十一 (2/5)
von 夏目漱石
「偽病を使って学校を休んだのか?」
「その通りです。」
「なるほど、少し天才だね、これは」と迷亭君も少し驚いた様子だった。
「夜具の中から首を出していると、日暮れが待ち遠しくてたまらない。仕方がないから、頭から布団に潜り込んで、目を閉じて待ってみたけれど、やっぱり駄目だった。首を出すと、強い秋の日差しが六尺の障子に当たって、かんかんと照りつけてくる。上の方には細長い影が固まっていて、時々秋風に揺れているのが目に入る。」
「その細長い影って何だい?」
「渋柿の皮を剥いて、軒に吊るしておいたんです。」
「ふん、それからどうしたの?」
「仕方がないから、床を出て障子を開け、軒側に出て、渋柿の甘干しを一つ取って食べました。」
「美味しかったかい?」と主人は子供のように尋ねる。
「美味しいですよ、あの辺の柿は。東京ではあの味はわかりませんね。」
「柿はいいけれど、それからどうしたい?」と今度は東風君が聞く。
「それからまた布団に戻って目を閉じて、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈りを込めてみた。三、四時間が経った頃、もうよかろうと首を出すと、なんと、強い秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんしている。上の方には細長い影が固まって、ふわふわと揺れている。」
「それは、聞いたよ。」
「何度もあるんだよ。それからまた床を出て、障子を開けて、甘干しの柿を一つ食べて、また寝床に戻って、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念を込めた。」
「やっぱり元のところじゃないか。」
「まあ、先生、そんなに焦らずに聞いてください。それからまた三、四時間、夜具の中で辛抱して、今度こそもうよかろうと首を出して見ると、やはり強い秋の日は六尺の障子に当たっていて、上の方には細長い影が固まって、ふわふわしている。」
「いつまで行っても同じことじゃないか。」
「それからまた床を出て障子を開けて、軒側に出て甘干しの柿を一つ食べて……」
「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食っていて際限がないね。」
「私もじれったくてね。」
「君より聞いている方がよっぽどじれったいよ。」
「先生はどうも性急だから、話がしにくくて困ります。」
「聞く方も少しは困るよ」と東風君も暗に不満を漏らした。
「そう、皆さんが困っている以上、仕方がない。そろそろ切り上げましょう。要するに、私は甘干しの柿を食べては潜り、潜っては食べ、とうとう軒端に吊るしたものを全部食べてしまいました。」
「全部食ったら日も暮れただろう。」
「ところがそうはいかないのです。私が最後の甘干を食べて、もうよかろうと首を出して見ると、相変わらず強い秋の日が六尺の障子に当たっていて……」
「もういいよ、いつまで行っても果てしがない。」
「話す私も飽き飽きします。」
「しかしそのくらい根気があれば、たいていの事業は成就するよ。だまっていたら、明日の朝まで秋の日がかんかんするんだろう。全体、いつ頃にバイオリンを買う気なんだい?」と迷亭君も少し辛抱しきれなくなった様子だった。ただ独仙君だけは泰然としていて、明日の朝まででも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動じる気配は全くなかった。寒月君も落ち着き払っていた。
「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になればすぐ買いに出かけるつもりです。ただ残念なことには、いつ頭を出しても秋の日がかんかんしているものですから――その時の私の苦しみといったら、とうてい今あなた方のじれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘干を食べても、まだ日が暮れないのを見て、思わず泣いてしまいました。東風君、私は本当に情けなくて泣いたよ。」
「そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いたことには同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね。」と東風君は人が良いから、どこまでも真面目で滑稽な挨拶をしている。
「進行させたいのは山々だけれど、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ。」
「日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう」と主人がとうとう我慢がしきれなくなったように言い出した。
「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入るところですから。」
「それじゃ、聞くから、早く日が暮れたことにしたらよかろう。」
「では、少し無理なご注文ですが、先生のことですから、ここは日が暮れたことにしましょう。」
「それは好都合だ。」と独仙君が澄ました顔で言ったので、一同は思わずどっと笑い出した。
「いよいよ夜に入ったので、まず安心して鞍懸村の下宿を出ました。私は元々騒がしい所が嫌いなので、便利な市内を避けて、人の少ない寒村の百姓家にしばらく蝸牛の庵を結んでいたのです……」
「人跡の稀なはあんまり大袈裟だね。」と主人が抗議すると、「蝸牛の庵も仰山だよ。床の間なしの四畳半くらいにしておく方が写生的で面白い。」と迷亭君も苦情を言い出した。東風君だけは「事実はどうでも、言語が詩的で感じがいい。」と褒めた。独仙君は真面目な顔で「そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。何里くらいあるんですか?」と聞いた。
「学校まではたった四、五丁です。元々学校は寒村にあるんですから……」
「それじゃ学生はその辺にだいぶ宿を取っているんでしょう。」と独仙君はなかなか納得しない。
「ええ、たいていの百姓家には一人や二人は必ずいます。」
「それで人跡稀なんですか?」と正面から攻撃を受けた。
「ええ、学校がなかったら、ここにはほとんど人がいないでしょうね。……その晩の服装は、手織りの木綿の綿入れを着て、その上に金ボタンの制服外套を羽織り、外套のフードをすっぽりかぶって、できるだけ人目につかないように気をつけました。ちょうど柿の葉が落ちる時期で、宿から南郷街道に出るまでの道は木の葉でいっぱいです。一歩踏み出すごとに、がさがさと音がして気になります。誰かが後をつけてきそうで、たまらない気持ちです。振り向いてみると、東嶺寺の森がこんもりと黒く、暗闇の中に浮かび上がっています。この東嶺寺は松平家の菩提所で、庚申山のふもとにあり、私の宿からは一丁ほどしか離れていない、非常に幽玄な寺院です。森の上は、星月夜が広がり、例の天の川が長瀬川を斜めに横切って、末は……そうですね、まず布哇の方へ流れているようです……」
「布哇は突飛だね」と迷亭君が言いました。
「南郷街道を二丁進んで、鷹台町から市内に入って、古城町を通り、仙石町を曲がり、喰代町を横目に見て、通町を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り過ぎて、それから尾張町、名古屋町、鯱鉾町、蒲鉾町……」
「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するに、ヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれった様子で尋ねます。
「楽器がある店は金善、つまり金子善兵衛のところですから、まだなかなかのものです」
「なかなかでもいいから、早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善の方へ行ってみると、店にはランプが明るく灯っていて……」
「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないから、難渋するよ」と今度は迷亭が予防線を張りました。
「いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一回のかんかんですから、特にご心配には及びません。……灯影に透かして見ると、例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯を反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。しっかり張った弦の一部だけが、きらきらと白く目に映ります。……」
「なかなか叙述がうまいね」と東風君がほめました。
「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸がして足がふらふらします……」
「ふふん」と独仙君が鼻で笑いました。
「思わず駆け込んで、隠し袋から蝦蟇口を取り出し、その中から五円札を二枚出して……」
「とうとう買ったのか」と主人が尋ねます。
「買おうと思いましたが、ちょっと待って、ここが肝心なところだ。滅多なことをしては失敗する。まあよそうと、ぎりぎりのところで思い留まりました」
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一つでなかなか人を引っ張るじゃないか」
「引っ張るわけじゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「なぜ」
「なぜって、まだ宵の口で人が大勢通るんですもの」
「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしています。
「ただの人なら千が二千でも構いませんが、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊しているから、簡単には手を出せませんよ。中には沈澱党なんて名乗って、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでいる連中もいますからね。そんなのに限って柔道は強いですから、滅多にヴァイオリンなんかに手を出せません。どんな目に遭うかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに違いないですが、命は惜しいですからね。ヴァイオリンを弾いて殺されるよりも、弾かずに生きている方が楽です」
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押します。
「いえ、買ったのです」
「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早く片をつけたらよさそうなものだ」
「えへへへへ、世の中のことはそう、こちらの思うようにはいかないものですよ」と言いながら寒月君は冷然と「朝日」に火をつけてふかし始めました。
主人は面倒になったのか、さっと立って書斎に入っていき、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して、ごろりと腹這いになって読み始めました。独仙君はいつの間にか、床の間の前に退去して、一人で碁石を並べて一人相撲をとっています。せっかくの逸話もあまり長く続くと聴き手が一人減り二人減り、残るは芸術に忠実な東風君と、長いことにかつて辟易したことのない迷亭先生だけとなりました。
長い煙をふうと世の中に遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて前同様の速度で談話を続けます。
「東風君、僕はその時こう思ったね。とうていこれは宵の口は駄目だ、と言って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りついて、金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰してしまう。けれどもその時間をうまく見計るのが難しい」
「なるほど、これは難しいだろう」
「で、僕はその時間をまあ十時頃と見積もったね。それで今から十時頃までどこかで過ごさなければならない。うちへ帰って出直すのは大変だし、友達のうちへ話しに行くのは何だか気が咎めるようで面白くない。仕方がないから、相当の時間が来るまで市中を散歩することにした。ところが普段なら二時間や三時間ぶらぶら歩いているうちに、いつの間にか時間が経ってしまうのに、その夜に限って、時間の経つのが遅いの何のって、――千秋の思いとはあんなことを言うのだろうと、しみじみ感じました」と、さも感じたらしい風をしてわざと迷亭先生の方を向きます。
「古人を待つ身につらい置炬燵と言われたことがあるからね、また待たれる身より待つ身はつらいともあって、軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている君はなおさらつらいだろう。累々として喪家の犬のごとし。いや、宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ」
「犬は残酷ですね。犬に比較されたことはこれでもまだありませんよ」
「僕は何だか君の話を聞くと、昔の芸術家の伝を読むような気持ちがして同情の念に堪えない。犬に比較したのは先生の冗談だから気に掛けずに話を進めたまえ」と東風君は慰藉しました。慰藉されなくても寒月君はもちろん話を続けるつもりです。
それから、徒町を抜けて百騎町を通り、両替町から鷹匠町へ出て、県庁の前で枯れた柳の本数を数え、病院の横で窓の灯りを計算し、紺屋橋の上で巻き煙草を二本ふかして、時計を見た。
「もう十時になったか?」
「惜しいことにならないね。――紺屋橋を渡り切って川沿いに東へ進むと、按摩が三人いた。犬がしきりに吠えていたよ、先生……」
「秋の夜長に川端で犬の遠吠えを聞くのは、ちょっと芝居がかりだね。君は落人のようなものだ。」
「何か悪いことでもしたのですか?」
「これからしようとしているところさ。」
「可哀想に、ヴァイオリンを買うのが悪いことじゃない。音楽学校の生徒はみんな罪人だよ。」
「人が認めないことをすれば、どんなに良いことをしても罪人だ。だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。イエスもあんな世に生まれれば罪人さ。好男子の寒月君も、そんなところでヴァイオリンを買えば罪人だ。」
「それじゃ、負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが、十時にならないのには困りました。」
「もう一度、町の名を数え直すさ。それで足りなければまた秋の日をかんかんさせるさ。それでも足りなければ、甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから、十時になるまでやりたまえ。」
寒月先生はにやにやと笑った。
「そう先を越されては降参するしかないね。それじゃ、一足飛びに十時にしてしまおう。さて、約束の十時になって金善の前に来てみると、夜寒の頃だから、さすがに目貫の両替町もほとんど人通りが絶えて、向こうからくる下駄の音さえ淋しい心持ちだった。金善ではもう大戸を閉めて、わずかに潜り戸だけを障子にしていた。私は何となく犬に追いかけられているような気持ちで、障子を開けて入るのが少し薄気味悪かった……」
この時、主人は汚れた本から目を離して、「おい、もうヴァイオリンを買ったかい?」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると、「まだ買わないのか、実に長いな」と独り言のように言ってまた本を読み始めた。独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半埋めてしまった。
「思い切って飛び込んで、頭巾を被ったままヴァイオリンをくれと言うと、火鉢の周囲に四五人の小僧や若僧が集まって話をしていたのが驚いて、申し合わせたように私の顔を見た。私は思わず右手を挙げて頭巾をぐいと前に引いた。おい、ヴァイオリンをくれと二度目に言うと、一番前にいて、私の顔を覗き込むようにしていた小僧が「へえ」と覚束ない返事をして、立ち上がって例の店先に吊るしてあったのを三四本一度に卸してきた。いくらかと聞くと五円二十銭だと言う……」
「おい、そんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか。」
「みんな同じ値段かと聞くと、へえ、どれでも変わりはありません。みんな丈夫に念を入れて作られていますと言うので、私は蝦蟇口の中から五円札と銀貨を二十銭出して、用意していた大風呂敷を取り出してヴァイオリンを包んだ。この間、店の者は話を中止してじっと私の顔を見ている。顔は頭巾で隠してあるから分かる気遣いはないのだが、何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪らなかった。ようやく風呂敷包を外套の下に入れて、店を出たら、番頭が声を揃えて「ありがとう」と大きな声を出したので、ひやっとした。往来へ出てちょっと見回すと、幸い誰もいないようだったが、一丁ばかり向こうから二三人が町内中に響けとばかり詩吟をして近づいてくる。こりゃ大変だと思い、金善の角を西へ折れて濠端を薬王師道へ出て、はんの木村から庚申山の裾へ出て、ようやく下宿へ帰った。下宿に帰ってみると、もう二時十分前だった。」
「夜通し歩いていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに言うと、「やっと上がった。やれやれ長い道中だった」と迷亭君はほっと一息ついた。
「これからが聞きどころだよ。今までは単に序幕さ。」
「まだあるのかい。こいつは容易なことじゃない。たいていのものは君に会うと根気負けをするね。」
「根気はともかく、ここでやめちゃ仏作って魂入れずだから、もう少し話すよ。」
「話すのはもちろん自由さ。聞くことは聞くよ。」
「どうです、苦沙弥先生もお聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ、先生。」
「今度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくてもいい。」
「まだ売るところじゃありません。」
「それならなお聞かなくてもいい。」
「困ったな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるが、まあ仕方がない、ざっと話してしまおう。」
「ざっとでなくてもいいから、ゆっくり話したまえ。大変面白い。」
「ヴァイオリンはようやく手に入れたが、まず第一に困ったのは置き場所だね。僕のところには大分人が遊びに来るから、滅多なところにぶら下げたり立てかけたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう。」
「そうさ、天井裏にでも隠したかい?」と東風君は気楽に言う。
「天井はないさ。百姓家だから。」
「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい?」
「どこへ入れたと思う?」
「わからないね。戸袋の中か?」
「いいえ。」
「夜具にくるんで戸棚へしまったか?」
「いいえ。」
東風君と寒月君はヴァイオリンの隠れ家についてこうして問答をしているうちに、主人と迷亭君も何かしきりに話している。
「こりゃ何と読むのだい?」と主人が聞く。
「どれ?」
「この二行さ。」
「何だって? Quid aliud est mulier nisi amiciti inimica……こりゃ君、ラテン語じゃないか。」
「ラテン語は分かっているが、何と読むのだい?」
「だって君は普段ラテン語が読めると言っているじゃないか。」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読めることは読めるが、こりゃ何だい?」
「読めることは読めるが、こりゃ何だは手ひどいね。」
「何でもいいからちょっと英語に訳してみろ。」
「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね。」
「従卒でもいいから、何だ?」
「さて、羅甸語の話は後にして、少し寒月君の話を聞かせてもらおうか。今、まさに大変な状況なんだ。露見するかどうか、まさに危機一髪の安宅の関に差し掛かっているんだよ。寒月君、君はこれからどうするつもりなんだ?」と急に興が乗って、またヴァイオリンの仲間に加わる。主人は情けなくも取り残されてしまった。寒月君はその勢いを受けて、隠し場所について説明を始めた。
「ついに、古いつづらの中に隠しました。このつづらは、国を出るときに祖母が餞別にくれたもので、実は祖母が嫁に来るときに持ってきたものだそうです。」
「それは古いものだね。ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。ねえ、東風君。」
「ええ、ちょっと調和しませんね。」
「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月君は東風先生をやり込めた。
「調和はしないが、句にはなるよ、安心しなさい。秋の寂しさ、つづらに隠すヴァイオリンはどうだい、両君。」
「先生、今日は随分と俳句ができるようですね。」
「今日に限ったことじゃない。いつでも心の中でできているさ。僕の俳句の造詣といったら、故子規子も驚いて舌を巻くほどのものだ。」
「先生、子規さんとはお付き合いがあったのですか?」と正直な東風君が素直な質問を投げかける。
「付き合ってはいなくても、いつも無線電信で心を通わせていたもんだ」と無茶苦茶を言うので、東風先生はあきれて黙ってしまった。寒月君は笑いながら話を続ける。
「それで、隠し場所はできたわけだが、今度は出すのに困った。出すだけなら人目を忍んで見るくらいはできるが、見ただけでは何にもならない。弾かなければ役に立たない。弾けば音が出る。出ればすぐに露見する。ちょうど木槿の垣を一重隔てて、南隣りには沈澱組の頭領が下宿しているから、危険だね。」
「困ったね」と東風君が気の毒そうに調子を合わせる。
「確かに、これは困る。論より証拠、音が出るから、小督の局もこれでしくじったんだからね。これが盗み食いをするとか、偽札を作るとかならまだしも、音楽は人に隠してできないものだからね。」
「音さえ出なければどうにでもなるんですが……」
「ちょっと待った。音さえ出なければというが、音が出なくても隠しきれないことがあるよ。昔、僕たちが小石川の御寺で自炊をしていたとき、鈴木の藤さんという人がいてね、彼は味淋が大好きで、ビールの徳利に味淋を買ってきては一人で楽しんでいたんだ。ある日、藤さんが散歩に出た後、よせばいいのに苦沙弥君がちょっと盗んで飲んだところが……」
「俺が鈴木の味淋なんか飲むものか、飲んだのは君だぜ」と主人は突然大きな声を出した。
「おや、本を読んでいるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いているね。油断のできない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君のことだ。なるほど言われてみれば、僕も飲んだ。僕も飲んだのは間違いないが、発覚したのは君の方だよ。――両君、聞いてくれ。苦沙弥先生は元々酒は飲めないのだ。ところが、人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中真っ赤にはれ上がって、もう二度と見られないありさまだ……」
「黙っていろ。羅甸語も読めないくせに。」
「ハハハハ、それで藤さんが帰ってきてビールの徳利を振ってみると、半分以上足りない。誰か飲んだに違いないと見回してみると、大将が隅の方で朱泥を練り固めた人形のように固まっていたんだ……」
三人は思わず大笑いした。主人も本を読みながら、くすくすと笑った。独り独仙君に至っては、機外の機を弄びすぎて少々疲れたのか、碁盤の上にうつ伏せになって、いつの間にかぐうぐう寝てしまっていた。
「まだ音がしないことで露見したことがある。僕が昔、姥子の温泉に行ったとき、一人のじじいと相宿になったことがある。何でも東京の呉服屋の隠居か何かだったが、まあ相宿だから呉服屋だろうが古着屋だろうが構わない。ただ困ったことが一つできてしまった。というのは、僕は姥子に着いてから三日目に煙草を切らしてしまったんだ。皆さんも知っているだろうが、あの姥子というのは山の中の一軒屋で、ただ温泉に入って飯を食うよりほかにどうしようもない不便なところだ。そこで煙草を切らしたのだから大変だ。物がないとなると余計に欲しくなるもので、煙草がないと思うやいなや、急に喫煙したくなってしまった。意地の悪いことに、そのじじいが風呂敷に一杯煙草を用意して登山しているんだ。それを少しずつ出しては、人の前で胡坐をかいて吸いたいだろうとでも言わんばかりに、すぱすぱふかしているんだ。単にふかすだけなら我慢できるが、しまいには煙を輪に吹いたり、縦に吹いたり、横に吹いたり、さらには邯鄲夢の枕と逆に吹いたり、または鼻から獅子の洞に入るように吹いたりして、つまりは喫煙をひけらかしているんだ……」