一〜三
von 夏目漱石 · 2026-03-31
私はその人を常に「先生」と呼んでいた。だからここでもただ「先生」と書くだけで、本名は明かさない。これは世間を気にする遠慮というよりも、私にとって自然な呼び方だからだ。先生の記憶がよみがえるたびに、すぐに「先生」と呼びたくなる。筆を執っても、心の中は同じだ。よそよそしい頭文字など使う気にはなれなかった。
私が先生と知り合ったのは鎌倉だった。その時、私はまだ若い書生だった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友人から、ぜひ来いという手紙を受け取ったので、少しお金を工面して出かけることにした。お金を工面するのに二、三日かかったが、鎌倉に着いて三日も経たないうちに、友人は急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だと書かれていたが、友人はそれを信じなかった。彼は以前から国元にいる親たちに勧められない結婚を強いられていたのだ。現代の習慣から考えると、彼は結婚するにはまだ若すぎたし、肝心の相手も気に入らなかった。だから、夏休みに帰るべきところを、わざと東京の近くで遊んでいたのだ。
友人は電報を私に見せて、どうしようか相談した。私はどうしていいかわからなかった。しかし、もし本当に彼の母が病気なら、彼は帰るべきだろう。結局、彼は帰ることになり、私は一人取り残された。
学校の授業が始まるまでまだ日数があったので、鎌倉に残ることも、帰ることもできる状況だった。私は当分元の宿に留まることにした。友人は中国のある資産家の息子で、金に不自由はなかったが、学校が学校で、年齢も年齢なので、生活の程度は私とあまり変わらなかった。そのため、一人ぼっちになった私は、特に良い宿を探す手間もかからなかった。
宿は鎌倉の辺鄙な方角にあった。玉突きやアイスクリームといったハイカラなものには、長い畷を一つ越えなければ手が届かなかった。車で行くと二十銭も取られた。しかし、個人の別荘はあちこちに建てられていて、海にも近いので、海水浴には非常に便利な場所だった。
私は毎日海に入りに出かけた。古い藁葺きの間を通り抜けて磯に下りると、避暑に来た男や女で砂浜が賑わっていた。ある時は、海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしていることもあった。知り合いが一人もいない私も、こうした賑やかな景色の中に包まれて、砂の上に寝そべったり、膝を波に打たせて跳ね回るのは楽しかった。
そんなある日、私は先生をこの雑踏の中で見つけた。海岸には掛茶屋が二軒あったが、私はふとした機会からその一軒に行き慣れていた。長谷に大きな別荘を構えている人とは違って、ここにいる避暑客たちは共同の着替え場が必要だった。彼らはここでお茶を飲み、休息し、海水着を洗濯したり、塩辛い身体を清めたり、帽子や傘を預けたりしていた。海水着を持たない私も、持ち物を盗まれる心配があったので、海に入るたびにその茶屋に全てを脱ぎ捨てていた。
私がその掛茶屋で先生を見た時、先生はちょうど着物を脱いでこれから海に入ろうとしていた。私はその時、逆に濡れた身体を風に吹かせて水から上がってきた。二人の間には、目を遮る多くの黒い頭が動いていた。特別な事情がなければ、私は先生を見逃していたかもしれない。それほど浜辺が混雑していて、私の頭も放漫だった。しかし、すぐに先生を見つけたのは、彼が一人の西洋人を伴っていたからだ。
その西洋人の白い肌が、掛茶屋に入るや否や、すぐに私の注意を引いた。彼は純粋な日本の浴衣を着て、それを床几の上に放り出したまま、腕を組んで海の方を向いて立っていた。彼は私たちが穿く猿股一つの外、何も肌に着けていなかった。それが私にはとても不思議だった。二日前に由井が浜まで行き、砂の上にしゃがみながら西洋人の海に入る様子を眺めていたからだ。私が座った場所は少し小高い丘の上で、そのすぐ傍がホテルの裏口だった。私が凝としている間に、多くの男たちが塩を浴びに出てきたが、いずれも胴と腕と股は出していなかった。女たちは特に肉を隠しがちで、頭にゴム製の頭巾を被り、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かべていた。そんな光景を目撃したばかりの私の目には、猿股一つで皆の前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく映った。
彼はやがて自分の傍を振り返り、そこにこごんでいる日本人に一言二言何か言った。その日本人は砂の上に落ちた手拭いを拾い上げていたが、それを取り上げるとすぐに頭を包んで海の方へ歩き出した。その人がまさに先生だった。
私は単に好奇心から、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿を見守っていた。すると彼らは真直に波の中に足を踏み込んだ。そして遠浅の磯近くに賑やかに騒いでいる多くの人々の間を通り抜け、比較的広々とした場所に来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向かって行った。それから引き返し、また一直線に浜辺まで戻ってきた。掛茶屋に帰ると、井戸の水も浴びずにすぐ身体を拭いて着物を着て、さっさとどこかへ行ってしまった。
彼らが出て行った後、私は元の床几に腰をおろして煙草を吹かしていた。その時、私はぼんやりと先生のことを考えていた。どうもどこかで見たことのある顔のように思われてならなかった。しかし、どうしてもいつどこで会った人か思い出せなかった。
その時、私は何もすることがなく、むしろ退屈に苦しんでいた。だから翌日もまた、先生に会う時間を見計らって、わざわざ掛茶屋まで出かけてみた。しかし、西洋人は来ず、先生一人だけが麦藁帽を被って現れた。先生は眼鏡を外して台の上に置き、すぐに手拭で頭を包み、浜へと急いで降りて行った。
先生が昨日のように賑やかな浴客の中をすり抜け、一人で泳ぎ始めた時、私は急にその後を追いたくなった。浅い水を跳ね上げながら、相当深いところまで進み、そこから先生を目指して泳ぎ出した。しかし、先生は昨日とは違って、一種の弧を描くように妙な方向から岸に戻り始めた。結局、私の目的は達成されなかった。私が陸に上がり、手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はすでに着物を着て、外へ出て行った。
次の日も同じ時刻に浜へ行き、先生の顔を見た。その次の日もまた同じことを繰り返したが、私たちの間には言葉を交わす機会も挨拶をする場面もなかった。先生の態度はむしろ非社交的で、決まった時間に超然と現れ、また超然と去って行った。周囲がどんなに賑やかでも、先生はほとんどそれに注意を払う様子がなかった。最初に一緒に来た西洋人は、その後まったく姿を見せなかった。先生はいつも一人だった。
ある時、先生がいつものようにさっさと海から上がり、脱ぎ捨てた浴衣を着ようとした時、どういうわけか、その浴衣には砂がたくさん付いていた。先生はそれを落とすために後ろ向きになり、浴衣を二、三度振った。その瞬間、着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間から落ちてしまった。先生は白絣の上に兵児帯を締めてから、眼鏡がなくなったことに気づいたようで、急に周りを探し始めた。私はすぐに腰掛の下に首と手を突っ込んで眼鏡を拾い上げた。先生は「ありがとう」と言って、それを私の手から受け取った。
次の日、私は先生の後について海へ飛び込んだ。そして先生と同じ方向に泳いで行った。二丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返り、私に話しかけた。広い青い海の表面には、私たち二人以外に何も浮かんでいなかった。そして、強い太陽の光が、目の届く限り水と山を照らしていた。私は自由と喜びに満ちた筋肉を動かし、海の中で躍り狂った。先生は再び手足の運動を止め、仰向けになって波の上に寝そべった。私もその真似をした。青空の色が、まぶしいほどに私の顔に降り注いだ。「愉快ですね」と、私は大きな声を出した。
しばらくして、海の中で姿勢を改めた先生が、「もう帰りませんか」と言って私を促した。比較的強い体質を持つ私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし、先生に誘われると、私はすぐに「ええ、帰りましょう」と快く答えた。そして二人で元の道を浜辺へ引き返した。
こうして、私は先生と親しくなった。しかし、先生がどこに住んでいるのかはまだ知らなかった。
それから中二日を置いて、ちょうど三日目の午後だったと思う。掛茶屋で先生と出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分長くここにいるつもりですか」と尋ねた。考えのない私は、この問いに対する答えを用意していなかった。それで「どうだか分かりません」と答えた。しかし、にやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に気まずくなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私が初めて口にした「先生」という言葉の始まりである。
その晩、私は先生の宿を訪ねた。宿といっても、普通の旅館とは違って、広い寺の境内にある別荘のような建物だった。そこに住んでいる人が先生の家族でないこともわかった。私が「先生、先生」と呼びかけると、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖だと弁解した。私はこの間の西洋人のことを尋ねてみた。先生は彼の風変わりなところや、もう鎌倉にいないことなど、いろいろな話をした末に、日本人にさえあまり交際を持たないのに、外国人と親しくなったのは不思議だと言った。最後に、私は先生に向かって、どこかで先生を見たように思うが、どうしても思い出せないと告げた。若い私は、その時、先生も私と同じような感覚を持っているのではないかと疑った。そして心の中で先生の返事を待ち望んだ。しかし、先生はしばらく考え込んだ後、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」と言ったので、私は奇妙な失望感を覚えた。