ドグラ・マグラ (5/47)
von 夢野久作
涙はやがて止まり、左右の頬に沈んでいた寂しい薔薇色が、夜明けの光のように元のあどけない桃色に戻っていくにつれて、その表情は人形のように動かないまま、健康的な十七、八歳の少女らしい寝顔に回復していった。ほんの少しの夢の中で五、六年も年を取って悲しんだのだろうか。そしてまた、元の通りに若返ってきたのだな……と見つめているうちに、その唇の端には、やがて和やかな微笑みさえ浮かんできた。
私は心の底から、ホ――ッと長い溜め息をついた。まだ夢から醒め切れないような気持ちで、そっと背後を振り返った。
私の背後に立っていた若林博士は、無表情のまま両手を後ろに回し、私をじっと見下ろしていた。しかし、内心は非常に緊張しているらしく、その蝋のように固まった顔色からそれが伝わってきた。私が振り返ると、彼は静かに私の顔を見返し、白い唇をそっと舐めて、今までとはまるで違った響きのない声を出した。
「……この方の……お名前を……ご存じですか?」
私は再び少女の寝顔を振り返った。周囲を気にするように、静かに頭を振った。
……いいえ……ちっとも……。
そう思った瞬間、若林博士はもう一度、低い声で囁いた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでではありませんか?」
私は若林博士の顔を見上げ、二、三度大きく瞬きをした。
……とんでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を覚えているでしょう……
といわんばかりに。
すると、その瞬間、若林博士の表情にまたもや失望の色が浮かんだ。彼は空虚な眼差しでしばらく私を凝視した後、再び元の寂しい表情に戻り、二、三度軽くうなずくと、私と一緒に静かに少女の方に向き直った。非常に荘重な足取りで半歩前に進み出て、まるで神前で何かを誓うかのように、両手を前に握り合わせながら私を見下ろした。暗示的で穏やかな口調で言った。
「……それでは……申し上げます。この方は、あなたのたった一人のお従妹さんで、あなたと許嫁の間柄になっておられる方ですよ。」
「……あっ……」
私は驚きの声を飲み込んだ。額を押さえながら、よろよろと後ろに倒れそうになった。自分の目と耳を同時に疑い、かすれた声を上げた。
「……そ……そんな事が……こんなに美しい……」
「……そうです、世にも稀な美しいお方です。しかし間違いありません。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六ヶ月前に、あなたと式を挙げるばかりになっておりました、あなたのたった一人のお従妹さんです。その前の晩に起こった世にも不可思議な出来事のために、今日までこのようにお気の毒な生活をしておられますので……」
「……………………」
「……ですから……このお方とあなたのお二人が無事に退院されるように……そうして楽しい結婚生活に戻れるように取り計るのが、やはり正木先生から委託を受けた私の最後の重大な責任となっております。」
若林博士の口調は、私を威圧するかのように緩やかで、かつ荘重であった。
しかし私は、狐に抓まれたように目を見開いたまま、寝台の上を振り返るばかりだった。見たこともない天女のような少女を、突然「お前のものだ」と指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。
「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」
「あれは夢を見ているのです。……今申し上げた通り、この令嬢には最初からご同胞がいない、たった一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先にあたる婦人には、一人のお姉さんが居られたという事実が記録に残っています。それを直接のお姉さんとして今、夢に見ておられるのです……」
「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」
私は声を震わせながら尋ねた。若林博士の顔を見上げ、じりじりと後退りせずにはいられなかった。若林博士の頭脳が急に疑わしく思えてきた。人の夢の内容を外から見て言い当てることなど、魔法使い以外にはできないはずだ……ましてや、推理や想像を超えた、一千年前の奇怪な事実を平気でスラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から普通の人間ではないのではないか。もしかしたら、私と同じようにこの精神病院に収容されている特別な患者の一人なのではないかと疑い始めた。
しかし、若林博士は全く不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。響きのない、切れ切れの声で……。
「……それは……この令嬢が、目を覚ましている間にも、そんなことを言ったり、したりしているからわかるのです。……この髪の奇妙な結い方をご覧なさい。この結髪の仕方は、この令嬢の一千年前のご先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪型で、時々ご自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、今でも清浄無垢の処女でおられますが、しかし、こうした髪型に結い変えている間は、この令嬢の精神生活全体が、一千年前のご先祖であったある既婚婦人の習慣や記憶、性格に立ち返っている証拠と認められますので、その時には、目つきから身体の動きまで、処女らしいところが全然見当たらなくなり、年齢ごろまでも見違えるくらい成熟した、優雅な若夫人の姿に見えてくるのです。……もっとも、そのような夢を忘れている間は、附添人が結うままに、一般の患者と同様にぐるぐる巻きにされているのですが……」
私は口を開けたまま、言葉を失った。その神秘的な髪型と、若林博士の荘重な顔をぼんやりと見比べずにはいられなかった。
「……それで……兄さんと言ったのは……」
「それは、やはりあなたの、一千年前のご先祖のことです。その時のお姉様のご主人であったあなたのご先祖、つまりこの令嬢の一千年前の義理の兄さんと、今、同棲している情景を夢に見ているのです。」
「……そんな浅ましい……不倫な……」
私は叫びかけて、思わず息を飲み込んだ。若林博士の青白い手がゆっくりと動くのを見て、制せられるように感じた。
「シッ……静かに……あなたが今にも自分の名前を思い出されると、すべてが……」
若林博士がそう言い終えると、彼も口を閉ざした。二人は同時に寝台の上の少女を振り返った。しかし、もう遅かった。
私たちの声が、少女の耳に届いたようだ。彼女の小さな紅い唇がムズムズと動き、静かに目を開けると、ちょうどその横に立っている私の顔を見つめた。彼女は大きく二、三度瞬きをした。すると、その二重瞼の目が一瞬キラキラと輝き、何かに驚いたように頬の色が見る見るうちに真っ白になっていった。潤んだ黒い瞳が、まるでこの世のものとは思えないほど美しく輝き、頬の色が急に耳元まで赤く染まった。
「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」
彼女は魂を抜かれたように叫び、身を起こした。素足のまま寝台から飛び降り、裾もあらわに私にしがみつこうとした。
私は驚愕した。無意識のうちにその手を払いのけ、思わず二、三歩後退して彼女を睨みつけた……完全に面喰ってしまっていた。
その瞬間、少女も立ち止まった。両手を差し伸べたまま、電気に打たれたように固まった。顔色は真っ青になり、唇の色まで失われていく……そのうち、彼女は目を大きく見開き、私の顔を凝視しながら、よろよろと後ろに退いて寝台の上に両手を支えた。唇を震わせながら、なおも一心に私の顔を見つめ続けた。
少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見回していたが、そのうちに両目に涙を溜めていった。彼女はガクンとうなだれ、石の床の上に崩れ落ちるように座り込み、白い患者服の袖を顔に当てると、ワッと声を上げて寝台の上に泣き伏してしまった。
私はさらに驚いた。顔中に湧き出た汗を拭いながら、シャリシャリと泣き続ける少女の背中と、若林博士の顔を見比べた。
若林博士は、しかし顔の筋肉一つ動かさず、呆然とした私の顔を冷ややかに見返しながら、悠然と少女に近づき、腰を屈めた。耳に口を寄せるようにして問いかける。
「思い出されましたか。この方のお名前を……そしてあなたのお名前も……」
この言葉を聞いたとき、少女よりも私の方が驚かされた。……まさかこの少女も私と同じように、夢中遊行状態から目覚めかけた「自我忘失状態」に陥っているのか……若林博士は、私にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と、耳の奥がシーンと鳴るほど緊張し、少女の返事を待った。
しかし少女は返事をしなかった。ただ、少しの間泣き止み、寝台に顔をさらに深く埋めながら、頭を左右に振っただけだった。
「……それではこの方が、あなたとお許嫁になっていたあのお兄さまということだけは記憶しているのですね。」
少女はうなずいた。そうして前よりも一層激しい、高い声で泣き出した。
それは、何も知らずに聞いていても、真に悲痛を極めた、腸を絞るような声だった。自分の恋人の名前を思い出せないために、その相手とは遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そしてようやくその相手に巡り合ってしがみつこうとしても、冷たく突き放される身の上になっていることを、今さらながら痛感し始めている少女の、身も世もあられぬ嘆きの声だった。
男女の違いこそあれ、同じ精神状態に陥り、同じ苦しみを体験している私は、心の底までその嗄れた泣き声に引き寄せられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられたときとは全く違った……いや、あの時よりも数倍も苦しい立場に置かれてしまった。この少女の顔も名前も、依然として思い出せないまま、今こそそれを思い出させてやらなければ耐えられないほど痛々しい少女の泣き声と、そのいじらしい背中が、白い寝床の上に泣き伏して震え狂うのを、どうすることもできないのが、まるで私一人の責任であるかのような心苦しさに苛まれ、両手を顔に当てて全身に冷汗を流した。気が遠くなり、今にもよろめき倒れそうになった。
しかし若林博士は、そんな私の苦しみを知る由もなく、依然として上半身を傾け、少女の肩を優しく撫でた。
「……さ……さ……落ち着いて……もうすぐ思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたの顔を忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたらすぐに教えてくれるでしょう。そして一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期が来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」
こう言い聞かせると、若林博士は顔を上げた。驚き、弱り、涙を拭いながら立ち尽くしている私の手を引いて、さっさと扉の外に出ると、重い扉を未練なくピタリと閉めた。廊下の向こうで、鶏頭の花をいじっている付き添いの婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何か躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
耳を澄ますと、少女の泣き声はだいぶ静まっているようだった。その嗚咽の合間に、付き添いの婆さんが何か言い聞かせている気配があった。
人造石の床の上に立ち尽くした私は、深い溜息を一つ吐き出し、気を落ち着けた。とりあえず若林博士の顔を見上げ、説明の言葉を待った。
今まで夢にも思わなかったことが、目の前で起こっている。隣の部屋には、私が見たこともないような絶世の美少女が、ミジメな精神病患者として閉じ込められているのだ。その美少女は、私の唯一の従妹であり、私の許嫁でもある。まるで千年前の姉の婿だった私が、彼女と同棲している夢を見ているかのようだ。
彼女は夢から覚めると、私の顔を見て「お兄さま」と叫び、抱きつこうとした。しかし、私はそれを拒んだため、彼女は床に崩れ落ち、腸を絞るように悲しんでいる。
こんな不可思議な状況に対して、若林博士がどんな説明をしてくれるのか、私は胸を躍らせて待っていた。しかし、博士は突然口を閉ざし、冷たい青白い目で私を一瞥した後、静かに目を伏せ、左手で胴衣のポケットを探り始めた。そして、大きな銀色の懐中時計を取り出し、掌の上に載せた。彼はその時計を見ながら、自分の脈を測り始めた。
身体の悪い若林博士は、毎朝この時間に脈を取るのが習慣なのかもしれない。しかし、その態度には、先ほどまでの緊張感は微塵も感じられなかった。代わりに、路傍で出会った赤の他人のような冷淡さが漂っていた。彼の小さな目は幽霊のように伏せられ、白い唇は横一文字に閉じられ、脈を測る指が強く押さえたり、緩めたりしている様子は、まるで私の興奮を押さえつけようとしているかのようだった。
隣の部屋で見せつけられた不可思議な出来事に対する私の興奮を、彼は無視しているように思えた。過去と現在、未来、夢と現実が入り混じった奇妙な世界で、二重三重の恋に悶えている少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と紹介し、その証拠を目の前に見せながら、私の質問を避けているように見えた。
私はどうしていいかわからない不満を感じ、帽子をいじりながらうつむいてしまった。すると、うつむいた瞬間、若林博士に小馬鹿にされているような気持ちが湧き上がった。
何故かはわからないが、若林博士は私の頭の中に何かを仕掛けようとしているのではないか。彼は驚くような作り話を持ちかけ、根も葉もないことを信じ込ませようとしているのではないか。そんな疑いが頭に浮かぶと、それが真実であるかのように感じられ、次第にその思いが広がっていった。
何も知らない私を捕まえて、大学生に扮装させ、美しい少女を許嫁だと紹介する様子は、どうも怪しい。服や帽子は、私が夢うつつのうちに仕立てられたものではないか。あの少女も、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰に対してもあんな変な振る舞いをするのではないか。この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれない。若林博士も、何かの理由で私を引っぱってきて、錯覚に陥れようとしているのではないか。そうでなければ、私の許嫁だという美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔のことを思い出さないはずがない。懐かしさや嬉しさを感じないはずがない。
そうだ、私は確かに一杯食わされかけていたのだ。
そう気づくにつれ、頭の中の疑問や迷い、驚きが次第に消えていった。そして、いつの間にか私の頭は元の状態に戻っていた。何の責任も、心配もない。
しかし、それに伴い、私は全くの一人ぼっちになり、何となく頼りない、寂しい気持ちに襲われた。再び細い溜息をつき、顔を上げると、若林博士も脈の診察を終えたようで、懐中時計をポケットに戻し、今朝最初に会ったときの丁寧な態度に戻った。
「いかがですか。お疲れになりませんか?」
私は再び、何でもなさそうな博士の態度に面食らいながらも、努めて平静を装ってうなずいた。
「いいえ。ちっとも……」
「それでは、あなたの過去の経歴を思い出していただく試験を、もっと続けてもよろしいですね?」
私は再度、何でもないようにうなずいた。どうでもいいという気持ちで。若林博士も、その調子に合わせてうなずいた。
「それでは、今からこの九州帝国大学精神病科本館の教授室にお連れします。先ほどお話しした正木敬之先生が、亡くなるその日まで過ごしていた部屋です。ここに展示されているあなたの過去の記念品を見ているうちに、きっとあなたに関する不思議な謎が少しずつ解けていくでしょう。そして、最終的にはあなたの過去の記憶がすべて回復することを信じています。そうすれば、あの令嬢との奇妙な事件の真相も、一緒に明らかになるはずですから……」
若林博士の言葉には、鉄のように固い確信が込められているように感じられ、何か意味深い暗示が含まれているようにも思えた。
しかし、私はその言葉に無頓着で、ただ頭を少し下げた。どこへでも連れて行ってくれればいい。どうせ、なるようにしかならないのだから……そんな投げやりな気持ちでいた。同時に、今度はどんな不思議なものを見せてくれるのかという、少しの好奇心も抱いていた。
若林博士は満足そうにうなずいた。「では、こちらへどうぞ。」
九州帝国大学医学部精神病科本館は、青いペンキで塗られた二階建ての木造洋館で、浴場も含まれていた。長い廊下を、先ほど来た花畑の外廊下を通って一直線に戻り、向こう側に抜けると、監獄の入口のような重厚な鉄扉に行き当たった。その扉は、どこかからこちらを覗いている番人の手によって、ゴロゴロと一方に引き開けられ、私たちは暗くてガランとした玄関に出た。
その玄関の扉はしっかりと閉まっていたが、まだ朝が早いせいだろう。扉の上の明窓から漏れ込む仄青い光を頼りに、両側に並ぶ急な階段の左側をゴトンゴトンと登り、右に折れると、今度は明るい南向きの廊下が広がっていた。右側には「実験室」や「図書室」と書かれた木札がかけられた部屋がいくつも並んでいる。その廊下の突き当たりには、「出入厳禁……医学部長」と大きく書かれた茶褐色の扉が見えた。
先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を取り出し、その扉を開けた。振り返って私を招き入れると、丁寧な態度で外套を脱ぎ、扉の横の壁にある帽子掛けにかけた。私もそれに倣って、霜降りのオーバーと角帽をかけ並べた。私たちの靴の跡がそのまま床に残っているのを見ると、部屋中が薄いホコリに覆われているようだった。
その部屋は、広々として明るかった。北、西、南の三方に並ぶ十二の窓のうち、北と西の八つの窓は濃緑色の松の枝で覆われていたが、南側の四つの窓は何も遮るものがなく、青い朝の空の光が、近くの波の音と共に洪水のように流れ込んでいた。若林博士の細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿は、まるで現実世界から離れた遠い場所にいるような奇妙な対照を生んでいた。
その時、若林博士は細長い右手を上げて、部屋の中をぐるりと指さした。同時に、高い場所から出る弱々しい声が、部屋の隅々に心地よい余韻を残した。
「この部屋は元々、精神病科の図書室と標本室を兼ねていました。ここにある図書や標本は、前主任教授の斎藤寿八先生が苦心して集めた精神病科の研究資料や参考資料、またはこの病院にいた患者の製作品や身の上に関係する物品などで、世界の学界に誇るものも少なくありません。しかし、斎藤先生が亡くなった後、本年の二月に正木先生が主任教授として着任されると、この部屋が明るくて良いという理由で、東側の半分にあった図書文献をすべて今までの教授室に移し、その跡を自分の居間に改造し、あのような美しい暖炉まで取り付けたのです。しかも、それが総長の許可も受けず、正式な手続きもせずに行われたことが明らかになったため、本部の塚江事務官が大いに慌てて、急いで手続きをするように頼みに来たそうですが、その時、正木先生は何の返事もせずに済ませてしまったそうです。」