一
von 夏目漱石 · 2026-03-31
親から受け継いだ無鉄砲な性格のせいで、子供の頃から損ばかりしていた。小学校の時、学校の二階から飛び降りて、一週間も腰を抜かしてしまったことがある。どうしてそんな無茶をしたのかと聞かれるかもしれないが、特に深い理由はなかった。ただ、新築の二階から顔を出していたら、同級生の一人が冗談で、「いくら威張っても、そこから飛び降りることはできないだろう。弱虫だな!」とからかったからだ。小使いに背負われて帰ったとき、父が目を大きく見開いて、「二階から飛び降りて腰を抜かす奴がいるか」と言ったので、次は腰を抜かさずに飛んでみせると答えた。
ある日、親戚から西洋製のナイフをもらって、その美しい刃を日光に当てて友達に見せていた。すると、一人が「光ってはいるけど、切れそうにないな」と言った。切れないわけがない、何でも切ってみせると答えたら、「じゃあ、君の指を切ってみろ」と言われた。何だ、指くらい簡単だと、自分の右手の親指の甲にナイフを切り込んでしまった。幸いにもナイフが小さかったのと、親指の骨が堅かったおかげで、今でも親指は手に付いている。しかし、その傷跡は一生消えない。
庭を東に二十歩進むと、南に向かって少しだけ菜園が広がっていて、その真ん中には一本の栗の木が立っている。これは命よりも大事な栗だ。実が熟す時期には、朝起きて裏口から出て、落ちた栗を拾って学校で食べる。菜園の西側には、山城屋という質屋の庭が続いていて、そこには勘太郎という十三、四歳の息子がいた。勘太郎はもちろん弱虫だったが、弱虫のくせに四つ目垣を乗り越えて栗を盗みに来る。ある日の夕方、折戸の陰に隠れて、ついに勘太郎を捕まえた。その時、勘太郎は逃げ道を失い、一生懸命に飛びかかってきた。こちらは二つ年上だが、弱虫とはいえ力は強い。勘太郎の頭をこちらの胸に押し付けた拍子に、彼の頭が滑って、私の袷の袖の中に入ってしまった。邪魔になって手が使えないので、無闇に手を振ったら、袖の中の勘太郎の頭が右へ左へと揺れ動いた。最後には苦しがって、袖の中から私の二の腕に噛み付いてきた。痛かったので、勘太郎を垣根に押し付けて、足を絡めて向こうに倒してやった。山城屋の地面は菜園よりも六尺ほど低く、勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分に真逆さまに落ちて、「ぐう」と声を上げた。勘太郎が落ちるときに、私の袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。その晩、母が山城屋に謝りに行ったついでに、袷の片袖も取り返してきた。
この他にもいたずらはたくさんした。大工の兼公と肴屋の角を連れて、茂作の人参畑を荒らしたことがある。人参の芽が出揃っていないところに藁が一面に敷いてあったので、その上で三人が半日相撲を取り続けたら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。古川の持っている田んぼの井戸を埋めて、尻を持ち込まれたこともあった。太い孟宗竹の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、周りの稲に水がかかる仕掛けだった。その時は何の仕掛けか知らず、石や棒切れを井戸の中に詰め込んで水が出なくなったのを確認して、家に帰って飯を食っていたら、古川が真っ赤になって怒鳴り込んできた。確か罰金を払って済んだようだ。
父は全く私を可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた。この兄は色白で、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。私を見るたびに、「こいつはどうせろくなものにはならない」と父が言っていた。乱暴で、行く先が心配だと母が言った。確かにろくなものにはならなかった。ご覧の通りの始末だ。行く先が心配されるのも無理はない。ただ懲役に行かずに生きているだけだ。
母が病気で亡くなる二、三日前、台所で宙返りをして、へっついの角で肋骨を打って大いに痛かった。母は大層怒って、「お前のようなものの顔は見たくない」と言ったので、親類のところに泊まりに行った。すると、とうとう母が亡くなったという知らせが来た。そんなに早く死ぬとは思わなかった。もしそんな大病なら、もう少し大人しくしていればよかったと後悔して帰ってきた。そうしたら、例の兄が私を親不孝だと責め、「おれのために、お母さんが早く死んだんだ」と言った。悔しかったので、兄の頬を叩いてしまい、大変叱られた。
母が亡くなってからは、父と兄と三人で暮らしていた。父は何もせず、人の顔を見るたびに「お前は駄目だ、駄目だ」と口癖のように言っていた。何が駄目なのか、今でも分からない。妙な父だった。兄は実業家になると言って、しきりに英語を勉強していた。元々女のような性格で、ずるいので、仲が良くなかった。十日に一度くらいの割合で喧嘩をしていた。ある時、将棋を指していると、卑怯な待ち駒を使って、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あまり腹が立ったので、手元にあった飛車を眉間に投げつけてやった。眉間が割れて少し血が出た。兄は父に言いつけた。父は私を勘当すると言い出した。
その時、もう仕方がないと観念して、先方の言う通り勘当される覚悟をしていた。しかし、十年来使っている清という下女が、泣きながら父に謝ってくれたおかげで、ようやく父の怒りが解けた。それでも、父を怖いとはあまり思わなかった。むしろ、清に対して気の毒に思った。この清は元々由緒ある家の出だったが、家が没落して奉公をするようになったと聞いている。だから、彼女は年老いていた。そんな清が、どういうわけか、私を非常に可愛がってくれたのだ。不思議なことだ。
母が死ぬ三日前には、母も私に愛想をつかしていたし、父も年中私を持て余していた。町内では乱暴者の悪太郎と呼ばれていた私を、清は無暗に珍重してくれた。私は、自分が人に好かれる性格ではないと諦めていたから、他人から木の端のように扱われることには何とも思わなかった。むしろ、清のようにちやほやしてくれるのが不思議だった。清は時々、台所で誰もいない時に「あなたは真っ直ぐで良い性格だ」と褒めてくれた。しかし、その意味が私には分からなかった。良い性格なら、清以外の誰かももう少し私を良くしてくれるだろうと思った。清がそんなことを言うたびに、私はお世辞は嫌いだと答えていた。すると、清は「それだから良い性格です」と言って、嬉しそうに私の顔を眺めていた。まるで自分の力で私を育てて誇っているように見えたので、少し気味が悪かった。
母が亡くなってから、清はますます私を可愛がってくれた。時々、子供心に「なぜあんなに可愛がるのか」と不審に思った。つまらない、捨ててしまえばいいのにと思ったが、それでも清は可愛がり続けた。時には自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれたり、寒い夜にはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている私の枕元に蕎麦湯を持ってきてくれたりした。時には鍋焼きうどんさえ買ってくれた。食べ物だけではなく、靴下や鉛筆、帳面までくれた。これはずっと後のことだが、三円ばかり貸してくれたこともある。何も貸せとは言っていなかったが、向こうで「お小遣いがなくて困っているでしょう。使いなさい」と言ってくれたのだ。私はもちろん「入らない」と言ったが、清が「ぜひ使ってください」と言うので、借りておいた。実はとても嬉しかった。その三円を蝦蟇口に入れて、懐にしまったまま便所に行ったら、すぽりと後架の中に落としてしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところ、清はすぐに竹の棒を探してきて、「取ってあげます」と言った。しばらくすると井戸端でざあざあ音がするので出てみると、竹の先に蝦蟇口の紐を引っ掛けて水で洗っていた。しばらくして口を開けて一円札を見たら、茶色になって模様が消えかかっていた。清は火鉢で乾かして、「これでいいでしょう」と出してくれた。少し嗅いでみて臭いと言ったら、「それじゃお出しなさい。取り換えてきてあげますから」と言って、どこでどう胡魔化したのか札の代わりに銀貨を三円持ってきてくれた。この三円を何に使ったかは忘れてしまったが、「今に返すよ」と言ったきり、返せていない。今となっては十倍にして返してやりたくても、返せないのだ。
清が物をくれる時は、必ず父や兄がいない時に限られた。私は、人に隠れて自分だけ得をするほど嫌なことはないと思っていた。兄とはもちろん仲が良くないが、兄に隠れて清から菓子や色鉛筆をもらいたくはなかった。「なぜ私だけにくれて、兄にはやらないのか」と清に聞いたこともある。すると清は、「お兄様はお父様が買ってくださるから構いません」と言った。これは不公平だ。父は頑固だが、そんなえこひいきはしない男だ。しかし、清の目にはそう映ったのだろう。全く愛に溺れていたに違いない。元は身分のある人でも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこれだけではない。贔屓目は恐ろしいものだ。清は私が将来立身出世して立派な人になると思い込んでいた。その一方で、勉強をする兄は色白で、全く役に立たないと一人で決めつけていた。こんな婆さんに出会っては叶わない。自分の好きなものは必ず偉い人物になり、嫌いな人は必ず落ちぶれると信じていた。私はその時、特に何になるという考えもなかったが、清が「なる」と言うのだから、やっぱり何かになれるのだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿しい。ある時、清に「私はどんなものになるだろう」と聞いてみたことがある。しかし、清にも特に考えはなかったようで、「ただ手車に乗って、立派な玄関のある家を作るに違いない」と言った。
それから清は、私が家を持って独立したら、一緒に住むつもりでいた。どうか置いてくださいと何度も頼んだ。私も何だか家を持てるような気がして、「うん、置いてやる」と返事だけはしておいた。しかし、この女はなかなか想像力の強い女で、「あなたはどこがお好き? 麹町ですか、麻布ですか? お庭にぶらんこを作って遊ばせて、西洋間は一つでたくさんです」などと勝手な計画を独りで並べていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかったし、西洋館も日本建ても全く不要だったから、そんなものは欲しくないといつでも清に答えていた。すると、清は「あなたは欲が少なくて、心がきれいだ」と言ってまた褒めた。清は何を言っても褒めてくれた。
母が亡くなってから五、六年の間はこの状態で暮らしていた。父には叱られ、兄とは喧嘩をし、清には菓子をもらい、時々褒められた。特に望みもなく、これで十分だと思っていた。他の子供たちも一概にこんなものだろうと思っていた。ただ清が何かにつけて「あなたは可哀想だ、不幸だ」と無暗に言うものだから、それじゃ可哀想で不幸なんだろうと思った。それ以外に苦になることは少しもなかった。ただ父が小遣いをくれないのには閉口した。
母が亡くなってから六年目の正月、父も脳卒中で亡くなった。その年の四月、私は私立の中学校を卒業する。六月には兄が商業学校を卒業した。兄は何とか九州の支店に行かなければならないと言い出したが、私は東京でまだ学問を続けなければならなかった。兄は家を売って財産を整理し、任地へ出発すると言った。私は「どうでもいい」と返事をした。どうせ兄の世話になるつもりはなかったからだ。兄が私の面倒を見てくれるとしても、喧嘩になるのは目に見えていた。そんな兄に頭を下げるくらいなら、自分で牛乳配達をしてでも生きていこうと覚悟を決めていた。
兄はその後、道具屋を呼んで、先祖代々の瓦落多を二束三文で売り払った。家屋敷はある金持ちに譲ったようだが、詳しいことは全く知らなかった。私は一ヶ月前から神田の小川町に下宿していた。清は十年以上も住んでいた家が他人のものになることを非常に残念がっていたが、自分のものではないから仕方がなかった。「もう少し年を取っていれば、相続できたのに」と何度も口説いていたが、年を取れば相続できるというのは、今でも可能だったはずだ。清は何も知らないから、年を取れば兄の家がもらえると信じていた。
兄と私はこうして別れたが、困ったのは清の行く先だった。兄はもちろん連れて行ける身分ではないし、清も兄の後について九州に行く気は全くなかった。この時の私は四畳半の安下宿に閉じ込められており、いざとなればすぐにでも引き払わなければならない状況だった。どうすることもできず、清に聞いてみた。「どこかに奉公でもする気か?」と尋ねると、「あなたが家を持って、奥さんをもらうまでは、仕方がないから甥の世話になることにします」とようやく決心した返事が返ってきた。甥は裁判所の書記で、今は問題なく暮らしていたから、清に来るなら来いと何度か勧めていたが、清は下女奉公をするくらいなら、長年住み慣れた家の方がいいと言って応じなかった。しかし今の状況では、知らない家に奉公に入るよりも、甥の世話になる方がましだと思ったのだろう。それにしても、早く家を持て、妻をもらえ、来て世話をするというのだから、親身の甥よりも他人の私の方が好きなのかもしれない。
九州に出発する二日前、兄が下宿に来て、六百円を渡してくれた。「これを資本にして商売をするなり、学費にして勉強するなり、自由に使っていい。その代わり、あとは構わない」と言った。兄にしては感心なやり方だと思ったが、六百円くらいもらわなくても困ることはないと思った。しかし、例に似ない淡泊な処置が気に入ったので、礼を言って受け取った。兄はさらに五十円を出して、これを清に渡してくれと言ったので、異議なく引き受けた。二日後、新橋の駅で別れたきり、兄にはその後一度も会わなかった。
私は六百円の使い道について寝ながら考えた。商売をしても面倒くさくてうまくいくとは思えなかったし、六百円で商売らしい商売ができるわけでもない。仮にできたとしても、今のようでは人前に出て教育を受けたと威張れないから、損になるばかりだ。資本などどうでもいいから、これを学費にして勉強しよう。六百円を三に分けて、年に二百円ずつ使えば三年間は勉強できる。三年間一生懸命にやれば、何かできるだろう。どこの学校に行こうか考えたが、学問は元々好きではなかった。特に語学や文学は全く興味がなかった。新体詩などは二十行の中で一行も理解できなかった。どうせ嫌いなものなら、何をやっても同じだと思ったが、幸い物理学校の前を通りかかると、生徒募集の広告が出ていたので、何かの縁だと思って規則書をもらい、すぐに入学の手続きをしてしまった。今考えると、これも親譲りの無鉄砲から起こった失策だった。
三年間、まあ人並みに勉強はしたが、特に優れた成績を収めたわけでもなかったので、席順はいつも下から数えた方が便利だった。しかし不思議なことに、三年経ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが、文句を言う理由もなかったので、大人しく卒業しておいた。
卒業してから八日目、校長が呼びに来た。何か用だろうと思って出かけて行くと、四国のある中学校で数学の教師が欠員になり、月給は四十円だが、行ってみないかという相談だった。私は三年間学問をしたが、正直なところ教師になる気も、田舎に行く考えもなかった。しかし、教師以外に何をしようかというあてもなかったので、この相談を受けた時、思わず「行きます」と即答してしまった。これも親譲りの無鉄砲が祟ったのだ。
引き受けた以上は赴任しなければならない。この三年間、私は四畳半に閉じ込められ、小言を一度も聞いたことがなかった。喧嘩もせずに済んだ。私の人生の中では比較的穏やかな時期だった。しかし、こうなると四畳半も引き払わなければならない。生まれてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一緒に鎌倉へ遠足した時だけだった。今度は鎌倉どころではない。大変遠くへ行かなければならない。地図で見ると、海辺で針の先ほど小さく見える。どうせろくな所ではないだろう。どんな町で、どんな人が住んでいるのかも分からない。分からなくても困らない。心配はしていない。ただ行くだけだ。もっとも、少々面倒くさいが。
家を畳んでからも、清の所には折々行った。清の甥というのは意外にも立派な人だった。私が行くたびに、居るだけで、何かとおもてなしをしてくれた。清は私を前に置いて、いろいろと私の自慢を甥に聞かせた。「今に学校を卒業すると、麹町あたりに家を買って役所に通うのだ」と吹聴したこともあった。独りで延々と喋り続けるので、私は困って顔を赤くした。それも一度や二度ではなかった。時には、私が小さい頃に寝小便をしたことまで持ち出されて、閉口した。甥は清の自慢をどう思って聞いていたのか分からない。ただ、清は昔風の女性なので、自分と私の関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に違いないと納得したようだった。甥こそ、いい面の皮だ。
約束の日が近づき、出発の三日前に清を訪ねると、彼は北向きの三畳の部屋で風邪を引いて寝ていた。私が来たのを見て、彼はすぐに起き上がり、「坊っちゃん、いつ家をお持ちになるんですか?」と尋ねてきた。彼は、卒業さえすればお金が自然にポケットに入ってくると思っているようだった。そんなに立派な人をつかまえて、まだ「坊っちゃん」と呼ぶのは、なんとも滑稽だった。
私は「しばらくは家を持たない。田舎に行くんだ」と告げると、彼は非常に失望した様子で、胡麻塩のような髪を何度も撫でた。あまりにも気の毒に思った私は、「行くことは行くが、すぐに帰る。来年の夏休みには必ず戻るよ」と慰めた。それでも彼は妙な顔をしていたので、「何かお土産に買ってきてあげようか、何が欲しい?」と尋ねると、「越後の笹飴が食べたい」と答えた。越後の笹飴なんて聞いたこともなかったし、そもそも方角が違う。「私の行く田舎には笹飴はなさそうだ」と言うと、「それなら、どちらの方角ですか?」と返してきた。「西の方だよ」と言うと、「箱根の先ですか、手前ですか?」と問い返してきた。随分と手をこまねいてしまった。
出発の日、彼は朝から私のためにいろいろと世話をしてくれた。途中、小間物屋で買ってきた歯磨き粉や楊子、手拭いを私のズックの革鞄に入れてくれた。そんなものは入らないと断っても、彼はなかなか承知しなかった。車を並べて停車場に着き、プラットフォームに出たとき、車に乗り込む私の顔をじっと見つめ、「もうお別れになるかもしれません。随分ご機嫌よう」と小さな声で言った。彼の目には涙がいっぱい溜まっていた。私は泣かなかったが、もう少しで泣きそうになった。
汽車が動き出してから、もう大丈夫だろうと思って窓から首を出し、振り向くと、やっぱり彼は立っていた。何だかとても小さく見えた。