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4〜6

von 太宰治

「やめてよ。意味がないじゃないか。」僕は、こんなところを誰かに見られたら困ると思った。「全く意味なんてないじゃないか。」繰り返して言ったその言葉も、あまり意味のあるものには思えなかった。

「ひばりは、本当にのんきな人ね。」と、マア坊は指先で頬の涙を拭きながら少し笑って言った。「今まで、場長さんと竹さんのことを知らなかったなんて。」

「そんな下品なことは知らない。」急に、ひどく不愉快になってきた。みんなを殴りたくなった。

「何が下品なの?結婚って、下品なものなの?」

「いや、そんなことはないけど、」僕は口ごもって、「前から、何か、――」

「あらいやだ。そんなことはないのよ。場長さんは、まじめなお方よ。竹さんには何も言わずに、竹さんのお父さんのところにお願いに行ったのよ。竹さんのお父さんは今こちらに疎開してきているんだって。それで、竹さんのお父さんから、こないだ竹さんに話があって、竹さんは二晩も三晩も泣いてたわ。お嫁に行くのは、いやだって。」

「それならいい。」僕は、ほっとした。

「どうしていいの?泣いたからいいの?いやねえ、ひばりは。」と笑いながら言って、顔を横に傾け、目の光が妙に生き生きとしてきた。右腕をすっと前に出し、卓の上の僕の手を固く握った。「竹さんはね、ひばりが恋しくて泣いたのよ、本当よ。」と言って、さらに強く握りしめた。僕も、わけがわからず握り返した。意味のない握手だった。すぐに馬鹿らしくなってきて、手を引っ込めて、

「お茶を、ついであげようか。」と照れ隠しに言ってみた。

「いいえ。」とマア坊は目を伏せて気弱そうに、しかも、きっぱりと、不思議な断り方で断った。

「それじゃ、出ようか。」

「ええ。」

小さく頷いて、顔を上げた。その顔が、よかった。断然、よかった。完全に無表情で、鼻の両側に疲れたような細い皺ができていて、受け口が少し開いて、大きな目は冷たく深く澄んで、少し青ざめた顔には、すごいくらいの気品があった。この気品は、何もかも綺麗にあきらめて捨てた人に特有のものである。マア坊も苦しみ抜いて、初めて、透き通るほど無欲な、あたらしい美しさを顕現できるような女性になったのだ。これも、僕たちの仲間だ。新造の大きな船に身をゆだねて、無心に軽く天の潮路のままに進むのだ。微かな「希望」の風が、頬を撫でる。僕はその時、マア坊の顔の美しさに驚き、「永遠の処女」という言葉を思い出したが、普段気障だと思っていたその言葉も、その時には、全く気障ではなく、実に新鮮な言葉のように感じられた。

「永遠の処女」なんてハイカラな言葉を野暮な僕が使うと、君に笑われるかもしれないが、本当に僕は、あの時、あのマア坊の気高い顔で救われたのだ。

竹さんの結婚も、遠い昔のことのように思われて、すっと体が軽くなった。あきらめるとか何とか、そんな意志的なものではなくて、眼前の風景がみるみる遠のいて、望遠鏡を逆さに覗いたみたいに小さくなってしまった感じだった。胸中に何のこだわりもなくなった。これでもう僕も、完成されたという爽快な満足感だけが残った。

晩秋の澄んだ青空をアメリカの飛行機が旋回している。僕たちは、その三好野風の家の前に立ってそれを見上げて、

「つまらなそうに飛んでいるねえ。」

「ええ。」とマア坊は微笑む。

「でも、飛行機というものの形には、新しい美しさがある。無駄な飾りが一つもないからだろうか。」

「そうねえ。」とマア坊は小声で言って、子供のように無心に空の飛行機を見送っている。

「無駄な飾りのない姿って、いいものなんだねえ。」

それは、飛行機だけでなく、マア坊の放心状態のような素直な姿勢についてのひそかな感慨でもあった。

二人黙って歩き、僕は道で出会う女性の顔を一つ一つ注意して見ていた。程度の差はあるが、今の女性の顔には皆一様に、マア坊のような無欲で透明な美しさがあらわれているように思われた。女性が、女性らしくなったのだ。しかしそれは、大戦以前の女性に戻ったというわけではない。戦争の苦悩を通過した新しい「女性らしさ」だ。何といったらいいのか、鶯の笹鳴きのような美しさだ、とでも言ったら君はわかってくれるだろうか。つまり、「軽やかさ」。

お昼少し前に道場へ帰って来たが、往復半里以上も歩いたので、さすがに疲れて、寝巻に着替えるのも面倒くさくて、羽織も脱がずにベッドに寝ころがって、そのままうとうと眠った。

「ひばり、ごはんよ。」

目を薄く開けて見ると、竹さんがお膳を持って笑って立っている。

ああ、場長夫人!

すぐに、はね起き、

「や、すみません。」と言って、思わず軽く頭を下げた。

「寝ぼけているな。寝ぼすけさん。」とひとりごとのように言って、お膳を枕元に置き、「着物を着たまま寝ている人があるかいな。今風邪をひいたら大変よ。早く寝巻に着替えたらいい。」眉をひそめて不機嫌そうに言いながら、ベッドの引き出しから寝巻を取り出し、「世話の焼けるぼんぼんや。おいで、着替えさせてあげる。」

僕はベッドから降りて兵古帯をほどいた。いつもの通りの竹さんだ。場長と結婚するなんて、嘘みたいに思われてきた。ああ、僕はいまうとうと眠って夢を見たのだ。お母さんが来たのも夢、マア坊があの三好野のような家で泣いたのも夢、と一瞬そんな気がして嬉しかったが、しかし、そうではなかった。

「いい久留米絣やな。」竹さんは僕に着物を脱がせて、「ひばりには、とてもよく似合うわよ。マア坊は果報やなあ。帰りに一緒にオバさんのところでお茶を飲んだってな。」

やはり、夢ではなかった。

「竹さん、おめでとう。」と僕が言った。

竹さんは返事をしなかった。黙って、後ろから寝巻をかけてくれて、それから、寝巻の袖口から手を入れて、僕の腕の付け根のところを、ぎゅっとかなり強く抓った。僕は歯を食いしばって痛さを堪えた。

何事もなかったかのように寝巻きに着替え、僕は食事を始めた。竹さんはその傍らで、僕の絣の着物を丁寧に畳んでいる。お互いに一言も口を開かなかった。

しばらくして、竹さんが極めて小さな声で囁いた。「かんにんね。」

その一言には、竹さんのすべての思いが込められているように感じた。

「ひどいやつや。」僕は食事をしながら、竹さんの言葉の訛りを真似て、そっと呟いた。

その言葉にも、僕のすべての思いが詰まっているように思えた。

竹さんはくすくすと笑い出し、「おおきに。」と言った。

和解ができたのだ。僕は竹さんの幸福を、心から祈りたい気持ちになった。

「いつまでここにいるの?」と尋ねると、竹さんは「今月いっぱい。」と答えた。

「送別会でもしようか。」と提案すると、竹さんは大袈裟に身震いして、「おお、いやらし!」と言った。

彼女は畳んだ着物をさっさと引き出しにしまい込み、澄ました顔で部屋を出て行った。どうして僕の周りの人たちは、皆こんなにさっぱりとした、いい人ばかりなのだろう。

今、僕はこの手紙を、午後一時の講話を聞きながら書いている。今日の講話は、誰が放送しているか、わかりますか? お喜びください。大月花宵先生です。大月先生の最近の人気は、すごいものです。もう「越後獅子」という失礼なあだ名では呼べなくなりました。君がそのことを発見してから、二、三日は僕も誰にも言わずに我慢していたが、とうとうマア坊にこっそり教えたら、噂が瞬く間に広がり、「オルレアンの少女」の作者だということで無条件に尊敬されるようになった。場長も巡回の際に、花宵先生に向かって、今まで知らずに失礼しました、と謝ったくらいだ。

新館はもちろん、旧館の塾生たちからも、詩や和歌、俳句の添削依頼が殺到している。けれども花宵先生は、急に威張ったりすることもなく、やっぱり寡黙な越後獅子で、塾生たちの詩歌の添削はほとんどかっぽれに任せている。かっぽれは最近大得意で、花宵先生の一番弟子のつもりで、他の人の苦心の作品を勝手に直している。

今日は事務所からの依頼で、花宵先生が初めて講話をすることになり、「献身」という題でお話をされている。拡声機を通して流れるその声を聞いていると、非常に貴い人から教えられているような厳粛な気持ちになってくる。実に落ち着いた、威厳のある声だ。花宵先生は、僕が考えているよりもずっと偉い人なのかもしれない。お話の内容も、さすがに素晴らしい。全く古くないのだ。

献身とは、ただやたらに絶望的な感傷で自分を殺すことでは決してない。大きな違いがある。献身とは、自分を最も華やかに、永遠に生かすことなのだ。人間は、この純粋な献身によってのみ不滅である。しかし、献身には何の身支度も要らない。今日、ただ今、このままの姿で、すべてを捧げるべきである。鍬を持つ者は、鍬を持った野良姿のままで献身すべきだ。自分の姿を偽ってはいけない。献身には猶予が許されない。人間の一瞬一瞬が、献身でなければならない。いかにして見事に献身すべきかなどと工夫をこらすのは、最も無意味なことだ、と力強く、諄々と説いている。

聞きながら、僕は何度も赤面した。今まで、自分を新しい男だと少し宣伝しすぎたようだ。献身の身支度に凝りすぎていた。お化粧にこだわっていたところがあったように思う。新しい男の看板は、この辺で潔く撤回しよう。僕の周囲は、もう僕と同じくらいに明るくなっている。これまで、僕たちが現れるところは、いつも自然と明るく華やかになっていったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく遅くもなく、極めて当たり前の歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへ続いているのか。それは、伸びていく植物の蔓に聞いた方がいい。蔓はこう答えるだろう。

「私は何も知りません。しかし、伸びていく方向に陽が当たるようです。」

さようなら。

十二月九日