十 (3/4)
von 夏目漱石
「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になるつもりなの?」
「やだわ、馬鹿竹なんて。そんなものになりたくないわ。金田の富子さんなんて、失敬だって大変怒ってたのよ。」
「金田の富子さんって、あの向横町の?」
「そう、あのハイカラさんよ。」
「その人も雪江さんの学校に通っているの?」
「いいえ、ただ婦人会の傍聴に来ただけ。本当にハイカラね。驚いちゃうわ。」
「でも、すごく美人だって言うじゃないですか。」
「普通よ。自慢するほどじゃないわ。あんなに化粧をすれば、たいていの人はよく見えるもの。」
「それじゃ、雪江さんがその人のように化粧をしたら、金田さんの倍くらい美しくなるでしょうね。」
「あら、いやだ。そんなこと言わないで。知らないわ。でも、あの方は本当に作り過ぎなのよ。いくらお金があっても――」
「作り過ぎでもお金がある方がいいじゃありませんか。」
「それもそうだけれど、あの方こそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗に威張っているんだから。この間も、なんとかいう詩人が新体詩集を捧げたって、みんなに吹聴しているのよ。」
「東風さんでしょう。」
「あら、あの方が捧げたのは、よっぽど物数奇ね。」
「でも東風さんは本当に真面目なんですよ。自分では、あんなことをするのが当然だと思っているんですから。」
「そんな人がいるから、いけないのよ。――それから、まだ面白いことがあるの。この間、誰かがあの方のところへ艶書を送ったらしいの。」
「おや、いやらしい。誰がそんなことをしたの?」
「誰だかわからないんですって。」
「名前はないの?」
「名前はちゃんと書いてあるけれど、聞いたこともない人だって。しかも、それが長い長い一間ばかりの手紙で、いろいろな妙なことが書いてあるんですって。私があなたを恋っているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだとか、あなたのためならば祭壇に供える小羊となって屠られるのが無上の名誉だとか、心臓の形が三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当たりであるの……」
「それは真面目なの?」
「真面目なんですって。実際、私の友達のうちでその手紙を見た人が三人いるんですもの。」
「いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月さんのところへ嫁に行くつもりなんだから、そんなことが世間に知られたら困るでしょうに。」
「困るどころか、大得意よ。今度寒月さんが来たら、知らせてあげればいいのよ。寒月さんはまるで知らないでしょうから。」
「どうでしょう、あの方は学校へ行って球ばかり磨いているから、大方知らないでしょうね。」
「寒月さんは本当にあの方をもらう気なんでしょうかね。気の毒だわ。」
「なぜ? お金があって、いざという時に力になって、いいじゃありませんか。」
「叔母さんは、すぐに金、金って品が悪いのね。お金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しないわ。」
「そう、それじゃ雪江さんは、どんなところへ嫁に行くつもりなの?」
「そんなこと知るもんですか、特に何もないんですもの。」
雪江さんと叔母さんが結婚について熱心に話していると、分からないなりに聞いていたとん子が突然口を開いた。「私も嫁に行きたいな。」
この無鉄砲な希望には、さすがに青春の気に満ちていて、雪江さんも少し驚いた様子だったが、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの?」と笑いながら尋ねた。
「私ね、本当は招魂社へ嫁に行きたいんだけれど、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの。」
細君と雪江さんはこの名答にあまりのことに問い返す勇気もなく、思わず笑い崩れた。その時、次女のすん子が姉に向かってこう相談を持ちかけた。
「お姉様も招魂社が好き? 私も大好き。一緒に招魂社へ嫁に行きましょう。ね? いや? いやならいいわ。私一人で車に乗ってさっさと行っちゃうわ。」
「坊ばも行くの?」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行くことになった。こうして三人が顔を揃えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。
その時、車の音ががらがらと門前に留まり、すぐに威勢のいい「御帰り!」という声が聞こえた。主人は日本堤分署から戻ったようだ。車夫が差し出す大きな風呂敷包を下女に受け取らせ、主人は悠然と茶の間へ入ってきた。「やあ、来たね」と雪江さんに挨拶しながら、例の有名な長火鉢の傍に、手に携えた徳利をぽかりと投げ出した。徳利というのは純然たる徳利ではなく、花活けとも思われない、一種異様な陶器であるため、やむを得ずこう表現したのだった。
「妙な徳利ね、そんなものを警察からもらってきたの?」と雪江さんが倒れたものを起こしながら叔父に尋ねる。叔父は雪江さんの顔を見ながら、「どうだ、いい恰好だろう」と自慢する。
「いい恰好なの? それが? あんまり良くないわ。油壺なんか何で持ってきたの?」
「油壺なものか。そんな趣味のないことを言うから困る。」
「じゃ、何なの?」
「花活けさ。」
「花活けにしては、口が小さすぎて、胴がいやに張ってるわ。」
「そこが面白いんだ。お前も無風流だな。まるで叔母さんと選ぶところがない。困ったものだな。」と独りで油壺を取り上げ、障子の方へ向けて眺めている。
「どうせ無風流ですわ。油壺を警察からもらってくるような真似はできないわ。ねえ、叔母さん。」叔母さんはそれどころではなく、風呂敷包を解いて皿眼になって、盗難品を調べている。「おや、驚いた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張りしてあるわ。ねえ、ちょいと、あなた。」
「誰が警察から油壺をもらってくるものか。待ってるのが退屈だから、あそこらを散歩しているうちに掘り出してきたんだ。お前には分からないだろうが、それでも珍品だよ。」
「珍品過ぎるわ。一体、叔父さんはどこを散歩したの?」
「どこって、日本堤界隈さ。吉原にも入ってみた。なかなか賑やかなところだ。あの鉄の門を見たことがあるかい? ないだろう。」
「誰がそんなところを見るものですか。吉原なんて、あんな賤業の女性がいる場所に行く理由なんてありませんよ。叔父さんは教師なのに、よくあんなところに行かれましたね。本当に驚きです。ねえ、叔母さん、叔母さん」
「ええ、そうね。どうも品物が足りないようですね。これでみんな戻ったのでしょうか」
「戻らないのは山の芋ばかりですよ。元々九時に出頭しろと言っておきながら、十一時まで待たせるなんて、こんな法律があるものですか。だから、日本の警察はダメなんです」
「日本の警察がダメだって、吉原を散歩するのはもっとダメですよ。そんなことが知られたら免職になっちゃいますから。ねえ、叔母さん」
「ええ、なるでしょうね。あなた、私の帯の片側がないのです。何だか足りないと思ったら」
「帯の片側くらいはあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切な時間を半日も潰してしまった」と、日本服に着替えて平気で火鉢にもたれ、油壺を眺めている。細君も仕方がないと諦めて、戻った品をそのまま戸棚にしまい込み、座に戻る。
「叔母さん、この油壺が珍品だって言うんですけど、汚いじゃありませんか」
「それを吉原で買ったの?まあ」
「何がまあだ。分からないくせに」
「それでもそんな壺なら吉原に行かなくても、どこにでもありますよ」
「ところがないんだよ。滅多にある品じゃないんだ」
「叔父さんは随分と石地蔵ですね」
「また子供のくせに生意気なことを言う。最近の女学生は口が悪くていけない。ちょっと女大学でも読んでみなさい」
「叔父さんは保険が嫌でしょう。女学生と保険、どっちが嫌なの?」
「保険は嫌じゃない。あれは必要なものだ。未来を考える人なら誰でも入る。女学生は無用の長物だ」
「無用の長物でもいいことよ。保険に入ってもいないくせに」
「来月から入るつもりだ」
「本当に?」
「本当だとも」
「やめなさいよ、保険なんか。それよりその懸金で何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん」叔母さんはにやにや笑っている。主人は真面目になって言う。
「お前は百も二百も生きる気だから、そんな呑気なことを言うのだが、もう少し理性を発達させて、保険の必要を感じるのは当然だ。ぜひ来月から入るんだ」
「そう、それじゃ仕方がない。でも、こないだのように蝙蝠傘を買ってくださるお金があるなら、保険に入る方がましかもしれないわ。人がいりません、いりませんと言っても無理に買ってくださるんですもの」
「そんなにいらなかったのか?」
「ええ、蝙蝠傘なんか欲しくないわ」
「それなら返すがいい。ちょうどとん子が欲しがってるから、あれをこちらに回してやろう。今日持ってきたか?」
「あら、それはあんまりだわ。せっかく買ってくださったのに、返せなんて」
「いらないと言うから返せと言うのさ。ちっとも苛立ってはいない」
「いらないことはいらないんですけれども、苛立つわ」
「分からないことを言うな。いらないと言うから返せと言うのに、苛立つことがあるものか」
「だって」
「だって、どうしたんだ」
「だって苛立つわ」
「愚だな、同じことばかり繰り返している」
「叔父さんだって同じことばかり繰り返しているじゃありませんか」
「お前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと言ったじゃないか」
「それは言いましたわ。いらないことはいらないんですけれども、返すのは嫌ですもの」
「驚いたな。まったく頑固なんだから仕方がない。お前の学校では論理学を教えないのか」
「よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。他人のものを返せだなんて、他人だってそんな不人情なことは言わない。ちょっと馬鹿竹の真似でもしなさい」
「何の真似をしろ?」
「ちょっと正直に淡泊になりなさいと言うんです」
「お前は愚物のくせに強情だよ。それだから落第するんだ」
「落第したって叔父さんに学資は出してもらえないわ」
雪江さんはここに至って感情が抑えきれなくなり、潸然と涙を紫の袴の上に落とした。主人は茫然として、その涙がどんな心理作用に起因するのかを考えながら、袴の上と俯いている雪江さんの顔を見つめていた。すると、御三が台所から赤い手を敷居越しに揃えて「お客さまがいらっしゃいました」と言う。「誰が来たんだ」と主人が聞くと「学校の生徒さんでございます」と御三は雪江さんの泣いている顔を横目に見ながら答えた。主人は客間へ出て行く。私も人間研究のため、主人に尾を引いて静かに廊下に回った。人間を研究するには何か波乱がある時を選ばないと、一向に結果が出てこない。普段は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張り合いがないくらい平凡である。しかし、いざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用によって持ち上がり、奇なもの、変なもの、妙なもの、異なものが現れてくる。雪江さんの涙はまさにその現象の一つである。このように不可思議で測り知れない心を持つ雪江さんも、細君と話しているときはさほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺を投げ出すやいなや、その深奥に秘められた巧妙で美妙な、奇妙で霊妙な、麗しい性質を惜しげもなく発揚させた。そしてその麗質は天下の女性に共通するものである。ただ惜しいことに、容易には現れない。いや、現れることは四六時中間断なく現れているが、こうして顕著に灼然と現れることはない。幸いにも主人のように、私の毛を逆さに撫でたがる変わった人がいたから、こうした狂言も見ることができたのだろう。主人の後をついて行けば、どこへ行っても舞台の役者は私たち猫から見ても動くに違いない。面白い男を旦那様にもらって、短い猫の命のうちにも、多くの経験ができる。ありがたいことだ。さて、今度のお客は何者であろう。
彼の年齢は十七、八歳で、雪江さんと同じく、書生として学び舎にいる。頭は大きく刈り込まれ、団子のような鼻が顔の真ん中にある。彼は座敷の隅に控えていたが、特に目立つ特徴はないものの、頭の大きさだけは際立っていた。青坊主に刈り込んでも、その大きさは目を引く。主人の考えでは、こんな顔をしているのに学問があまりできない者だということだが、実際に見るとナポレオンのように堂々としている。
彼は一般的な書生のように、薩摩絣や久留米がすり、あるいは伊予絣の袷を短い袖で着こなし、下には襦袢も襟も着ていないようだった。素足や素袷は意気があるとされるが、彼の姿はむさ苦しい印象を与える。特に、畳の上に親指の跡が三つも残っているのは、まさに素足のせいだ。彼は四つ目の足跡の上にちゃんと座り、窮屈そうに身を縮めている。かしこまるべき者が静かに控えているのは特に気にすることもないが、毬栗頭の彼が恐縮している様子は、どこか不調和に感じられた。
途中で先生に会っても礼をしないことを自慢にするような連中が、たとえ三十分でも人並みに座るのは苦痛に違いない。そんな中で、まるで恭謙な君子や盛徳の長者のように振る舞う彼は、周囲から見ると大変おかしい存在だった。教室や運動場では騒がしい彼が、どうしてこのように自分を束縛する力を持っているのか、見る者には滑稽に映る。
一人一人が相対すると、いかに愚かな主人であっても、生徒に対しては幾分かの重みを感じるものだ。主人もきっと得意に思っているだろう。小さな生徒たちが集まることで、侮ることのできない団体となり、排斥運動やストライキを起こすかもしれない。これはまるで臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象だ。群れを頼って騒ぎ出すのは、人の気に酔って正気を失った結果だと考えても差し支えない。それでなければ、こうして恐れ入る様子を見せるよりも、むしろしょんぼりとして自ら襖に押し付けられているような彼が、いかに老朽だといっても、先生と名のつく主人を軽蔑することはできない。馬鹿にできるわけがないのだ。
主人は座布団を押しやりながら、「さあ、お敷き」と言ったが、毬栗先生はかたくなに「へえ」と言って動かない。鼻先に剥げかかった更紗の座布団が「御乗んなさい」とも言わずに控えている後ろで、彼の大きな頭が座っているのは妙な光景だった。布団は座るためのものであり、見つめるために細君が工場から仕入れてきたわけではない。布団に座らなければ、その名誉を損なうことになるし、これを勧めた主人もまた少し顔が立たないことになる。主人の顔を潰してまで布団を無視している毬栗君は、決して布団そのものが嫌なわけではない。実を言うと、正式に座ったのは祖父の法事の時くらいで、生まれてから滅多にないことだ。先ほどからしびれが切れかかり、足の先は困難を訴えているのだが、それでも彼は座布団に座ろうとしない。主人が「さあ、お敷き」と言っても、彼は動かない。厄介な毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら、もっと多くの人が集まった時に遠慮すればいいのに、学校でも、下宿屋でも、もっと遠慮すればいいのに。必要な時には謙遜せず、逆に大いに狼藉を働くのだから、たちの悪い毬栗坊主だ。
その時、後ろの襖がすうっと開き、雪江さんが一碗の茶を恭しく坊主に差し出した。普段なら、「そら、サヴェジ・チーが出た」と冷やかすところだが、主人一人に対してすら恐縮している上に、妙齢の女性が学校で覚えた小笠原流の手つきで茶碗を差し出したのだから、坊主は大いに苦悶の様子を見せた。雪江さんは襖を閉める時、後ろからにやにやと笑った。彼女は同年輩でも、なかなかの度胸を持っている。特に先ほど流した一滴の紅涙の後だから、このにやにやがさらに目立った。
雪江さんが引き込んだ後、双方は無言のまましばらく辛抱していたが、これでは業をするようなものだと気づいた主人がようやく口を開いた。
「君は何とか言ったけかな?」
「古井……」
「古井? 古井何とかだね。名は?」
「古井武右衛門です。」
「古井武右衛門――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね。」
「いいえ。」
「三年生か?」
「いいえ、二年生です。」
「甲の組かね?」
「乙です。」
主人は、目の前にいる大きな頭を持つ生徒を見つめながら、感心の声を漏らした。「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と。実は、この大頭は入学当初から主人の目に留まっており、決して忘れることはなかった。むしろ、時々夢に見るほど印象深い存在だった。しかし、のんきな主人は、この頭と古風な名前を結びつけることができず、その結果、二年乙組の生徒であることを思い出せなかった。だからこそ、夢に見るほど感心していた頭が自分の監督する生徒だと聞いて、思わず心の中で拍手を送ったのだ。
だが、この大きな頭を持つ生徒が、古い名前を持ちながら、今何の用でやって来たのかは、主人には全く分からなかった。元々、人望の薄い主人なので、学校の生徒たちが正月だろうが暮れだろうが、ほとんど寄りつくことはなかった。唯一寄りついたのは古井武右衛門君くらいで、その来訪の理由が分からないため、主人は困惑していた。こんな面白くない人の家に遊びに来る理由もないだろうし、辞職勧告ならもう少し堂々と構えるはずだ。武右衛門君が一身上の相談を持ってくるとは考えにくい。どちらにしても、主人には理解できなかった。
武右衛門君の様子を見ていると、本人ですら何故ここまで来たのか分からないのかもしれない。仕方がないので、主人はとうとう表向きに尋ねた。「君、遊びに来たのか?」
「そうじゃないんです」と武右衛門君は答えた。
「それじゃ、用事かね?」
「ええ」
「学校のことかい?」
「ええ、少しお話ししようと思って……」
「うむ。どんなことかね。さあ、話したまえ」と言うと、武右衛門君は下を向いたまま何も言わない。元々、武右衛門君は中学二年生にしてはよく喋る方で、頭の大きさに反して脳力は発達していなかったが、話すことに関しては乙組の中でも際立っていた。実際、先日コロンバスの日本訳を教えてほしいと頼んで主人を困らせたのも、まさにこの武右衛門君だった。その饒舌な彼が、今はまるで吃音の姫君のようにもじもじしているのは、何か特別な理由があるに違いない。単なる遠慮とはとても思えなかった。主人も少し不審に思った。
「話すことがあるなら、早く話したらいいじゃないか」
「少し話しにくいことで……」
「話しにくい?」と主人は武右衛門君の顔を見たが、彼は依然として俯いているため、何事も判断できなかった。仕方がないので、少し語気を変えて「いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていない。わたしも他言はしないから」と穏やかに付け加えた。
「話してもいいでしょうか?」と武右衛門君はまだ迷っている。
「いいだろう」と主人は勝手に判断した。
「では話しますが」と言いかけて、武右衛門君は毬栗のような頭を持ち上げ、主人の方をちらりと見た。その目は三角形のようだった。主人は頬を膨らませ、朝日の煙を吹き出しながら少し横を向いた。
「実はその……困ったことになっちまって……」
「何が?」
「何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」
「だからさ、何が困るんだよ」
「そんなことをする考えはなかったんですけれども、浜田が借せ借せと云うもんですから……」
「浜田というのは、浜田平助かい?」
「ええ」
「浜田に下宿料でも借りたのかい?」
「何そんなものを借りたんじゃありません」
「じゃ、何を借りたんだい?」
「名前を借りたんです」
「浜田が君の名前を借りて何をしたんだい?」
「艶書を送ったんです」
「何を送った?」
「だから、名前は廃して、投函役になると云ったんです」
「何だか要領を得ないな。一体誰が何をしたんだい?」
「艶書を送ったんです」
「艶書を送った? 誰に?」
「だから、話しにくいと云うんです」
「じゃ、君がどこかの女に艶書を送ったのか?」
「いいえ、僕じゃないんです」
「浜田が送ったのかい?」
「浜田でもないんです」
「じゃ、誰が送ったんだい?」
「誰だか分からないんです」
「ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい?」
「名前だけは僕の名なんです」
「名前だけは君の名だって、何のことだかちっとも分からんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人は誰か?」
「金田って向横丁にいる女です」
「あの金田という実業家か?」
「ええ」
「で、名前だけ借りたとは何のことだい?」
「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田が名前がなくちゃいけないって云いますから、君の名前をかけって云ったら、僕のじゃつまらない。古井武右衛門の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」
「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか?」
「交際も何もありゃしません。顔なんか見たこともありません」
「乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう云う了見で、そんなことをしたんだい?」
「ただみんながあいつは生意気で威張ってるって云うから、からかってやったんです」
「ますます乱暴だな。じゃ、君の名を公然とかいて送ったんだな?」
「ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借りて、遠藤が夜あすこのうちまで行って投函して来たんです」
「じゃ、三人で共同してやったんだね?」
「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日は寝られなくて、何だかぼんやりしてしまいました」
「そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中学二年生古井武右衛門とでも書いたのかい?」