五 (1/3)
von 夏目漱石
二十四時間の出来事をすべて書き記し、またそれを漏れなく読むには、少なくとも二十四時間はかかるだろう。どれほど写生文を推奨する私でも、これは猫の手に余る芸当だと認めざるを得ない。したがって、私の主人が四六時中、詳細な描写に値する奇妙な言動を繰り広げているにもかかわらず、それを一つ一つ読者に伝える能力や根気がないのは、非常に残念なことだ。しかし、残念ではあるが、仕方がない。猫にも休息は必要だからだ。
鈴木君と迷亭君が帰った後、木枯らしがひと吹きして、静けさが降りしきる雪の夜のように、部屋はしんと静まり返った。主人はいつものように書斎にこもり、小供たちは六畳の間に布団を並べて寝ている。一間半の襖を隔てた南向きの部屋には、細君が数え年三つになるめん子さんを抱いて横になっている。花曇りの中、急いで暮れゆく日は、表を通る駒下駄の音さえ、茶の間に響くように感じられる。隣町の下宿からは、明笛の音が途切れたり続いたりして、眠い耳に時折鈍い刺激を与える。外はおそらく朧げな様子だろう。晩餐に半ぺんの煮汁で鮑貝を食べた腹では、どうしても休息が必要だ。
ふと耳にしたところによれば、世間には「猫の恋」と称する俳諧趣味の現象があって、春先には町内の同族たちが浮かれ歩く夜もあるという。しかし、私はまだそのような心的変化に遭遇したことはない。そもそも恋は宇宙的な活力であり、天の神ジュピターから土中に鳴く蚯蚓やおけらに至るまで、すべての生き物がこの道にかけて浮身を窶すのが常である。だから、私たちが朧うれしと物騒な風流気を出すのも無理のない話だ。振り返れば、かつて私は三毛子に思い焦がれたこともあった。三角主義の張本金田君の令嬢、阿倍川の富子さえ寒月君に恋慕したという噂もある。それゆえ、千金の春宵に心も空に満天下の雌猫雄猫が狂い廻るのを、煩悩の迷いとして軽蔑する気持ちはまったくないのだが、どうしても誘われてもそんな心は出てこない。今の私はただ休息を求めるのみである。こんなに眠くては恋もできない。のそのそと小供の布団の裾へ回り、心地よく眠りに落ちていった。
ふと目を開けると、主人はいつの間にか書斎から寝室に来て、細君の隣に延べてある布団の中に潜り込んでいた。主人の癖として、寝るときは必ず横文字の小本を持って書斎から持ち帰る。しかし、横になってこの本を二ページ続けて読んだことはない。あるときは持ってきて枕元に置くだけで、まったく手を触れないことさえある。一行も読まないくらいなら、わざわざ持ってくる必要もないはずだが、そこが主人の主人たる所以で、いくら細君が笑っても、止めてと言っても、決して承知しない。毎晩、読まない本をわざわざ寝室まで運んでくるのだ。あるときは欲張って三、四冊も抱えてくることもある。先日などは、毎晩ウェブスターの大辞典さえ抱えてきたくらいだ。思うに、これは主人の病気で、贅沢な人が竜文堂に鳴る松風の音を聞かないと寝つかれないように、主人も書物を枕元に置かないと眠れないのだろう。そう考えると、主人にとって書物は読むためのものではなく、眠りを誘う器具なのだ。活版の睡眠剤というわけだ。
今夜も何かあるだろうと覗いてみると、赤い薄い本が主人の口髭の先に引っかかるくらいの位置に半分開かれて転がっている。主人の左手の親指が本の間に挟まったままになっていることから推測すると、今夜は奇特にも五、六行読んだようだ。赤い本の隣には、いつものようにニッケルの懐中時計が、春に似合わぬ寒い色を放っている。
細君は乳飲み子を一尺ほど先に放り出し、口を開けていびきをかき、枕を外している。おそらく人間にとって、口を開けて寝るほど見苦しいことはないだろう。猫などは生涯こんな恥をかいたことがない。元々口は音を出すため、鼻は空気を吐き入れるための道具である。もっとも北の方に行くと、人間が無精になって口を開かないように倹約する結果、鼻で言語を使うようなズーズーもいるが、鼻を閉じて口だけで呼吸するのは、ズーズーよりも見苦しいと思う。第一、天井から鼠の糞でも落ちたら危険だ。
小供の方を見ると、これも親に劣らぬ体たらくで寝そべっている。姉のとん子は、姉の権利はこんなものだと言わんばかりに、うんと右手を伸ばして妹の耳の上に乗せている。妹のすん子はその復讐に、姉の腹の上に片足を上げて踏み返している。双方とも寝た時の姿勢より九十度は確かに回転している。それでも、この不自然な姿勢を維持しつつ、両人とも不平も言わずおとなしく熟睡している。
さすがに春の灯火は格別だ。天真爛漫ながら無風流極まるこの光景の裏に、良夜を惜しめとばかりに床しげに輝いて見える。もう何時だろうと室の中を見回すと、四隣はしんとして、ただ聞こえるのは柱時計の音と細君のいびき、遠方で下女の歯軋りの音だけである。この下女は、人から歯軋りをすると言われると、いつでもこれを否定する女だ。私は生まれてから今日に至るまで歯軋りをした覚えはないと強情を張り、決して直そうとも、気の毒だとも言わず、ただそんな覚えはないと主張する。なるほど寝ていてする芸だから覚えがないのは確かだ。しかし、事実は覚えがなくても存在することがあるから困る。世の中には悪いことをしながら、自分はどこまでも善人だと考えている者がいる。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構だが、人を困らせる事実はいかに無邪気でも消し去ることはできない。こういう紳士淑女は、この下女の系統に属するのだと思う。――夜はだいぶ更けたようだ。
台所の雨戸に、トントンと軽い音が二度ほど響いた。こんな時間に誰かが来るはずはない。おそらくはいつもの鼠だろう。鼠なら捕まえるつもりはないから、好きに暴れてくれて構わない。――再びトントンと音がする。どうも鼠とは思えない。もし鼠なら、かなり用心深い奴だ。
主人の家の鼠は、主人が出かけている間も、昼夜を問わずに乱暴を働いている。まるで学校の生徒のように、主人の夢を破ることを天職だと心得ている連中だから、こんな風に遠慮するわけがない。今の音は、確かに鼠ではない。先日などは、主人の寝室にまで忍び込んで、主人の鼻をかじって喜び勇んで帰ったくらいの奴なのに、こんなに臆病なわけがない。
今度は、ギーという音がして雨戸が下から持ち上げられる。同時に、腰障子ができるだけ静かに、溝に沿って滑る音が聞こえた。やはり鼠ではない。人間だ。この深夜に人間が、何の案内もなく、戸締りを外して入ってくるとすれば、迷亭先生や鈴木君ではないだろう。名高い泥棒かもしれない。もし本当に泥棒なら、早くその顔を見たいものだ。
泥棒は、今や勝手の上に大きな足を上げて二歩ほど進んだようだ。三歩目と思った頃、揚板に足をかけて、ガタリと夜の静けさを破る音を立てた。背中の毛が靴ブラシで逆に擦られたような気持ちになる。しばらくは足音も聞こえない。細君を見ると、まだ口を開けて太平の空気を夢中で吸っている。主人は赤い本に親指を挟まれた夢でも見ているのだろう。
やがて台所でマッチを擦る音が聞こえた。泥棒も、私ほど夜の闇に目が利かないようだ。勝手が悪くて、きっと不都合だろう。
この時、私は蹲りながら考えた。泥棒は勝手から茶の間の方へ出てくるのだろうか、それとも左に折れて玄関を通り、書斎へと抜けるのだろうか。――足音は襖の音と共に、椽側へ出た。泥棒はいよいよ書斎へ入った。それっきり音も気配もない。
私はこの間に早く主人夫婦を起こしたいと思ったが、さてどうしたら起きるのか、全く要領を得ない考えが頭の中で水車のように回っているだけで、何の分別も出てこない。布団の裾を噛んで振ってみようと思い、二、三度やってみたが、全く効果がない。冷たい鼻を頬に擦り付けてみようと思い、主人の顔の前に持って行ったが、主人は眠ったまま、手を大きく伸ばして、私の鼻を突き飛ばした。鼻は猫にとっても急所だ。痛みがひどい。
仕方がないから、にゃーにゃーと二度ほど鳴いて起こそうとしたが、どういうわけかこの時だけは喉に物が詰まったようで、思うような声が出ない。やっとの思いで低い声を出すと、驚いたことに、肝心の主人は目を覚ます気配もないのに、突然泥棒の足音がし始めた。ミチリミチリと椽側を伝って近づいてくる。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だと諦めて、襖と柳行李の間に身を隠して動静を窺うことにした。
泥棒の足音は寝室の障子の前でぴたりと止まった。私は息を凝らして、次に何をするのか一生懸命に考えた。後で考えると、鼠を捕まえる時にはこんな気分にはならないのだ。魂が両方の目から飛び出しそうな勢いである。泥棒のおかげで二度とない悟りを開いたのは本当にありがたい。
その時、障子の桟の真ん中が雨に濡れたように色が変わり、薄紅のものがだんだん濃く映ったと思うと、紙はいつの間にか破れて、赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばらくの間、暗い中に消えた。代わって、何か恐ろしく光るものが一つ、破れた孔の向こう側に現れた。疑いもなく泥棒の目である。妙なことに、その目は部屋の中にある何物も見ず、ただ柳行李の後に隠れていた私だけを見つめているように感じられた。
一分にも満たない間だったが、こう睨まれては寿命が縮まると思った。もう我慢できないから、行李の影から飛び出そうと決心したその時、寝室の障子がスーッと開き、待ちかねた泥棒がついに目の前に現れた。
私は、まずこの場で不意に現れた泥棒を紹介する栄誉を持っているが、その前に少し自分の考えを述べさせてほしい。古代の神々は全知全能と崇められている。特にキリスト教の神は、二十世紀の今でもその全知全能の姿を保っている。しかし、一般の人々が考える全知全能は、時には無知無能とも解釈できる。これは明らかに矛盾している。この矛盾を解き明かしたのは、天地創造以来、私だけだと思うと、少しばかり自惚れも出てくる。だからこそ、ここでその理由を述べ、猫も馬鹿にできないということを、高慢な人間たちに思い知らせたいのだ。
天地万物は神が創造したと言われている。そう考えると、人間も神の作品であるはずだ。実際、聖書にはその通りと書かれている。さて、人間について、彼ら自身が数千年にわたって観察を重ね、神の全知全能を認めるようになったという事実がある。それは、人間がたくさんいるにもかかわらず、同じ顔をしている者は一人もいないということだ。顔の形はもちろん様々だが、大きさや特徴は大体似ている。言い換えれば、彼らは皆同じ材料から作られているにもかかわらず、一人として同じ結果にはなっていない。あれだけの簡単な材料で、これほどまでに異なる顔を考え出した製作者には、感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がなければ、こんな変化は生まれないだろう。
一人の画家が全力を尽くしても、変化を求めた顔はせいぜい十二、三種類にしかならないことを考えると、人間を一手に製造した神の手際は、驚くべきものだと言わざるを得ない。人間社会においては、目撃することができない底知れぬ技術であるから、これを全能の技と呼んでも問題ないだろう。人間はこの点において、神に対して大いに恐れを抱いているようだ。確かに、人間の観察の視点から見れば、恐れ入るのも無理はない。
しかし、猫の立場から見ると、同じ事実が神の無能力を証明しているとも解釈できる。もし神が全く無能でないとしても、人間以上の能力は決して持っていないと断定できるだろう。神が人間の数だけ多くの顔を作ったというが、最初からそのような変化を考えていたのか、あるいは皆同じ顔にしようと思ったが、うまくいかずにこの混乱した状態に陥ったのか、はっきりとはわからない。彼らの顔の構造は、神の成功の証であると同時に、失敗の痕跡とも見えるのではないか。全能と言えるが、無能と評しても差し支えない。
彼ら人間の目は平面上に二つ並んでいるため、左右を同時に見ることができず、物事の半面しか視界に入らないのは、気の毒なことだ。立場を変えてみれば、このような単純な事実は、彼らの社会で日夜起こり続けているのだが、本人たちは逆に神に飲み込まれているため、悟ることができない。製作において変化を示すのが難しいのであれば、その上で徹底的な模倣を示すのも同様に難しい。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚描いてくれと注文するのは、全く似ていないマドンナを二幅見せろと強いるのと同じく、ラファエルにとっては迷惑な話だろう。いや、同じものを二枚描く方が、かえって難しいかもしれない。
弘法大師に対して、昨日書いた通りの筆法で空海と願いますというのは、まるで書体を変えてと注文されるよりも苦しいかもしれない。人間が使う言語は、全く模倣主義で伝習されるものである。彼らが母や乳母、他人から実用的な言語を学ぶとき、ただ聞いた通りを繰り返すだけで、特に野心はない。できるだけの能力で人真似をするのだ。このように人真似から成立する言語が十年、二十年と経つうちに、発音に自然と変化が生じるのは、彼らに完全な模倣の能力がないことを証明している。純粋な模倣はこのように至難の業である。したがって、神が彼ら人間を区別のつかないように、皆同じ印を押したように作り上げたのであれば、ますます神の全能を示すことになるし、同時に今日のように勝手に変化を生じさせたのは、かえってその無能力を示すことにもなり得るのだ。
私はなぜこんな議論をしたのか、すっかり忘れてしまった。本を忘れるのは人間にもありがちなことだから、猫には当然のことだと大目に見てほしい。とにかく、私は寝室の障子を開けて、敷居の上に現れた泥棒を見たとき、以上の感想が自然と胸に湧き上がったのだ。なぜ湧いたのか?――その理由を今一度考え直さなければならない。――ええと、その訳はこうである。
目の前に現れた陰士の顔を見たとき、私は驚いた。その顔は、普段神が作り出すものの出来栄えに疑念を抱いていた私の思いを一瞬で打ち消すほどの特徴を持っていたからだ。その特徴とは、彼の眉目が私の親友である水島寒月君にそっくりだったという事実である。
私は泥棒に詳しいわけではないが、彼の行動が粗暴であることから、心の中で描いていた泥棒の姿はあった。小鼻の左右に一銭銅貨ほどの目を持ち、毬栗のような頭をしていると勝手に想像していたが、実際に目の前にいる彼は、すらりとした背に浅黒い一の字眉を持った、立派な泥棒だった。年齢は二十六七歳だろうか、それすら寒月君の姿を彷彿とさせる。
神がこんなにも似た顔を二つ作り出すことができるのなら、決して無能とは言えない。いや、実際のところ、寒月君自身が夜中に気が変わって飛び出してきたのではないかと思うほど似ている。ただ、鼻の下に薄黒い髭が生えていないので、やはり別人だと気づいた。寒月君は苦味を帯びた好男子で、金田富子嬢を優に魅了するほどの魅力を持っている。しかし、この陰士も人相から見ると、富子嬢に対する引力において決して寒月君に劣らない。もし金田の令嬢が寒月君の眼差しや口元に惹かれたのなら、同じ熱情をもってこの泥棒にも心を奪われるのは当然だ。
ああいう才気ある性格なら、何でもすぐに理解するだろうから、これくらいのことは人から聞かなくても分かるだろう。そう考えると、寒月君の代わりにこの泥棒を差し出しても、必ず全身の愛を捧げて調和の実を結ぶに違いない。万が一、寒月君が迷亭の説法に影響されて、この千古の良縁が破れるとしても、この陰士が存在する限り大丈夫だ。私は未来の出来事をここまで予想し、富子嬢のためにやっと安心した。この泥棒がこの世にいることは、富子嬢の生活を幸福にするための重要な要素なのだ。
陰士は脇に何かを抱えている。それは先ほど主人が書斎に放り込んだ古毛布だった。唐桟の半纏を着て、博多の帯を尻の上に結び、白い脛を膝から下むき出しにして、片足を畳の上に入れようとしている。先ほどから赤い本に指を噛まれた夢を見ていた主人は、この時寝返りを打ちながら「寒月だ」と大声で叫んだ。陰士は毛布を落とし、出した足を急に引き込んだ。障子の影に細長い向脛が二本立ったまま微かに動くのが見える。主人はうーん、むにゃむにゃと呟きながら、赤本を突き飛ばし、黒い腕を皮膚病のように掻いている。その後は静まり返り、枕を外したまま寝入ってしまった。「寒月だ」と言ったのは、全く無意識の寝言のようだった。
陰士はしばらく室内の動静をうかがっていたが、主人夫婦が熟睡しているのを確認すると、再び片足を畳の上に入れた。今度は「寒月だ」という声も聞こえない。やがて残る片足も踏み込む。春の灯りに豊かに照らされた六畳の間は、陰士の影によって二分され、柳行李の辺から私の頭の上を越えて壁の半ばが真っ黒になった。振り向いて見ると、陰士の顔の影がちょうど壁の高さの三分の二のところにぼんやりと動いている。好男子の影だけを見ると、まるで八つ頭の化け物のように妙な姿だ。
陰士は細君の寝顔を上から覗き込み、何のためかにやにやと笑った。その笑い方までが寒月君の模写であることに、私は驚きを隠せなかった。
細君の枕元には、四寸角の一尺五六寸ほどの釘付けにした箱が大事そうに置かれている。これは肥前の国、唐津の住人多々良三平君が先日帰省した際に持ってきた山の芋である。山の芋を枕元に飾って寝るのはあまり例のない話だが、細君は煮物に使う三盆を用箪笥に入れるくらい、場所の適不適に対する感覚が乏しい女性である。細君にとっては、山の芋はもちろん、沢庵が寝室にあっても平気かもしれない。しかし、神ならぬ陰士はそんな女性のことを知る由もない。ここまで丁寧に肌身近く置いてある以上、大切な品物だと判断するのも無理はない。
陰士はちょっと山の芋の箱を持ち上げてみたが、その重さが予想以上にあり、満足そうな表情を浮かべた。いよいよ山の芋を盗むつもりになったが、この好男子が山の芋を盗むことに急におかしみを感じた。しかし、声を立てるのは危険なので、じっと我慢している。
やがて陰士は山の芋の箱を丁寧に古毛布に包み始めた。何かで結ぶものはないかと周囲を見回すと、幸いにも主人が寝るときに解き捨てた縮緬の兵古帯があった。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかりと括り、苦もなく背中に背負った。あまり女性が好む体裁ではない。それから小供のちゃんちゃんを二枚、主人のめり安の股引の中に押し込むと、股のあたりが丸く膨れて、まるで青大将が蛙を飲み込んだような、あるいは青大将の臨月と形容する方が適切かもしれない。とにかく変な恰好になった。嘘だと思うなら試しにやってみるがいい。陰士はめり安をぐるぐる首に巻きつけた。
その次にどうするかと思うと、主人の紬の上着を大風呂敷のように広げて、細君の帯や主人の羽織、繻絆、その他あらゆる雑物をきれいに畳んで包み込んだ。その熟練した器用なやり口には、少し感心せざるを得なかった。それから細君の帯上げとしごきを続けて、この包みを括り、片手に下げた。まだ頂戴するものがないかと周囲を見回していると、主人の頭の上に「朝日」の袋があるのを見つけ、ちょっと袂に投げ込んだ。またその袋の中から一本出して、ランプに翳して火を点けた。旨そうに深く吸って吐き出した煙が、乳白色のホヤを包み込むように漂っている間に、陰士の足音は次第に遠のいていった。主人夫婦は依然として熟睡している。人間も案外と無防備なものである。
私はしばらく休む必要があった。ずっと話し続けていると、体がもたない。ぐっすり眠り込んで目を覚ましたとき、春の空は明るく晴れ渡り、勝手口では主人とその妻が巡査と話をしているところだった。
「それでは、ここから入って寝室の方に回ったのですね。お二人は寝ていて全く気がつかなかったのですか?」
「ええ」と主人は少し気まずそうに答えた。
「それで、盗難に遭ったのは何時頃ですか?」と巡査は無理な質問をした。もし時間が分かるなら、そもそも何も盗まれることはなかっただろう。気がつかなかった主人夫婦は、この質問に対してしきりに相談を始めた。
「何時頃だったかな?」
「そうですね」と妻は考え込む。考えれば分かると思っているようだった。
「あなたは昨晩、何時にお休みになったのですか?」
「俺が寝たのはお前より後だ」
「ええ、私が寝たのはあなたより前です」
「目が覚めたのは何時だったかな?」
「七時半だったでしょう」
「すると、盗賊が入ったのは何時頃になるのかな?」
「たしか夜中でしょう」
「夜中というのは分かっているが、具体的に何時頃かということだ」
「確かなことは、よく考えないと分かりませんわ」と妻はまだ考えるつもりでいる。巡査は形式的に聞いているだけなので、いつ入ったかなんて全く気にしていないようだった。嘘でも何でも、適当なことを答えてくれればいいと思っているのに、主人夫婦が要領を得ないやり取りをしているので、少し苛立っているように見えた。
「それじゃ、盗難の時刻は不明ということですね」と巡査が言うと、主人はいつもの調子で「まあ、そうですな」と答えた。巡査は笑うこともなく、
「では、明治三十八年の何月何日、戸締りをして寝たところ、盗賊がどこの雨戸を外してどこに忍び込んで、何点の品物を盗んでいったかという告訴状をお出しなさい。届出ではない告訴です。宛名はない方がいいでしょう」と続けた。