十六〜十八
von 夏目漱石
私が訪れたのは、まだ薄暗くなりかけた頃だったが、几帳面な先生はすでに家を出ていた。「時間に遅れるといけないから、ついさっき出かけました」と奥さんが言い、私を先生の書斎へ案内してくれた。
書斎には洋風の机と椅子があり、その周りには美しい背表紙の本が並んでいた。ガラス越しに電灯の光が照らし出している。奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団の上に私を座らせ、「少し本でも読んでいてください」と言って出て行った。私はまるで主人の帰りを待つ客のような気持ちになり、居心地が悪かった。緊張しながら煙草を吸っていると、奥さんが茶の間で何か下女に話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当たって曲がった角にあり、座敷からは少し離れた静けさを保っていた。しばらくすると奥さんの声が止み、部屋は静まり返った。私は泥棒を待つような心持ちで、気を張っていた。
三十分ほど経つと、奥さんが再び書斎の入口に顔を出した。「あら」と言って、軽く驚いた様子で私を見た。そして、控えめに座っている私を面白そうに眺めた。
「それじゃ窮屈でしょう?」
「いえ、窮屈ではありません。」
「でも退屈でしょう?」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているので、退屈ではありません。」
奥さんは紅茶の茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから、番をするには良くありませんね」と私が言うと、
「じゃ、失礼ですがもっと真ん中に出てきてください。ご退屈だろうと思って、お茶を入れて持ってきたんですが、茶の間でよければあちらでお出ししますから。」
私は奥さんの後について書斎を出た。茶の間には美しい長火鉢があり、鉄瓶が湯を沸かしていた。そこで茶とお菓子をいただいたが、奥さんは寝る時間が近いと言って、茶碗には手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会にお出かけになるんですか?」
「いいえ、滅多に出たことはありません。最近はますます人の顔を見るのが嫌になってきたようです。」
奥さんの様子には特に困った風は見えなかったので、私は思わず大胆になった。
「それじゃ、奥さんだけが例外なんですか?」
「いいえ、私も嫌われている一人です。」
「それは嘘です」と私は言った。「奥さん自身、嘘だと知りながらそうおっしゃるんでしょう。」
「なぜ?」
「私の考えでは、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんです。」
「あなたは学問をする方だけあって、なかなかお上手ですね。空っぽな理屈を使いこなすのが。」
「両方とも言われることはありますが、この場合は私の方が正しいのです。」
「議論はいやよ。男の方は議論だけなさるのが好きみたいですね。空の盃でよくああ飽きずに献酬ができると思いますわ。」
奥さんの言葉は少し手痛かったが、決して激しいものではなかった。彼女は自分の頭脳を相手に認めさせることで、誇りを感じるほど現代的ではなかった。むしろ、彼女はもっと深い心の部分を大切にしているように見えた。
私はまだ言いたいことがあったが、奥さんから議論を仕掛ける男のように思われては困ると思い、遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶の茶碗の底を覗きながら、私を見つめ、「もう一杯お持ちしましょうか?」と聞いた。私はすぐに茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二つ?」
奥さんは角砂糖をつまみ上げ、私の顔を見て茶碗の中に入れる砂糖の数を尋ねた。彼女の態度は私に媚びるものではなかったが、先ほどの強い言葉を打ち消そうとする愛嬌に満ちていた。
私は黙って茶を飲んだ。飲み終わっても黙っていた。
「あなた、大変黙り込んじゃったのね」と奥さんが言った。
「何か言うとまた議論を仕掛けるなんて、叱られそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再び言った。
二人はその話をきっかけに再び会話を始めた。そして、共通の興味を持つ先生の話題に戻った。
「奥さん、先ほどの続きをもう少しお話ししてもいいですか? 奥さんには空っぽな理屈に聞こえるかもしれませんが、私はそんな上の空で言っているわけではありませんから。」
「じゃ、おっしゃい。」
「今、奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は今のように生きていられるでしょうか?」
「それは分からないわ、あなた。そんなこと、先生に聞いてみるしかないじゃありませんか。私のところに持ってくる問題じゃないわ。」
「奥さん、私は真面目ですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくちゃ。」
「正直よ。正直に言っても私には分からないのよ。」
「じゃ、奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか? これは先生に聞くよりもむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたにお尋ねします。」
「何もそんなことを開き直って聞かなくてもいいじゃありませんか。」
「真面目くさって聞くものはない。分かり切っているとおっしゃるんですか?」
「まあ、そうよ。」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどちらを向いても面白くなさそうな先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃなく、あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか?」
「それは私から見れば分かっています。(先生はそう思っていないかもしれませんが)先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかもしれませんよ。そういうと、自己陶酔になるようですが、私は今、先生を人間としてできるだけ幸福にしていると信じています。どんな人がいても、私ほど先生を幸福にできる人はいないと思い込んでいます。それだからこうして落ち着いていられるんです。」
「その信念が先生の心に良く映るはずだと私は思いますが。」
「それは別問題ですわ。」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか?」
「私は嫌われているとは思いません。嫌われる理由がないからです。でも、先生は世間が嫌いなんでしょう。最近では、人間そのものが嫌いになっているのかもしれません。だから、私もその人間の一人として好かれるはずがないじゃありませんか。」
奥さんの言葉の意味が、ようやく私の中で理解できた。
彼女の理解力に感心しつつ、奥さんの態度が旧式の日本の女性らしくないところも、私の心に一種の刺激を与えた。彼女はその頃流行り始めた新しい言葉をほとんど使わなかった。
私は、女性と深く関わった経験がない無知な青年だった。男としての私は、異性に対する本能から、常に女性を憧れの対象として夢見ていた。しかしそれは、懐かしい春の雲を眺めるような心持ちで、ただ漠然とした夢に過ぎなかった。だから、実際の女性の前に出ると、私の感情が突然変わることが時々あった。目の前に現れた女性に惹かれるどころか、逆に変な反発を感じることもあった。しかし、奥さんに対してはそんな気持ちはまったく起こらなかった。普通、男女の間に横たわる思想の不均衡という考えもほとんど思い浮かばなかった。私はただ、誠実な先生の批評家であり同情者として、奥さんを眺めていた。
「奥さん、私がこの前、なぜ先生が世間的にもっと活動しないのかとあなたに尋ねたとき、あなたはこう言いましたね。『元はああじゃなかったんだ』って。」
「ええ、そう言いました。実際、あんなじゃなかったんですもの。」
「どんな人だったんですか?」
「あなたの望むような、また私の望むような頼もしい人だったんです。」
「それがどうして急に変わってしまったんですか?」
「急にじゃありません、段々ああなってきたのよ。」
「奥さんはその間、ずっと先生と一緒にいらっしゃったんでしょう?」
「もちろんいましたわ。夫婦ですもの。」
「じゃあ、先生がそう変わっていく理由がちゃんと分かるはずなのに。」
「それだから困るのよ。あなたにそう言われると、本当に辛いんです。どう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何度もあの人に、どうぞ打ち明けてくださいって頼んでみたか分かりません。」
「先生は何とおっしゃるんですか?」
「何も言わない、何も心配することはない、おれはこういう性質になったんだからとだけ言って、取り合ってくれないんです。」
私は黙っていた。奥さんも言葉を途切らせた。下女部屋にいる下女は、何の音も立てなかった。私はまるで泥棒のことを忘れてしまったかのようだった。
「あなたは私に責任があると思っていませんか?」と突然、奥さんが尋ねた。
「いいえ」と私は答えた。
「どうぞ隠さずに言ってください。そう思われるのは、身を切られるより辛いんだから」と奥さんが続けた。「これでも私は、先生のためにできるだけのことをしているつもりなんです。」
「それは先生も認めていることですから、大丈夫です。ご安心ください、私が保証します。」
奥さんは火鉢の灰を掻きならし、水注の水を鉄瓶に注いだ。鉄瓶はすぐに静かになった。
「私はとうとう辛抱しきれなくなって、先生に聞きました。私に悪いところがあるなら、遠慮なく言ってください。改められる欠点なら改めるからって。すると先生は、『お前に欠点なんかない、欠点はおれの方にあるだけだ』と言うんです。そう言われると、私は悲しくてたまらなくなります。涙が出て、なおさら自分の悪いところが聞きたくなるんです。」
奥さんの目には涙がいっぱい溜まっていた。