の地物や自分より強い者の姿に化ける……こうした低級で卑怯な行動は、虫の本能がそのまま表れたものであり、俗諺にある弱虫や蛆虫、米喰虫、泣虫、血吸虫、雪隠虫、屁放虫、ゲジゲジ野郎、ボーフラ野郎などの言葉は、こうした虫けら時代の心理が遺伝したものを指した軽蔑の表現に他ならない。

最後に、この虫の心理の核心、つまり人間の本能の最も奥深いところにある動物心理の核心を切り開くと、黴菌やその他の微生物と共通した原生動物の心理が現れてくる。それは無意味に生き、無意味に動き回っているように思える動き方で、いわゆる群集心理や流行心理、弥次馬心理によって表現されることが多い。その行動の一つ一つを引き離してみると、全く無意味に見えるが、集まると様々な黴菌と同様の恐ろしい作用を引き起こすことになる。つまり、光るもの、立派なもの、声の高いもの、理屈の簡単なもの、刺激のはっきりしているものに群がっていくが、もちろん判断力も理解力もない。顕微鏡下に置かれた微生物と同じように無自覚で無定見のまま、群れに引かれながら大勢が進んでいく。そこには無意味な感激や誇り、安心感があるが、最終的には何の気なしに感激のあまり夢中になり、惜しげもなく命を捨てていく……暴動や革命に陥る様子は、まるで林檎酸の一滴に集中する精虫のようだ。

人間の心理はここに至って初めて物理や化学の運動変化の法則に近づいてくる。つまり、無生物と皮一重のところまで来るので、政治家や人気取りを職業とする者が利用するのは、こうした人間性の中心にある黴菌性の流露に他ならない。

このような心理の中で、最も単純で低級なものを中心にして、外へ外へと高級で複雑な動物心理で包み、その上をいわゆる人間の皮で包装し、社交や体裁、身分や家柄、面目や人格といったリボンやレッテルで飾り立て、お化粧を施し、香水を振りかけて大通りを闊歩するのが、私たち人類の精神生活である。しかし、その内容を解剖してみると、大部分は先に述べたように、人体細胞の中に潜在している祖先代々の動物心理の記憶が再現したものに他ならないことがわかる。しかし、これとて前述の肉体の解剖的観察と同様、胎児がどのようにしてそんなに多様で複雑な心理の記憶を細胞の潜在意識や本能の中に包み込んできたのか、「何が胎児をそうさせたのか」という問いは、依然として解明されていない。

全く説明されていない事柄がある。いや、一人の人間の精神の中身が、過去数億年にわたる万物の進化の痕跡そのものであるという事実すらも、「人間は万物の霊長だ」とか「俺は人間様だぞ」といった浅はかな自惚れに覆われて、まったく注意を払われていない状態なのだ。

ここで述べたのは、胎児の成長と、それによって完成された成人の肉体、そして精神に現れる万物の進化の痕跡に関する不思議な現象であるが、次にその人間が見る「夢」の不思議な現象について観察してみよう。

夢というものは、古くから不思議の象徴とされてきた。少しでも意外なことに出会うと、すぐに「これは夢ではないか」と考えられるほどである。実際の世界と何ら変わらない森羅万象が見えるかと思えば、想像を超えた奇抜で不自然な風景や物体が現れたり、それらの風景において現実の心理や物理の法則が適用されるかと思えば、神話や伝説にもないような突飛な法則によって、風景が突然変わったりする。こうした夢の正体や、夢の中の心理、景象の変化の法則については、古来、多くの学者が頭を悩ませてきたが、ここでは夢の本質を明らかにするための重要な三つのポイントを挙げてみる。

第一に、夢の中の出来事は、その進行の中で非常に突飛で辻褄の合わないところがしばしば現れる。むしろ、そのような場合が圧倒的に多いので、そうした超自然的な現象や不合理な出来事が夢であると考えた方が早い。それにもかかわらず、夢を見ている間は、そうした超自然や不合理を疑う気持ちがほとんど起こらず、その出来事から受ける感情は常に真剣で、現実以上に深刻で痛切なものがある。

第二に、未だ見たことも聞いたこともない風景や、驚くべき天変地異が、実際と同じような感覚で現れることがある。

第三に、夢の中に現れる出来事は、何年、何十年の長い間に感じられる連続的な事件であっても、それを見ている時間はわずか数分、あるいは数秒でしかないことが、近代の科学によって証明されている。

以上に挙げた「胎児」と「夢」に関する様々な不思議な現象は、誰もが否定できない科学界の大きな疑問となっている。しかし、なぜこれらの不思議が今日まで解決されていないのか、また、どうして誰もがその解決の鍵を見つけられなかったのかという疑問について考えてみると、二つの原因がある。

一つは、人間を胎生させ、その胎生によって完成した成人に夢を見せる人体細胞に関する従来の学者の考え方が全く間違っていること。もう一つは、この宇宙を流れる「時間」というものに対する人類一般の観念が根本的に間違っていることだ。

言い換えれば、人体を構成する細胞一つ一つの内容は、その主人公である一人の人間の内容よりも遥かに偉大である。いや、全宇宙と比較されるほどの素晴らしく偉大で複雑な内容や性能を持っている。だから、その細胞の一粒の内容を外観から顕微鏡で覗き、その成分を化学的に分析し、その分裂や繁殖の状況を形態や色彩の変化によって研究する従来の唯物科学的アプローチでは、細胞の内容や性能の偉大さを理解することはできない。それは、英雄や偉人の生前の業績を無視して、単にその遺体の外見を観察し、内部を解剖することだけで、その偉大な性格や性能を確かめようとするのと同じ無理な要求である。

また、時間についても同様のことが言える。中央気象台や私たちの持っている時計の針、地球や太陽の自転、公転によって示される時間は真実の時間ではない。唯物科学が勝手に作り出した人工の時間であり、錯覚の時間、インチキの時間である。真実の時間というものは、そんな窮屈で寸法で測られるような固苦しいものではなく、もっともっと変通自在で、玄妙で不可思議なものであるという事実が実際に理解できれば、同時に「胎児の夢」の実在も理解できるはずだ。生命の神秘、宇宙の謎を解く鍵を握ったも同然である。