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三

von 中島敦

李陵が乱戦の中で気を失い、単于の帳房で目を覚ましたとき、彼の心には二つの選択肢が浮かんでいた。自ら首を刎ねて恥を免れるか、それとも一時的に敵に従い、機会を見て脱出するか。李陵は、後者を選ぶことに決めた。

単于は自ら李陵の縄を解き、その後の待遇も非常に丁寧だった。単于は先代の弟で、骨太で巨眼の中年の男だった。彼はこれまで数代の単于と共に漢と戦ってきたが、李陵ほどの強敵には出会ったことがないと語り、李陵の祖父、李広の名を引き合いに出してその善戦を称賛した。李広の名は今もなお胡地にまで語り継がれており、李陵が厚遇を受けるのは、彼が強者の子孫であり、また彼自身も強かったからである。

食事の際も、強壮者が美味を取り、老弱者には余り物を分け与えるのが匈奴の風習だった。ここでは、強者が辱められることは決してなかった。降将としての李陵は、一つの穹盧と数十人の侍者を与えられ、賓客のように扱われた。

李陵にとって、奇妙な生活が始まった。家は絨帳の穹盧、食べ物は羊肉、飲み物は乳製品や酪漿、獣乳、乳醋酒。着物は狼や羊、熊の皮を縫い合わせたもので、彼らの生活は牧畜と狩猟、そして略奪に限られていた。広大な高原にも河や湖、山々による境界があり、単于直轄地の他は、各王侯の領地に分けられていた。村落はあったが、季節に応じて水草を追って移動するため、定住することはなかった。

李陵には土地は与えられず、単于のもとで他の将と共に常に単于に従っていた。隙があれば単于の首を狙おうと考えていたが、そう簡単には機会が訪れなかった。たとえ単于を討ち取ったとしても、その首を持って脱出することは、非常に難しいことだった。胡地で単于を刺し違えた場合、匈奴はその不名誉を隠すだろうから、漢に知られることはないだろう。李陵は辛抱強く、その不可能とも思える機会を待ち続けた。

単于の幕下には、李陵以外にも漢の降人が数人いた。その中の一人、衛律という男は軍人ではなかったが、丁霊王の位を与えられ、単于に重用されていた。彼の父は胡人だったが、衛律は漢の都で生まれ育った。武帝に仕えていたが、先年の李延年の事件を恐れて匈奴に逃げ帰った。血が血だけに胡風になじむのも早く、彼は相当な才を持ち、常に単于の側近として画策に参加していた。李陵は衛律を始め、他の漢人降人とはほとんど会話を交わさなかった。彼の頭の中にある計画を共にする人物がいないと感じていたからだ。

ある日、単于は李陵を呼び、軍略について教えを乞うた。それは東胡に対する戦いについてだったので、李陵は快く意見を述べた。しかし、次に単于が漢軍に対する策戦について相談を持ちかけたとき、李陵は明らかに嫌な表情を浮かべ、口を開こうとしなかった。単于も無理に返答を求めることはなかった。その後しばらくして、代・上郡を襲う軍隊の一将として南行することを求められたが、李陵は漢に対する戦いには出られないと断固として断った。それ以降、単于は再びこのような要求をしなくなった。待遇は変わらず、ただ士を遇するために士を遇しているように思えた。李陵は、この単于が男らしい人物だと感じていた。

単于の長子、左賢王が妙に李陵に好意を示し始めた。それは好意というよりも、むしろ尊敬に近いものだった。二十歳を過ぎたばかりの粗野だが勇気のある真面目な青年で、強者への讃美が非常に純粋で強烈だった。初めて李陵のもとに来て、騎射を教えてくれと頼んできた。騎射といっても、彼自身も李陵に劣らぬほど巧みで、特に裸馬を駆る技術においては遥かに李陵を凌いでいたので、李陵は射撃だけを教えることにした。左賢王は熱心な弟子となり、李陵の祖父李広の射撃技術について語ると、彼の目は輝き、熱心に耳を傾けた。

二人はよく狩猟に出かけた。ほんの少数の供を連れて、広大な野原を駆け抜け、狐や狼、羚羊、雉子を射た。あるとき、夕暮れが近づき矢が尽きかけた二人が、狼の群れに囲まれたことがあった。馬に鞭を入れ、全速力で狼の中を駆け抜けて逃げたが、そのとき、李陵の馬の尻に飛びかかった一匹を、後ろにいた左賢王が見事に斬り捨てた。後で調べると、二人の馬は狼に噛み裂かれ、血だらけになっていた。

そんな一日の後、夜、天幕の中で今日の獲物を鍋に入れてフウフウ吹きながら啜っていると、李陵は火影に照らされた若い王子に、ふと友情のようなものを感じることがあった。

天漢三年の秋、匈奴が再び雁門を襲った。この報復に備え、翌年の四年、漢は弐師将軍の李広利に六万の騎兵と七万の歩兵を与え、朔方へと向かわせた。また、強弩都尉の路博徳には一万の歩卒を率いさせ、彼の軍を支援させた。さらに、因将軍公孫敖は一万の騎兵と三万の歩兵を雁門へ、游撃将軍の韓説は三万の歩兵を五原へとそれぞれ派遣した。これは近年にない大規模な北伐であった。

単于はこの知らせを受けると、すぐに婦女や老幼、家畜、財産をすべて余吾水の北方に移し、自ら十万の精鋭騎兵を率いて李広利と路博徳の軍を水南の大草原で迎え撃った。連戦は十日以上続き、漢軍はついに退却を余儀なくされた。李陵に師事する若き左賢王は、別の部隊を率いて東方に向かい、公孫敖を大いに打ち破った。漢軍の左翼を担っていた韓説の軍もまた成果を上げることができず、兵を引くこととなった。北征は完全な失敗に終わった。

李陵は、いつものように漢との戦いには陣頭に姿を現さず、水北に退いていたが、左賢王の戦果を気にかけている自分に気づき、愕然とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴の敗北を望んでいたが、左賢王だけは何としても負けさせたくないと感じていたようだ。李陵はそのことに気づき、激しく自分を責めた。

公孫敖が都に帰り、多くの士卒を失ったために功績がなかったとされて牢に繋がれたとき、彼は奇妙な弁解をした。敵の捕虜が言うには、匈奴軍が強いのは、漢から降った李将軍が常に兵を鍛え、軍略を授けているからだというのだ。だからといって自軍が敗れたことの弁解にはならないため、因将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝は李陵に激怒した。かつて許されて家に戻っていた李陵の一族は再び獄に収められ、今度は彼の老母から妻、子、弟に至るまで全てが殺された。軽薄な世人の常として、当時隴西の士大夫たちは皆李家を出したことを恥じたと記されている。

この知らせが李陵の耳に入ったのは、半年ほど後のことだった。辺境から拉致された一人の漢卒の口からである。それを聞いたとき、李陵は立ち上がり、その男の胸倉をつかみ、荒々しく揺すぶりながら事の真偽を再確認した。確かに間違いのないことを知ると、彼は歯を食いしばり、思わず力を両手に込めた。男は身をもがき、苦悶の呻きを漏らした。李陵の手は無意識のうちにその男の喉を締めていたのである。手を離すと、男はバタリと地に倒れた。その姿に目もやらず、李陵は帳房の外へ飛び出した。

彼は無我夢中で野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦を巻いた。老母や幼子のことを考えると心は焼けるようだったが、涙は一滴も出なかった。あまりに強い怒りは涙を枯れさせてしまうのだろう。

今の事態はこれに限らない。これまで我が家は漢からどのように扱われてきたのか? 彼は祖父の李広の最期を思い出した。李陵の父、当戸は彼が生まれる数か月前に亡くなったため、彼はいわゆる遺腹の子であり、少年時代までの彼を教育し鍛えたのは有名なこの祖父だった。名将李広は数度の北征で大功を挙げながら、君側の姦佞に妨げられ、何一つ恩賞を受けることがなかった。部下の将軍たちが次々に爵位を得ていく中、廉潔な将軍だけは封侯もされず、変わらぬ清貧に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青と衝突した。衛青はこの老将をいたわる気持ちを持っていたが、その幕下の一軍吏が虎の威を借りて李広を辱めた。憤激した老名将はその場で、自ら首を刎ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげて泣いた少年の日の自分を、李陵は今でもはっきりと覚えている。

李陵の叔父、李敢の最後はどうだったのか。彼は父の惨めな死について衛青を恨み、大将軍の邸に赴いてこれを辱めた。大将軍の甥にあたる嫖騎将軍霍去病がそれを憤り、甘泉宮の狩りの際に李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばうために、李敢は鹿の角に触れて死んだと発表させたのだ。

李陵の場合は、司馬遷とは違って簡単だった。彼の中での憤怒がすべてであった。無理を承知で、もう少し早く単于の首を持って胡地を脱するという計画を実行していればよかったという悔いを除けば、ただそれをどう現わすかが問題であった。彼は先ほどの男の言葉、「胡地にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒された」というのを思い出した。ようやく思い当たった。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒という者がいる。元々、塞外都尉として奚侯城を守っていた男だが、彼が匈奴に降ってからは常に胡軍に軍略を授け、兵を鍛えている。実際、半年前の軍でも、単于に従って漢軍と戦っていたのだ。これだと李陵は思った。同じ李将軍で、李緒と間違えられたに違いない。

その晩、彼は一人で李緒の帳幕へと赴いた。言葉を交わすことなく、一刺しで李緒を倒した。

翌朝、李陵は単于の前に出て事情を打ち明けた。心配はいらないと単于は言った。しかし、母の大閼氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と不義の関係にあったらしい。単于はそれを承知していた。匈奴の風習によれば、父が死ぬと、長子は亡父の妻妾をすべて引き継ぐが、生母だけはその中には含まれない。生みの母に対する尊敬は、男尊女卑の彼らにとっても特別なものだったのだ――今しばらく北方に隠れていてもらい、ほとぼりが冷めたころに迎えを遣るから、と付け加えた。その言葉に従い、李陵は一時従者たちを連れて西北の兜銜山の麓に身を隠した。

まもなく、問題の大閼氏が病死し、単于の庭に呼び戻されたとき、李陵はまるで人が変わったかのように見えた。これまで漢に対する軍略には決して関わらなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと口にしたからだ。単于はこの変化を見て大いに喜び、李陵を右校王に任じ、自らの娘の一人を妻に迎えることにした。以前にもその話はあったが、李陵はずっと断り続けていた。しかし、今回は躊躇なくその提案を受け入れた。

ちょうど酒泉張掖のあたりで、南に向かって出発する軍があり、李陵は自らその軍に従うことを請い出た。しかし、西南へ進む途中、浚稽山の麓を通りかかったとき、彼の心は曇った。かつてこの地で共に戦った部下たちのことを思い出し、彼らの骨が埋められ、血が染み込んだ砂の上を歩きながら、今の自分の状況を考えると、漢兵と戦う勇気を失ってしまった。病気を理由に、彼は一人北方へ馬を返した。

翌年、太始元年、且侯単于が死に、李陵と親しかった左賢王が後を継いだ。彼の名は狐鹿姑単于である。

匈奴の右校王である李陵の心は、いまだに定まらなかった。母や妻、子を族滅された恨みは骨髄に染み込んでいるものの、自ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、最近の経験から明らかだった。再び漢の地を踏むまいと誓ったが、匈奴の民として生きることが果たしてできるのか、新単于への友情をもってしても、自信が持てなかった。考えることが嫌いな彼は、イライラするといつも一人で駿馬を駆って広大な野原に飛び出した。秋の青空の下、蹄の音を響かせながら、草原や丘陵を狂ったように駆け抜ける。何十里も走った後、馬も人もようやく疲れ果て、高原の小川を求めてその岸に下り、馬に水を飲ませた。それから草の上に仰向けに寝転び、快い疲労感に浸りながら、澄んだ空の高さと広さを見上げた。ああ、私は天地の間の一粒子に過ぎない、漢と胡の違いは何だろうかと、ふとそんな気がした。しばらく休んだ後、再び馬に跨がり、がむしゃらに駆け出す。終日乗り疲れ、黄昏時になってようやく彼は幕営に戻った。疲労だけが彼の唯一の救いだった。

司馬遷が李陵のために弁明し、罪を軽くしてくれたことを伝える者がいた。李陵は特に感謝する気持ちも、気の毒に思うこともなかった。司馬遷とは互いに顔を知っている程度で、特に親しい関係ではなかった。むしろ、議論ばかりしてうるさい人だと感じていた。現在の李陵は、他人の不幸を実感する余裕もなく、自分自身の苦しみと闘うのに必死だった。余計な世話だとは思わなかったが、特に申し訳ないとも感じなかったのは事実である。

初めは、胡地の風俗を野卑で滑稽だとしか思えなかったが、次第にその地の実際の風土や気候を背景に考えると、決して野卑でも不合理でもないことが李陵に理解できるようになってきた。厚い皮革の胡服でなければ、北の冬は耐えられないし、肉食でなければ寒冷に堪えるだけの精力を蓄えることもできない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然であり、頭から低級と決めつけるのは当たらない。漢人の風を保とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日たりとも続けられないのだ。

かつて先代の且侯単于が言った言葉を李陵は覚えている。漢の人々は二言目には自国を礼儀の国と称し、匈奴の行動を禽獣に近いと非難するが、単于はこう言った。漢人のいう礼儀とは何か? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾ではないか。利を好み、人を嫉むこと、漢人と胡人とどちらがひどいのか? 色に耽り、財を貪ること、またどちらがひどいのか? 表面を剥ぎ取れば、本質的には何の違いもないはずだ。ただ漢人はそれを隠すことを知り、我々はそれを知らないだけだと。漢初以来の内乱や功臣の排斥の例を引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉がなかった。実際、武人である彼は、これまでにも煩瑣な礼のための礼に疑問を感じたことが何度もあったからだ。確かに、胡俗の粗野な正直さの方が、美名の影に隠れた漢人の陰険さよりも遥かに好ましい場合が多いと感じることがあった。諸夏の俗を正しいもの、胡俗を卑しいものと頭から決めつけるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、次第に李陵にはそう思えるようになった。例えば、今まで人間には名の他に字が必要だと無条件に信じていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもなかった。

彼の妻は非常に大人しい女性だった。いまだに主人の前に出るとおずおずとして、ろくに口も利けない。しかし、彼らの間に生まれた男の子は、少しも父親を恐れず、ヨチヨチと李陵の膝に這い上がってくる。その子の顔を見つめながら、李陵は数年前に長安に残してきた、そして結局母や祖母と共に殺されてしまった子供の面影をふと思い出し、無意識に憮然としてしまった。

李陵が匈奴に降るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将蘇武が胡地に引き留められていた。

蘇武は本来、平和の使者として捕虜交換のために派遣された。しかし、彼の副使が偶然にも匈奴の内紛に関与してしまったため、使節団全員が捕らえられてしまった。単于は彼らを殺そうとはせず、死をもって脅かして降伏を迫った。しかし、蘇武だけは降服を拒み、恥をかくくらいならと自ら剣を取り、胸を貫いた。

昏倒した蘇武に対する匈奴の治療法は非常に奇妙だった。地面を掘り、火を焚いてその上に傷者を寝かせ、背中を踏んで血を出させるという荒療治だった。漢書にはこの治療法が記されている。幸いにも、蘇武は半日後に息を吹き返した。単于は彼にすっかり惚れ込んでしまった。数週間後、蘇武の体が回復すると、近臣の衛律が再び降伏を勧めた。衛律は、蘇武が激しい罵詈を受け、恥をかいて手を引いたことを伝えた。

その後、蘇武は地下の牢に幽閉され、旃毛を雪に混ぜて食べることで飢えをしのいだ話や、北海のほとりに追いやられ、羊が乳を出すのを見て帰ることを許されなかった話は、彼の名とともにあまりにも有名で、ここでは詳しく述べない。とにかく、李陵が悶々とした余生を匈奴で過ごすことを決心せざるを得なくなった頃、蘇武はすでに北海のほとりで一人、羊を牧していた。

李陵にとって、蘇武は20年来の友だった。かつて同じ時期に侍中を務めたこともあった。頑固なところはあったが、彼がまれに見る硬骨の士であることは疑いようがなかった。天漢元年に蘇武が北へ立った後、まもなく彼の老母が病死したとき、李陵は陽陵までその葬儀を見送った。蘇武の妻が夫の帰りを期待できないと知り、他家に嫁いだという噂を聞いたのは、李陵が北征に出発する直前のことだった。その時、李陵は友のためにその妻の浮薄をひどく憤った。

しかし、自分が匈奴に降るようになってからは、もはや蘇武に会いたいとは思わなくなった。彼が遥か北方にいることで顔を合わせずに済むことをむしろ喜んでいた。特に、自分の家族が殺され、漢に戻る気持ちを失ってからは、この「漢節を持した牧羊者」との面会を避けたかった。

狐鹿姑単于が父の後を継いで数年後、蘇武が生死不明という噂が広まった。父単于が降服させられなかったこの不屈の漢使の存在を思い出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし生きていれば再度降服を勧告するよう李陵に頼んだ。李陵が蘇武の友人であることを知っていたからだ。やむを得ず李陵は北へ向かった。

姑且水を北に遡り、居水との合流点からさらに西北の森林地帯を突き進んだ。まだ雪が残る川岸を数日進むと、ようやく北海の碧い水が森と野の向こうに見えてきた。この地方の住民である丁霊族の案内人は、李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎へと導いた。小舎の住人は珍しい人声に驚き、弓矢を手に表に出てきた。頭から毛皮を被った、ひげぼうぼうの熊のような山男の顔の中に、李陵はかつての移中厩監、蘇子卿の面影を見出したが、先方がこの胡服の大官を前の騎都尉、李少卿と認めるまでにはしばらくの時間がかかった。蘇武の方では、李陵が匈奴に仕えていることを全く知らなかった。

感動が李陵の内に渦巻き、今まで蘇武との会見を避けていたものを一瞬で圧倒した。二人とも初めはほとんど言葉を交わすことができなかった。

李陵の供廻りの者たちがいくつかの穹廬を周囲に組み立て、無人の境が急に賑やかになった。用意してきた酒食がすぐに小舎に運び入れられ、夜には珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日にわたった。

自分が胡服を着るに至った事情を話すことは、さすがに辛かった。しかし、李陵は弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語る数年間の生活は、まったく惨憺たるものであったらしい。数年前、匈奴の於王が狩りをするためにたまたまここを通り、蘇武に同情して、三年間衣服や食糧を与えてくれたが、その於王が死んでからは、凍った大地から野鼠を掘り出して飢えをしのぐ始末だという。彼の生死不明の噂は、彼が飼っていた畜群が盗賊に襲われて一匹も残らなかったことから生じたものらしい。李陵は蘇武の母が亡くなったことだけは告げたが、妻が子を捨てて他家に行ったことはさすがに言えなかった。

李陵は、目の前の男が何を目指して生きているのか、疑問に思った。彼は、今もなお漢に帰る日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の言葉から察するに、彼はもうそんな期待を持っていないようだった。それなら、なぜ彼はこの過酷な日々を耐え忍んでいるのか? 単于に降伏を申し出れば、重用されることは間違いない。しかし、蘇武がそんなことをするはずがないことは、李陵には明らかだった。彼が不思議に思うのは、なぜ早く自ら命を絶たないのかということだった。

李陵自身、希望のない生活を自らの手で断ち切れないのは、いつの間にかこの地に根を下ろしてしまった数々の恩情や義理のためであり、今さら死んでも漢のために義を立てることにはならないからだ。一方、蘇武は違った。彼にはこの地での家族もない。漢朝に対する忠誠心から考えれば、いつまでも節を持って荒野で飢え続けることと、すぐにその節を焼いて自ら命を絶つことには、特に違いはないように思えた。捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武が、今になって急に死を恐れるようになったとは考えにくい。李陵は、若い頃の蘇武の頑固さを思い出した。単于は栄華を餌に、極度の困窮の中から蘇武を引き寄せようと試みる。餌に釣られることも、苦難に耐えられず自ら命を絶つことも、単于に負けることになる。蘇武はそう考えているのではないだろうか。運命と意地の張り合いをしているような蘇武の姿は、李陵には滑稽には見えなかった。想像を絶する困難や孤独を、平然と笑い飛ばしていく意地があるとすれば、その意地は本当に壮大なものだと言わざるを得ない。昔の蘇武の頑固さが、こんなにも大きな我慢に成長しているのを見て、李陵は驚嘆した。

しかも、蘇武は自分の行いが漢に知られることを予期していない。再び漢に迎え入れられることはもちろん、無人の地で困難と戦っていることを、漢はおろか匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間が出てくることも期待していない。誰にも見届けられずに独り死んでいくその最後の日に、自らを振り返り、最後まで運命を笑い飛ばして満足して死んでいこうとしているのだ。誰一人自分の事績を知ってくれなくても、何の問題もないというのである。李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たせなければ、せっかくの行為が無意味になり、漢にまで聞こえないことを恐れて、結局決行の機会を見出せなかった。人に知られないことを気にしない蘇武の前に立つと、彼はひそかに冷や汗をかく思いだった。

最初の感動が過ぎ、二日三日と経つうちに、李陵の中に一種のこだわりが生まれてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにしても、自分の過去と蘇武のそれとの対比が引っかかってくる。蘇武は義人で、自分は売国奴だと、そこまで明確に考えはしないが、森や野、そして水の沈黙によって長年鍛え上げられた蘇武の厳しさの前では、自分の行為に対する唯一の弁明であった苦悩が、まるで無意味に圧倒されるのを感じざるを得なかった。それに、気のせいか、日が経つにつれ、蘇武の自分に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するような、優越を知った上で相手に寛大であろうとする者の態度を感じ始めた。どこかはっきりとは言えないが、何かの拍子にそういう感覚が浮かぶことがあった。繻子の衣をまとった蘇武の目の中に、時折浮かぶかすかな憐れみの色を、豪華な貂裘をまとった右校王の李陵は、何よりも恐れた。

十日ほど滞在した後、李陵は旧友に別れを告げ、しんみりと南へ去った。食糧や衣服は、森の丸木小屋に十分残してきた。

李陵は、単于からの降伏勧告についてはとうとう口を開かなかった。蘇武の答えは明らかであるものを、今さらそんな勧告で蘇武をも自分をも辱める必要はないと思ったからだ。南に帰ってからも、蘇武の存在は一日たりとも彼の頭から離れなかった。離れて考えると、蘇武の姿は逆に一層厳しく彼の前に立ちはだかるように思えた。

李陵自身、匈奴への降伏という自らの行為を正当化しているわけではないが、自分の故国に尽くした跡と、それに対して故国が自分に返してくれたことを考えると、どんな無情な批判者であっても、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうと信じていた。しかし、ここに一人の男がいて、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、決して自らにそれを許そうとはしないのだ。

飢えや寒さ、孤独の苦しみ、祖国の冷淡さ、そして自分の苦労が誰にも知られないだろうというほぼ確定的な事実も、この男にとっては、平生の節義を変えなければならないほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。

蘇武の存在は、李陵にとって崇高な教訓であり、同時にいらだたしい悪夢でもあった。時折、彼は人を遣わして蘇武の安否を尋ね、食料や牛羊、絨毯を贈った。蘇武に会いたい気持ちと避けたい気持ちが、彼の中で常に闘っていた。

数年後、李陵は北海のほとりにある丸木小舎を再び訪れた。途中、雲の中で北方を守る衛兵たちに出会い、彼らから最近、漢の辺境では太守や役人たちが皆白い服を着ていると聞いた。人民が一斉に白い服をまとっているのは、天子の喪に違いない。李陵は武帝の崩御を知った。

北海に到着し、このことを蘇武に告げると、彼は南を向いて号泣した。数日間、彼の慟哭は続き、ついには血を吐くほどになった。その様子を見ながら、李陵は次第に暗い気持ちになっていった。彼はもちろん、蘇武の慟哭の真摯さを疑うことはなかった。その純粋で烈しい悲しみには心を動かされずにはいられなかった。しかし、自分には一滴の涙も浮かんでこなかった。

蘇武は、李陵のように一族を皆殺しにされることはなかったが、彼の兄は天子の行列に際して小さな事故を起こし、弟はある犯罪者を捕まえられなかったために、共に責任を負わされ自殺させられている。どう考えても、漢の朝から厚遇されていたとは言えない。そんなことを知りながら、目の前で蘇武の純粋な痛哭を見ているうちに、以前はただの強烈な意地だと思っていた彼の底には、比類のない清らかな漢の国土への愛情が湛えられていることに、李陵は初めて気づいた。それは義や節といった外から押しつけられたものではなく、抑えようとしても抑えられない、常に湧き出る最も親しい自然な愛情だった。

李陵は、自分と友との間にある根本的な違いに直面し、否応なく自分自身に対する暗い疑念に追いやられざるを得なかった。

蘇武のもとから南へ帰ると、ちょうど漢からの使者が到着したところだった。武帝の死と昭帝の即位を報告し、今後の友好関係を結ぶための平和の使節である。その使者としてやって来たのは、李陵の旧友である隴西の任立政ら三人だった。

その年の二月、武帝が崩じ、わずか八歳の太子弗陵が位を継ぐと、遺詔によって侍中奉車都尉の霍光が大司馬大将軍として政を補佐することになった。霍光はもともと李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀もまた李陵の旧友だった。この二人の間で、李陵を呼び戻そうという相談が持ち上がったのだ。今回の使者に李陵の昔の友人が選ばれたのは、そのためであった。

単于の前で使者の表向きの用が済むと、盛大な酒宴が開かれた。普段は衛律が接待役を務めるのだが、今回は李陵の友人が来たため、彼も引き出されて宴に参加した。任立政は李陵を見たが、匈奴の大官たちの前では「漢に帰れ」とは言えなかった。席を隔てて李陵を見つめ、目配せをしながら自分の刀環を撫でて、その意を暗に伝えようとした。李陵はそれを見て、先方の伝えたいことをほぼ察した。しかし、どのように応えるべきかはわからなかった。

公式の宴が終わった後、李陵と衛律らだけが残り、牛酒と博戯で漢使をもてなした。そのとき、任立政が李陵に向かって言った。「漢では今、大赦令が出て、万民は太平の仁政を享受しています。新帝はまだ幼少なので、君の旧友である霍子孟と上官少叔が主上を補佐して天下の事を取り仕切っています。」立政は衛律を完全に胡人として見做し、事実それに違いなかったが、その前では明らかに李陵に説くのをためらった。ただ霍光と上官桀の名を挙げて、李陵の心を惹こうとしたのだ。李陵は黙って答えなかった。しばらく立政をじっと見つめた後、自分の髪を撫でた。その髪も椎結で、すでに中国の風ではなかった。しばらくして衛律が服を替えるために席を外した。初めて立政が李陵の名を呼んだ。「少卿よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟と上官少叔からよろしくとのことだ。」その二人の安否を問う李陵のよそよそしい言葉に、立政は重ねて言った。「少卿よ、帰ってくれ。富貴などは言うに足りぬではないか。どうか何も言わずに帰ってくれ。」蘇武のもとから戻ったばかりの李陵も、友の切なる言葉に心が動かされないわけにはいかなかった。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならないことだった。「帰るのは容易い。しかし、また辱めを受けるだけではないか?」言葉の途中で衛律が戻ってきた。二人は口を噤んだ。

会が散じて別れのとき、任立政はさりげなく李陵のそばに寄り、低声で再び帰る意志があるのかを尋ねた。李陵は頭を横に振った。「丈夫は再び辱めを受けることはできない。」その言葉には力がなかったが、衛律に聞こえることを恐れたわけではなかった。

五年後、昭帝の始元六年の夏、北方でひっそりと死ぬと思われていた蘇武が、偶然にも漢に帰ることになった。漢の天子が上林苑で得た雁の足に蘇武の帛書がついていたという有名な話は、もちろん蘇武の死を主張する単于を説破するための作り話である。十九年前、蘇武に従って胡地に来た常恵という者が漢使に遭遇し、蘇武の生存を知らせ、この嘘をもって武を救出するように教えたのだった。すぐに北海の上に使者が派遣され、蘇武は単于の庭に引き出された。李陵の心は動揺した。蘇武が漢に戻れるかどうかにかかわらず、その偉大さは変わらず、したがって李陵の心の痛みも変わらないはずだが、しかし、天はやはり見ていたのだという考えが李陵を深く打った。見ていないようでいて、やはり天は見ている。彼は粛然として恐れた。今でも自分の過去を決して非難するつもりはないが、蘇武という男がここにいて、無理ではなかったはずの自分の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやり遂げ、しかもその跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、李陵にとって耐え難いものであった。胸をかきむしられるような女々しい気持ちが羨望ではないかと、李陵は極度に恐れた。

李陵は別れの宴を開いた。友人たちと共に、彼の心には言いたいことが山ほどあった。しかし、結局のところ、彼が胡に降った際の志がどこにあったのかということに尽きる。その志を果たす前に、故国の一族が滅ぼされ、もはや帰るすべもなくなってしまったのだ。それを口にすれば愚痴になると思い、彼は一言もそのことには触れなかった。ただ、宴が盛り上がる中、耐えきれずに立ち上がり、舞い、歌い始めた。

「万里の道を越え、砂漠を渡る。君のために、匈奴に立ち向かう。道は尽き、矢や刃が砕け、士たちは滅び、名は消え去る。老母はすでに亡くなり、恩を返したいと思っても、どこに帰るべきか…」

歌いながら、彼の声は震え、涙が頬を流れた。女々しい自分を叱りつけながらも、どうしようもなかった。

蘇武は、十九年ぶりに祖国へと帰って行った。

その後、司馬遷は執筆を続けた。彼はこの世を去ったが、書の中の人物として生き続けていた。現実の生活では再び口を開くことはなかったが、魯仲連の言葉を借りて、彼の思いは烈々と語られた。伍子胥のように自らの目を抉り、藺相如のように秦王を叱責し、太子丹のように荊軻を送り出す涙を流した。楚の屈原の悲しみを語り、彼が汨羅に身を投げようとした時の心情を長々と引用したとき、司馬遷はその文章がまるで自分の作品のように感じてならなかった。

原稿を起こしてから十四年、腐刑の苦しみを受けてから八年。都では巫蠱の獄が起こり、戻太子の悲劇が繰り広げられていた頃、父子相伝のこの著作は、ほぼ最初の構想通りの通史が完成した。増補や改訂を重ねるうちに、さらに数年が経った。史記は百三十巻、五十二万六千五百字に及ぶ大作となり、完成したのは武帝の崩御が近い頃だった。

列伝第七十、太史公自序の最後の筆を置いたとき、司馬遷は机に凭れかかり、ぼんやりとした思いに耽っていた。深い溜息が腹の底から漏れ、目は庭前の槐の木の茂みに向けられていたが、実際には何も見えていなかった。うつろな耳で、彼は庭のどこかから聞こえる一匹の蝉の声に耳を傾けているようだった。歓びがあるはずなのに、気の抜けた漠然とした寂しさが心を覆い、不安が先に立っていた。

完成した著作を官に納め、父の墓前でその報告を終えるまでは気を張っていたが、それが終わると急にひどい虚脱感が襲ってきた。憑依が去った巫者のように、身も心もぐったりと崩れ、まだ六十を出たばかりの彼は、急に十年も年を取ったかのように老け込んでしまった。武帝の崩御も昭帝の即位も、かつての太史令司馬遷にとってはもはや何の意味も持たないように思えた。

李陵と蘇武が別れた後の彼については、正確な記録は残されていない。ただ、元平元年に胡地で亡くなったということだけが知られている。

すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑単于は死に、その子壺衍単于の時代となっていた。その即位に絡んで左賢王、右谷蠡王の内紛が起こり、李陵も心ならずもその争いに巻き込まれたことは想像に難くない。

漢書の匈奴伝には、李陵の子が胡地で生まれ、烏籍都尉を立てて単于に立ち向かい、呼韓邪単于に対抗して失敗したことが記されている。それは宣帝の五鳳二年のことで、李陵が亡くなってからちょうど十八年後の出来事だった。李陵の子とだけ記されており、名前は残されていなかった。