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十一 (1/5)

von 夏目漱石

床の間の前に碁盤が置かれ、迷亭君と独仙君が対面して座っている。

「ただの遊びじゃないからな。負けた方が何か奢ることになるんだから、いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君はいつものように山羊髭を引っ張りながら言った。

「そんなことをしたら、せっかくの清らかな遊びが台無しになってしまう。賭け事で勝負に心を奪われては面白くない。勝ち負けを忘れて、白雲が自然に山を出ていくような心持ちで、一局を楽しむからこそ、その真髄がわかるのだよ。」

「またその調子か。そんな仙人のような考え方を相手にするのは、少々手間がかかりすぎる。まるで列仙伝の登場人物みたいだね。」

「無絃の素琴を弾くように。」

「無線の電信をかけることもできるさ。」

「とにかく、始めよう。」

「君が白を持つのか?」

「どちらでも構わない。」

「さすが仙人だけあって、余裕があるね。君が白なら、自然の流れとして僕は黒だ。さあ、どこからでも来てくれ。」

「黒から打つのがルールだよ。」

「なるほど。では、謙遜して、定石に従ってここから行こう。」

「定石にはそんなものはないよ。」

「なくても構わない。新しい発明の定石だ。」

私は世間が狭いせいで、碁盤というものを最近初めて見たのだが、考えれば考えるほど妙なものだ。広くもない四角い板を狭苦しく四角に仕切り、目が眩むほどに黒白の石を並べている。そして勝ったとか負けたとか、死んだとか生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。たかが一尺四方の面積だ。猫の前足で掻き散らしても、めちゃくちゃになるだろう。引き寄せて結べば草の庵に、解けば元の野原に戻る。無駄なことだ。懐手をして盤を眺めている方がずっと気楽だ。それに、最初の三、四十手は石の並べ方に特に目障りなところはないが、いざ天下分け目の瞬間に覗いてみると、いやはや、なんとも気の毒な有様だ。白と黒が盤からこぼれ落ちるまでに押し合って、互いにギューギュー言っている。窮屈だからといって、隣の奴にどいてもらうわけにもいかず、邪魔だと前の先生に退去を命じる権利もなく、天命とあきらめてじっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかにどうすることもできない。碁を発明したのは人間で、人間の嗜好が局面に現れるものとすれば、窮屈な碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると言っても差し支えない。人間の性質が碁石の運命で推測できるとすれば、人間とは天空海濶の世界を、自らの立つ両足以外にはどうあっても踏み出せないように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなのだと断言せざるを得ない。人間とは、しいて苦痛を求めるものであると一言で評してもよかろう。

呑気な迷亭君と、禅の機を持つ独仙君は、どういうわけか、今日に限って戸棚から古い碁盤を引きずり出し、この暑苦しい遊びを始めた。さすがに二人揃っているから、最初のうちは各自自由に行動し、盤の上を白石と黒石が飛び交っていたが、盤の広さには限りがあり、横縦の目盛りは一手ごとに埋まっていくのだから、いかに呑気でも、いかに禅の機があっても、苦しくなるのは当然だ。

「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんなところに入ってくるものじゃない。」

「禅坊主の碁にはこんなやり方はないかもしれないが、本因坊の流儀では、こうするしかないさ。」

「でも、死ぬばかりだよ。」

「死を恐れているわけにはいかない。さあ、こう行くかな。」

「そう来たか、よろしい。薫風が南から来て、殿閣に微涼をもたらす。こうしておけば大丈夫だ。」

「おや、ついでにやったのはさすがだ。まさか、つぐ気遣いはないと思ったが。ついでに、くりゃるな八幡鐘をと、こうしたらどうする?」

「どうするもこうするもないさ。一剣天に倚って寒し――ええ、面倒だ。思い切って切ってしまえ。」

「やや、大変だ。そこを切られたら死んでしまう。冗談じゃない、ちょっと待って。」

「だから、さっきから言っていることじゃないか。こうなっているところには入れるものじゃないんだ。」

「入って失礼しました。ちょっとこの白を取ってくれたまえ。」

「それも待つのかい?」

「ついでにその隣のも引き揚げて見てくれたまえ。」

「ずうずうしいな、おい。」

「Do you see the boy か。――君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭いことを言わずに、引き揚げてくれたまえ。死ぬか生きるかという場合なんだから、しばらく、しばらくって花道から駆け出してくるところだよ。」

「そんなことは僕は知らないよ。」

「知らなくてもいいから、ちょっとどけてくれ。」

「君、さっきから六回も待ったをしたじゃないか。」

「記憶力がいい男だな。これからは旧に倍して待ったをしよう。だからちょっとどけてくれと言っているんだ。君もよっぽど強情だね。座禅なんかしたら、もう少し捌けそうなものだ。」

「でもこの石を殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから……」

「君は最初から負けても構わない流じゃないか。」

「僕は負けても構わないが、君には勝たせたくない。」

「飛んだ悟道だ。相変わらず春風影裏に電光を切っているね。」

「春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のは逆だ。」

「ハハハ、もうたいてい逆になっていい時分だと思ったら、やはり確かなところがあるね。それじゃ仕方がない、あきらめるかな。」

「生死事大、無常迅速、あきらめるさ。」

「アーメン」と迷亭君は今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと一石を下した。

床の間の前で迷亭君と独仙君が一生懸命に勝負を争っていると、座敷の入口には寒月君と東風君が並んで、その傍に主人が黄色い顔をして座っている。寒月君の前には、鰹節が三本、裸のまま畳の上に整然と並べられているのが奇妙な光景だ。

この鰹節は寒月君の懐から取り出されたもので、取り出した時は暖かく、手のひらに感じたくらい、裸ながらぬくもっていた。主人と東風君は妙な目をして視線を鰹節の上に注いでいると、寒月君がやがて口を開いた。

「実は四日ほど前に国から帰ってきたのですが、いろいろ用事があって、あちこち駆け回っていたものですから、つい上がれなかったのです。」

「そんなに急いで来る必要はないさ」と主人はいつものように無愛想なことを言った。

「急いで来なくても構わないのですが、このお土産を早くお渡ししないと心配で仕方ありません。」

「これは鰹節じゃないか。」

「はい、国の名産です。」

「名産だって、東京にもそんなのはありそうだな。」主人は一番大きな鰹節を一本取り上げ、鼻の先に近づけて香りをかいでみる。

「香りをかいだところで、鰹節の良し悪しはわかりませんよ。」

「少し大きいのが名産たる所以かね。」

「まあ、食べてみてください。」

「食べることはどうせ食べるが、こいつはなんだか先が欠けているじゃないか。」

「だから早く持って来ないと心配だと言っているのです。」

「なぜ?」

「なぜって、それは鼠がかじったからです。」

「それは危険だ。滅多にかじるとペストになるぞ。」

「大丈夫、そのくらいかじったって害はありません。」

「一体どこでかじったんだい?」

「船の中でです。」

「船の中?どうして?」

「入れる場所がなかったので、ヴァイオリンと一緒に袋の中に入れて、船に乗ったら、その晩にやられました。鰹節だけならまだしも、大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えて少しかじってしまったのです。」

「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでいると、そう見境がなくなるものかな。」主人は誰にもわからないことを言いながら、依然として鰹節を眺めている。

「鼠だから、どこに住んでいてもそそっかしいのでしょう。だから下宿に持って来てもまたやられそうで、危険だから夜は寝床の中に入れて寝ました。」

「少し汚いようだぜ。」

「だから食べるときにはちょっと洗いなさい。」

「ちょっとくらいじゃきれいにはなりそうもない。」

「それなら灰汁でもつけて、ごしごし磨いたらいいでしょう。」

「ヴァイオリンも抱いて寝たのかい?」

「ヴァイオリンは大きすぎるから抱いて寝るわけにはいかないんですが……」と言いかけると、

「なんだって?ヴァイオリンを抱いて寝たって?それは風流だ。行く春や重たき琵琶の抱き心と云う句もあるが、それは遠い昔のことだ。明治の秀才はヴァイオリンを抱いて寝なくちゃ古人を凌ぐわけにはいかないよ。かい巻に長き夜守るやヴァイオリンはどうだい。東風君、新体詩でそんなことが言えるかい?」と向こうの方から迷亭先生が大きな声でこちらの談話に関わってきた。

東風君は真面目に「新体詩は俳句と違ってそう急にはできません。しかし、できた暁にはもう少し生霊の機微に触れた妙音が出ます。」

「そうかね、生霊はおがらを焚いて迎え奉るものと思っていたが、やっぱり新体詩の力でも御来臨になるかい?」と迷亭はまだ碁をそっちのけにして調戯している。

「そんな無駄口を叩くとまた負けるぞ。」主人は迷亭に注意する。迷亭は平気なもので、

「勝ちたくても、負けたくても、相手が釜中の章魚同然、手も足も出せないのだから、僕も無聊でやむを得ずヴァイオリンの御仲間を仕るのさ。」と言うと、相手の独仙君はいささか激した調子で、

「今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ。」と宣言した。

「え?もう打ったのかい?」

「打ったとも、とうに打ったさ。」

「どこへ?」

「この白をはすに延ばした。」

「なるほど。この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君、もう一度打たせてやるから、勝手なところへ一目打ちたまえ。」

「そんな碁があるものか。」

「そんな碁があるものかなら打ちましょう。――それじゃこの角地面へちょっと曲がって置くかな。――寒月君、君のヴァイオリンはあまりにも安いから鼠が馬鹿にしてかじるんだよ、もう少しいいのを奮発して買うさ、僕がイタリアから三百年前の古物を取り寄せてやろうか。」

「どうか願います。ついでにお払いの方もお願いしたいもので。」

「そんな古いものが役に立つものか。」と何も知らない主人は一喝して迷亭君を極めつけた。

「君は人間の古物とヴァイオリンの古物を同一視しているんだろう。人間の古物でも金田某のごときものは今だに流行しているくらいだから、ヴァイオリンに至っては古いほどがいいのさ。――さあ、独仙君、どうか御早く願おう。けいまさのせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね。」

「君のようなせわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。仕方がないから、ここへ一目入れて目にしておこう。」

「おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しいことをしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか駄弁を振って肝胆を砕いていたが、やっぱり駄目か。」

「当たり前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ。」

「それが本因坊流、金田流、当世紳士流さ。――おい、苦沙弥先生、さすがに独仙君は鎌倉へ行って万年漬を食っただけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度胸は据ってる。」

「だから君のような度胸のない男は、少し真似をするがいい。」と主人が後ろ向きのままで答えるやいなや、迷亭君は大きな赤い舌をぺろりと出した。独仙君は毫も関せざるもののごとく、「さあ君の番だ。」とまた相手を促した。

「君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽど難しいものだそうだね。」と東風君が寒月君に聞いている。

「うむ、一通りなら誰にでもできるさ。」

「同じ芸術だから詩歌の趣味のあるものはやはり音楽の方でも上達が早いだろうと、ひそかに期待しているところがあるんだが、どうだろう。」

「いいだろう。君ならきっと上手になるよ。」

「君はいつ頃から始めたのかね?」

「高等学校時代さ。――先生、私のヴァイオリンを習い出した顛末をお話ししたことがありましたかね?」

「いいえ、まだ聞いていない。」

「高等学校時代に先生でもあってやり出したのかい?」

「なあに、先生も何もありゃしない。独習さ。」

「全く天才だね。」

「独習なら天才と限ったこともなかろう。」と寒月君はつんとする。天才と云われてつんとするのは寒月君だけだろう。

「それはどうでもいいが、どういう風に独習したのかちょっと聞かせてくれ。参考にしたいから。」

「話してもいい。先生、話しましょうかね。」

「ああ、話したまえ。」

今では若い人たちがヴァイオリンのケースを下げて、街を歩く姿をよく見かけますが、私が学生だった頃は、高等学校で西洋音楽を学ぶ生徒はほとんどいませんでした。特に私が通っていた学校は田舎の中の田舎で、麻裏草履すらないような素朴な場所でしたから、学校の生徒の中にヴァイオリンを弾く者など一人もいなかったのです。

「何だか面白い話が向こうで始まったようだ。独仙君、そろそろ切り上げようじゃないか」と誰かが言いました。

「まだ片づかないところが二、三箇所ある」と独仙君が答えました。

「あってもいいさ。大体のところなら、君に進呈するよ」と言うと、独仙君は「そう言ったって、もらうわけにもいかない」と返しました。

「禅学者にしては几帳面すぎる男だ。それじゃ、一気にやっちまおう。寒月君、何だかとても面白そうだね。あの高等学校の生徒が裸足で登校するって話は……」

「そんなことはありません」と寒月君が否定しました。

「でも、みんな裸足で兵式体操をして、右に回れをやるから、足の皮が厚くなっているって話だよ」と独仙君が続けます。

「まさか、誰がそんなことを言ったのですか?」

「誰でもいいよ。弁当には偉大なる握り飯を一個、夏蜜柑のように腰にぶら下げて来て、それを食べるんだって。食べるというより、むしろ食いつくんだね。すると中心から梅干しが一個出てくるそうだ。この梅干しが出るのを楽しみに、塩気のない周囲を一心不乱に食い欠いて突進するんだと。なるほど、元気旺盛なものだね。独仙君、君の気に入りそうな話だよ。」

「質朴剛健で頼もしい気風だ」と独仙君が頷きました。

「まだ頼もしいことがある。あそこには灰吹きがないそうだ。僕の友人があそこへ奉職していた頃、吐月峰の印のある灰吹きを買いに出たところ、吐月峰どころか、灰吹きと名づけるべきものが一個もない。不思議に思って聞いてみたら、灰吹きなどは裏の藪へ行って切ってくれば誰にでもできるから、売る必要はないと澄まして答えたそうだ。これも質朴剛健の気風を表す美談だろう、ねえ独仙君。」

「うむ、それはそれでいいが、ここに駄目を一つ入れなくちゃいけない」と独仙君が言いました。

「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。僕はその話を聞いて、本当に驚いたよ。そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。独にして不羣なりと楚辞にあるが、寒月君はまさに明治の屈原だよ。」

「屈原はいやですよ」と寒月君が言いました。

「それじゃ今世紀のウェルテルさ。何、石を上げて勘定をしろ? やに物堅い性質だね。勘定しなくても、僕は負けてるから確かだ。」

「しかし、極まりがつかないから……」

「それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくちゃ、先祖に申し訳がないから失礼する」と言って、寒月君の方へすり出していきました。独仙君は丹念に白石を取っては白の穴を埋め、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の中で計算をしています。寒月君は話を続けます。

「土地柄がすでに土地柄なのに、私の国の者たちが非常に頑固で、少しでも柔弱な者がいると、他県の生徒に外聞が悪いと言って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした。」

「君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来、何で紺の無地の袴なんか穿くんだい。第一、あれからしておかしいね。それに塩風に吹かれているせいか、どうも色が黒い。男だからあれで済むが、女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人入ってきました。

「女もあの通り黒いのです。」

「それでよく貰い手があるね。」

「だって一国中ことごとく黒いのだから仕方がありません。」

「因果だね。ねえ苦沙弥君。」

「黒い方がいいだろう。白いと鏡を見るたびに己惚れが出ていけない。女というものは始末におえない物件だからなあ」と主人は大きなため息をつきました。

「だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚れはしませんか」と東風君がもっともな質問をしました。

「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が言うと、

「そんなことを言うと妻君が後でご機嫌が悪いぜ」と笑いながら迷亭先生が注意しました。

「何、大丈夫だ。」

「いないのかい?」

「小供を連れて、さっき出かけた。」

「どうりで静かだと思った。どこへ行ったのだい?」

「どこだか分からない。勝手に出てあるくのだ。」

「そうして勝手に帰ってくるのかい?」

「まあそうだ。君は独身でいいなあ」と言うと、東風君は少々不平な顔をしました。寒月君はにやにやと笑います。迷亭君は言いました。

「妻を持つとみんなそういう気になるのさ。ねえ独仙君、君なども妻君難の方だろう。」

「ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六目あるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえてみると、たった十八目の差か。――何だって?」

「君も妻君難だろうというのさ。」

「アハハハハ、別段難でもないさ。僕の妻は元来僕を愛しているのだから。」

「そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ。」

「独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の妻君に代わってちょっと弁護の労を取りました。

「僕も寒月君に賛成する。僕の考えでは、人間が絶対の域に入るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福を完うしなければ天意に背くわけだと思うんだ。――がどうでしょう先生」と東風君は相変わらず真面目に迷亭君の方へ向き直りました。

「御名論だ。僕などはとうてい絶対の境に這入れそうもない。」

「妻を貰えばなお這入れやしない」と主人は難しい顔をして言いました。

「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験談を聞いているのです。」

「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく話の流れを戻しました。

「向上の道は、ヴァイオリンのような遊びで開けるものではない。そんな軽薄な遊戯で宇宙の真理を知ることができたら大変だ」と独仙君は、少しもったいぶった口調で東風君に説教をした。しかし、東風君は禅宗のことなどまったく知らない男なので、特に感心した様子もなく、

「なるほど、そうかもしれませんが、やはり芸術は人間の渇望の極致を表したものだと思いますから、どうしてもこれを捨てるわけにはいきません」と答えた。

「捨てられないというのなら、君の望み通り、僕のヴァイオリンの話を聞かせよう。実を言うと、僕がヴァイオリンの稽古を始めるまでには、かなり苦労したんだ。まず、買うのが大変だったよ」と独仙君は続けた。

「そうだろう、麻裏草履のない土地にヴァイオリンがあるはずがない」と独仙君が言うと、

「いえ、実際にはあるんです。お金も前から用意して貯めていたので、問題はないのですが、どうしても買えないのです」と東風君は言った。

「なぜ?」

「狭い土地なので、買ってしまうとすぐに見つかってしまうんです。見つかれば、すぐに生意気だと叱責されますから。」

「天才は昔から迫害されるものだからね」と東風君は同情を示した。

「また天才か。どうかその呼び名だけは勘弁してほしいね。それで、毎日散歩をしてヴァイオリンのある店の前を通るたびに、あれが買えたらいいな、あれを手に抱えたらどんな気持ちだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日もなかったのです」と独仙君は続けた。

「もっともだ」と迷亭が言い、「妙に凝ったものだね」と主人が解しかねていると、「やはり君は天才だよ」と東風君が感心した。ただ独仙君だけは超然として髭を撚っていた。

「そんなところにどうしてヴァイオリンがあるのか、不思議に思うかもしれませんが、考えてみれば当然のことです。この地方にも女学校があって、女学生たちは課業として毎日ヴァイオリンを練習しなければならないのですから、あるはずです。もちろん、いいものはありません。ただ『ヴァイオリン』という名が辛うじてつくくらいのものです。だから店でもあまり重視されていなくて、二、三本を一緒に店頭に吊るしておくのです。それが、時々散歩をして前を通るときに風が吹いたり、小僧の手が触れたりして、音を出すことがあります。その音を聞くと、急に心臓が破裂しそうな気持ちになり、いても立ってもいられなくなるのです。」

「危険だね。水癲癇や人癲癇といった癲癇にもいろいろ種類があるが、君のはウェルテルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ」と迷亭が冷やかすと、

「いや、そのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれませんよ。どうしても天才肌だ」と東風君はさらに感心した。

「ええ、実際癲癇かもしれませんが、あの音色だけは特別です。その後、今日まで随分弾きましたが、あのくらい美しい音が出たことはありません。何と形容していいかわからないです」と独仙君は言った。

「琳琅鏘として鳴るじゃないか」と独仙君が難しい表現を持ち出したが、誰も取り合わなかったのは気の毒だった。

「私が毎日店頭を散歩しているうちに、とうとうこの霊異な音を三度聞きました。三度目にはどうしてもこれは買わなければならないと決心しました。たとえ国のものから叱責されても、他県のものから軽蔑されても――よし、鉄拳制裁のために絶息しても――、まかり間違って退校の処分を受けても、これだけは買わずにいられないと思いました。」

「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込むことはできない。羨ましい。僕もどうにかして、それほど猛烈な感情を抱いてみたいと、長年心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などに行ってできるだけ熱心に聞いているが、どうもそれほど感興が乗らない」と東風君はしきりに羨ましがった。

「乗らない方が幸せだよ。今でこそ平気で話せるが、その時の苦しみはとても想像できるものではなかった。それから、先生、とうとう奮発して買いました。」

「ふむ、どうして?」

「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国の人たちはみんな泊まりがけで温泉に行ってしまったので、一人もいませんでした。私は病気だと言って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出かけて、兼ねて望んでいたヴァイオリンを手に入れようと、布団の中でそのことばかり考えていました。」