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十 (1/4)

von 夏目漱石

「もう七時ですよ」と、襖越しに妻が声をかけた。主人は目が覚めているのか、まだ寝ているのか、ただ向こうを向いたまま返事もしない。返事をしないのは彼の癖だ。何か言わなければならない時には、ようやく「うん」と言うが、その「うん」も簡単には出てこない。人間が返事をしないくらい無精になると、どこか趣があるが、そんな男に限って女性に好かれた試しがない。今一緒にいる妻ですら、あまり大切に思っていないようだから、他の女性が彼を好むはずもない。親兄弟に見放され、赤の他人の魅力的な女性に可愛がられるはずがない。そう考えると、妻にさえ愛されない主人が、世間の女性に好かれるはずがないのは明らかだ。異性間に不人気な主人を今さら暴露する必要はないが、本人は意外にも「年のせいで妻に好かれないのだ」と思い込んでいるようだ。それが彼の悩みの種であり、自覚を促すために、親切心から少し言ってみただけだ。

約束の時間に、時間が来たと知らせても、相手がその注意を無視する以上、向こうを向いて「うん」とも言わないのだから、妻は「これは夫の問題で、私の責任ではない」と考え、遅れても知らないという態度で、箒とはたきを持って書斎の方へ行ってしまった。やがて、書斎の中で掃除を始める音が聞こえてくる。掃除の目的が運動のためなのか、遊びのためなのか、掃除をする役割を持たない私には関係のないことだが、妻の掃除の仕方に関しては、無意味だと言わざるを得ない。なぜ無意味かというと、彼女はただ掃除をするために掃除をしているからだ。はたきを一通り障子にかけ、箒を畳の上に滑らせる。それで掃除は終わったと解釈している。掃除の原因や結果については、まったく責任を感じていない。だから、きれいな場所は毎日きれいだが、ゴミのあるところやほこりの積もったところは、いつでもゴミが溜まり、ほこりが積もっている。告朔の羊という故事もあるから、掃除をしないよりはましかもしれない。しかし、掃除をしても主人のためにはならない。そういう意味で、毎日毎日苦労して掃除をする妻の姿は、彼女の素晴らしいところだ。妻と掃除は長年の習慣で、機械的に結びついているにもかかわらず、掃除の実態は、妻が生まれる前のように、はたきや箒が発明される以前のように、まったく変わっていない。思うに、この二つの関係は、形式論理学の命題における名辞のように、その内容にかかわらず結びついているのだろう。

私は早起きな性分なので、すでにお腹が空いてきた。家の者たちがまだ朝食の準備をしていない中で、猫の私が朝ごはんにありつけるわけもないが、そんなことを思うとじっとしていられなくなった。もしや、あの鍋から立ち上る美味しそうな汁の香りが、私を呼んでいるのではないかと期待してしまう。

無駄な期待だとわかっていても、心の中でその期待を描いてしまうと、どうしても試してみたくなる。試してみれば、失望するのは目に見えているのに、最後の失望を自分の目で確かめるまでは、どうしても納得できないのだ。私はたまらず、台所へ這い出した。

まず、へっついの影にある鍋を覗いてみると、案の定、昨晩の残りがそのまま残っていて、静かに光を反射していた。御三はすでに炊き立てのご飯を御櫃に移し、七輪の鍋をかき混ぜている。釜の周りには、沸き立った米の汁が流れ出て、かさかさにこびりついている。もうご飯も汁もできているのだから、食べさせてもいいのではないかと思った。

こんな時に遠慮するのはつまらない。たとえ自分の望み通りにならなくても、損はないのだから、思い切って朝食を催促してみよう。居候の身分だって、空腹には変わりない。そう考えた私は、にゃあにゃあと甘えるように、あるいは訴えるように、また怨むように泣いてみた。しかし、御三は全く私を顧みない。

生まれつき鈍感な彼女だから、人情に疎いのはわかっているが、こちらがうまく泣き立てて同情を引き出すのが腕の見せ所だ。今度はにゃごにゃごと泣いてみた。その声は自分でも悲壮な響きを持っていると信じていたが、御三には何の反応もない。彼女はもしかしたら聴覚に問題があるのかもしれない。聴覚に問題があれば、下女としては勤まらないはずだが、猫の声には鈍感なのだろう。

世の中には色盲という人がいて、本人は完全な視力を持っていると思っていても、医者から見ると片輪だそうだが、御三は声盲なのだろう。声盲であれば、片輪に違いない。片輪のくせに、なんとも横柄なものだ。夜中にこちらが開けてくれと頼んでも、決して開けてくれたことがない。たまに開けてくれたと思うと、今度は入れてくれない。夏の夜露は毒だし、霜の降りる時期に軒下で明かりを待つのは、どれほど辛いことか、想像もつかない。

この間、締め出された時には、野良犬に襲われそうになり、やっと物置の屋根に逃げ込んで、一晩中震え続けたこともあった。これらはすべて御三の冷淡さから生じた不都合だ。こんな相手に泣いてみても、何の反応もないだろうが、空腹の時の神頼みのように、何とかしてみたくなる。三度目には、注意を引くために、わざと複雑な泣き方をしてみた。自分ではベートーヴェンの交響曲にも劣らない美しい音だと思っていたが、御三には全く響かないようだ。

御三は突然膝をつき、揚げ板を一枚はね除けて、中から堅炭を一本取り出した。それを七輪の角で叩くと、炭が砕けて、周囲は真っ黒になった。少しは汁の中にも入ったようだが、御三はそんなことには気に留めない。すぐに砕けた炭を鍋の中に押し込んでしまった。私のシンフォニーには耳を傾ける気配もない。仕方がないので、しょんぼりと茶の間の方へ引き返そうと、風呂場の横を通り過ぎると、そこでは女の子たちが三人、顔を洗っている最中だった。

顔を洗うといっても、上の二人は幼稚園の生徒で、三番目は姉の後ろについていけないくらい小さいのだから、ちゃんと顔を洗えているはずもない。一番小さい子がバケツから濡れた雑巾を引きずり出して、顔中を撫で回している。雑巾で顔を洗うのは気持ちが悪いだろうが、地震が起きるたびに面白がっている子だから、これくらいのことは驚くに足らない。もしかすると、八木独仙君よりも悟っているかもしれない。

さすがに長女は、姉としての自覚があるから、うがい茶碗を投げ捨てて「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾を取りにかかる。坊やちゃんも自信家だから、簡単には姉の言うことを聞かない。「いやーよ、ばぶ」と言いながら雑巾を引っ張り返した。この「ばぶ」という言葉が何を意味するのか、誰も知らない。ただ、この坊やちゃんが癇癪を起こした時に使うだけだ。雑巾は姉と坊やちゃんの手で引っ張り合い、水を含んだ真ん中からぽたぽたと雫が垂れて、容赦なく坊やの足にかかる。足だけなら我慢できるが、膝のあたりが濡れるのは堪える。坊やは元禄を着ているのだ。

元禄とは何かと聞いてみると、中形の模様なら何でも元禄だそうだ。一体、誰に教わってきたのか分からない。「坊やちゃん、元禄が濡れるからやめなさい」と姉が洒落たことを言う。その一方で、この姉はついこの間まで元禄と双六を間違えていた物識りである。

元禄の時代を思い出しながら、つい話を始めてしまうが、この子供の言葉の間違いは本当に多い。時折、人を馬鹿にしたような間違いを口にすることがある。例えば、火事で茸が飛んできたり、お茶の味噌を女学校に持って行ったり、恵比寿と台所を並べてみたり。ある時には「私は藁店の子じゃないわ」と言ったので、よくよく聞いてみると、裏店と藁店を混同していたのだ。主人はそんな間違いを聞くたびに笑っているが、自分が学校で英語を教える時には、これよりも滑稽な誤りを真面目に生徒に聞かせているのだろう。

坊やは、本人は坊やとは言わず、いつも坊ばと呼ばれている。元禄が濡れているのを見て「元どこがべたい」と泣き出した。元禄が冷たくては大変なので、御三が台所から飛び出してきて、雑巾を取って着物を拭いてやる。この騒動の中で比較的静かだったのは、次女のすん子嬢だった。すん子嬢は向こうを向いて、棚の上から転がり落ちたお白粉の瓶を開けて、しきりに化粧を施している。最初に突っ込んだ指で鼻の頭を撫でたので、そこに一本白い筋が通り、鼻の形が少しはっきりしてきた。次に塗りつけた指を頬に移して摩擦すると、そこにも白いかたまりができた。これだけ装飾が整ったところに、下女が入ってきて坊ばの着物を拭いたついでに、すん子の顔も拭いてしまった。すん子は少々不満そうに見えた。

私はこの光景を横目で見ながら、茶の間から主人の寝室まで来て、もう起きているかとひそかに様子をうかがった。主人の頭はどこにも見えない。その代わり、十文半の甲の高い足が、夜具の裾から一本出ている。頭が出ていると起こされるのが面倒だと思って、こうして潜り込んだのだろう。亀の子のような男だ。そこへ書斎の掃除を終えた妻が、箒とはたきを持ってやってきた。先ほどと同じように襖の入口から

「まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ていない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細君は入口から二歩ほど進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を求める。この時、主人はすでに目を覚ましている。覚めているから、細君の襲撃に備えて、あらかじめ夜具の中に首もろとも隠れていたのだ。首さえ出さなければ、見逃してくれるかもしれないと、つまらないことを頼みにして寝ていたが、なかなか許されそうもない。しかし、最初の声は敷居の上で、少なくとも一間の距離があったので、まず安心だと思っていたところに、箒が何でも三尺くらいの距離でとんと突かれたので、少し驚いた。さらに、第二の「まだなんですか、あなた」が距離も音量も前よりも倍以上の勢いで夜具の中まで聞こえたので、これは駄目だと覚悟し、小さな声で返事をした。

「九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いませんよ」

「そんなに言わなくても今起きる」と夜着の袖口から答えたのは奇妙だった。妻はいつもこの手を使って起こそうとするが、安心しているとまた寝込んでしまうので、油断はできない。「さあお起きなさい」とせめ立てる。起きると言っているのに、なお起きろと責められるのは気に食わない。主人のような我儘者にはなおさら気に食わない。そこで主人は今まで頭から被っていた夜着を一度に跳ねのけた。見ると、大きな目を二つとも開いている。

「何だ、騒がしい。起きると言えば起きるのだ」

「起きると言ってもお起きにならないじゃありませんか」

「誰がいつ、そんな嘘をついた」

「いつでもですわ」

「馬鹿を言うな」

「どっちが馬鹿だか分からない」と妻はぷんとして箒を突き、枕元に立っている姿は勇ましかった。この時、裏の車屋の子供、八っちゃんが急に大きな声で泣き出した。八っちゃんは主人が怒り出すと必ず泣くように、車屋のかみさんから命じられているのだ。かみさんは主人が怒るたびに八っちゃんを泣かせて小遣いにしようとするが、八っちゃんにとってはいい迷惑だ。こんな母親を持ったが最後、朝から晩まで泣き通しでいなければならない。少しはこの辺の事情を察して、主人も少々怒るのを控えれば、八っちゃんの寿命が少しは延びるだろうに、いくら金田君から頼まれたって、こんな愚かなことをするのは、天道公平君よりもひどいことだと考えてもよいだろう。怒るたびに泣かされるだけならまだ余裕もあるが、金田君が近所のゴロツキを雇って今戸焼を決行するたびに、八っちゃんは泣かなければならない。主人が怒るかどうかもまだはっきりしないうちから、必ず怒るべきものと予想して、早手回しに八っちゃんは泣いているのだ。こうなると、主人が八っちゃんなのか、八っちゃんが主人なのか、判然としなくなる。主人にあてつけるのは手間がかからず、ちょっと八っちゃんに剣突を食わせれば、何の苦もなく主人の横っ面を張ったことになる。昔、西洋で犯罪者を処刑する際に、本人が国境外に逃亡して捕まらない時、偶像を作って人間の代わりに火あぶりにしたというが、彼らの中にも西洋の故事に通じている軍師がいるようで、うまい計略を授けたものだ。落雲館や八っちゃんの母親は、腕の立たない主人にとってはきっと苦手だろう。そのほかにも苦手は色々ある。町内中ことごとく苦手かもしれないが、今は関係がないので、徐々に紹介していくことにする。

八っちゃんの泣き声が響くと、主人は朝早くからひどく機嫌を損ねたようで、布団の上でぱっと起き上がった。こうなると、精神修養や八木独仙の教えなど、まるで意味を成さない。彼は起き上がりながら、両手で頭を掻きむしり、皮膚がむけるほどだった。一ヶ月も溜まったフケが、遠慮なく首筋や寝巻の襟に飛び散る。まさに壮観だ。髭はどうかというと、これもまた驚くべきことに、ぴんと立っている。主人が怒っているのに、髭だけが落ち着いているわけにはいかないとでも思ったのか、一本一本が癇癪を起こし、勝手な方向へ猛烈に突進している。これもなかなかの見ものだ。昨日は鏡の前でおとなしく独乙皇帝陛下の真似をして整列していたが、一晩寝たら訓練も何もあったものではない。すぐに本来の姿に戻り、思い思いの出で立ちに戻ってしまった。まるで主人の一夜の精神修養が、翌日にはすっかり消え去り、生まれつきの野猪のような本性が露わになってしまったかのようだ。こんな乱暴な髭を持つ、こんな乱暴な男が、今まで教師を続けられたのは驚くべきことだ。日本の広さを初めて実感する瞬間だった。広いからこそ、金田君やその犬が人間として通用するのだろう。彼らが人間として通用する限り、主人も免職になる理由はないと確信しているようだ。いざとなれば、巣鴨に手紙を出して天道公平君に確認すれば、すぐにわかることだ。

その時、主人は昨日紹介した混沌とした太古の眼を一生懸命に見張り、向こうの戸棚をじっと見つめた。これは高さ一間を横に仕切ったもので、上下に各二枚の袋戸がはめられている。下の方の戸棚は、布団の裾とすれすれの距離にあるため、起き上がった主人の視線が自然と向かうようになっている。見ると、模様のある紙がところどころ破れていて、妙な腸があらわになっている。腸にはいろいろなものがある。あるものは活版印刷で、あるものは肉筆で、あるものは裏返し、またあるものは逆さまである。主人はこの腸を見ると同時に、何が書いてあるのか読みたくなった。今までは車屋の奥さんでも捕まえて、鼻を松の木にこすりつけてやろうと思うほど怒っていた主人が、突然この反古紙を読みたくなるのは不思議だが、こういう性格の癇癪持ちには珍しくないことだ。子供が泣いている時に、一つでもおもちゃを与えればすぐに笑うのと同じだ。

主人が昔、ある寺に下宿していた時、襖一枚を隔てて尼が五、六人いた。尼というのは、元々意地の悪い女の中でも特に意地が悪いもので、この尼は主人の性質を見抜いたのか、自炊の鍋を叩きながら「今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑った」と拍子を取って歌ったそうだ。主人が尼を大嫌いになったのはこの時からだと言われているが、確かにその通りだ。主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったりするが、いずれも長続きしない。よく言えば執着がなく、心の動きがむやみに変わるのだろうが、俗語に言い換えれば、奥行きのない、薄っぺらで、鼻っ柱だけが強いだだっ子のようなものだ。すでにだだっ子である以上、喧嘩をする勢いで、むっくと起き上がった主人が急に気を変えて袋戸の腸を読み始めるのも当然だ。

まず目に留まったのが、伊藤博文の逆さ文字だった。上を見ると「明治十一年九月二十八日」とある。韓国統監もこの時代から御布令の尻尾を追いかけていたのだろう。大将はこの時分、何をしていたのだろうと、読めそうにないところを無理に読むと「大蔵卿」とある。なるほど、いくら逆さ文字でも大蔵卿だ。少し左を見ると、今度は大蔵卿が横になって昼寝をしている。もっともだ。逆さ文字ではそう長く続く気遣いはない。下の方に大きな木板で「汝は」と二字だけ見える。続きを見たいが、あいにく露出していない。次の行には「早く」の二字だけが出ている。これも読みたいが、それきりで手掛かりがない。もし主人が警視庁の探偵だったら、人のものでも構わずに引っぺがすかもしれない。探偵というものは高等な教育を受けた者ではないから、事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行かないものだ。願わくば、もう少し遠慮してもらいたい。遠慮をしなければ、事実は決して挙げさせないことにした方が良いだろう。聞くところによると、彼らは虚構をもって良民を罪に陥れることさえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇い主を罪にするなどというのは、また立派な気狂いだ。

次に目を真ん中に移すと、大分県が宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆さ文字を使うくらいだから、大分県が宙返りをするのも当然だ。主人はここまで読んで、両手を握り拳にして、高く天井に向けて突き上げた。あくびの準備をしている。

あくびがまるで鯨の遠吠えのように変わった音を立てると、主人はのそのそと着物を着替え、顔を洗うために風呂場へ向かった。待ちかねた妻は、布団をまくり上げて夜着を畳み、いつものように掃除を始めた。掃除の仕方も、主人の顔の洗い方も、十年変わらず同じだった。先日紹介した通り、主人は相変わらずがーがー、げーげーと音を立てている。

やがて、頭を分け終えた主人は西洋手拭を肩にかけ、茶の間に出てくると、何事もなかったかのように長火鉢の横に座った。長火鉢と言えば、欅のような木製のものや、銅製のものが一般的だが、我が家の苦沙弥先生の長火鉢は、素人には何で作られたのか分からないほど古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るのが特徴だが、この代物は欅か桜か桐かもわからず、ほとんど布巾をかけたことがないため、陰気で光沢のないものだった。

この長火鉢をどこから手に入れたのかと尋ねると、主人は決して買った覚えがないと言う。では、誰かに貰ったのかと聞くと、誰もくれた人はいないそうだ。では、盗んだのかと問いただすと、その辺りは曖昧なままだ。昔、親類に隠居がいて、その隠居が亡くなったとき、留守番を頼まれたことがあった。その後、一戸を構えて隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく持ってきてしまったのだという。少々たちが悪いようだが、考えてみればこんなことは世の中によくあることだと思う。銀行家などは毎日人の金を扱っているうちに、人の金が自分の金のように見えてくることがある。役人は人民の召使いで、用事を弁じるために権限を委託された代理人のようなものだ。しかし、委任された権力を笠に着て毎日事務を処理していると、いつの間にかそれが自分の所有物のように思えてくる。こんな人が世の中にたくさんいる以上、長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があるとは断定できない。もし主人に泥棒根性があるとすれば、世の中の人々はみんな泥棒根性を持っていることになる。

長火鉢の傍に座り、食卓を前に控えた主人の周りには、先ほど雑巾で顔を洗った坊ばと、御茶の味噌の学校へ行くとん子、そしてお白粉罎に指を突っ込んだすん子が揃って朝食をとっていた。主人はこの三人の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蛮鉄の刀の鍔のような輪郭をしている。すん子も妹だけあって、姉の面影を少し残し、琉球塗の朱盆のような可愛らしさがある。ただ坊ばに至っては、独特の存在感を放っており、面長に出来上がっている。しかし、彼女の顔は横に長く、流行が変わりやすいとはいえ、横に長い顔が流行ることはないだろう。主人は自分の子どもながら、つくづく考えさせられる。これでも成長しなければならない。成長するどころか、その成長の速さは禅寺の筍が若竹に変わる勢いである。主人はまた大きくなったなと思うたびに、後ろから追手に迫られているような気がしてひやひやする。

いかに無関心な主人でも、この三人の娘が女であることは理解している。女である以上、何とかしなければならないことも承知している。しかし、承知しているだけで、実際にどうにかする手腕がないことも自覚している。そこで、自分の子どもながらも少し持て余しているのが現状だ。持て余すくらいなら、最初から作らなければよかったのだが、それが人間というものだ。人間の定義を言うと、他に何もない。ただ、入らざることを捏造して自ら苦しんでいる者だと言えば、それで十分だ。