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5〜7

von 太宰治

「やめて、やめて。」と僕は言った。こんな時、他に言う言葉は思いつかなかった。まさにとんでもない事態になったと思った。

「困る?どうなの?ね、このまままた恥をかくの?昨夜、お月さまが明るくて眠れなくて、庭に出てみたの。ひばりの枕元のカーテンが少し開いていたから、のぞいてみたのよ。ひばりは月の光を浴びて、笑いながら眠っていたわ。あの寝顔、素敵だったな。ね、ひばり、どうするの?」

とうとう壁際まで押しつけられた。僕はなんだかばかばかしくなってきた。

「無理だよ。どう考えても無理だ。僕は二十歳なんだ。困るんだ。おい、誰か、こっちに来るよ。」洗面所の方から、ぱたぱたとスリッパの足音が聞こえてきた。

「だめね、そんなのじゃないのよ。」マア坊は僕から離れ、顔を上げて髪を掻き上げ、あははと笑った。顔はお湯から上がったばかりのように、ぽっと赤かった。

「もう、講話の時間だ。失礼するよ。僕は時間に遅れるなんて、だらしないことが嫌いなんだ。」

僕は洗面所から飛び出した。その瞬間、

「竹さんと仲良くしちゃだめよ。」とマア坊が細い声で言った。その声が、僕の心に深く響いた。

どうも、秋はよくない。

部屋に戻ると、まだ講話は始まっておらず、かっぽれがベッドにひっくり返って、いつもの都々逸を歌っていた。みちの芝が人に踏まれても朝露によみがえるという意味の、以前にも何度か聞かされた都々逸だったが、その時だけは、いつものような閉口や迷惑を感じず、素直に耳を傾けて聴いていたのだから、不思議なものだ。もしかしたら、僕は気が弱くなってしまったのかもしれない。

やがて講話が始まり、日支文明の交流というテーマで、岡木という若い先生が主に医学の交流について、昔からのさまざまな例を挙げて具体的にわかりやすく説明してくださった。日本と中国は、常に互いに教え合って進んできた国だということが、今さらのように深く頷かされ、反省させられることも多かったが、それにしても、今日の僕の秘密がどうしても気がかりで、早くマア坊のことを忘れ、以前のように何の気も使わない模範的な塾生になりたいと強く思った。

結局、あのマア坊がいけないのだ。もう少し聡明な女性かと思っていたら、意外にも愚かな女だった。さっき、あんな思い余ったような素振りを見せたが、あれには何の意味もないことは僕にもわかっている。僕には馬鹿な自惚れはない。マア坊はいつも自分のことばかり考えているのだ。つくしのことも、僕のことも、どうでもいいのだ。ただ、自分の美しさや可哀想さに陶酔していたいだけだ。無邪気なふりを装っているけれど、実際には虚栄心が強くて、誰にも負けたくないのだろうし、ひどい欲張りだから、他人のものは何でも欲しがるだろう。マア坊の策略くらいは、僕にも見抜ける。

マア坊は、あのつくしの手紙を僕に見せて、やっぱり少し威張りたかったのだろう。しかし、僕がその手紙をひどく馬鹿にしているのを敏感に察知し、すぐに態度を変えて泣いたり押したり、あらぬことを口走る結果になったのだろう。すみれほどの誇りどころか、あの人の自尊心の高さは、女王様のようだ。とても、いたわりきれるものではない。僕とマア坊がいい仲だとみんなが言い囃しているとか言っていたが、ばかばかしい。僕は今まで、マア坊のことで人からひやかされたことは一度もない。マア坊ひとりが騒いでいるのだ。マア坊には、たしなみのない、本質的な育ちのいやしさがある。本当に、越後の言うように、母親がいけない人だったのかもしれない。冷静に考えるにつれて、腹が立ってきた。マア坊には、道場の助手としての資格がないと思った。道場は神聖な場所だ。みんな一心に結核征服を念じて朝夕の鍛錬に精進しているところなのだ。もしもう一度、マア坊があんな露骨な言動を示したなら、僕は断固として組長の竹さんに訴えて、マア坊を道場から追放してもらおうと決意した。

そのように決意を固めたら、やっと僕は、さっきの洗面所での悪夢について、そんなにこだわりを感じなくなった。

あれは、悪い夢だ。悪い夢は、人生に何のつながりもないものだ。君を殴った夢を見たって、僕はその翌日、君にお詫びを言いには行かない。僕はそんな感傷的な宗教家や詩人の心を持ってはいない。新しい男は、ややこしいことが大嫌いだ。

夢にはこだわらないつもりだが、しかし、その洗面所の悪夢の翌日、つまり今朝の未明に、もう一つ夢を見た。そして、これはいい夢だ。いい夢は、忘れたくない。人生に何かつながりを持たせたい。これは、ぜひとも君にも知らせてあげたい。竹さんの夢だ。竹さんは、いい人だね。今朝、つくづくそう思った。あんな人は、めったにいない。君が竹さんに熱を上げるのも無理はないと思った。君はさすがに詩人だけあって、勘がいい。目が高い。偉い。君があまり竹さんに熱を上げるので、寝込んだりしたら困ると思って、その後、竹さんについての報告を控えめにしていたが、そんな心配は全然不要だということが、今朝、はっきりわかった。

竹さんをどんなに好いても、竹さんはその人を寝込ませたり堕落させたりなんかしない人だ。どうか、竹さんをもっと好いてくれ。僕も、君に負けずに竹さんをもっと信頼するつもりだ。それにしても、マア坊は馬鹿な女だね。竹さんとはまるで逆だ。全くお説の通り、映画女優の出来損ないそのものであった。昨日、あれから、マア坊が夜の八時の摩擦に、自分の番でもないのに「桜の間」にやって来て、あのお昼のことなどはきれいに忘れてしまったように、固パンやかっぽれを相手にきゃあきゃあ騒ぎ、その時、僕の摩擦は竹さんだったが、竹さんはいつも通り無言でシャッシャッと鮮やかな手つきで摩擦して、マア坊たちのつまらない冗談にも時々にっこり笑い、マア坊がつかつかと僕たちの傍へやって来て、

「竹さん、手伝おうか?」と、ふざけた口調で声をかけると、竹さんは軽く会釈して、「おおきに、すぐ終わります」と、落ち着いた様子で答えた。

そんな竹さんが好きだ。彼女が下手に好意を示すときは、どうにも見ていられないほどぶざまになるからだ。マア坊がくるりと回れ右して、固パンの方へ行ったとき、僕は小声で竹さんに言った。「マア坊って、きざな人だね。」

「芯は、いい子や。」竹さんは、優しい口調でぽつりと答えた。

その瞬間、竹さんはマア坊よりも人間としての格が上なのかもしれないと、僕はひそかに思った。竹さんは、さっさと摩擦を終わらせ、金盥を抱えて隣の「白鳥の間」へと向かっていった。その後、マア坊がにやにや笑いながら僕のベッドを訪れ、小さな声で言った。「竹さんに、何か言った。確かに言った。あたしは、知ってる。」

「きざな子だって言ったんだ。」

「意地悪! どうせ、そうよ。」意外にも、怒らない。「ね、あれ、持ってる?」と、両手で四角の形を作って見せる。

「ケースかい?」

「うん。どこにしまってあるの?」

「その辺の引き出しだ。返してもいいぜ。」

「あら、いやだわ。一生持っててね。お邪魔でしょうけど。」妙にしんみりと言ってから、いきなり大声で、「やっぱり、ひばりの所から一番お月さまがよく見える。かっぽれさん、ちょっと来て! ここで並んでお月さまを拝もうよ。明月や、なんて俳句をよもうよ。いかが?」

どうも、騒がしい。

その夜は、特に異変もなく寝に就いたが、夜明け近くにふと目が覚めた。廊下の残置灯の光で部屋はぼんやりと明るい。枕元の時計を見ると、五時少し前だった。外はまだ真っ暗のようだ。窓の外に誰かが見ている。マア坊だ! とすぐに思い浮かんだ。白い顔が、確かに笑って、すっと消えた。僕は起きてカーテンを引きはがして見たが、何もない。変な気持ちだった。寝ぼけていたのかもしれない。いくらマア坊が滅茶苦茶な女だって、まさかこんな時間に。僕も案外ロマンチストだな、と苦笑しながらベッドにもぐり込んだが、どうにも気になる。しばらくして、遠くの洗面所から、しゃっしゃっという水の音がかすかに聞こえてきた。

あれだ! と思った。どうしてそう思ったのかはわからない。さっき笑って消えた人は、あれだ。確かに、あそこに今いるのだ。そう思うと、我慢ができなくなり、そっと起きて足音を忍ばせて廊下に出た。

洗面所には、青い裸電球が一つ灯っている。のぞいてみると、絣の着物に白いエプロンをかけた竹さんが、床板を拭いていた。手拭いをあねさんかぶりにして、大島のアンコに似ている。振り返って僕を見たが、それでも黙って床板を拭いている。顔がひどく痩せ細って見えた。道場の人たちは皆、まだ静かに眠っている。竹さんは、いつもこんなに早く起きて掃除を始めているのだろうか。僕はうまく口がきけず、ただ胸をわくわくさせて竹さんの掃除の姿を見つめていた。白状すると、この時、生まれて初めての恐ろしい欲望に悩まされた。夜が明ける直前の真っ暗な闇には、何かただならぬ気配がうごめいているものだ。