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四 (2/3)

von 夏目漱石

「どうでもいいって、自分の頭のことじゃないか」と主人は少し怒りを込めて言った。

「自分の頭だから、どうでもいいんだわ」と返したものの、やはり気になるのか、右手を頭に乗せて、くるくると禿げた部分を撫でてみる。「おや、大分大きくなったな。こんなにとは思っていなかった」と言ったところを見ると、年相応に禿げが進んでいることをようやく自覚したようだ。

「女は髷を結うと、ここが引っ張られるから、誰でも禿げるんですわ」と少し弁護し始める。

「そんなペースでみんな禿げたら、四十くらいになったら、薬缶みたいな頭ばかりになってしまう。それは病気に違いない。伝染するかもしれないから、早く甘木さんに見てもらった方がいい」と主人はしきりに自分の頭を撫で回している。

「そんなに他人のことを言うけれど、あなたも鼻の孔に白髪が生えているじゃありませんか。禿げが伝染するなら、白髪だって伝染しますわ」と細君は少しぷりぷりしながら言った。

「鼻の中の白髪は見えないから害はないが、頭の上が――特に若い女性の頭がそんなに禿げていたら見苦しい。不具だ」と主人は言う。

「不具なら、なぜ私を貰ったのですか。自分が好きで貰っておいて、不具だなんて……」

「知らなかったからさ。全く今日まで知らなかったんだ。そんなに威張るなら、なぜ嫁に来るときに頭を見せなかったんだ」と主人は言った。

「馬鹿なことを! どこの国に頭の試験をして合格したら嫁に来るなんて、そんなことがあるもんですか」と細君は言い返す。

「禿げはまあ我慢もするが、あなたは背が人並外れて低い。非常に見苦しくていかん」と主人は続けた。

「背は見ればすぐ分かるじゃありませんか。背の低いのは最初から承知で貰ったんじゃありませんか」と細君は反論する。

「それは承知しているが、まだ伸びるかと思ったから貰ったのさ」と主人は真面目な顔で妙な理屈を述べていると、門口のベルが勢いよく鳴り、頼むような大きな声が聞こえた。どうやら鈴木君がペンペン草を目的に苦沙弥先生の臥竜窟を訪ねてきたようだ。

細君は喧嘩を後日に譲り、慌てて針箱と袖なしを抱えて茶の間へ逃げ込んだ。主人は鼠色の毛布を丸めて書斎へ投げ込む。やがて下女が持ってきた名刺を見て、主人は少し驚いたような顔をしたが、「こちらへお通しください」と言い捨てて、名刺を握ったまま後架へ這い入った。何のために急に後架へ入ったのか、鈴木藤十郎君の名刺を持って行った理由も分からず、困惑している。とにかく迷惑なのは、臭い所へ随行を命じられた名刺君である。

下女が更紗の座布団を床の前に直して、「どうぞこちらへ」と引き下がった。その後、鈴木君は一応室内を見回す。床に掛けた「花開万国春」と書かれた木菴の贋物や、京製の安青磁に活けた彼岸桜などを一つ一つ順番に点検した後、ふと下女が勧めた布団の上を見ると、いつの間にか一匹の猫がすまして座っている。言うまでもなく、それは私である。この時、鈴木君の心の中にちょっとした波が起こった。自分のために敷かれた布団の上に、自分が乗らないうちから、無断で妙な動物が平然と座っている。これが鈴木君の心の平穏を破る第一の条件である。もしこの布団が勧められたまま、主なくして春風の吹くに任せてあったなら、鈴木君はわざと謙遜の意を表して、主人が「さあどうぞ」と言うまでは堅い畳の上で我慢していたかもしれない。しかし、早々に自分の所有すべき布団の上に挨拶もなく乗った者がいる。人間なら譲ることもあろうが、猫とは許しがたい。乗り手が猫であることが、さらに不愉快さを増す。これが鈴木君の心の平穏を破る第二の条件である。最後にその猫の態度が最も癪に障る。少しは気の毒そうにでもしているのか、乗る権利もない布団の上に、傲然と構えて、丸い無愛想な目をぱちぱちさせて、まるで「お前は誰だい」と言わんばかりに鈴木君の顔を見つめている。これが平穏を破壊する第三の条件である。これほど不満があるなら、私の首根っこを掴んで引きずり下ろしたらいいだろうが、鈴木君は黙って見ている。堂々たる人間が猫に恐れて手を出さないということはあり得ないのに、なぜ早く私を処分して自分の不満を漏らさないのかというと、これは全く鈴木君が一人の人間として自己の体面を維持する自重心の故である。もし腕力に訴えたなら、三尺の童子も私を自由に扱えるだろうが、体面を重んじる点から考えると、鈴木君もこの二尺四方の真ん中に鎮座する猫大明神をどうすることもできないのである。いかに人の見ていない場所でも、猫と座席争いをしたとあっては、少しも人間の威厳に関わる。真面目に猫を相手にして曲直を争うのはいかにも大人気ない。滑稽である。この不名誉を避けるためには、多少の不便は忍ばねばならない。しかし、忍ばねばならないだけ、その分だけ猫に対する憎悪の念は増すわけで、鈴木君は時々私の顔を見ては苦い顔をする。私は鈴木君の不満な顔を見るのが面白いから、滑稽な気持ちを抑えて、なるべく何食わぬ顔をしている。

私と鈴木君の間に、こうした無言の劇が繰り広げられている間に、主人は衣紋を整えて後架から出てきて、「やあ」と席に着いたが、手に持っていた名刺の影すら見えないところから見ると、鈴木藤十郎君の名前は臭い所へ無期徒刑に処せられたものと思われる。名刺こそ飛んだ厄運に遭遇したものだと思う間もなく、主人はこの野郎と私の襟を掴んで、えいとばかりに椽側へ投げつけた。

「さあ、敷いてください。珍しいな。いつ東京へ出てきた?」と主人は旧友に向かって布団を勧める。鈴木君は少しこれを裏返した上で、それに座った。

「ついまだ忙しいものだから報知もしなかったが、実はこの間から東京の本社の方へ帰るようになってね……」

「それは良かった。ずいぶん長い間会っていなかったね。君が田舎に行ってから、初めてじゃないか。」

「うん、もう十年近くになるね。たまに東京に出てくることもあるんだけど、用事が多くて、いつも失礼してしまうんだ。悪く思わないでほしい。会社の方は、君の仕事とは違って随分忙しいから。」

「十年も経つと、ずいぶん変わるものだな」と主人は鈴木君を見上げたり見下ろしたりした。鈴木君は頭をきれいに分け、英国仕立てのトウィードを着て、派手な襟飾りをつけ、胸には金の鎖まで輝かせている。どうしても苦沙弥君の旧友とは思えなかった。

「うん、こんな物までぶら下げなきゃならなくなったんだ」と鈴木君は金の鎖を気にしながら言った。

「それは本物かい?」と主人は無遠慮に尋ねた。

「十八金だよ」と鈴木君は笑いながら答えた。「君も随分年を取ったね。確か子供がいるはずだったが、一人かい?」

「いいや。」

「二人?」

「いいや。」

「まだいるのか、じゃあ三人か?」

「うん、三人いる。この先、何人できるかわからない。」

「相変わらず気楽なことを言ってるな。一番大きいのはいくつになるかね、もうかなりだろう。」

「うん、いくつかよく知らないが、大方六つか七つだろう。」

「ハハハ、教師はのんきでいいな。僕も教員になればよかった。」

「なってみろ、三日で嫌になるから。」

「そうかな、何だか上品で気楽で、暇があって、好きな勉強ができそうじゃないか。実業家も悪くはないが、僕たちのような立場ではつまらない。実業家になるなら、ずっと上に行かなくちゃいけない。下の方になると、やはりつまらないお世辞を言ったり、好かれない人に媚びたり、随分愚かなことだよ。」

「僕は実業家は学校時代から大嫌いだ。金さえ取れれば何でもする、昔で言えば素町人だからな。」と実業家を前にして太平楽を並べる。

「まさか――そうばかりも言えないがね、少しは下品なところもあるさ。とにかく金と情に振り回される覚悟がなければやり通せないから――ところがその金という奴が曲者で、今もある実業家のところへ行って聞いてきたんだが、金を作るにも三角術を使わなきゃいけないと言うんだ――義理を欠く、人情を欠く、恥を欠く、これで三角になるそうだ。面白いじゃないか、アハハハハ。」

「誰だそんな馬鹿は。」

「馬鹿じゃない、なかなか利口な男なんだよ。実業界でちょっと有名だがね。君知らないかしら、ついこの先の横丁にいるんだが。」

「金田か? 何だあんな奴。」

「大変怒ってるね。なあに、そりゃほんの冗談だろうがね、そのくらいにしないと金は溜まらないという喩えさ。君のように真面目に解釈しちゃ困る。」

「三角術は冗談でもいいが、あそこの奥さんの鼻はなんだ。君、行ったなら見てきたろう、あの鼻を。」

「細君か、細君はなかなかさばけた人だ。」

「鼻だよ、大きな鼻のことを言ってるんだ。先日、僕はあの鼻について俳体詩を作ったんだが。」

「何だい、俳体詩って。」

「俳体詩を知らないのか、君も随分時勢に暗いな。」

「ああ、僕のように忙しいと文学など到底駄目さ。それに以前からあまり数奇でない方だから。」

「君、シャーレマンの鼻の形を知ってるか?」

「アハハハハ、随分気楽だな。知らないよ。」

「エルリントンは部下の者から鼻々と異名をつけられていた。君知ってるか?」

「鼻のことばかり気にして、どうしたんだい。いいじゃないか、鼻なんか丸くても尖ってても。」

「決してそうではない。君、パスカルのことを知ってるか?」

「また知ってるか、まるで試験を受けに来たようなものだ。パスカルがどうしたんだい?」

「パスカルがこんなことを言っている。」

「どんなことを?」

「もしクレオパトラの鼻が少し短かったならば、世界の表面に大変化をもたらしただろうと。」

「なるほど。」

「だから君のように無造作に鼻を馬鹿にしてはいかん。」

「まあいいさ、これから大事にするから。そういえば、今日は少し君に用事があって来たんだが――あの元君が教えたという、水島――ええ、水島、ええ、ちょっと思い出せない。――そう、君のところへ始終来ると言うじゃないか。」

「寒月か。」

「そうそう、寒月寒月。あの人のことについてちょっと聞きたいことがあって来たんだがね。」

「結婚事件じゃないか。」

「まあ多少それに類似のことさ。今日金田へ行ったら……」

「この間、鼻が自分で来た。」

「そうか。そうだって、細君もそう言っていたよ。苦沙弥さんに、よく伺おうと思って上ったら、生憎迷亭が来ていて茶々を入れて何が何だかわからなくしてしまったって。」

「あんな鼻をつけて来るから悪いんだ。」

「いえ、君のことを言うんじゃないよ。あの迷亭君がいたもんだから、そう立ち入ったことを聞く訳にも行かなかったので残念だったから、もう一度僕に行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。僕も今までこんな世話はしたことはないが、もし当人同士が嫌でないなら、中に立ってまとめるのも、決して悪いことではないからね――それでやって来たのさ。」

「御苦労様」と主人は冷淡に答えたが、心の内では「当人同士」という言葉を聞いて、どういう訳か少し心が動いた。蒸し暑い夏の夜に、一筋の冷風が袖口を潜り込んできたような気分になる。元々この主人はぶっきらぼうで、頑固な性格を持つ男だが、だからといって冷酷で無情な文明の産物とは自らの選択を異にしている。彼が何かを言うと、むかっ腹を立ててぷんぷんするのでもなく、ここでの消息は把握できる。先日、鼻と喧嘩をしたのは鼻が気に食わなかったからで、鼻の娘には何の罪もない話だ。実業家は嫌いだから、実業家の片割れである金田も嫌に違いないが、これも娘その人とは無関係なことだ。娘には恩も恨みもなくて、寒月は自分が実の弟よりも愛している門下生である。もし鈴木君の言う通り、当人同士が好いた仲なら、間接的にこれを妨害するのは君子のなすべき所作ではない。――苦沙弥先生はこれでも自分を君子と思っている。――もし当人同士が好いているなら――しかしそれが問題である。この事件に対して自己の態度を改めるには、まずその真相を確かめなければならない。

「君、その娘は寒月のところへ行きたがっているのか?金田や鼻のことはどうでもいいが、娘自身の気持ちはどうなんだ?」

「それは、その――何と言えばいいのか――え、行きたがっているんじゃないかな」と鈴木君は少し曖昧な返事をした。実は寒月君のことだけを聞いて帰ればいいと思っていたため、御嬢さんの意向までは確かめていなかったのだ。だから、円滑に話を進める鈴木君も少し戸惑っているように見えた。

「それじゃ、はっきりしない言葉だな」と主人は、何事においても正面から問いたださないと気が済まない性格だった。

「いや、これはちょっと僕の言い方が悪かった。令嬢の方でも確かに意志があるんだよ。いえ、本当に――え?――細君が僕にそう言ったんだ。時々寒月君の悪口を言うこともあるそうだけどね」

「あの娘が?」

「ああ」

「なんてことだ、悪口を言うなんて。第一、それじゃ寒月に意志がないってことになるじゃないか」

「そこが世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口を言うこともあるからね」

「そんな愚かな奴がどこの国にいるものか」と主人は、人情の機微に触れることを言われても全く感じ入らない。

「その愚かな奴は世の中にたくさんいるから仕方がない。実際、金田の妻君もそう解釈しているんだ。戸惑った糸瓜のようだなんて、時々寒月さんの悪口を言うから、よほど心の中では思っているに違いないと」

主人はこの不可思議な解釈を聞いて、あまりにも思いがけないことだったので、目を丸くして返答もせず、鈴木君の顔を大道易者のようにじっと見つめていた。鈴木君はこの様子を見て、主人が判断できる方向に話を移さなければならないと考えた。

「君も考えれば分かるだろう。あれだけの財産があって、あれだけの器量なら、どこへでも相応しい家に嫁がせられるだろう。寒月だって立派かもしれないが、身分から言えば――いや、身分と言うのは失礼かもしれないが――財産の点から見れば、誰が見ても釣り合わないからね。それを僕がわざわざ出向くくらい両親が気を揉んでいるのは、本人が寒月君に意志があるからじゃないか」と鈴木君はなかなかうまい理屈をつけて説明した。今度は主人も納得できたらしく、ようやく安心したが、こんなところでまごまごしているとまた叱責を受ける危険があるから、早く話を進めて、一刻も早く使命を果たす方が良いと心に決めた。

「それでね。今言った通りの理由だから、先方では金銭や財産はいらないから、その代わり当人に附属した資格が欲しい――資格と言うと、まあ肩書きだね――博士になったらやってもいいなんて威張っているんだ。誤解しちゃいけない。先日、細君が来た時は迷亭君がいて妙なことばかり言うものだから――いえ、君が悪いわけじゃない。細君も君のことを御世辞のない正直な言い方だと褒めていたよ。全く迷亭君が悪かったんだろう。それで、本人が博士になってくれれば、先方でも世間に対して肩身が広く、面目が立つと言うんだが、どうだろう、近々水島君は博士論文でも提出して、博士の学位を受ける運びには行かないだろうか。なあに、金田だけなら博士も学士もいらないんだ。ただ世間というものがあると、そう簡単にはいかないからな」

こう言われてみると、先方で博士を請求するのも無理ではないように思えてきた。無理ではないと思えば、鈴木君の依頼に応えてやりたくなる。主人を活かすも殺すも鈴木君の意のままである。なるほど、主人は単純で正直な男だ。

「それじゃ、今度寒月が来たら、博士論文を書くように僕から勧めてみよう。しかし当人が金田の娘をもらうつもりかどうか、それをまず問い正さなければならないからな」

「問い正すなんて、君、そんな堅苦しいことをして物事がまとまるものじゃない。やっぱり普通の談話の中でそれとなく気を引いてみるのが一番の近道だよ」

「気を引いてみる?」

「うん、気を引くと言うと語弊があるかもしれない。――なに、気を引かなくてもね。話をしていると自然に分かるものだよ」

「君には分かるかもしれないが、僕にははっきり聞かないと分からない」

「分からなければ、まあいいさ。しかし迷亭君のように余計なことを言って壊してしまうのは良くないと思う。仮に勧めないまでも、こんなことは本人の自由にすべきことだからね。今度寒月君が来たら、なるべく邪魔をしないようにしてくれ。――いえ、君のことじゃない、あの迷亭君のことさ。あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから」と主人の代理として迷亭の悪口を言っていると、噂をすれば影の如く、迷亭先生が例のごとく勝手口から春風に乗じて舞い込んでくる。

「いやー、珍客だね。僕のような狎客になると苦沙弥はどうしても粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一度くらい来るに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村の羊羹を無造作に頬張る。鈴木君はもじもじしている。主人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさせている。私はこの瞬間の光景を椽側から見て、無言劇というものは十分に成立し得ると思った。禅家で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、この無言の芝居も明らかに以心伝心の幕である。非常に短いけれども、非常に鋭い幕である。

「君は一生旅烏かと思っていたら、いつの間にか舞い戻ったね。長生きしたいもんだな。どんな僥倖に巡り合うとも限らんからね」と迷亭は鈴木君に対しても主人に対するように全く遠慮を知らない。いかに自炊の仲間でも十年も会わなければ、何となく気を使うものだが、迷亭君に限ってそんな素振りは全く見えないのは、えらいのか馬鹿なのか、ちょっと見当がつかない。

「可哀そうに、そんなに馬鹿にしたものでもない」と鈴木君は当たり障りのない返事をしたが、何となく落ち着きかねて、例の金鎖を神経的にいじっている。

「君、電気鉄道に乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。

「今日は皆さんからひやかされに来たようなものだ。どんな田舎者だって――これでも街鉄を六十株持ってるよ」

「それは馬鹿にできないな。僕は八百八十八株半持っていたけれど、残念ながら大半は虫に食われてしまって、今は半株しか残っていない。もう少し早く君が東京に出てきていれば、虫の食わないところを十株ばかりあげられたのに、惜しいことをしたよ。」

「相変わらず口が悪いな。でも冗談はさておき、ああいう株は持っていて損はないよ。年々価値が上がるからね。」

「そうだ、仮に半株でも千年持っていれば、倉が三つくらい建つだろう。君も僕もその辺にぬかりはない当世の才子だけど、苦沙弥なんかは本当にかわいそうだ。株と言えば大根の兄弟分くらいにしか考えていないんだから。」そう言って、また羊羹をつまみながら主人の方を見ると、主人も迷亭の食欲に感染して、自ずと菓子皿の方へ手を伸ばした。世の中では、何事も積極的なものが人から真似される権利を持っている。

「株のことはどうでもいいが、僕は曾呂崎に一度でいいから電車に乗せてやりたかった。」と主人は、食べかけの羊羹の歯形をぼんやりと眺めた。

「曾呂崎が電車に乗ったら、乗るたびに品川まで行ってしまうだろう。それよりもやっぱり天然居士で、沢庵石に彫り付けられている方が無事でいい。」

「曾呂崎が亡くなったそうだな。気の毒だね、いい頭の男だったのに、惜しいことをした。」鈴木君が言うと、迷亭はすぐに返した。

「頭は良かったが、飯を炊くのは一番下手だったよ。曾呂崎の当番の時は、僕はあいつのところを外出して蕎麦で凌いでいた。」

「本当に曾呂崎の炊いた飯は焦げ臭くて、心が折れそうになった。しかも、御負けに御菜には必ず豆腐をそのまま出すから、冷たくて食べられなかった。」鈴木君も十年前の不満を思い出して口にした。

「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で、毎晩一緒に汁粉を食べに出かけていたが、その祟りで今では慢性の胃弱になって苦しんでいるんだ。実を言うと、苦沙弥の方が汁粉を多く食べていたから、曾呂崎より先に死んでもおかしくない理由なんだ。」

「そんな論理がどこの国にあるんだ。君の汁粉より、君は運動と称して毎晩竹刀を持って裏の卵塔婆へ出て、石塔を叩いているところを坊主に見つかって剣突を食らったじゃないか。」と主人も負けじと迷亭の過去を暴露した。

「アハハハ、そうそう、坊主が仏様の頭を叩いては安眠の妨げになるからやめてくれって言ったっけ。でも僕のは竹刀だけど、この鈴木将軍のは手暴だよ。石塔と相撲をとって大小三個くらい転がしてしまったんだから。」

「あの時の坊主の怒り方は本当に烈しかった。元のように起こせと言うから、人足を雇うまで待ってくれと言ったら、人足じゃいかん、懺悔の意を表するためには自分で起こさなければ仏の意に背くと言うんだからね。」

「その時の君の風采はなかったよ。金巾のシャツに越中褌で、雨上がりの水たまりの中でうんうん唸って……。」

「それを君がすました顔で写生するんだから、苛立つよ。僕はあまり腹を立てたことのない男だけど、あの時ばかりは失敬だと思ったよ。あの時の君の言葉をまだ覚えているけど、君は覚えているか?」

「十年前の言葉なんて誰が覚えているものか。でもあの石塔に『帰泉院殿黄鶴大居士安永五年辰正月』と彫ってあったのだけは今でも記憶している。あの石塔は古雅にできていたよ。引っ越す時に盗んでいきたかったくらいだ。実に美学上の原理にかなっていて、ゴシック趣味の石塔だった。」と迷亭はまたいい加減な美学を振り回した。

「それはいいが、君の言葉がさ。こうだぜ――『吾輩は美学を専攻するつもりだから、天地間の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん。気の毒だの、可哀相だのという私情は学問に忠実な吾輩ごときものの口にすべきところではない』と平気で言うんだろう。僕もあまりに不人情な男だと思ったから、泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった。」

「僕の有望な画才が頓挫して全く振わなくなったのも、全くあの時からだ。君に機鋒を折られたんだね。僕は君に恨みがある。」